それはともかく今日は、用事があったので、軽井沢から妙義山方面に向かって車を走らした。妙義山の麓は桜が満開だった。思わずキュンとなってしまった。人はなぜ満開の桜を見ると心がキュンとなってしまうのだろう? 桜の木の塊を見ると、たいてい小学校か中学校がある。学校があるところには、桜の木が多いのだ。江戸時代から明治時代初期にかけての昔は、出版物は桜の版木で行っている。そのために学校のそばには多くの桜の木を植林したという。印刷によく使われるる桜の木を売って学校の機材を調達したと言う話を、地元の郷土史家に聞いたことがある。資金調達のために植えられた桜なのかもしれないが、その桜のために、入学式で多くの桜の花を見かけるようになってしまった。昔は今よりも寒かったために、桜が咲くのは今よりずっと遅かった。入学式シーズンに桜が咲いていたとのことである。そう言われてみれば、私が子供の頃、桜の咲くのはもっと遅かったような気がする。
ちなみにうちの嫁さんは、群馬県は館林の生まれなのだが、その館林の教育史を調べたことがある。すると面白いことがわかった。明治時代の群馬県は、全国的に見ても裕福な農家が多かったらしい。そのために多くの東北の子供たちが、口べらしのために出稼ぎにやってきた。年齢は10歳から12歳位の子供たちだったらしい。多くは子守として雇われていた。子守をする代わりに、食事を与えられるのである。給料は、食事だけだったらしい。まるで朝ドラの「おしん」みたいな話だが、実はそれほど酷い状況でもなかったらしい。子守は、農業よりも仕事的には楽だったのだ。東北に残された子供たちの方が、不運だったらしい。というのは、 20歳を越える前に腰が曲がって、冬には温泉治療をしなければ、腰が治らないくらいだったらしい。
ところで、群馬県に出稼ぎにやってきた東北の子供たちを、群馬県の人たちは「奥州っ子」と言ったらしい。 10歳位の彼らは、学校の外で子守をしていたらしい。学校の中に入らずに学校の外で子守をしていたのだ。すると、小学校の先生たちは、わざわざ窓側のほうの黒板を使って授業していたらしい。つまり外で子守をしている「奥州っ子」たちに、見えるように授業したとのことである。すると「奥州っ子」たちは、棒を使って地面に一生懸命文字を書いて練習したりしたらしい。時期的に言うと明治時代末期の頃の状況である。というのも、そのような記録が偶然にも残っていたのだ。それらの記録を読むと、朝ドラの「おしん」に対する印象がまったく違ってくるから面白い。朝ドラの「おしん」というのは、まさに群馬県における「奥州っ子」たちにそっくりであるが、その「奥州っ子」たちにも、なんだかんだと周りの大人達は暖かい心遣いをしているのが面白い。
ちなみに群馬県の農家が、東北の農家よりも裕福だった理由の1つに養蚕が盛んだったことも挙げられるだろう。明治時代は日本の絹糸が世界を席巻した時代であった。その原因ははっきりしている。絹糸の大生産地であった中国が太平天国の乱などの長い戦乱のために、壊滅的な状態になっていたのである。そのために日本の絹糸は世界中に売れまくったのだ。ある意味日本は運がよかったとも言えるかもしれない。
もう一つ運が良いといえば、天明3年の浅間山の大噴火も、結果として群馬県に幸運をもたらしたらしい。あの大噴火によって、群馬県の農家は大災害を受け、桑畑くらいでしか生き延びることが難しくなったということを地元の郷土史家に聞いている。それが結果として明治維新後、群馬県の農家を豊かにしたとの事だった。まさに災い転じて福となすを言葉通りに実行したことになる。世の中、何が幸いするかわからないものだ。
つづく。
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