ここでまた話を変える。私は映画好きである。黒澤明の映画も当然のことながら全て見ている。用心棒や七人の侍なども大好きなのだが、スターウォーズの原型となった隠し砦の三悪人も大好きである。影武者などは公開初日に封切りで最前列で観たくらいである。しかし1番好きなのは、生きるという映画であった。胃がんで死を宣告された役所の課長が、残り少ない人生を、住民たちの苦情の元となっている場所を公園に変えるという事業に捧げるという話である。そこのラストシーンで、主人公が歌う歌はゴンドラの唄という歌であった。
いのち短し
恋せよ乙女
あかき唇
あせぬ間に
主人公は、最初やけになって見知らぬ女の子を連れ回して、酒場で浴びるように酒を飲んでいた。その時、女の子に歌を歌えとせがまれるのだが、その主人公は、ピアニストに、ではゴンドラの唄をお願いします。と、伴奏をお願いした。ピアニストは笑いながら、大正時代の歌ですねといった。当時映画を見ていた私は、きっと古い流行歌なんだろうなぁと思っていた。いや最近まで思っていた。
ここでまた話は変わる。
コロコロ話が変わって申し訳ないが、もう少しお付き合い願いたい。
私は10年ぐらい前から日本ユースホステル史を調べている。そして、色々調べるに当たって驚かされることがいっぱいあった。ユースホステルの創設に関わった関係者たちが、日本史を変えるような事件に直接的に間接的に色々関わっていることだ。その一つに元祖流行歌を作った事件がある。
日本ユースホステル協会の創設者横山祐吉の師匠は、東儀鉄笛と言う人である。彼が所長をしていた私立新劇研究所を卒業したのが横山祐吉であった。この東儀鉄笛は、最初坪内逍遥の文芸協会で活躍していた。しかし、島村抱月と松井須磨子のスキャンダルで島村抱月が退会。そして相馬御風、水谷竹紫らと芸術座という劇団を結成した。
芸術座は大正3年にトルストイの『復活』を上演した。この時劇中で西洋風の歌を歌わせるという日本初の試みがあった。これが当時の日本人に衝撃をもたらした。歌の名前はカチューシャの唄。カチューシャとは、松井須磨子が演じた劇中の女主人公の名前である。そのカチューシャが付けていたと言う宣伝文句で売り出されていたので、そのヘアバンドの固有名詞となったと言われている。
これで私が長年疑問に思っていたカチューシャと言うヘアバンドの固有名詞の謎がわかった。
ところでカチューシャの唄を作詞したのは、島村抱月と相馬御風であった。島村抱月はともかく相馬御風と聞いて驚いた。彼はあの有名な童謡「春よ来い」の作詞者である(新潟県出身者ならば知らぬ者はいない)。
春よ来い 早く来い
あるきはじめた みいちゃんが
赤い鼻緒の じょじょはいて
おんもへ出たいと 待っている
で、もっと驚いたのは作曲者の中山晋平であった。中山晋平は、のちに横山祐吉が編集主任となる「少女号(大正8年)」と言う少女雑誌に掲載されている「背くらべ」の作曲者である。大正8年といえば、童謡運動が始まったばかりで、日本中の少年少女雑誌に次々と童謡が発表されていた時代でもあった。少女号での童謡発表も大正8年の後半からである。
柱の傷は一昨年の
五月五日の背くらべ
ちまきたべたべ兄さんが
計ってくれた背のたけ
しかし1番驚いたのは、この中山晋平も横山祐吉も東儀鉄笛を師匠に持っていることである。もちろん両方とも東京上野音楽学校(現在の芸術大学)の生徒であった。東儀鉄笛はそこの講師でもあったが、両者ともに学校で東儀鉄笛から教わったという記録は無い。しかし中山晋平は東儀鉄笛の自宅で住み込みの弟子をやっていたし、横山祐吉に至っては、演劇研究所で東儀鉄笛から演技をじっくり教わっている。もちろん横山祐吉の奥さんとなる人も東儀鉄笛の弟子である。
まぁそんな事はどうでもいい。
日本の流行歌のはじまりは、どうもこのカチューシャの唄らしいのだ。当時はテレビもラジオもなかったので、全国的なメディアは新聞雑誌書籍に限られている。劇場もメディアとも言えなくはなかったのだが、全国を講演して回らなければ、地域限定的なメディアとなってしまう。つまりかなりローカルなメディアなのである。
とはいうものの、日本初の劇中歌という試みは新聞雑誌に取り上げられたし、全国の人々がそこに注目した事は間違いない。人々は競って芸術座に入場し、劇中歌のカチューシャの唄を聞いた。それを見ていた中山晋平は、カチューシャの唄の歌詞を劇場の中に張り出したのである。人々は競ってそれをメモし、そして歌い出した。講演後に観客たちはカチューシャの唄の合唱を始めたのである。そしてその歌は口から口へと伝わっていった。
この時代、もう一つのニューメディアが登場する。レコードである。カチューシャの唄はレコードで発売された。そして何万という数が発売された。これは当時の蓄音機の普及台数よりも多い数である。今で言えばメディアミックスの始まりかもしれない。
そして翌年の大正4年。芸術座は、ツルゲーネフの『その前夜』を講演した。そこでも劇中歌が歌われた。もちろん原作にはそのような歌は存在しない。その劇中歌が何を隠そう黒澤明の生きるのラストシーンで歌われた『ゴンドラの唄』である。
いのち短し
恋せよ乙女
あかき唇
あせぬ間に
このゴンドラの唄は、日本の流行歌第二号であろう。どうりで映画生きるのシーンで、伴奏するピアニストが笑いながら大正時代の歌ですねといったわけだ。要するに昭和26年と言う時代において非常に古い歌と認識されていたということだが、それもそのはず、元祖流行歌の第2号なのだから古いといえば本当に古い歌なのだ。映画「生きる」の主人公は、若かりし頃に芸術座のツルゲーネフの『その前夜』に熱中したという設定だったのだ。ここでもう一つの謎もわかってすっきりした。主人公は、典型的な大正デモクラシーな男だったのである。
ちなみに長く大ヒットした流行歌としては、カチューシャの唄よりもゴンドラの唄であろう。ツルゲーネフの『その前夜』の舞台は水の都ベネチアであったが、実はベネチアなどよりももっと壮大な水の都が過去の日本にはあったのである。それは江戸である。ベネチアと同じように、かつての江戸や明治時代の東京には、水運が巡らされており、船があちこち行き交っていたのだ。それはベネチアのゴンドラのようでもあった。その辺の情景は滝廉太郎の「花」にも描写されている。
大正4年に劇中歌ゴンドラの歌を聴いた観客たちは、当然のことながら水の都であった過去の東京を知っていたに違いない。ツルゲーネフの『その前夜』の公演を見ながら、彼らは若かりし頃の船あそびや、秘めた恋心を思い出していたのかもしれない。黒澤明が、映画生きるで、主人公にゴンドラの唄を歌わせた理由も、その辺あたりにあるのかもしれない。なにしろ生きるの主人公は、ドブになった悪臭漂う河川を埋め立てて公園を作る話なのである。
話が長くなったので、今日はここまで。
つづく。
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