2011年07月27日

外交官 黒田康作

外交官 黒田康作

やっと見終わりました。
織田裕二にしては面白くないなあと思ったら、
やはり低視聴率だったようで。

まず、この話は『外交官』は関係ないみたいですね。
織田裕二は、外交官の仕事をしてないです。
ある時は、SP。
ある時は、探偵。
そして政界の汚職をあばく。
安手の刑事ドラマみたいな話でした。





せっかく外交官が主役なんだから、
外交官の仕事をドラマにしてほしいですね。
これは、どうみたって刑事ドラマですよ。
このレベルなのかなあ、企画をつくる人の能力って。
もっと外務省に取材して欲しいなあ。


それが無理なら歴史を勉強してほしい。
過去には、すごい外交の名手が日本にいたんだから。
樋口季一郎将軍の話なんか、ドラマにしたら絶対に受けると思うんだけれどなあ。



 樋口季一郎は、第一次大戦後に、ポーランドの駐在武官としてワルシャワ赴任したわけですが、当時の外交は、社交ダンスとパーティーで行われていました。当然のことながら外交官・駐在武官もダンスを習い、テーブルマナーを習って、さかんにパーティーに招いたり招かれたりしていたのです。だから戦前の外交官の給料は高かったんです。大使の給料は、総理大臣並みだった。でなければ、金に困らない貴族が外交官になってたりした。

 そういう華やかな外交の世界に、1人だけ仲間はずれの国があったんです。当時、建国したばかりのソ連です。ソ連のポーランド大使は、労働者出身だったので、世界中のエリート外交官から仲間はずれにされていた。ダンスパーティーなんかでも、露骨に無視されていた。それを見た日本の駐在武官・樋口季一郎は、やさしく声をかけてやり、ソ連のポーランド大使夫人をダンスに誘い、ソ連のポーランド大使を食事にさそって日本食をふるまったりしたんです。

 ソ連のポーランド大使は、涙を落として感動し、
「御礼に私にできることはないか?」
と樋口季一郎に言ってきた。

 樋口季一郎は
「ソ連旅行をしたい」
と言った。

 当時、ソ連は、外国人の入国を許可していなかった。
 鉄のカーテンで閉ざされていたのです。
 そこに初めて入ったのが樋口季一郎だった。
 貴重なソ連情報を収集して帰国したことは言うまでもありません。
 彼は、この時の旅で、迫害されていた多くのユダヤ人を見ています。





 後日、樋口季一郎は、ハルピンの特務機関長となりますが、彼は、ハルピンユダヤ人協会の会長に極東ユダヤ人大会の開催を許可します。
 昭和13年1月15日。ユダヤ人の代表およそ2千名を集めて、極東ユダヤ人大会を開き樋口季一郎は
「ユダヤ人を追放する前に、彼らに土地を与えよ!安住の地を与えよ!そしてまた祖国を与えなければならないのだ」
と大演説します。

 そして3月8日。ソ連領オトポールにナチスから逃げてきたユダヤ難民2万人到着。
 満州国は、入国を拒否していましたが、
 樋口季一郎は、独断で受け入れました。
 東条英機も、その行動を支持しています。

 実は、東条英機はユダヤ人にとっては恩人とも言える人で、ラビ・トケイヤー氏などは東条英機を絶賛しています。この東条英機の肝いりで、杉浦千畝氏は、昭和19年に勲章をもらっています。杉浦千畝氏が、戦後、外務省のリストラにあったのは、そのためであるという元外交官が書いた文章を私は、何かで読んだ記憶があります。

 ちなみに、インベーダーゲームで有名な『タイトー』の創業者が、ユダヤ人のミハエル・コーガン。彼は、樋口季一郎の信者であり、終生・樋口季一郎を慕いましたが、彼こそは、ハルピンで開催された極東ユダヤ人大会で、樋口の護衛を務めたユダヤ人でした。

 ちなみに、イスラエル建国に当たり、国家建設と民族の幸福に力を貸してくれた人々を功労者として永遠に讃えるため「黄金の碑」を建立することになった。その碑に樋口の名と「偉大なる人道主義者、ゼネラル樋口」の一文が、上から4番目に刻まれています。





つづく

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posted by マネージャー at 23:19| Comment(2) | TrackBack(0) | テレビ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

松浦武四郎と海防について

先日、松浦武四郎を研究しているという若い人とであい、久々に楽しい時間をすごしました。
なにをかくそう私も松浦武四郎には、少しばかり詳しいのです。
で、いろいろ会話がはずんだわけですが、途中から
『はあ?』
という場面にでくわしてしまった。
たとえば、こんな会話。

「松浦武四郎は、日本最初の人権家ですよね」
「はあ?」
「虐げられたアイヌを守ろうとした彼こそは、日本最初の人権家だと思うんです」
「・・・・・・」

 若い頃なら、ここで社会契約説と論語の違いを説明し、西洋と日本の社会背景を説明し、松浦武四郎が人権家などという妄言を訂正するのですが、今の私には、そういう気力はありません。適当に話題をかえて、別の話題でもりあがったわけですが、また、こんな会話に。

「松浦武四郎が海防を唱えたのは方便ですよね」
「はあ?」
「そうとなえることによって探検がしやすかった。だから方便として海防をとなえて北海道を回ったんだと思うんです」
「・・・・・・」

 めんどくさがり屋の私は、ここで会話を打ち切ってしまいました。
 
 もちろん松浦武四郎が海防をとなえたのは方便ではありません。
 松浦武四郎は、本気で海防を考えていた。
 そもそも彼は「探検家」とよばれるより「海防家」と呼ばれたがっていた。
 幕末の志士たちにとって、海防は、急務だったからです。
 
 では、なぜ『急務』だったのか?
 これを知らないからトンチンカンな歴史解釈がまかりとおるのです。
 
 江戸時代の人間にとっての常識が、
 今の人には、分からないから
 トンチンカンな歴史解釈になってしまう。

 なぜ、海防が急務だったのか?
 理由は簡単。
 江戸時代の日本経済は、
 世界で最も完成された流通システムをもっていたからです。

 具体的に言うと、江戸の人口100万をささえる食料の流通システムは、
 水路によってなされていた。
 時代劇のテレビドラマをみると、必ず水路があって舟が繋留してますね?
 あれです。
 あれが江戸の町に縦横無尽にめぐらされてて、
 その水運で大量の消費財(農産物など)が輸送されていたんです。
 そのために、江戸は、世界最大の人口100万人を養えることができたんですよ。
 これが同時代朝鮮の場合、京城(漢城)の人口は、たったの15万くらいです。
 
 で、ペリーがやってきた時に、幕府が徹底抗戦しなかった理由は、
 風に関係なく動く蒸気船に江戸湾を封鎖されてしまうからです。
 そうなると船舶による消費財・つまり米が入ってこなくなるので、江戸百万が餓死する。
 これは江戸時代の人間の常識だったわけです。
 
 江戸のライフラインは、海にあったんです。陸では無い。

 一方、黒船は、朝鮮にも行ってるわけです。
 で、朝鮮はどうしたかと言いますと、徹底抗戦して黒船を撃退してしまった。
 朝鮮には、日本ほど流通が発達してなかったために、
 黒船で海上封鎖されても痛くもかゆくもない。
 しかし、日本では違ったわけです。
 陸送では、間に合わない。
 江戸は餓死してしまう。
 
 かといって海戦で勝てる自信は無い。
 なぜならば、倭寇の時代から朝鮮出兵まで海戦で勝ったためしがないからです。
 だから、当時の日本人は青ざめたんです。
 
 これは、明治時代に出版された『大日本時代史』あたりに、ふつーに書かれてある。
 少なくとも明治人の歴史家にとっては、常識に部類することだったんです。
 
 しかし、大正時代に入って、道路が整備され、鉄道ができてくると、
 江戸の流通をささえていた水運のことがわかりにくくなり、
 志士たちが、なぜ幕末にあれほど『海防』をさけんでいたのか分からなくなってくる。
 
 おまけに学校で教える歴史教科書にも載ってない。
 これは意図的に載せてないんだろうけど、
 載せなければ、どうして幕府がペリーに屈したかわからないし、
 どうして、その1年後に国産の蒸気船を生産するまでになったかもわからないでしょう。
 
 もういい加減、歴史に関するタブーは、なくしてほしい。
 でないと、おかしな事を言い出す人がでてきて困ってしまう。 
 
 

つづく

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posted by マネージャー at 18:23| Comment(2) | TrackBack(0) | テーマ別雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする