先日、百円ショップでカルタをみつけて買った。お風呂で教えるタイプである。もちろん息子にはまだはやい。文字を読むどころか、言葉もろくに話せないからだ。しかし衝動買いしてしまった。今は事えなくても将来つかえばいいやと・・・・。ところが息子にカルタを与えてみたら、なんと息子は使い方を知っていた。
目を疑った。
しかし、すぐに正気にもどった。
私が使い方を教えてないのに、使い方を知っているということは、過去にどこかでカルタを見ていて知っているはずなのだ。我が家には、それまでカルタはないから、考えられることはテレビ番組である。で、息子が見ていた番組をチェックしたら、あった! 「日本語であそぼ」という幼児番組のコーナーに、絵合わせカルタというものがあって、息子は、それを毎日みていたのである。どうりでカルタの存在を知っていたし、使い方も分かっていたわけである。
で、はたと気がついた。
自分が持っている知識は、
必ず以前にどこかで仕入れているはずである
という単純な事実に気がついた。
すると、「なぜ私は、・・・・を知っていたんだろう?」という疑問がわいてきた。何もなくて知っているということはあり得ないのだ。どこかで知識を仕入れているのだ。しかし、どこで仕入れたか分からないことが、ままあるのだ。すると私は、なぜ、これを知っているのだろうか?と考え込んでしまう。いったい、どこで知識を入れたのだろうか?と。
具体的にいうと、赤ちゃんは親の真似をすることを知っていた。初めての子育てなので、私も嫁さんも、そんなことは知らないはずなのに私だけ体で知っていた。それだけでなく、いろんな事を体で知っていた。赤ちゃんがぐずる原因の大半を体で知っていて、自然と対処できていた。しかし、そういうことは絶対にあり得ないのだ。どこかで学習してないと、知っているわけがないのだ。絶対にどこかで体で学習しているのである。本で勉強したくらいでは分かるわけがない。
息子が生まれる前に、さかんに子育て本を読んで学習していたのは、私ではなくて嫁さんの方だった。私は、それら嫁さんが集めた本を一瞥して、一々切って捨てていた。自信をもって育児本を切り捨てていた。これも不思議である。なぜ私は、切って捨てるほどの自信があったのか? どういう根拠で専門家の書いた本を小馬鹿にして鵜呑みにしなかったのか?
そう考えると、私は、絶対にどこかで体で学習しているはずだと確信せざるをえなかった。現に思い当たることがあった。歳のはなれた弟が二人いたことを思い出したからだ。
つまり私は、赤ちゃんは親の真似をすることを体で知っていたのではなく、赤ちゃんが兄の真似をすることを体で知っていたのだ。もちろん親の真似もするし、祖母やベビーシッターの真似もする。それを体で覚えていたのだ。
もちろん他にも色んな事を体で覚えていた。
だから末っ子だった嫁さんよりも色々なことに対処できたのだろうと思う。
前にも言ったが、私には二人の弟がいる。 一人は三歳下の弟である。 三歳下だから弟が四歳の時、私は七歳である。 七歳といえば、小学校に通い、友達もできて、あちこちに遊びに行く時期である。より活動的な頃である。 四歳の弟は、何度もくるなと言ったにもかかわらず、いつも私の跡をつけてきた。そしてなんでも真似をした。どんなに帰れといっても探偵のように跡をつけてきた。
薮に入れば薮に入り、
木に登れば木に登ったし、
屋根に登れば屋根に上った。
気がついて後振り向けばそこに弟がいたのだ。
私はライターで遊んでいたら、弟も真似をしていた。しかも小学校の縁の下で真似をして、危うく学校が火事になるほどだった。だから、どんなに真似をするなと怒鳴り、時には殴っても真似をした。だから弟から逃げた。逃げて遊びに行ったが弟は、探偵のように跡をつけてきた。そして真似をして、大事件をおこして怒られると本人は悪びれずに
「兄の真似をした」
と言って私だけが怒られた。
私の両親は、共稼ぎだった。
ので弟は親を真似るよりも兄を真似たのだろう。
中学校三年生の時、私は受験勉強した。弟はその真似をした。それまで勉強などしていなかった弟が、いきなり勉強しだしたのだ。その真似の仕方は、恐ろしいほどだった。それを体験として私は知っていたのだ。ところが長い年月が経つ間に、すっかり忘れてしまっていた。思い出したくもないことだったので息子が生まれて暫く経つまで、記憶の中に封印してしまっていたのだ。
ちなみに私には、もう一人弟が居る。十歳年下の弟である。十歳下であるから赤ちゃんを観察する機会に恵まれた。オムツを替えたりミルクをあげる機会もあったのだ。一緒に布団で寝ることもあった。当然のことながら、赤ちゃんに対する対処の方法を知っていたのだ。当然のことながら、赤ちゃんが親や兄の真似をすることを知っていた。しかし、これも長い年月が経つ間にすっかり忘れていた。思い出したくもないことだったので、自分の息子が生まれるまで、記憶の中に封印してしまっていたのだ。
その弟が五歳の時、私は十五歳だった。十五歳の時の私は、思春期だったせいもあって読書家だった。化学や物理や歴史や地理の本をたくさん読んでいた。漱石・トーマスマン・司馬遼太郎も乱読し、クイズ番組に出ていれば、トップをとれるほどの雑学を身につけていた。動物の名前なら何でも知っていたし、戦闘機の馬力荷重や翼面荷重の数値まで知っていた。政治経済にも興味を持ち、新聞はすべてを読むようになっていた。いわゆる生意気ざかりだったのだろう。何でも知ったかぶりをした。
すると不思議なことに三番目の弟にもその癖は遺伝した。というのは間違いで、そういう癖が真似されてしまったのだ。ただし、 二番目の弟には真似されてない。 二番目の弟はもうすでに、兄の真似をする時期を過ぎていたのだ。こういう体験があるかないかでは、子供に対する対応力がまるで違ってくるはずである。そもそもキャリアが違いすぎるのだ。
ちなみにそれらの記憶を思い出した時、一つ気がついたことがある。
童謡作家や、児童文学者には、長男率が高いことに気がついた。
と言うより、末っ子の童謡作家や児童文学者が、驚くほど少ないことに気がついた。
ほとんどの作家に弟妹がいるのである。
背くらべという童謡を思い出してほしい。あれは弟が兄に背丈を測ってもらったという童謡なのだが、作詞者の海野厚に兄はいない。あれは作者の弟の視点から書かれた童謡なのだ。これが作曲者になると違ってくる。背くらべの作曲者である中山晋平には兄が居る。とはいうものの弟もいる。
つまり童謡作家の長男率はともかくとして、末っ子率は極めて少ないのだ。北軽井沢限定で言ってみれば、童話作家の岸田衿子さん佐野洋子さんも、長女であったり、兄に死別された実質的な長女なのである。下村湖人にしても宮沢賢治にしてもサトウハチロウにしても同じである。この辺は、国文学を専攻している学生さんたちに調べてもらいたいところだ。私が文学部の学生なら卒論のテーマにするだろう。きっと面白い発見がなされるに違いない。
ここで話をかえる。
うちの嫁さんが、一生懸命読んでいる育児本を私もチラリと読んでみたとき、驚いたことを思い出した。どの育児本にも致命的な欠陥があるのである。時代背景を無視しているのである。
私が中学生の時、大昔の教育関係の雑誌を大量に読んだ。昭和五十年。今から四十年も前の話である。そんな大昔に、もっと大昔に発行された教育関係の本を読んだのだから、ものすごい大昔の教育に関する考え方を書いた文章を読んだことになる。昭和三十年代や昭和四十年代の当時の考え方や、もっと大昔の考え方を読んだのだ。
で、当時の私が不思議に思ったことがある。
育児に関する考え方は、時代によって変化するということである。
それも十年くらいで劇的に変化するのだ。
変化する理由は、その時々の時代背景による。
例えば戦前において、育児に対する考えは今のものとは全く違っている。戦前では、子供に余計な教育をしてはいけないと言う考え方があった。どうしてかというと、当時は子供が多かったのだ。 五人くらいは当たり前で、ひどいのになると十人ぐらいの子供のいる家もあった。そして、そのような時代背景では、子供に対する不平等が子供の心に深刻な影響を与えることが問題になっていた。
具体的に言うと長男になるほど可愛がられ、末っ子になるほど子供が放置される家庭が多かったのだ。子供が多いと、親は平等なつもりでも、どうしても不平等な躾をしてしまうのである。それを題材に多くの児童文学が生まれたが、次郎物語やニンジンなどがその代表作である。このような作品は世界中で映画化されたり小説にされたりして、どの国でも大ヒットした。
なので当時の教育雑誌等には、子供の教育は親の背中でしろという考え方があった。親の働く背中を見せることによって、子供たちは自然と大人になっていく。それで良いとされていた。当時は、サラリーマンなどは非常に少なく、ほとんどが農家や自営業だったので、そのような教育スタイルで、親孝行で立派な子供たちがたくさん育ったのである。
この方法は、現代には通じにくいが、嬬恋村のような、農家やペンションオーナーが多いようなところでは、非常に参考になるであろう。実際、嬬恋村の知り合いの教師の話でも、農家の子供さんや、ペンションの子供さんたちは、平均して良い子たちが多いと証言している。これは、子供たちが親の背中を見て育っているからだと思われる。まさに戦前型の育児の結果である。
ここで話をもどす。
話を戻して、何の話をするかというと、童謡についてだ。
実は有名な童謡の大半が、子供が最も多かった戦前に作られている。
たくさんの兄弟の面倒をみてきた時代に作られているのだ。
そして、そのような童謡が時代を超えて今でも歌われていることを想うと、一人っ子の多い二十一世紀に、果たして名作が生まれるのだろうかと思わざるを得ないのだ。逆にいうと一人っ子時代にはいると、育児本が売れる時代になるということも確信した。子供は少なくても育児本は売れ続けていくだろう。どんなインチキ本でも、それなりに売れると思う。ちなみに私がインチキくさい育児へ本を書く人だと思ってしまった人の過去を調べてみたら一人っ子だったり末っ子だったりした。これは偶然だろうか?
それはともかく、今後、童謡や児童文学の新作の名作率は、どんどん減っていくに違いない。と、二十二世紀の諸君に予言しておこう。
つづく。
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