連日、ノーベル賞の話題が続いているが、私個人の感想を書きたい。実は、私どもの事業はノーベル平和賞に少なからず影響を受けている。
私が、宿をはじめたのが2000年だった。そして日本ユースホステル協会と契約したのが2001年である。その後、まもなく日本ユースホステル協会から、そして宿屋の団体などから、環境に配慮した宿業を行うように言われるようになった。新聞雑誌にも、環境・環境という文言が見られるようになった。それも突然である。
「はて? どういうことだ?」
と不思議に思っていたが、ある日、突然、テレビ画面で黒人女性が「もったいない!」と叫んでいるシーンをみた。もったいない!と叫んで、みんなに復唱させている。で、みんなも、もったいない!と叫んでいる。叫んでいるのは、世界各国から来た偉そうな人たちなのだ。
「この人、誰なの?」
「知らないの? ワンガリ・マータイさんだよ。ノーベル賞をとった人だよ」
「博士かなんかなの?」
「いやいや、有名な環境関係の人だよ。すごい人らしいよ」
「ふーん、で、どうして、その有名なアフリカ人女性が、もったいない!と叫んでいるの? それでもって、他の偉そうな人たちに復唱させているの?」
「オレも、よくは知らないんだけどさ、3Rって知ってる?」
「Reduce・ゴミを減らす。Reuse・ものを繰り返し使う。Recycle・リサイクル(再資源化)する。だっけ?」
「そうそれ、その3Rにそって、これから宿屋も事業を展開しなさいという話しが最近多いじゃない」
「うん」
「ノーベル賞をとった、この黒人のワンガリ・マータイさんも、それの普及に日本にやってきたわけよ。ちょうど京都議定書が成立するときにさ。それで、3Rについて日本人に説明している時に、日本人の誰かが『日本にも、もったいない』という言葉がありますよ。って言ったわけなのよ。それを聞いたワンガリ・マータイさんは、感動したわけ」
「何に?」
「もったいない!の言葉の方が、3Rよりも奥が深いと」
「あーーーー」
「もったいない!には、3Rの全てが入っていると」
「なあーるほど! よーく分かった。それでもったいない!と叫んでいる訳か。ふーん、なるほどねえ。ふーん」
2004年にノーベル平和賞をとったワンガリ・マータイさんが、「もったいない」に感動した理由はよくわかった。たしかに日本人の「もったいない」精神は異常なのである。異常すぎて奇妙に見えるかもしれない。もちろん欧米諸国にも「もったいない」精神はある。しかし、日本のものと質が違う。ベクトルが違う。違う理由は、宗教観からだと思う。
日本人の「もったいない」は、あらゆるモノに神性を感じるために生じるための「もったいない」なのだ。しかし欧米人の「もったいない」は、唯一神にささげるための「もったいない」なのである。だから「もったいない」のベクトルが違う。勤勉にしても、省資源にしても、リサイクルにしても、欧米人のそれは、日本人に劣らないと思う。しかし、その動機付けが全く違うのだ。だから日本人の「もったいない」は、べつの視点からみたらキチガイじみて見えるだろう。
そもそも「もったいない」とは、モノに限らないはずなのだ。時間がもったいないこともあろう。効率がもったいないことだってあるはずだ。しかし、日本人はモノを優先する。モノには神が宿っているからである。だから針供養もすれば、何でもかんでも供養する。しかし、欧米人にはその精神はない。神のために省資源とリサイクルを頑張っているが、モノを供養する発想は無い。だから、日本人のもったいないは、少々やりすぎることが多い。
これに気が付いたのは、和裁を習ったときであった。和裁を習って自分で自分の浴衣を作ってみた。で、驚いたことに布のゴミが残らなかったのである。反物を全部使い切る。もちろん身長が伸びれば、伸ばせるようになっているし、一切の無駄が無いようになっている。モノを徹底して大切に扱っている。これは着物にしても同じであった。徹底的に無駄なく作られており、ゴミが出ないようになっているのだ。
と書くと、昔の日本人は素晴らしいと絶賛したくなるが、そうは問屋がおろさない。日本人は、モノを徹底的に大切にするあまり、別の「もったいない」を捨てているのである。それは効率・時間・コスト・便利のもったいないである。
具体的にいうと和服の洗濯。これが気が遠くなる方法で洗っていた。一々、糸をほどいて部品に分解し、その部品を一ずつ洗って板に貼り付けて乾かし、それをまた縫い直したりした。ここまで徹底していれば、モノは長持ちする。何世代にわたって着物が伝わっていく。しかし、そのおかげで「おしん」のように膨大な手間暇をかけなければならない。
江戸時代の庶民は、世界で最も豊かであった。世界的に見て裕福であった。同時期の欧米諸国の庶民と比較しても豊だった。みんな銭湯にいって清潔にし、初鰹を競って食べるなどの贅沢もした。本も読んだしオモチャも買った。子供が生まれたらシャボン玉で遊んであげたりした。
あの大英帝国でさえ識字率30パーセントの時に、日本人の識字率は70パーセントを超えていた。庶民でありながら学校にかよい、豊かな消費生活をおくっていた。そのために乞食たちでさえ、家を建てられるほどであった(そういう記録がある)。社会が豊で無いと豊かな施しは受けられないから、やはり豊かであったのだ。
しかし、そんな豊かな庶民であっても奴隷のごとく働いた。それは豊かさを維持するためでは無い。モノを大切にするためである。どんなモノであれ、モノを大切にするということは、それなりの労力が必要になるのである。しかし、その労力を金持ちになってまで支払いつづける民族は、それほど多くはない。
しかし、そうでない民族があるとすれば、その行為に宗教的な動機付けがある場合のみである。日本人にとって、その動機付けは、モノに人格や神格がるというところだろう。でなければ「針供養」という行為は生まれない。普通は豊かになれば、労力は放棄されるからである。現に、ある程度の金持ちは、人をやとってまでモノを大切にした。コストに見合わないことをしたのだ。
そこで思い出すのが、縄文時代の貝塚である。従来は、貝塚は、古代人のゴミ捨て場と言われていた。しかし最近は、違う説がでてきている。ゴミ捨て場ではなくて、供養する場所だったのではないかというのである。もちろんまだ定説にまだなってないが、そう思わせる出土品が貝塚の中から出てきているらしい。たとえば、貝塚によっては、貝殻がきれいに整列されているところもある。貝輪、貝皿、貝鐘、貝札なども出土し、貝塚がゴミ捨て場であるという単純なものではないといわれている。
嫁さんの実家の群馬県館林の話になるが、明治時代の館林付近では、正月が2回あったらしい。1月の正月には、神様を祭った。井戸や納屋や仏壇やあらゆるものにお供えをして祈った。これが大きい正月。それが終わると小さい正月があったらしい。2月の小さい正月では自分たちが休む番だった。大きい正月は八百万の神様に祈る行事であって自分たちが休む正月ではなかったのだ。そしてあらゆるモノに感謝するためにセッセと餅をついてお供えしたのだ。こういう精神世界に生きる日本人の「もったいない」が、はたしてワンガリ・マータイさんに正確に伝わったか疑わしい。日本人の「もったいない」は、3Rで説明できるものではないのである。
これについて詳しく書き始めたら1冊の本になってしまうので、これで筆を置く。気が向いたら続きを書こうと思う。
つづく。
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