2012年06月02日

今週のシルマンウオーキングは、しゃくなげ園ハイキングでした

今週のシルマンウオーキングは、しゃくなげ園ハイキングでした。

日曜日の天気が悪いらしく、
日本海グルメツアーに変更になりそうなので、
土曜日のシルマンウオーキングで軽いハイキングをすることになり
多数決で、急遽、しゃくなげ園ハイキングに変更になりました。

まずは、パノラマライン。

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そして、シャクナゲ園

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とどめは、ランプの湯で温泉三昧。
ここは、昔、ユースホステルだったこともありました。

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つづく。

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ラベル:しゃくなげ園
posted by マネージャー at 22:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 浅間高原・シャクナゲ園 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月01日

三余荘ユースホステルが無くなってしまう! その3

三余荘ユースホステルが無くなってしまう! その3

 土屋宗三郎(三余)は、江戸に出て漢学・国学・算術・剣術に励み、勝海舟と机を並べて勉学し、諸大名に招かれて諸藩の顧問となるほどの名声を得た。しかし、天保10年(1839)。24才のときに突然、故郷帰って、三余荘ユースホステルの場所に無料の塾を開き、親戚や近隣の子弟を預かった。

 理由(わけ)があった。

 当時、奥伊豆は、遠州掛川藩の領地だった。半年交替で陣屋にやってくる掛川藩の役人は、百姓に対して横暴であった。それをみた土屋宗三郎(三余)は、「百姓が掛川の武士に馬鹿にされるのは、百姓に教養が足りないからである」と考えた。
 そこで百姓を相手に無料の塾をはじめた。最初は、親戚の師弟に教えるだけであったが、たちまちその評判が広まり、無料の塾は大繁昌になった。後に依田家十一代の当主になる依田佐二平も入門した。この依田佐二平は、三余塾の塾頭となって大活躍することになる。ペリー来航・プチャーチン来航の時は、土屋宗三郎(三余)は、依田佐二平を引き連れて、外国人たちと交流し、外国語を盛んに学んだ。三余荘ユースホステルには、その時の鉛筆、西洋皿、コップ、ビールなどが残っている。

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 さて、三余荘ユースホステルのことである。

 三余荘ユースホステルが、ユースホステルになったのは、昭和三十九年であった。農業に励んでいた土屋九彦氏15代目の当主は、本当は、もっと早くユースホステルになりたかったのだが、近くに別のユースホステルがあったために、日本ユースホステル協会から認可されなかった。別のユースホステルとは、依田佐二平の子孫・依田家が経営していた、依田園ホステルであった。

 土屋三余の一番弟子である依田佐二平は、土屋三余の死後、国会議員となって大活躍し、奥伊豆の発展に尽くすことになるのだが、第二次世界大戦後の依田家は、農地改革などで没落する。しかし、没落しても旧家である。大きな屋敷と蔵は残っていた。そこに日本ユースホステル協会を設立した横山祐吉氏が、腰を低くして
「民家を開放し、ユースホステルとして若者を受け入れてくれないか」
と言ってきた。依田家は快諾し、昭和35年に依田園ホステルが誕生した。と同時に、大勢の若者たちが依田園ホステルに訪れた。

 それを知った土屋三余の曾孫にあたる土屋九彦氏(15代目の当主)も、自宅をユースホステルにしたいと思って、日本ユースホステル協会に申請した。しかし却下されてしまった。近所に依田園ホステルがあったからである。

 ちなみに依田家と土屋三余の家は親戚である。
 土屋三余の嫁が依田家の娘なのだ。
 土屋九彦氏(15代目の当主)は、依田家に出向いて
「ユースホステルの看板を譲ってくれ」
とたのんだ。

 依田家は快諾した。

 ユースホステルとして成功した依田家であったが、温泉を掘り当てて、旅館としても大成功をおさめていた。なにしろ建物が古く、文化財的価値があったので旅行者が大勢訪れていた。ユースホステルの御客様にたよらなくてもやっていけるほどになっていた。ちなみに、下記のサイトが、元依田園ホステルであり、今の「大沢温泉ホテル・依田の庄」である。

http://www.osawaonsen.co.jp/index.htm

 こうして三余荘ユースホステルが誕生した。
 大沢温泉ホテル・依田の庄ほどではないが、
 三余荘ユースホステルも古い家であった。
 庭が素晴らしく、部屋が和風であった。

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 本業は、農家であるために、美味しい米を作ってホステラーに御馳走した。柑橘類(みかん等)もやっていたので、糖度の高いミカンを食事に出した。魚や肉も出したが、何気なく添え物に裏山で採れた山菜を出していた。三余荘ユースホステルの食事は、美味しいことで有名であった。

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 しかし、三余荘ユースホステルの一番の特色は、土屋三余をテーマにしたミーティングである。蔵を改造した土屋三余資料館を興味ある若者たちに見せたりした。そして、土屋三余や依田佐二平の業績を伝えていった。依田家が、土屋家にユースホステルの看板を譲ったのも、土屋九彦氏(15代目の当主)の、そういう情熱を知っていたからかもしれない。

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 土屋九彦氏(15代目の当主)は、そういう活動に半生をかけることになる。
 しかし、今年になって土屋九彦氏(15代目の当主)は高齢のために体調を崩した。
 ギリギリまで頑張ったが、ついにユースホステルの営業を断念せざるをえなくなった。

 実は私は、マネージャーの土屋九彦氏(15代目の当主)にお会いしてない。その息子さん(といっても六十四歳だが)とお会いしている。マネージャー代行の息子さんの馴れないミーティングで、土蔵の土屋三余資料館を案内してもらった。

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つづく。

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posted by マネージャー at 21:34| Comment(5) | TrackBack(0) | ユースホステル紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

三余荘ユースホステルが無くなってしまう! その2+α

みわぼーさん
進之助さん
坂東旅人 水戸義烈さん
エバさん

長くなるので本文にレスを書きます。


>三余荘YHは、宿業そのものを廃業されるのでしょうか?

残念ながら、そのようですが、交渉次第では泊まれるのかもしれません。


>こんな素敵な宿があることを、紹介していかねば、人知れず、閉館していってしまう。
>こういう宿があることが、アピールされていたら、
>こういう雰囲気の宿が好きな女性客、見込めたと思うのに…!!

原因は、マネージャーの体調が悪いためのようです。
今は、息子さんが代行してやっているみたいなのですが、
そもそも農業の方が忙しいので、
ユースホステルをやる時間があまりないようです。

ちなみに、うちの嫁さんが、こう言ってました。

「もし、星野温泉グループが三余荘ユースホステルの存在を知って買い取ったら、改装して一泊10万の宿にするのに」

この意見に私も同感です。
やりようによっては、この宿は大ブームになった可能性がありました。
なにしろ合成合板もアルミサッシがないのです。
もちろん網戸も木製。
鍵も昔風だし、欄間にも障子が貼られている。
唯一、違和感があるのはエアコンだけ。



>傍の河の桜並木が見事なところで、とても気に入っていました。


実は、一番良い季節は、1月から4月にかけてです。
というのも、目の前の田んぼが一面の花畑なのです。
実は、この田んぼは、三余荘ユースホステルの田んぼで、
冬は、花のタネを撒いて、一面の花畑にしているのです。
ちなみに桜は、この地の名物です。
昔は、桜の木で出版のための版木を作りました。



>三つ指を揃えて出迎えるユースとして有名で、
>私が泊まったときも一家の皆さんの礼儀が正しかったです
>先祖の影響があったんでしょうね〜

あったと思います。
というか土屋宗三郎(三余)を誇りに生きているという感じです。
それについては、連載であかしていきます。


>同じお部屋に泊まったみたいですね。

そうでしたか。
一番奥のお部屋ですね。
他の部屋の写真も撮ってきましたので後で紹介します。



つづく。

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posted by マネージャー at 08:01| Comment(0) | TrackBack(0) | ユースホステル紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする