実は、この絶壁は、日本では珍しい流紋岩の浸食作用でできたもので、高さ約30メートルもあり、世界一の峡尖美として名高いノルウェーのハルダンゲル峡尖に勝るとも劣らないことから、その名を直訳して名付けられました。ちなみに流紋岩というのは、火山岩、つまり火山から出てきた岩の一種で、二酸化ケイ素を多く含んでおり、そのために粘り気が強いものです。ハワイの溶岩流みたいに遠くまで流れないものです。浅間山の溶岩は、安山岩なので、流紋岩に比べると多少は流れます。だから、爆発力も流紋岩の火山よりはしません。ちなみに流紋岩の仲間に黒曜石があったりします。逆に、さらさら流れる溶岩が玄武岩。富士山や伊豆七島の火山に多いですね。溶岩のサラサラ具合を式に表すと
玄武岩(伊豆) > 安山岩(浅間山) > 流紋岩(尖閣湾)
ということになりますね。まあ、そんなことはどうでもいいとして、この岸壁の示す地形は、非常に興味深いですね。流紋岩が流れる火山は、日本では非常に少ない(昭和新山くらい)ので、巨大な流紋岩の絶壁をじかに見られるというのは、非常に幸運なことです。私も、ついつい見とれてしまいました。変な話ですが、佐渡島に住んでいるところは、こういうことになったが興味がなかったので、少し感慨深いです。
私が流紋岩に見とれていると、息子の方は、波に見とれていました。
波がよほど珍しかったんでしょうね。
じっと見つめながら、ピクリとも動こうとしなかったです。
あまり動かないので、もっと近くで波を見せてあげようと、洞窟をくぐってグラスボートの乗船場まで連れて行きました。すると、大波がおしよせ、嫁さんが息子を置いて逃げ出すしまつ。息子は足元がびしょ濡れ。まさに「親不知子不知」だったので大笑いしてしまいました。海を知らないと、こういうことがおこりえるんですよね。
このあとは、水族館へ。
ここの水族館の面白いところは、サザエとかヒトデなんかに実際にさわれるところです。水槽の魚たちも、近くの旅館の晩飯とか、寿司屋にでてきそうな美味しそうなものばかり。つまり料理する前の魚の姿がわかるわけで、イシダイとマダイの違いがわかって、どの魚を食べたのかがわかるところです。
ドクターフィッシュにもさわれます。
タツノオトシゴの展示も面白い
おまけにタライ船にも乗れる。
小さなプールにタライ船があるんです。
ちなみに、この尖閣湾は、メロドラマ「君の名は」のロケで有名になったところですが、この「君の名は」のラジオドラマがはじまると全国の銭湯の女湯が空っぽになったというほどの人気で、映画が上映されると、1億人も動員するという記録がでたくらいの人気でした。ちなみに当時の日本の人口は8000万ですから、すごい人気でした。だから尖閣湾は、全国的に有名な観光地になったわけです。
サドガシマン。
ここにも戦隊ものが・・・・。
しかも、島民にしかわからないギミックがかくされています。ザクザクゴールドは、大佐渡の象徴で、シマナガシブルーは、国仲の象徴ですね。で、トキレッドは、小佐渡の象徴でしょう。
まぁそんな事は、どうでもいいとして、群馬県の嬬恋村にも戦隊ものを作ろうという話はあったんですね。愛妻家協会の山名さんが、村長や議員さんの前で、愛妻家の聖地として嬬恋村を売り出していこうという講演会を行っているときに、嬬恋村の議員さんたちが、どこかの役者さんか、アイドルを使って、愛妻家戦隊みたいなものをやろうじゃないかと、言う意見ががあったんですよ。
その時に、博報堂の山名さんは、役者やアイドルなんかが、戦隊モノをやったとしてもだれも振り向きはしません。そんなことをやってもムダですと、はっきり言いました。犬が人間をかんでもニュースにはならないんですよと、そういう風に否定したわけです。ニュースになるのは、犬が人間を噛んだ話ではなくて、人間が犬を噛んだ話なんですね。なるほどと思いましたよ。
じゃぁ人間が、犬をかみつけばいいんですよね。アイドルや役者が戦隊モノをやったて、誰も見向きはしませんが、もし、嬬恋村長と嬬恋村の議員たちが、着ぐるみを着て「愛妻戦隊ツマゴイジャー」をやったら、 NHKどころかCNNで世界中に放送されて、嬬恋村の観光客が10倍になることは間違いないですよね。
これは良い案だ!
ぜひ実行しよう!
と、私と博報堂の山名さんは、ものすごく盛り上がったのですが、議員も村長も誰も動いてはくれませんでした。はっきり言います。この話をここに公開したのは、もう嬬恋村では、この動きはないと踏んだからです。もし他の市町村が、このアイデアを実行したならば、どんな過疎地であっても、世界中の注目を浴びる事は間違いないだろうと思います。このブログを読んだ、過疎地に悩む自治体の方々は、ぜひ実行してもらいたいと思います。やり方によっては、フナッシー以上に売れるときすき思います。
話はそれました。
尖閣湾には遊歩道があります。
実はこの遊歩道が凄いですよね。
崖ぞいに遊歩道があって、
その反対に田んぼがあって、しらさぎが飛んでいたりするんです。
昔は朱鷺も多かったとききます。
新潟や佐渡できは、むかしは、朱鷺のこと「ツウ」とか「ドゥ」といって鳥追い歌で憎き鳥のひとつとして歌われました。一番はスズメ。二番はシラサギ。三番目はドウ(朱鷺)なんですよ。ちなみに佐渡島には鶴はいませんから、鶴の方言はありません。
尖閣湾の遊歩道を歩いた後は、
車を走らせて、北片辺に向かいました。
北片辺には3年ほど住んだことがあります。
ストリートビューでみると、こんなところです。
https://www.google.co.jp/maps/@38.1547896,138.3006662,3a,75y,197.64h,90t/data=!3m7!1e1!3m5!1sJ0Bkof7gEfhss9VnnvX1Xg!2e0!6s%2F%2Fgeo1.ggpht.com%2Fcbk%3Fpanoid%3DJ0Bkof7gEfhss9VnnvX1Xg%26output%3Dthumbnail%26cb_client%3Dmaps_sv.tactile.gps%26thumb%3D2%26w%3D203%26h%3D100%26yaw%3D20.071798%26pitch%3D0!7i13312!8i6656!6m1!1e1?hl=ja
ここは、劇作家・木下順二が斎藤トラさんから民話「鶴女房」を聞き出して、それをもとに「夕鶴」として発表しています。そのために夕鶴のふるさととして売り出しているらしいのですが、私は首をひねっています。
実は、私の母親は、小学校の教員で、私が0歳のときから3歳に北片辺小学校に赴任しています。当然のことながら私は、0歳から3歳まで北片辺に住んでおり、土地の老婆から大量の昔話を聞かされていますが、一度たりとも「鶴女房」の話は聞いた覚えが無いのです。もちろん忘れてしまっている可能性がありますが、他の話は聞いたことがあるのに「鶴女房」だけはない。
で、6歳くらいになって「鶴の恩返し」を知ったわけです。で、小学校の5年生くらいになって、郷土学習で「鶴女房」を初めて知ったわけですが「あれ?」と思った。「鶴女房」と「鶴の恩返し」は全く別の話だったからです。
まず「鶴の恩返し」のテーマはご恩返しです。主人公も老人です。
しかし「鶴女房」はラブストーリーなんですよね。主人公は若者であり、それを見初めた鶴が嫁になるけれど、夫に裏切られて泣く泣く去って行く話なんですよ。この二つは、全く別な話なんですよね。で、ふと気づいてしまった。佐渡には鶴はいないことに。しかも北片辺。絶対に鶴がいなさそうな場所なんですよ。冬の北片辺に鶴が生息できない。
そもそも鶴の羽は白いわけです。白い羽で機織りしても、白い生地が出来るだけなんです。それが綾錦という反物になって大儲けする設定が不可解なんですよね。しかし、もし鶴でなくて、朱鷺だったらどうか? 淡いピンク色の反物を織ったとしたら、かなり貴重な反物になっても不思議は無い。そもそも朱鷺の方言は「ドゥ」または「ツウ」なので、木下順二が斎藤トラさんから「鶴女房」を聞き出しているときに「ツウ」を鶴と聞き間違えてもおかしくはないわけで、私は、「鶴女房」は「朱鷺女房」であり、鳥取の「鶴の恩返し」とは全く別の話では無いかと思っています。
ちなみに北片辺の手前に「鹿野浦」という地域があって、むかしは、ここに大量の農地がありました。今は、田んぼが放棄されているみたいですが、この山側にも田畑が大量にあったと記憶しています。しかし、この「鹿ノ浦」には、どういうわけか民家が無いんですよね。民家が無い理由は、安寿と厨子王の呪いのせいだと言われています。
これが安寿塚ですが、安寿と厨子王の話は、誰もが知っていると思います。映画にもアニメにもなっていますからね。映画やアニメでは、立身出世した厨子王が、佐渡でめくらになった母親と涙の再会をして、めでたし、めでたしでおわるのですが、「鹿野浦」につたわる安寿と厨子王の話は、もっと悲劇的です。救いようが無いのです。
安寿姫と厨子王丸は、越後の直江津で、山岡太夫のため人買船に売られた。母は佐渡の島の鹿野浦に連れて来られ、虐待のはて盲目になってしまった。
安寿恋しや ほうやらほう
厨子王恋しや ほうやらほう
と、毎日唄いながら、粟(あわ)の番の鳥追いをしていた。厨子王は出世して安寿とともに、母を迎えるため佐渡へ渡って来た。そして鹿野浦にいる母を探し出した。しかし、盲目の母は、いつも村の悪童どもに、おれは厨子王だ、安寿姫だと、だまされていたので、実際の安寿姫があらわれても嘘だと言って信じなかった。そして持っている杖で、打って打って、とうとう殺してしまった。それから、この「中の川」は、安寿姫の涙のために、毒が流れるようになった。その後、この鹿野浦は、その祟りで一軒も住む者もなくなり、村人は全部片辺村の北に移住してしまった。これが、現在の北片辺村であるという。また、母を虐待した佐渡二郎の子孫はみんな死に絶え、その家のあったところも荒れはてて、なにを蒔いても生えないといわれている。ちなみに
片辺・鹿野浦 中の水は飲むな
毒が流れる 日に三度
と、唄われているという。
http://www.s-life.ne.jp/pc/densetu/aikawa6.html (より参照)
実は、この伝説には裏があります。この「鹿野浦」には、粛慎(みしはせ)人が住んでいたんですよね。佐渡には、大勢の粛慎(みしはせ)人がいて漁労生活をしていたようなのですが、ほとんど滅び去っていていて、最後には「鹿野浦」くらいにしかいなかったんです。その最後の粛慎(みしはせ)人も川から流れてくる毒水で全滅してしまいます。
その毒水の原因が鉱山です。「鹿野浦」の上流に鉛鉱山があったんですよね。鉛は金の精錬に必要だったんですよ。で、鉛の鉱毒が流れてしまった。だから粛慎(みしはせ)人が全滅したわけだし、その後に民家もできなかった。それが、安寿と厨子王伝説に転換されたのではないかと思います。
それにしても、ここらに昔は、粛慎(みしはせ)人の碑があった気がするんだけれど、今は見当たらないですね。どうしたんだろうか? 安寿塚で売るには邪魔な存在だったのか? どうなんだろうか?
つづく。
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