いつからユースホステルが衰退したかというと、これはもうハッキリしている。横山祐吉氏が日本ユースホステル協会から退いた昭和47年からです。
ちなみにユースホステル利用率が爆発的に増加しはじめた昭和30年の大学進学率は13パーセント。ほとんどの人間は、進学せずに勤労していた。そして大学進学率の推移は、昭和45年までの15年間の間に、たったの4パーセントしか上がってない。
つまり昭和30年から45年の間の青少年たちの大半は、勤労青年だった。
そういう時代にユースホステルは、爆発的に発展していった。
しかし、ある時期から日本の青少年たちは、ユースホステルの提供する青春に興味を失ってしまった。彼らは、学校という青春を享受しはじめたからです。そのうえ何を血迷ったか、文部省は、高校生のユースホステル運動を禁止してしまった。ユースホステル界にとって将来の貴重な人材を根こそぎ絶ってしまった。
でもまだ、この時代には貯金があった。衰えたとは言え、ユースホステルには、まぶしいくらいの魅力が残っていた。そのために日本の青少年たちは、ユースホステルという青春を知っている人と、ユースホステルという青春を全く知らない人に別れていきます。
この分離が、後日、悲劇を生みます。
ユースホステルという青春に対して、
偏見のようなものが、
じわじわと社会に育っていくからです。
「はあ? 一人旅のどこが面白いの?」
しかし、こういう偏見が蔓延するとユースホステルという青春にのめり込んでいる人たちは、そうでない人たちに説明しようとしなくなる。自分の趣味の世界に没頭してしまい、一種の世捨て人のようになってしまう。そして今で言う「オタク」扱いをされてしまう。
良くも悪くも団塊の世代では、全員が高校に進学しなかったし、進学したとしても普通科に行くとは限らず、工業科・商業科・水産科・農業科に行く人の方が多かった。大学に行くのは、ほんの一握りだった。つまり、ある程度価値観の多様化が認められていたし、全員が同一価値観を強制されることはなかった。しかし、昭和47年以降になると受験戦争が激化し、猫も杓子も高校にいくようになってしまう。それも大学進学を前提とした普通高校に集中するようになる。そうなると、普通と違う価値観をもった人間は、とても生きにくくなる。
学園生活に熱中する人たちは、クラスメイトとのつきあいや、部活動、受験勉強などをとうして「クラスの団結」という言葉を錦の御旗にしだしたし、教師たちもそれを支援しました。友だちは、同じ学年の同じクラスに限られるようになってしまった。
そういう世界が「あたり前」になってしまうと、ユースホステルの世界が異常にみえてくる。出身地も違うし、年齢も違う。何から何までバラバラでありながら、一期一会の出会いの中で、ほんの一瞬の間に、ものすごく仲良くなってしまう人たち。そのくせ、明日は、バラバラに去っていく。そういう世界が、学園生活に熱中する人たちに異常に見えてくる。
だから衝撃をうける。
単一な価値観の中に生きた人ほど衝撃をうける。
肯定的に衝撃をうけた人は、ユースホステルっていいなあと思い、ますますユースホステルにのめり込んでいく。否定的に衝撃をうけた人は、ユースホステルを使う奴らは、一般社会からはずれていると、ユースホステルから距離を置く。
良くも悪くも、団塊の世代以前の時代には、そういう衝撃は無かった。しかし、みんなが右えならえで普通高校に進学し、猫も杓子も受験勉強をはじめ、クラスメイトという狭く限定された人づきあいしかしなくなると、ユースホステルに出会ったときの衝撃は大きい。
そして、衝撃が大きければ大きいほど、反応も大きい。
反発も大きければ、
感動も大きくなる。
で、私は、感動した口であり、
私の嫁さんも感動した口です。
しかし反発した人も多かった。
私の同級生の中には、ユースホステルに対してネガティブに攻撃する人も少なからずいた。
「社会のクズの集まり」
「宗教ぽい」
など、無茶苦茶なことを言ってくる人もいました。
そのくらいに酷い偏見を受けた。
逆に言えば、それだけ彼らは
「受験戦争」
「クラスの団結」
「部活動」
といった画一的な価値観に縛られていたと考えることもできる。
この時代は、全国民が紅白や水戸黄門を見たし、巨人戦を見た。見ないと話題についていけなかった。マイノリティは肩身が狭かった。だからどの家庭でも無理してテレビを買った。無理して、みんなと一緒でいようとした。そういう時代だからこそ、ユースホステルに出会うと衝撃をうけた。団塊の世代たちより衝撃が大きかった。衝撃が大きい故に、ユースホステルに熱中する人は、どんどんはまり込んでいった。
インターネットが無かった時代は、ユースホステルがインターネットそのものだった。北海道旅行する時には、津軽海峡を渡ってすぐにある大沼ユースホステルか、函館ユースホステルで、これから帰ろうとする御客さんから口コミ情報をもらって旅だって行った。四国旅行や中国旅行をする時には、京都宇多野ユースホステルに泊まって、そこにある各地のユースホステル口コミ情報をメモして、それをもとに計画をたてた。情報はユースホステルの中にあり、ユースホステル利用者の口コミが一番信頼できる情報だった。
もっと分かりやすく言えば、昔のユースホステルは、「地球の歩き方」という海外旅行雑紙そのものだった。Google検索そのものだった。Yahoo!の知恵袋そのものだった。列車の時刻表に悩んでいると、どこともなく鉄道マニアの人が現れてきて、ダイヤとよばれる怪しい手帳をとりだして、アッという間に悩みを解決してくれた。どこのユースホステルにも、インターネットの駅ネットみたいな人が御客さんとして泊まっていて旅慣れてない人に親切にアドバイスしていた。城マニアもいたし、歴史マニアもいたし、山マニアも、看板マニアも、郵便局マニアも、路線バスマニアも、スケッチマニアもいた。地域の生き字引のような常連もいた。こんな多様な価値観が許される社会は他には無かった。
さらにユースホステルは、人種のるつぼだった。いろんな国籍の人たちがいたし、いろんな年代の人たちもいた。しかし、ユースホステルで人種といったら、ちょっとニュアンスが違う。旅行形態の違いをいう。サイクリスト、チャリダー、ヒッチハイカー、とほダー、下駄、番傘、リアカー、乗り鉄、撮り鉄、JRラー、山屋、鳥屋、ライダー、バイカー、原チャリダー、忍者、仮面ライダー、ジプシー、カヌーなど、いろんな人種たちがいたので、いろんな面白い話が聞けた。画一的な学校生活しか体験したことがなかった当時の学生たちには衝撃的すぎて目がクラクラした。
その結果、ユースホステルに青春の全てを捧げる人たちもでてきた。稼いだ金を全て旅に費やすひともでてきた。テレビもいらない。オシャレもいらない。就職もせずフリーターのまま、ただひたすら旅だけに生きる人たちもでてきた。ところが、そういう人たちも、30歳を越えるとユースホステルに泊まりにくくなった。ユースホステルは、若い人たちに独占されていた。
そうなると、そういう世代を対象としたユースホステル形式の民宿が生まれた。当初は、ユース民宿といっていた。そこは酒もタバコもOKだったので利用者は、比較的高齢だった。こうしてユースホステルの類似施設が生まれていった。ユースホステルが提供した青春(ライフスタイル)は、確実に日本に定着するかに思えた。
しかし、これがアッという間に滅びてしまった。
劇的に滅びてしまった。
原因は、ユースホステルが提供した青春(ライフスタイル)が何であるか、具体的でなかったことにあります。ユースホステルで何が出来るのか? ユースホステルに行くことによって、どういう風に生活が変わるか具体的に分からない。というか説明できない。ユースホステルの良さは、言葉では分からない。行ってみるまでわからない。そういう特殊性が、滅びる原因となってしまった。
これが昔なら
「とにかく行ってみよう」
という事で出かける人も多かった。
ところが、昭和60年頃から様子が変わってきた。旅行会社のマーケッティングによるPR活動によって情報が氾濫し、情報を御客さんが選択できるようになった。そうなるとユースホステルというインターネットもどきは必要なくなってきた。さらに旅行雑紙の普及が、テレビの旅行番組が、パソコン通信の普及が、インターネットの普及が、それに拍車をかけた。若者たちはアテのない旅をしなくなり、具体的なものに走った。例えばペンションという新しい宿泊施設に走り出した。ペンションは、ペンションに泊まるという青春(ライフスタイル)を具体的に写真にして御客さんに見せていた。それは、とても分かりやすいものだった。その逆にユースホステルという青春(ライフスタイル)は、分かりにくいままで放置されたままだった。
つづく
↓ブログの更新を読みたい方は投票を
人気blogランキング
ラベル:ユースホステルは甦るのか?25