2015年04月14日

宵越しの金は持たないと啖呵を切った理由

 その昔、漫才師の島田洋七が「がばいばあちゃん(すごいおばあちゃん)」と言う本を書いた。映画にもなったしテレビにもなった。その発祥の地である佐賀県に尋ねに行ったこともある。この「かばいばあちゃん」には信じられないことが書いてある。父親のいない小学校低学年の主人公が、母と別れて祖母のところに預けられるわけだが、10歳位の男の子が、いきなりかまどでご飯を炊かさせるのである。電子炊飯器では無い。薪を使って、かまどで炊くのだ。映画や本で、その件を知った時に、まさか?と思った。実は、私はかまどを使って米を炊いたことがあるのだが、その経験上10歳位の男の子には無理だと思った。

 話を変える。最近、日本ユースホステル協会を作った横山祐吉氏を調べているのだが、その関連で大正時代の群馬県館林の一般的家庭(農家)の状態を調べたことがある。どうしてそんなものを調べたかと言うと、大正時代の都会と田舎の格差を知りたかったからである。大正デモクラシーの時代は、東京でいろいろな大衆文化が花開いた。そのために、何となく全国一律に豊かになったようなイメージがあるので、実際のところどうだったんだろうか?と思ったからだ。

 で、嫁さんの実家がある群馬県館林市辺りに的を絞って、大正時代の一般的な農家の生活レベルを調べてみたら、かなり良質な資料が何冊もあったので、それを読んでみて驚いた。当時としては裕福な家庭であっても、子供が5歳ぐらいになると家の仕事をしていた。

 その仕事というのが、驚かされるのだが、庭掃除や、鶏やヤギの餌やりはともかくとして、朝5時に起きてかまどでご飯を炊いている。 5歳の子どもといえば、まだ幼児であるのに、重い水を運んで米を研ぎ、かまどでご飯を炊いているのである。島田洋七が「がばいばあちゃん」どころではない。五歳の子供が、かまどでご飯を炊くなんて想像ができない。しかし、 100年以上前は、当たり前の光景だったのだ。

 それは、貧乏人の家の話では無い。どちらかというと、少しばかり裕福だった家の子供の話だ。では東京ではどうだったかというと、やはりかまどでご飯を炊いていた。しかし、貧しい家庭ではともかくとしても、裕福な家では5歳の子供が炊くという事はなかった。家によっては、お手伝いさんを雇っていた。

 ここで不思議なのは、館林の農家でもお手伝いさんはいたのだが、大半は子守りとして雇っていたみたいなのだ。東京のお手伝いさんは、家事全般なんでもやっていたのにである。お手伝いさんに年齢やスキルの違いがあったのかもしれない。農家のお手伝いさんは、何の教育も受けずに家から奉公に出された10歳位の子供たちである。子守以外に何もできなかったのかもしれない。だから5歳の子供にご飯を作らせたのかもしれない。

 普通で考えたら、 5歳の子供にまで働かせる館林の農家の方が貧乏な家というイメージがある。ところが、視点を変えるとこれがまったく違ってくるのだ。その視点とは、複式簿記の視点である。複式簿記とは、財産を全体的に把握する簿記の方法である。

 例えば、 100万円の貯金を持ってる人と、 100万円の借金を持っている人がいたとする。単式簿記の考え方をすれば、 100万円の借金をしてる人の方が貧乏ということになるが、複式簿記の考え方で比較したら、そのような単純な構造にはならない。 100万円借金して500万円の家を買っているかもしれないからだ。そうなると必ずしも100万円の貯金を持ってる人が金持ちとは限らないのだ。そういう考え方で、大正時代の館林の農家を見てみると、必ずしも貧乏とは限らない。 5歳の子供にご飯を作らせても、実際には東京のサラリーマンよりも資産家である可能性が出てくる。

 ではなぜ、館林の農家は5歳の子供を働かせたかというと、それは貧乏のためではなく、農地という財産を維持するためである。当時、農地や家畜を維持するためには、かなりの経費がかかっていたようだ。今のように機械化されているわけではないので、人間の労働力と言う経費で維持するしかなかったのである。あと、自営業者の悲しい性として、働けば働くほどお金が入るために、人一倍勤勉に働くという側面もある。

 それはともかく、農家の経費の中に面白い項目がある。近所付き合いという項目である。近所付き合いをうまくやらないと、ときには生死に関わる状態になったらしい。例えば、お嫁さんが出産したとして、万が一、母乳が出なかった場合は、新生児は死ぬしかない。当時はミルクという便利なものがなかった。

 だからこそ助け合いが必要になってくる。万が一の時は他の家に母乳を分けてもらうためである。新生児がいるよその家の嫁さんに、ニワトリの卵とか、米とか、精のつくものをたくさん届けて、母乳を分けてもらうのだ。もちろん、自分の子供が優先になるので、自分の子供が満腹になるまで待って、その余りをもらうことになる。あまりといっても、大して出るわけではないから、すぐに赤ちゃんは泣き出す。だから、小さな赤ちゃんを抱いて何軒もハシゴして母乳をもらいに行くのだ。もちろん、精のつくお土産を大量に背負ってである。雨の日も風の日も通うわけだから、その苦労は想像を絶するものがあるだろう。しかし、それによって1つの生命が救われるのだ。

 だからこそ大正時代の田舎では、近所付き合いを大切にしたのだ。そしてそのための経費も、考えられないくらい大きかったのである。こういうことがあるから農地という財産があっても、それを維持管理することは並大抵のことではなかった。それに比べれば、東京の下町に住む職人さん達は、維持管理するものが少ない分、少ない収入でも、かなり豊かに暮らせたようである。子供たちが重労働するということも少なかった。都会の子供たちは、雑誌を読んで投稿したり、芝居や活動写真を見に行くゆとりがあったようである。といっても、 6畳1間に家族5人が寝泊まりするという状態ではあったが。

 あと田舎の農家の経費に、宗教費の金額が大きいことも面白いところだ。宗教といっても、お寺や、キリスト教のような宗教のことでは無い。お餅をついて田畑にお供えをするとか、井戸の神様にお供えをするとか、竜神様のお祭りをするとか、いわゆるイベント費のようなものも含んでいる。この時代までの特色として、お伊勢参りなども経費に入っている。農家である限り、天災や干ばつの恐怖もあって、宗教費は欠かせないものだったようだ。これが東京になると、これらの経費はほとんど必要なかったのではないだろうか? 

 貧乏であっても、経費がかからない。物を持たないという生活をすれば、実は案外、生活が楽になるのかもしれない。江戸っ子たちは、火事のたびに街を復興してきた歴史がある。江戸っ子が、宵越しの金は持たないと啖呵を切ったのは、火事ですぐ焼け野原になる江戸という都市の中で、ものを持たない生活が身に付きすぎてしまったからかもしれない。


つづく。

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posted by マネージャー at 00:33| Comment(2) | TrackBack(0) | テーマ別雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする