三余荘ユースホステルを語る前に、奥伊豆の偉人・依田佐二平について述べたい。
依田氏は、平安時代末期に信濃源氏の一族として、信州・小県郡依田之庄、今の長野 県小県郡丸子町に、依田城を築いた。その城こそ木曽の義仲が旗揚げした所であった。しかし義仲が、やがて源頼朝によって破られると、義仲に組し依田一族も各地に逃れ散っていった。時代は下って、南北朝初期に依田義胤が、再びこの依田之庄に来て城を築いた。彼こそが伊豆大沢の依田家の先祖と伝えられている。
戦国時代、武田信玄は、依田一族を従えて、依田一族は武功を挙げていった。しかし武田家が滅亡すると、依田家は遠く奥伊豆・大沢の地に落ちのびていった。そこで帰農する。依田家はしだいに実力を蓄えて地域の名主となる。天城山の山林開発・薪炭生産によって材をなした。
そして、依田家十一代の当主・依田佐二平の時に、時代は大きく変わり、依田佐二平が、奥伊豆の発展に大活躍するのである。今でも奥伊豆では、依田家や依田佐二平を知らぬ者はいない。いたらモグリである。明治維新に例えれば、依田佐二平は、伊豆の伊藤博文みたいな人である。しかし、依田佐二平が、伊豆の伊藤博文みたいな人ならば、伊豆の吉田松陰と言うべき人もいる。
土屋宗三郎(三余)である。
土屋宗三郎(三余)こそは、奥伊豆の吉田松陰なのだ。
土屋宗三郎(三余)は、文化12年(1815)伊豆国那賀郡中村、現在の三余荘ユースホステルに生まれた。祖先は北条氏に仕えたが、秀吉の小田原城攻めに敗れ、天正18年(1590)伊豆の那賀に移り住み10ヶ村の名主をつとめた。土屋宗三郎(三余)はその12代目にあたる。
しかし、彼は、6才で父を、8才で母を亡くして孤児となった。彼は母の実家に引き取られて学問に励んだ。そして勉学のため江戸に出て、漢学・国学・算術・剣術に励み、勝海舟と机を並べて勉学し、諸大名に招かれて諸藩の顧問となるほどの名声を得た。
しかし、天保10年(1839)。24才のときに突然、故郷帰って、三余荘ユースホステルの場所に無料の塾を開き、親戚や近隣の子弟を預かった。
理由(わけ)があった。
当時、奥伊豆は、遠州掛川藩の領地だった。半年交替で陣屋にやってくる掛川藩の役人は、百姓に対して横暴であった。百姓たちが、この掛川侍に苦しめられるありさまを見ながら土屋宗三郎(三余)は、
「人間は、みな平等である。しかし、百姓が掛川の武士に馬鹿にされるのは、百姓に教養が足りないからである」
と考えた。そこで身分の差別をなくすため百姓(注・百姓とは、武士以外の人たちのことをさす。必ずしも農民とはかぎらない)の青少年を教育し、知徳を磨くことによって、武士に馬鹿にされないようにしなければならないと考えて、無料の塾をはじめた。
最初は、親戚の師弟に教えるだけであったが、
たちまちその評判が広まり、無料の塾は大繁昌になった。
塾は全寮制であった。
みんな生活をともにした。
そして、そこから無数の人材が出た。
その数は、萩の松下村塾にも劣らない。
(ちなみに塾は土屋宗三郎(三余)の死によって7年で終わっている)
こうして江戸時代のユースホステルがはじまった。三余荘ユースホステルは、日本ユースホステル協会が設立される前からユースホステルのような活動をしていたのである。
結婚の話もきた。
依田家から嫁をもらった。
美代子といった。
もちろん依田家からも、多くの門人が入門した。後に依田家十一代の当主になる依田佐二平も入門した。この依田佐二平は、三余塾の塾頭となって大活躍することになる。ペリー来航・プチャーチン来航の時は、土屋宗三郎(三余)は、依田佐二平を引き連れて、外国人たちと交流し、外国語を盛んに学んだ。三余荘ユースホステルには、その時の鉛筆、西洋皿、コップ、ビールなどが残っている。
さて、三余荘ユースホステルのことである。
三余荘ユースホステルが、ユースホステルになったのは、昭和三十九年であった。農業に励んでいた土屋九彦氏15代目の当主は、本当は、もっと早くユースホステルになりたかったのだが、近くに別のユースホステルがあったために、日本ユースホステル協会から認可されなかった。別のユースホステルとは、依田佐二平の子孫・依田家が経営していた、依田園ホステルであった。
このシリーズ、つづく。
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