2012年10月17日

嫁を上高地に置いて、一人で北アルプスに登ってきた7

嫁を上高地に置いて、一人で北アルプスに登ってきた7

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 昔、全国の友人たち30名くらいで、毎年のように、お盆に北アルプス縦走をやっていました。そして上高地で解散して、全国に散っていったわけですが、いつも何人かの人間が、日程にゆとりがあったりして、清里でテントを張ったり、長野県のユースホステルに泊まったりしました。

 20年ほど前、北アルプス縦走の帰りに安曇野ユースホステルに私を含む数人が泊まりました。当然のことながらユースホステルで食事をしたんですが、こっちは団体なので、一人旅の御客さんに気をつかって、あちこちに声をかけていたんです。
 で、たまたま私が声をかけた人が、凄い人だった。
 55日の最短期間で百名山全てを登ろうとしている人だった。

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 これがどんなに凄いかというと、百名山の中には、3日かけないと登れない山があったりする。もちろん悪天候でも登れない。なのに55日で百名山を全部登ろうとしている人を発見したので、感動した私は、御客さん全員に紹介した。

 もちろん他の御客様も大感動。
 今まで、誰とも会話しなかった、その人は時の人となった。
 そして彼は、いきなり饒舌に話しを始めた。
 
 で、私は後悔した。
 失敗したなと思った。
 
 55日で百名山を全部登ろうするのは確かに凄いことなんだけれど、その自慢を聞きたいわけでは無い。仲良く世間話をしたかっただけだった。けれど、それによって安曇野ユースホステルが、私の好む雰囲気ではなくなってきたので、私は、みんなから離れた。
 
 で、一人になって安曇野ユースホステルに置いてあった郷土資料を読み始めた。
 暇つぶしであったが、読み始めて愕然とした。
 安曇族について書いてあったからである。
 
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 安曇族は、九州は志賀島(博多)を本拠としている海の一族で、後漢の光武帝から授かった「漢倭奴國王」と彫られた金印が出土した地が安曇族の本拠地である。早い話が奴国こそが、安曇族。彼らは日本海沿いに北上し、ついに安曇野(大町から松本までの地域)に来たらしい。しかも、その一族は、穂高に海を祭る神社を作ったという。
 
 その末裔が海野氏。
 つまり真田一族なのである。
 
 なんと壮大な話であろうか!と感動し、私は貪るように安曇野ユースホステルにあった郷土資料を読みあさった。そして、小一時間もたったころ、私のところにM子さんがやってきた。

「何を読んでるんですか?」
「安曇野にやってきた古代人の話しなんだ」
「どういう話なんですか?」
「あれ? みんなと百名山の話をしなくていいの?」
「いや、ちょっと、耐えきれなくて。実は・・・・・・・・・」
「ああ、そうういうことか」
「それより古代人の話を教えてください」
「そうそう、槍ヶ岳の帰りに明神池によって、神社をみたよね」
「はい」
「あの神社は、海の神様を祭る神社で、九州からやってきた古代人が建てたものらしい」
「山なのに海の神様ですか?」
「そうなんだ」

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 実は私は、スポーツのように短時間で山に登って、それを競うことにはあまり興味が持てない。もちろん、やろうと思えばできなくはない。現に、毎日のように2時間で浅間山に登っているし、時間があれば、そのあとに2つくらいの山は登ってしまう。
 けれど、本当は、山の中腹で2時間も3時間も昼寝をして楽しみたい口である。でなれけば、地質や植生を調べたり、藪をこいで新ルートを発見するのが私の趣味でもある。しかし、一番の趣味は、郷土資料に、はてしないロマンを感じ、歴史を学んでは感動し、奥の院を調べたりのフィールドワークするほうが、もっと楽しい。
 
「そう思うんだよね」
「いいですね」
「じゃあ、いつか一緒に、そして仲間たちと一緒に明神池の本体と安曇族の正体を解明しよう」
「はい」

 20年前に、こんな約束をした。
 
 しかし、この約束を私は、いつのまにか忘れてしまっていた。今は2児の母親になったM子さんも忘れてしまっていると思う。しかし、今回、久ふりに思い出してしまった。今、私は、インターネットを使って心の旅を続けている。安曇野ユースホステルには、まだ、あの郷土資料は置いてあるのだろうか?
 

つづく。

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posted by マネージャー at 21:39| Comment(5) | TrackBack(0) | 上高地・北アルプス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする