2014年03月18日

死にむきあうということ

死にむきあうということ

私が、死に向き合ったのは、かなり早い。
小学校5年生の時に、生まれて初めて
担任の先生になった恩師に死なれた。
この時は、まだ死というものが
よく分かってなかったので
「ああ死んだのか」で終わってしまった。

次は中学2年生の時だった。
先輩が突然死したのである。
その時は、事実を受け止めることができなくて錯乱した。
その頃には死について理解力が大きくなっていたんだろうと思う。

次は、高校2年の時である。
かなり錯乱した。
かなり長期にわたって落ち込んだ。

で、高校3年の時にも友人が死んだ。
やはり錯乱してノイローゼになった。
一生涯、引きずるような衝撃をうけた。
思春期に死と向き合うと、トラウマになる。

19歳になった時、大学で難病の人と親友になった。
血友病患者だった。
ものすごく気が合う友人だったが、
もう死と向き合うのが嫌になっていたので、
自然とこちらから距離をとってしまった。
後に風の便りで亡くなったことを聞かされた。
やはり、もう死はゴメンだとおもった。

しかし、人間は死からのがれられない。
その後も、多くの死を受け止めることになる。
すると、不思議なことに「死」に対して鈍感になっていく。

前置きは、ここまでにする。
ここからが本題である。

 2000年5月、私は北軽井沢のペンションを買って、7月に宿をオープンした。そして、その年の12月に日本ユースホステル協会の認可を受けて、2001年1月7日に北軽井沢ブルーベリーYGHをオープンさせた。そして、何年かがたち多くのペンションオーナーと仲良くなるようになった。

 といっても、個人的なつきあいをするペンションオーナーは、あまり多くない。たいていは観光協会がらみとか、自治体がらみの付き合いが多い。私自身、人づきあいが苦手なのもあって、地元民と一緒に遊んだりしない。そういう暇があったら観光地の調査を行ったし、せっせと登山をくりかえして、情報収集をおこなってきた。

 しかし、どういうわけか、そんな私のところに、よく遊びに来るペンションオーナーがいた。元ユースホステルを経営していた某ペンションのオーナーである。彼は、50歳をすぎて独身だったので、うちの御客さんを見合い相手に紹介もしたが、うまくいかなかった。しかし、結果論からいうと、うまくいかなくて良かった。

 彼は、私の大先輩であるし、私などよりも何十年も長く宿をやっていたのだが、よく私のところに質問にやってきた。今思えば、あれは質問をしにきたのでなくて、私に何かを伝えたかったのだと思う。何かを話したかったんだと思う。しかし、鈍感だった私は、「どうして、こんな基本的なことを聞きに来たんだろう?」といぶかしがった。あんまりしつこかったので、登山にさそってみたが、「激しい運動はダメなんだよね」と淋しそうに言った。

 そのうち悩みをぽつりぽつりと話すようになった。彼が何故55歳まで独身だったかも分かった。いろんなことが分かった。で、いろいろアドバイスしていたら、ある日、ぱたっと来なくなった。

「商売繁盛で忙しいんだな」

と好意的に解釈して放置していたら、それから半年後に亡くなったことを、ずいぶんたってから聞かされた。癌で入退院を繰り返していたらしい。所属している自治体・観光協会が違っていたので、こちらには情報が入ってこなかったのだ。それから過去の記憶が走馬燈のように頭の中をまわった。いつも私に何かを言おうとしては、口ごもる彼の姿を何度も思い出した。

「そ、そうだったのか・・・・」

 どうして、きちんと伝えてくれなかったのか。
 恨み言の一つもいってやりたくなった。
 と同時に「死」に対して鈍感になっていた自分を腹立たしく思った。
 死に対して鈍感であってはいけないと思った。

 その後、私は不妊治療を受けて息子が生まれた。
 息子には「健康」の「健(たける)」とつけた。
 五体満足に生まれますようにと祈って冷水を三十浴びて
 断食の願掛けもおこなった。
 その結果。元気な息子が生まれた。

 その瞬間、息子の親孝行は終わったと思った。子供は、健康に生まれてくれただけで、一生分の親孝行を行ったも同然だと思った。これ以上、何を望めばいいというのだろう。生まれてくれてありがとう。それだけである。 

つづく。

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posted by マネージャー at 23:56| Comment(3) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする