龍雲寺の創建は正和元年(1312)、この地の地頭だった大井氏(甲斐源氏)美作守玄慶が開基となり浄学天仲国師が開山したのが始まりと伝えられています。以来、大井氏から菩提寺として庇護され文明16年(1484)に兵火で焼失した時も翌年には大井氏によって再建、天英祥貞を招いて曹洞宗の寺院に改宗開山しています。
戦国時代に入ると武田信玄が佐久郡へ進出し、晴信が拡大した領国内の曹洞宗寺院の支配拠点とするため越後から北高全祝を招聘して中興しています。永禄10年には信玄から寺領を寄進されており、川中島の戦いを契機に西上野への侵攻を開始すると竜雲寺へも末寺を寄進しています。竜雲寺は分国内曹洞宗派の僧録所となり、僧録司となった北高は元亀元年(1570年)には宗派統制を目的に定められた曹洞宗新法度の制定にも携わっています。
元亀3年(1572年)4月11日、信玄公が上洛の際、必勝祈願の千人法幢(多勢の僧が道場に籠って行なわれる宗教的大行事)を行いました。この時、僧たちは4月から7月にかけて必勝祈願を行ったと言われています。信玄は翌元亀4年(1573年)に西上作戦の途上で死去していますが、竜雲寺は各地に点在する信玄の火葬地であったとする伝承があり、実際に遺骨が出土していることから分骨された可能性も考えられています。
これは1931年(昭和6年)5月に庭園から遺骨と遺品の納められた茶釜が出土し、遺骨(信玄遺骨)や短刀や銘文のある袈裟環など遺品の鑑定を巡り論争が起こり、史跡指定を却下した国と住職の間で訴訟が発生する騒動となりました。
ちなみに、このお寺は、江戸時代に中山道岩村田宿で、本陣の役割を行ったといわれています。岩村田宿には、本陣も脇本陣も無かったですから龍雲寺が大名の休泊の場としてその役を担っていた。
つづく。
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