先日、山岳会の団体様がスノーシューをしにブルーベリーに泊まった。ガイドに土井君と古くからの友人である上原一浩先生に来てもらった。先生といっても、過去の先生では無い。鍼灸の先生であり、指圧整体の先生でもある。昔は高校の教師をしていたこともあったのだが、重度の障害者であるために退職され、鍼灸・指圧・整体の学校に通って、今はブルーベリーの近所で自営業をしている。この二人と私と私の嫁さんとで、ちょっとした宗教談義になった。はじまりは土井くんのご両親の話からである。土井くんのご両親は、お墓を作らずに何年か経ったら合同の墓に入ることにしたらしい。
ひょっとして浄土真宗じゃない?
と聞いたらビンゴだった。
こういうシステムは、浄土真宗に多い事は聞いている。谷川岳ラズベリーユースホステルのマネージャーである曽原君のところも浄土真宗だった。なので彼のご尊父もそういう形だったと記憶している。そういう形で浄土真宗の方たちの中には、お墓を持たない人も多い。
次に私は、群馬県の横川に住んでいる上原一浩氏に宗派を聞いてみた。曹洞宗と彼は答えた。
ああ・・・・なるほど。
実は群馬県に曹洞宗は多い。うちの嫁さんの宗派も曹洞宗である。嬬恋村も曹洞宗の寺しかない。他の宗派は無い。皆無なのだ。もし、私が嬬恋村に墓を建てるとしたら、曹洞宗の檀家になるしかないのだ。嬬恋村の人にとっては、何の不思議もないことなのかもしれないが、これがどのくらい異常であるかと言うと、私の生まれた佐渡島は、嬬恋村の二倍程度の面積しかないにもかかわらず、数百のお寺がある。宗派はすべて揃っている。しかし、面積的には佐渡島の半分ほどもある嬬恋村には、お寺は一つしかない。それも曹洞宗だけである。あまりにも違いすぎることに私は驚いているのだが、嬬恋村から出たことのない人にとっては、この異常さが理解できないのかもしれない。
ところで曹洞宗という宗派は、非常に不思議な宗派である。まず住職が面白い。話が非常にうまい。説得力もある。曹洞宗の教義そのものからして、これが宗教なのだろうかと思うこともある。例えば臨済宗は、仏になるために一心不乱に座禅を行うのであるが、曹洞宗になるとそれがひっくり返ってしまう。座禅そのものが仏の姿であると。座禅でなくてもいい、農業にしても学問にしても一心不乱に何かを行うことそのものが、仏そのものであると言い切る宗派でもある。誤解を恐れずに言えば道を究めることが、禅であり仏であると言っているのだ。当然のことながら、日本最大の宗派は曹洞宗だったりする。そして日本最大のボランティア団体も曹洞宗の系統だったりする。
まぁそんな事はどうでもいい。
今日はうちの嫁さんの話である。
うちの嫁さんが、良寛て何をやった人なの?と聞いてきた。
返答に困ってしまった。私は新潟県民だが、新潟県民で良寛を知らないものはない。岩手県民が宮沢賢治を知っている以上に、新潟県民は良寛を知っている。例えば、花巻に行ったとしても、そこには宮沢賢治牛乳なるものはない。しかし、長岡や柏崎あたりではみんな良寛牛乳を飲んでいる。いろんなところに良寛の名前がついている。
しかしである、それだけ親しみのある名前であったとしても、良寛が何をやった人なのか、ほかの県の人に伝えられる新潟県民が入るとはとても思えない。インターネットで検索してみるといい。具体的に何をやった人なのか、わかりやすく書かれているサイトなどないと思う。
そうなのだ。良寛も曹洞宗のお坊さんなのである。そもそも曹洞宗の教義からして、それ(結果を残すこと)が目的では無い。結果が目的ではなくて結果に向かって行動している行為が、すがたが、仏であるというのが曹洞宗なのだ。つまり何かをやったことが素晴らしいのではなく、そのための行為が仏そのものであるというのが曹洞宗の考え方なのだ。だから嫁さんには、今ひとつ良寛がどういう人だったのかわからなかったのだろう。実は私もよくわかってない。あるのは子供の頃から聞かされていた子供好きな良寛の人徳のイメージだけである。
ところで、なんでそんなことを聞いてくるのか嫁さんに聞いてみた。嫁さんは子供の頃に新潟の出雲崎に行ったことがあった。出雲崎は良寛の出身地だった。そこの林間学校で出雲崎小学校の歌を歌わされたらしいのだが、校歌の中に良寛の文字があったらしい。そして、なんとなく偉い人なんだろうなぁとは思ったらしいのだが、 四十歳を過ぎても、どこか偉いのかインターネットで調べても分からなかったらしい。無理もない話である。私も先ほどWikipediaで調べてみたが、さっぱり要領を得ないことばかり書いてある。これなら私が昔読んだ、子供のための絵本の方が、よほど要領得ている。
それはともかく、出雲崎と聞いて佐渡島出身の私には、どうしても思い出すことがある。佐渡島を歌った二つの唄である。 一つは松尾芭蕉。
荒海や 佐渡に横たふ 天の川
もう一つは、北原白秋の砂山である。
海は荒海
向こうは佐渡よ
すずめなけなけ
もう日は暮れた
松尾芭蕉はともかくとして北原白秋の砂山は、かなり有名な童謡である。作曲は、カチューシャの唄やゴンドラの唄などの元祖流行歌を作ったあの中山晋平である。だから中山晋平という名前は、新潟県では知らぬ人はいない。新潟県民にとっては、ゴンドラの唄の作曲者というより、砂山の作曲者なのだ。
この中山晋平は、他にもたくさんの童謡を作曲している。
『シャボン玉』
『てるてる坊主』
『あめふり』
『証城寺の狸囃子』
『肩たたき』
『雨降りお月』
『兎のダンス』
すべて今でも歌われている名曲ばかりである。特にシャボン玉は素晴らしいメロディーである。童謡という枠を超えて日本で生まれた代表的なメロディーの一つと言っても良い。しかし、最も中山晋平らしい作曲はそこでは無い。証城寺の狸囃子の方だろう。どこが中山晋平らしいかというと、作詞を改ざんして作曲して作ったのが証城寺の狸囃子だからである。最初に、野口雨情が作詞したときは、
証城寺の庭は
月夜だ月夜だ
友だち来い
おいらの友達ァ
どんどこどん
という歌詞であった。これを
しょ、しょ、証城寺
証城寺の庭は
つ、つ、月夜だ
みんな出て来い来い来い
おいらの友達ァ
ぽんぽこ ぽんの ぽん
に変更した。このほうがメロディーが生きるからである。中山晋平は、そういうことをよくやった。日本の流行歌第一号であるカチューシャの唄からして、歌詞を変更して作曲している。もちろん作詞家の許可は取っている。彼は作詞を変えることによって素晴らしい作曲をすることを得意としていた。要するに彼は文人としての能力もあり、ある意味で天才的な作詞家でもあったのだ。
ところが、彼は上野音楽学校では何度も落第しかかっていた。理由は、ピアノ科のくせにピアノはへたくそだったからである。しかし、田舎者の彼は、素朴すぎる故に素行が良いとされ彼を応援する教授たちも多く、なんとか無事に卒業している。
この逆が、横山祐吉である。彼は中学校四年で、難関の上野音楽学校を一発で合格している。中山晋平は、本人はひた隠しに隠しているが、 一年浪人している。つまり、入学時の音楽の才能としては、横山祐吉の方がはるか上だったとも言えるが、横山祐吉のほうは素行が悪いとされ、音楽学校を中退せざるを得なかった。
これは当時としては決して珍しいことでは無い。そういう人はやたらと多かったのだ。横山祐吉の一年先輩である歌姫・佐藤千夜子もそのパターンで退学しているが、男と一緒に天丼を食べたとか、そんなレベルで退学になっているわけだから、素行が悪いといっても今の基準で言えば、何一つ悪いことをしているわけでは無い。
ただ貧乏な芋学生でバンカラで素朴であった中山晋平は、そういうことのできない人間であった。これが彼にとって幸いした。ただし、彼は、ピアノ科のくせにピアノが下手だった。成績は一番下を這いずり回っていた。
この二人の共通点が一年以上にわたって東儀鉄笛の弟子であったということなのだが、中山晋平は音楽の師匠として東儀鉄笛の内弟子であった。中山晋平が、東京上野音楽学校に入学する前は、東儀鉄笛の家で書生をしていた。東儀鉄笛とは、千三百年続く雅楽の家柄に生まれ、宮内庁雅楽寮に勤める傍ら西洋音楽などを学び、東京上野音楽学校の講師にもなった人である。中山晋平は、この東儀鉄笛にバイオリンを学ぶのだが、 一年半もかかって全くものにならなかった。あまりにも酷い音程に、東儀夫人はノイローゼになったくらいである。
横山祐吉は、当時でいる言うところの素行の悪さを問題とされ上野音楽学校を中退し、若月紫蘭の私立演劇研究所に入るわけなのだが、そこの所長が東儀鉄笛である。つまり、東儀鉄笛と言う人間は、その当時において最も有名な俳優の一人であったのだ。しかも、新劇界における天才俳優として日本を一世風靡した人物でもあった。そして、その付き人だった人こそ、のちにアジャパー天国で名をなす喜劇俳優、伴淳三郎である。できは、東儀鉄笛と言う人間は何者なのか?
つづく。
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