2015年04月15日

軽井沢おもちゃ王国がオープンした

 今週から冬期休園中だった軽井沢おもちゃ王国がオープンした。実は私は今まで、このテーマパークをほとんど宣伝してなかった。興味もなかった。興味を持ったのは、息子が産まれてからである。息子が生まれる前と後では、こうも違ってくるから面白い。頭で考えていたことと、体験した後では、まるで違っている。やはり自分は頭でっかちであったと思わざるを得ない。

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 うちの嫁さんが妊娠した時、軽井沢おもちゃ王国については全く眼中になかった。もし息子が生まれたら、あんなテーマパークなんかには絶対に連れて行かないと思っていたからだ。現に、生後1年くらいは、寄り付きもしていない。私は息子を背負って、毎日のように浅間牧場を歩き、小浅間山に登っていた。アウトドア一筋だったのだ。

 愛犬コロと一緒に、一面の芝生に覆われている浅間牧場をよく散歩した。息子も愛犬コロも楽しそうにしていた。おかげで、すごく丈夫な健康体に育った。身体能力も人並み以上になった。自分の身長を超える出窓をロッククライミングをするように、するすると登ったし、 80センチもあるベビーフェンスもするすると越えていった。まるで体操選手のように活発に動くようになった。息子には、おもちゃ王国のようなテーマパークは必要ないと思っていた。もちろんおもちゃなんかも、あまり買い与えてない。あるのはもらいものばかりである。



 ところがである。息子が1歳を超える頃に、息子に足りないものがあるのに気がついてしまった。うちは宿屋である。軽井沢おもちゃ王国から車で5分のところにある宿屋である。当然のことながら、息子と全く同じ位の年頃の赤ちゃんがいっぱい泊まりに来た。皆さん、おもちゃ王国狙いである。もちろん、おもちゃもたくさん持ってきている。ベネッセのしまじろうの通信教育なんかも皆さん受けていた。もちろんうちの息子は、そういうものは一切やっていない。そのせいか、おもちゃに異常に執着するのだ。今まで見たこともないので、おもちゃを見つけてしまったら、自分の好奇心を抑えきれないのである。要するに免疫がないのだ。と同時に、他の子供に比べて器用に箸やスプーンを使えてなかった。おまけに御客様のお子さんと比較して社会性も足りなかった。

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 これはまずいと思った私は、トイザらスやおもちゃ王国に連れて行くことにした。効果はてきめんだった。軽井沢おもちゃ王国に何度も行くうちに、他の幼児との距離のとりかたを覚えていった。他人が遊んでいるオモチャをとりあげてはいけないことも学んだ。外に出るときは、靴を履くことも覚え、かたづけることも少しずつ覚えるようになった。おもちゃでの遊び方も少しずつ覚えていったようだ。指先手先も、少しずつ器用になってきた。やはり子供には、おもちゃが必要なのである。社会性が磨かれるし、遊びの幅も広がってくる。なにより動きが活発になってくる。

 もちろん浅間牧場や小浅間山でも、石ころや棒きれを拾って、それをおもちゃにして遊んではいるが、本物のおもちゃには敵わない。浅間牧場や小浅間山での息子は、かなりぼんやりしていた。のんびり遊んでいた。時間の流れが止まっているようだった。これがおもちゃ王国やトイザらスやトイプラネットなどに行くようになると、途端に息子の中の時間が早くなって来る。きびきびしてくるのだ。見た目には、脳が活性化されているように見える。浅間牧場だと、もっとのんびりしていた。

 もちろん、息子にとって、どっちが幸せなのか分からない。
 しかし、いつまでもアウトドアの世界ばかりしか見せなかったら、
 確実に現代社会で落ちこぼれると思ってしまった。

 現に、自治体の幼児のためのプログラムに参加すると、うちの息子はワンテンポもツーテンポも遅れをとっていたのである。しかし、公園や、おもちゃで遊ばせるようになったら、人並みに動けるようになってきた。もう遅れをとるような事はなくなった。ただし、身体能力は以前より劣ってきたかもしれない。もう自分の身長より高いフェンスを乗り越えて脱出するような事はなくなった。ハラハラするように階段を登ることもなくなった。これがいいのか悪いのか、現時点ではわからない。

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 ところで、 2歳児になると、自治体の方で母と子供のプログラムをやってくれる。保育所に入る前の準備プログラムのようなものだ。私も参加したいのだが、母と子供のプログラムなので、父親にはその資格は無い。で、うちの嫁さんが息子を連れて参加した結果、嫁さんのやつは非常に感心していた。そのプログラムは、15人の幼児に対して、10人の先生たち(保育士たち)が対応していたのだが、これがまたかなりプロフェッショナルな仕事をしてくれたらしい。

 体操したり、ゲームをしたり、鉄棒にぶらさがったり、歌を歌ったりしたらしいのだが、親が何週間かけてもできなかったことを、先生たちは数分で子供にやらせてしまったらしい。私は見てないからわからないのだが、鉄棒にぶら下がると言う芸当をどうやって仕込んだのか? その技を是非教えてほしいものだ。段ボール箱で作ったトンネルを、次から次えと息子にくぐらせたらしいのだが、いったいどうやったら、息子をその気にさせたのか知りたい。

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 やはりその道のプロというものは、本当にすごいものだと感心してしまう。こう言ってはなんだが、託児所ではこうはいかなかった。そもそも子供の扱いのレベルが違っているようなのだ。もちろん私が体験した訳ではなく、嫁さんの話を聞いただけなので、本当のところはどうなのか分からないが、自分の目で見てないだけに、非常に興味深い。なるべく早く息子を保育所に入れたくなってきた。

つづく。

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posted by マネージャー at 23:49| Comment(0) | TrackBack(0) | おもちゃ王国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

宵越しの金は持たないと啖呵を切った理由2

宵越しの金は持たないと啖呵を切った理由2

 前回は複式簿記の視点で、大正時代の館林の農家と、東京の一般人との豊かさを比較した話をしたが、同じ視点で江戸時代の武士と農民を比較するともっと面白くなる。武士は、話にならないくらい経費がかかっていた。それを分かり易く書いた本がある。「武士の家計簿」と言う本で、映画化もされている。

 例えば、金沢藩・猪山家(七十石)の当主直之の小遣いは、年間にして銀十九匁。しかし、家来の草履取りの給金は、銀八十三匁と月々五十文の小遣い。それに年三回の御祝儀をもらい、外出するたびに十五文の駄賃(チップ)をもらっていた。外出は、二日に一回くらいあったから、そうとうの金額をもらっていたことになる。しかも衣食住は保障されていた。つまり草履取りの収入は、当主の十倍くらいあった。

 じゃあ、七十石どりの武士の当主の小遣いが、どうして、それほどまでに少なかったかと言うと、これにも訳がある。給料の大半を「身分費用」に使っていたのである。自分の家来に小遣いをわたしたし、来訪があれば、相手方の家来にも祝儀をわたしていた。つまり、来客があれば、じゃんじゃん金が無くなっていく。さらに辻番にも金品をわたしていた。

 じゃ、来客が無ければよいじゃないかと思うのだが、そうはいかない。武士の身分になると、さまざまな行事があり、そのつど親戚一同が集まるしきたりになっている。節分や、端午の節句や、袴入れの儀式、元服や、七五三など。そういう行事が毎日のようにあり、おおぜいの親戚が集まり、逆に親戚のところに出かける必要がある。これを怠るとどういうことになるかと言うと、武士でいられなくなる。万が一、世継ぎが出来なかったばあい、家名が断絶するおそれがある。だから、親戚づきあいを非常に大切にした。で、その費用が、莫大な金額になっている。

 では、草履取りが資産家というと、そういう訳では無い。彼らには失うものは何もないくらい貧乏である。農地もなければ家屋敷もない。教育も受けられてない。しかし、現金収入は多い。衣食住も困らない。自衛隊員みたいなもので、貯金が溜まる一方なのだが、その貯金で資産家になったという記録も見たことがない。複式簿記的に見ると、やはり草履取りよりも武士たちの方が資産は多い。資産は多いけれど、彼らの身分費用の出費のために、生活はかなり貧しかったようだ。鯛の絵を描いて、その絵をおかずにご飯を食べているからである。だから、どんなに百姓一揆を行っても、農民たちは武士になりたいとは、これっぽっちも思わなかった。これが日本で革命が起きなかった理由である。

 話は変わるが、武士たちは、意外なところにお金を使っていた。教育費である。読み書きそろばん以外に、礼儀作法や、学問を学ばなければいけなかった。正式には藩校に通うのだが、その前に塾に通った。水戸藩を例にとると、 5歳ぐらいの幼児から塾に通っている。 5歳ぐらいの幼児たちは、夜が明ける前の5時ぐらいに塾に向かい、教室の机を並べて掃除をするのである。掃除が終わった頃に、上級生がやってくる。すると上級生たちは、 1人ずつ慇懃に下級生たちにお礼を述べた。下級生たちは、それに大喜びをしたと、当時の記録にある。 5歳ぐらいから、こんな具合だから、武士の礼儀作法というのは、厳しく美しかった。その後は、朝読みと言われる書物の音読を行う。それが終わると、いったん自宅に帰って、朝食をとる。そしてまた塾に戻って、先生から教えを乞うのである。もちろん上級生も下級生の勉強の面倒を見る。こうやって武士という美しい人種が出来上がっていくのである。なかなか大変である。経費もかかったろうけれど、本人たちの苦労も大したものだと思う。このような武士という人種が、当時の日本に5%ほど存在した。

 もちろん農民たちも寺子屋で勉強はしている。地域によっては、武士と農民が一緒の寺子屋で学んだというケースもあったかもしれない。なにしろ江戸時代の識字率は、世界一高かったと言われている。幕末期においては、武士がほぼ100%。嘉永年間(1850年頃)の江戸の就学率は8割で、裏長屋に住む子供でも手習いへ行かない子供は男女ともほとんどいなかったという。これに対し1837年当時のイギリスの大工業都市での就学率は、たったの2割である。

 ドイツのシュリーマンは、1865(慶応元)年に日本を訪れ「教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知の中に放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」と驚いている。

 では、具体的な例を挙げるとして朝鮮半島の場合を述べる。マジソン大学のマイケル・セスの研究によれば、明治38年においても朝鮮半島では、近代的な小学校の数が7校から8校しかなく、人口1200万の朝鮮半島で学校に通っている人間の総数は、 500人前後であったと言っている。 500人とは、あまりに少ない。本当なのか?と疑いたくなるくらいに少ない。この後、日韓併合が行われ、朝鮮総督府は盛んに教育の普及を始めるが、なかなか進まなかった。それでも1937年に子供たちの3分の1を学校に通わせている。義務教育の実施は1946年からスタートする予定であった。他のアジア諸国は、もっと悲惨な状態だった。義務教育を実施しようとしていた国家は、 1カ国もない状態であった。東アジアで、日本だけが近代化できた理由はこの辺にあると思う。


つづく。

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posted by マネージャー at 00:39| Comment(0) | TrackBack(0) | テーマ別雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする