ちょっと脱線します。
ベビーシッターについて御本人から面白いコメントがついたもので。
「マネージャーさん! お金持ちでないとベビーシッターを雇えないんじゃなくて、他人が自分の家で一緒に住むと言う形が日本では感覚的に浸透しにくいんじゃないかっていったんですよ〜。場所の問題もあるし。でも、感覚ってことであればマネージャーさんの子ども時代のお話や、そういえば私の母が子どもだった頃の家には色んな人がいたって話も思い出して、あ!と思ったんです。やっぱり核家族化してきてから今の感覚になってきたのかな」
昔は、ふつーに他人が家に住んでましたからね。
幼児の私と母親は、ふつーに他人の家に住んでいたし、
そこには、村の年寄りをはじめとして、
大勢の子供たちがふつうーに出入りしてました。
もちろん鍵なんかありゃしない。
どこの家にも全く無かったと思います。
泥棒がいたら入り放題!
この風景が、今の人には分かりにくいと思いますから、
もう少し具体的に書いておきます。
でないと昔の佐渡島の風景を知る者がいなくなってしまう。
佐渡島民だって、知らない人が多いと思います。
私が幼児の時に御世話になった家には、いろんな人が自由に出入りしていました。それこそ家族みたいにです。御客さんとしてではありません。だから自由に出入りし、コタツに入って温まっていても、菓子が出るわけでも、茶が出るわけでも無い。ふつーに世間話するだけです。家族に菓子や御茶を出さないのと一緒です。
そこのおばさんと買い物に行って帰ってくると、玄関に杖がある。
すると
「◆◆のバアがきたな」
と言う。
杖の形で、これは◆◆のバア。これは◇◇のバア。と、一発でわかる。
下駄や草履ではわからない。
留守中に◆◆のバアが、来たのですが、
買い物で留守だったので、勝手に上がり込んでコタツにあたっていたわけです。
全ての家に鍵が無いから、自由に上がることができたんですね。
で、コタツにしても、豆炭コタツなので、朝にセットしたら夜まで暖かい。電気コタツのように買い物の時に電機を切る必要も無かったんです。ちなみにコタツは掘りコタツです。いろんな人が出入りするので、堀コタツでないと、足が邪魔になって大勢が入れない。もちろんストーブなんてものはない。あっても囲炉裏・火鉢だけです。
家に入ると◆◆のバアが、勝手に堀コタツに入って待っていました。
今なら「何の用?」と聞くことになるのですが、
当時は、用がある方が珍しい。
用が無くて勝手に入ってくるケースが多い。
で、おばさんは、勝手に家の仕事をはじめてしまう。
私は、◆◆のバアとコタツで遊び始めます。
こういうところも、下宿先のおばさんにとって、
◆◆のバアの存在はありがたかったと思います。
◆◆のバアにしてみたら、単に小さい子供と遊びにきただけでしょうが。
ちなみに、どうして「◆◆のバア」と言うかと言いますと、昔の佐渡島では、名前で呼ぶことは少ないんです。自分の名前が重要になってくるのは、小学校に入ってからであって、いわゆる西洋文明にふれるまでは、名前というものは重要ではなかった。だから、みんな屋号でよんでいたんです。
◆◆というのは、屋号です。
◆◆の父ちゃんといえば、◆◆の主人のこと。
その息子は、◆◆の跡取り。
その母親は、◆◆のバア。
で、佐藤智子なんて名前では呼ばない。屋号で呼ぶ。北軽井沢ブルーベリーの奥さん、北軽井沢ブルーベリーのバア。という感じで呼ぶんです。それがめんどくさい時には、「バア」とか「バアよ」という言い方をする。そうしないと集落全体が「佐藤」だったりするのでややっこしい。
で、私が下宿していた家と、◆◆の家は、家族みたいにつきあっていて、共同で軽トラなんかを買っている。そして一緒に山仕事をしたりしている。そういう家が、何軒もあって、田植えとか稲刈りとか漁業で共同作業をするんです。
しかし、共同作業をしつつも分業もする。例えば、私が下宿していた家では、男手が無かったために洋裁をしていました。毎日、村の人の服を作っていた。電気アイロンが無かったので、囲炉裏の炭なんかでアイロンを温めながら洋裁をしていた。ユニクロなんか無かった時代ですから、小さな子供服なんかは、みんな手作りです。
思い出してみると、そこには原始共産制度が、しっかり生きていたような気がする。
ちなみに、◆◆の家と、下宿していた家は、微妙に離れています。
下宿していた家は、海に接しています。
今は、堤防やテトラポットで台無しになっていますが、
昔は綺麗な海と接していました。
家の構造は、砂浜−船小屋−小さな畑−蔵−民家 という感じで細長ーい土地に、いろんな建物があって、海からの風や波を防ぐ構造になっていました。もちろん海側に窓なんかありません。窓は全て山側をむいていました。土地が海に向かって細長いのは、風と波をふせぐためだったんです。
で、◆◆の家は、山側にあったのです。つまり漁師の家と、そうでない家が仲がよかった。親戚でも何でも無いのに仲がよかった。逆に漁師の家同士、つまり隣近所が仲がよかった記憶が無いです。あるいは仲がよかったのかもしれませんが、私の記憶だと、漁師同士が家族のように仲良くしていたというケースは覚えてない。それから察するに、海山で、お互いに助け合って生きていたのかもしれない。
あと、佐渡で自動車を買い始めたのが、こういう僻地の農家でした。サラリーマンよりも、農家の方が車を先に買っているんです。しかも軽トラ。それを何軒か共同で買っている。耕耘機・トラクターなんかも共同で買って一緒に仕事をしている。しかし、買う前も一緒にしていた。共同で一斉に田植えや稲刈りをしていた。
田畑は、山にあります。民家のある海から遠いですから、村から大人たちはいなくなります。そうなると腰の曲がった老人たちの出番です。三歳だった私は、真っ暗になるまで腰の曲がった老婆に引き取られます。小学校の教師だった私の母も、真っ暗になるまで小学校で働いていますから、私は、真っ暗になるまで老人と一緒の生活です。逆に言うと暗くなると母親が迎えがくることを体験で知っていた。
「真っ暗」
というのがポイントですね。
暗くなっても簡単に電気を付けなかったんですね。
で、暗闇な夜道を母親と二人して帰っていった。
道には、たくさんの御地蔵さんがあったのを覚えています。なぜ覚えているかと言いますと、御地蔵さんは、いつも真っ赤な服をきていて、とても鮮やかだったからです。野ざらしなのに、いつも綺麗な真っ赤な服を着ていた。あれは、誰が着せ替えていたんだろう?
外灯なんか無い時代ですから、真っ赤な服を着た御地蔵さんは、月あかりでみています。
海というのは、海が月光を反射して、夜でも明るいんですね。
ちなみに、この北片辺は、「民話・夕鶴」の発祥の地です。
つづく
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