あの怒濤の中で津波死者ゼロの村があった
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110403-OYT1T00599.htm 村内での死者数はゼロ(3日現在)。計画時に「高すぎる」と批判を浴びたが、当時の村長が「15メートル以上」と譲らなかった。
「これがなかったら、みんなの命もなかった」。太田名部(おおたなべ)漁港で飲食店を営む太田定治さん(63)は高さ15・5メートル、全長155メートルの太田名部防潮堤を見上げながら話した。
津波が襲った先月11日、店にいた太田さんは防潮堤に駆け上った。ほどなく巨大な波が港のすべてをのみ込んだが、防潮堤が食い止めてくれた。堤の上には太田さんら港内で働く約100人が避難したが、足もとがぬれることもなかった。
村は、昆布やワカメの養殖が主な産業の漁村で、人口約3000人は県内の自治体で最も少ない。海に近く狭あいな普代、太田名部両地区に約1500人が暮らし、残る村人は高台で生活している。普代地区でも高さ15・5メートル、全長205メートルの普代水門が津波をはね返した。
防潮堤は1967年に県が5800万円をかけ、水門も84年にやはり35億円を投じて完成した。既に一部が完成し60年にチリ地震津波を防ぎ、「万里の長城」と呼ばれた同県宮古市田老(たろう)地区の防潮堤(高さ10メートル)を大きく上回る計画は当初、批判を浴びた。
村は1896年の明治三陸津波と1933年の昭和三陸津波で計439人の犠牲者を出した。当時の和村幸得村長(故人)が「15メートル以上」を主張した。「明治に15メートルの波が来た」という言い伝えが、村長の頭から離れなかったのだという。
今回の津波で、宮古市田老地区は防潮堤が波にのまれ、数百人の死者・不明者を出した。岩手県全体で死者・行方不明者は8000人を超えた。
普代村も防潮堤の外にある6か所の漁港は壊滅状態となり、船の様子を見に行った男性1人が行方不明になっている。深渡宏村長(70)は「先人の津波防災にかける熱意が村民を救った。まず村の完全復旧を急ぎ、沿岸に救いの手を伸ばす」と語った。
(2011年4月3日22時05分 読売新聞)
http://news.so-net.ne.jp/photos/1/20110403-570-OYT1T00599/20110403-187719-1-L.jpg賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶと言いますが、まさに言い得て妙ですね。
しかし、津波が来なかったら無駄って言われ続けたでしょうね。
でも土建屋との癒着だの利権だのと言われて叩かれ続けたかもしれない。
しかし、この防潮堤によって村は救われた。
>「万里の長城」と呼ばれた同県宮古市田老地区の防潮堤
>(高さ10メートル)を大きく上回る計画は当初、批判を浴びた。
はやぶさの「こんなこともあろうかと」を思い出します。
東電もこの人を見習っていればと悔やまれますが、
多くの人達は、想定外で済まして終わりにするでしょう。
しかし、この村長の決断こそは「正しい想定」に思えてなりません。
村長の偉業は末代まで語り継がれるでしょう。
実は、嬬恋村にも似たような話があります。
今から三十年くらい前に風水害で、全ての橋が流されて
村が南北に寸断されてライフラインが全滅したことがあった。
その反省を踏まえて、毎年、数十億円の災害貯金をしてきた。
これを前村長が、取り崩して箱物などに散在してしまった。
つまり「災害貯金」を「埋蔵金」あつかいにして
湯水のごとく使ってしまった。
これじゃ災害で村が全滅すると危機感をもった人が立ち上がって前村長を落としたわけです。私は、その時の後援会の人間です。命を危険にさらしてまで、贅沢をする必要はないですよ。想定外というのは言い訳で、つねに最悪の想定を考えた準備も必要なのかもしれません。
つづく
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posted by マネージャー at 02:16|
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