坪内逍遥は、早稲田大学講師であった島村抱月の発案をとりいれ明治三十九年に文芸協会を結成した。それは文学、美術、演劇などの革新を目指して日本の文化芸術の拠点構想だった。大隈重信を会長に、坪内逍遥、高田早苗、鳩山和夫、三宅雪嶺、坪井正五郎などの人物たちが発起人に名を並べている。そして、以下の公演を行った。
明治三十九年十一月、歌舞伎座で、桐一葉(逍遥)、ベニスの商人、常闇(逍遥)を発表。
明治四十年十一月、本郷座で大極殿(杉谷代水)、ハムレット、浦島(逍遥)を発表。
それまでも、ベニスの商人やハムレットなどは、歌舞伎界の二代目左団次や川上音二郎が演じていたが、かなり試行錯誤をしていた。というのも、この時代にはテレビもインターネットもなかった。もちろん日本人は西欧の文化風習を知らない。例えばドアをノックすると言う風習を知らない。したがって役者がドアをノックした場合、それが何を意味するか観客は分からないのである。
困り果てた左団次は、劇中に注釈を入れてノックの意味を語ったりもした。そうしないと、西洋の演劇が当時の日本人に意味が伝わらなかったのだ。一時が万事、こういう調子なのである。ここが分からないと、なぜ当時の文士たちが演劇にとりくんだかがわからない。現在の劇団の人たちの苦労と、根本が全く違うのである。
そもそもベニスの商人やハムレットの台詞そのものが、翻訳調である。つまり日本人の会話になりきってないのだ。そのために、当時の日本には難解であるために意味が通じないということがよくあった。意味がわからなければ、役者なって台詞は覚えられない。感情を込めようがないのだ。
当時は西洋風の劇場からして、日本にはなかった。当時の日本の劇場には、椅子がなかったのだ。もちろんいすのある有楽座が後日誕生するが、当時の日本人にとっては椅子が心地悪くて非常に不評だった。座敷でないと芝居を見る気がしなかった。
そういう日本文化の中にいて、西洋演劇を見るということは、非常に奇異なことだったのである。そのために、左団次や川上音二郎のハムレットやベニスの商人は、日本風に翻案したものが多かった。当然のことながら、英文学研究者である坪内逍遥や外国人のベルツなどにとっては醜悪なものでしかなかった。
シェークスピアを読んだことのある人ならわかると思うが、言葉の洪水でできている。映画のロミオとジュリエットを見たことがある人は多いと思うが、あのセリフを思い出してほしい。むちゃくちゃな言葉の洪水である。愛を語るに、なぜあれほどの言葉の洪水がいるのだろうかと、日本人なら思うだろう。それを日本語に翻訳するわけだから、翻訳調の台詞はますます長くなる。それも直訳に近いものだから余計に分かりにくい。それが動作と合わないのだ。
そもそも当時の日本には芝居即台詞劇と言う観念が確立されていなかった。日本の伝統的な演劇は、台詞がメインでは無い。歌舞伎の荒事や仕草とか、様式美がメインであるので、台詞は決して多くない。
もちろん台詞の量的な問題ばかりが原因では無い、当時の翻訳は、話し言葉のリズムやテンポの配慮を欠いていたのである。当時名翻訳と言われていた坪内逍遥のベニスの商人にしても歌舞伎の調子が強かった。現代的な口語訳ではなく能狂言の調子が取り入れられていた。だから耳で聞く舞台の言葉としては非常に分かりにくかったのである。それは森鴎外にしても変わらなかった。役者がこのような変な日本語を鵜呑みにさせられたのだから台詞が頭に入らなかったのは当然であった。
そのような状況下で文芸協会は素人を寄せ集めてベニスの商人を発表したのだ。結果は、最悪の状況になってもおかしくはなかった。しかし、意外なことにベニスの商人は、 一人の天才的な役者によって注目される。その天才的な役者こそが、東儀鉄笛であった。彼はシャイロックを演じ、そのヒール性(悪役)を遺憾なく発揮したのである。その後も、東儀鉄笛は色々な役を演じ、その都度人々に天才と絶賛された。
ここで東儀鉄笛の正体を明かそう。
東儀鉄笛は、明治二年六月十六日東儀鉄笛は生まれている。出身は、京都市上京区である。もっとも誕生の翌年に父(東儀季芳)が上京したために一年も住んでいない。東儀家は千年余も続く雅楽師で、父親は篳篥(ひちりき)の名手として知られている。その教育はスパルタ式そのもので、苛烈を極めたらしい。そのために東儀鉄笛は息子には、雅楽を教えたりつがせたりしなかった。
ところで明治八年一月二十九日、東儀鉄笛の父親(東儀季芳)は政府から西洋式の音楽を学ぶことを命じられている。外国の使節をもてなすべく洋楽を演奏する必要に迫られていたのだ。
明治十二年五月鉄笛の父親(東儀季芳)は、ドイツ出身の松野クララ夫人からピアノも習い始めた。ピアノは、明治二年に初めて輸入されているが、実際に日本人が弾きこなせるようになったのは、東儀鉄笛の父親たちが最初であったと思われる。ちなみに明治十三年に東儀鉄笛の父親(東儀季芳)が、「海ゆかば」を作曲している。日本最初の軍歌は、彼が作曲していた。なんと雅楽師が作曲していた。その曲は軍艦行進曲の中間部に今も聞くことができる。
ところで東儀鉄笛が、宮中に出仕し始めたのは明治十二年であった。当時の雅楽師にとっては、西洋楽器も履修科目になっている。東儀鉄笛は明治十九年ごろに海軍軍楽隊のお雇い外人教師だったドイツ人のフランツ・エッケルトが教えに来るようになっている。彼は「君が代」に伴奏、和声を付けたことで有名だが、東儀鉄笛は、彼から西洋音楽とドイツ語を学んでいる。そして、毎日のように鹿鳴館で生演奏させられていた。鹿鳴館の音楽は、雅楽師たちが担当していた。
(ちなみに明治三十六年にドイツで行われた世界国歌コンクールで「君が代」は一等を受賞して世界最高峰の音楽家たちに賞賛されている。また少なからずの音楽大学の設立に雅楽師たちが関わっているのも見逃せない事実でもある)
つまり当時の雅楽師たちは、西洋文明の最新教育を受けている知的エリートたちであった。そして薄給な貧乏エリートたちであった。初期は石高十三石。ウルトラ貧乏な足軽よりも更に貧しかった。これでは楽器を維持するのも大変であったことだろう。しかし、彼は明治三十年十一月十日に宮内省を退職している。若い世代の先頭に立ち待遇改善を訴えたが、それがもとで首になったといわれている。
しかし世間は東儀鉄笛の才能を放置しておかなかった。その後すぐに帝国教育界の事務長に迎えられている。そしてドイツ学協会学校の分校監事、早稲田大学講師並びに職員、と、あちこちから引っ張りだこになっているところをみても、彼の才能を世間がどのように見ていたかがわかる。
(ちなみにドイツ学協会学校。つまり獨協大学の原点にあたる学校では、明治三十二年から明治三十九年まで教壇に立ち、東儀鉄笛の指導のもと明治三十三年の大正天皇のご成婚のお祝いの会に、生徒たちがドイツの軍歌を歌っている)
実際、彼は宮内省を退職した三ヶ月後に、明治三十一年二月に和応会という会を結成し、海軍軍楽隊、陸軍軍楽隊、雅楽師、東京音楽学校の有力者とともに会合を重ねている。これが縁で東京音楽学校の講師をしたり、音楽塾の講師をしていたりもしている。また、早稲田文学の社員にもなっていた。そして坪内逍遥の文芸協会に出入りするようになるのである。(彼は宮内省を退職して間もなく結婚しているが、雅楽師をやめてからの方が生活は安定していたのかもしれない)
このような世間に顔の広い知的エリートが、役者として登場し、その才能を遺憾なく発揮したのは、当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。当時の歌舞伎役者たちとは、まるで違う存在なのであった。当然のことながら役者としての幅は広い。なにしろ西洋を肌で知っているし、国家の威信をかけて外国人使節を前に演奏する度胸もあった。それを十八年間宮内省で経験しているのだ。当然と言えば当然である。
そして、この東儀鉄笛が、素人劇団に毛が生えたようなレベルよりも、もっと冴えない演技しかできなかった当時の文士劇団であった文芸協会の危機を救ったのであった。下手くその中の役者たちのなかで、彼のシャイロックは、完璧に見えた。
そんな彼に書生として一年半学んだのが、あの中山晋平であった。中山晋平は東儀鉄笛からバイオリンを習っていたが、これは全くものにならなかった。数多くある中山晋平の伝記によれば、東儀鉄笛はほとんど教えてないことになっているが、新劇を研究している資料を読むと全く違っている。東儀家の家族がノイローゼになるほど中山晋平はへたくそなバイオリンを弾き続けていたとあるからだ。おそらく中山晋平にとって、東儀鉄笛の書生をしていた頃の思い出は、中山晋平にとって隠しておきたかった黒歴史だったのかもしれない。彼には、そういう隠し事が多くあるので、彼の伝記の多くは要注意を要する。
では、日本ユースホステル協会を立ち上げた横山祐吉と、その妻である横山貞夫人にとって、東儀鉄笛とはどのような存在であったのだろうか? 東儀鉄笛が所長をしていた、私立演劇研究所は、横山祐吉にとってとても心地よい空間であったことが分かっている。彼の履歴書に演劇研究所に居たことがきちんと書いてある。実は彼は、心地悪かった過去の履歴は決して履歴書に書かない。そういう男なのである。では、私立演劇研究所とは、いったいどのようなところだったのだろうか?
つづく。
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