2016年01月29日

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 5 真田丸3話解説

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 5

 録画してあった大河ドラマ「真田丸」の3話をやっと見ました。で、感想なんですが、やはりやってくれたか…と思いました。この回は伏線だらけだったですね。シナリオが実にうまい。と同時に、シナリオライターは、かなり歴史に詳しい人だなぁと思いました。

しかし、やはりこの大河ドラマにもフィクションが、たくさん入っています。それは2話の甲府から岩櫃城まで移動シーンでもフィクションが入っていましたが(それは前回このブログで解説しましたね)、今回も色々と入っています。たとえば、小山田茂誠(高木渉・木村佳乃のご主人役です)のところなんか、かなりフィクションが入ってますが、これはこれでいい味を出しています。

それにしても小山田茂誠あたりにスポットを当てるなんて、憎い演出をしています。一体このドラマは、どこに行こうとしているんでしょうか? そういえば、きり(長澤まさみ)の登場にも驚きました。この役は、いったいどのような役なんでしょうかね? 長澤まさみが、演じるという事は、よほどのキーパーソンなんでしょうね。

 あと笑ったのが藤岡弘の本多忠勝!
 いい味だしていたなあ。

 それはともかくとして、 3話のストーリーは、真田昌幸がいろいろな謀略を行いつつ、織田信長の配下につこうと旅に出かけるシーンで終わります。ドラマでは真田昌幸をかなり腹黒い男として描かれていますが、私は個人的に、真田昌幸は腹黒い男ではなかったと思っています。

 もちろん彼の得意技は調略。つまり、敵方の人材を引き抜いたり、謀反を誘発させたりしますけれど、これを今の感覚で言うところの「腹黒い」というのとは、ちょっと違うんですよね。この当時の調略とは、今で言えば選挙活動みたいなものです。自分の土地を安堵してもらうために、誰を親玉にするか選挙活動するようなものです。

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 武田信玄が死んだ後、武田勝頼の時代に、あっという間に武田軍団が崩壊した理由は、多くの家来が裏切ったためですが、実際のところは裏切るというより同盟を廃棄したといったほうがいいですね。

 武田の土地には名田と恩地があります。
 名田は、先祖伝来の土地。
 恩地は、信玄からもらった土地です。

 裏切った家臣たちの多くは、先祖伝来の土地をもつ国人。いわば武田の同盟者。しかし真田幸隆・真田昌幸の領地は恩地ですから、真田軍団というのは、武田信玄の家来みたいなものです。もちろん調略によって真田について本領安堵された群馬県吾妻郡の領主たちの土地は名田ですから、彼らは真田に恩があるというわけでないから、もし真田が行政に失敗してしまったら、群馬県吾妻郡の領主たちは簡単に主人を見限ってしまいます。それを防ぐために、武田信玄は、甲州法度で「寄親(このばあい真田)に不服がある場合は、訴訟できる」と決めており、行政(領国経営)に細心の注意をはらっていました。

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 ここで武田軍団の旗印を思い出してみましょう。
 風林火山です。
 孫子の言葉です。
 孫子の本質は、戦わずして勝つ。
 この一言に尽きます。

 なので武田信玄も真田幸隆・真田昌幸も、盛んに調略によって相手を降伏させています。戦わずして勝利しているのです。もし、上杉謙信と正面衝突したら武田軍団・真田軍団も危うかったかもしれませんが、彼らは調略を盛んに行いました。そして、それが成功する理由の1つに、海野氏と言う親戚同士だったこともありますが、それでも武田軍団・真田軍団の行政能力が非常に高かったということもあると思います。

 逆に言うと、武田軍団の真田軍団も行政(領国経営)で失敗してしまったら、あっという間に軍団は解体してしまった可能性があります。武田勝頼は、武田信玄より戦争が上手だったみたいですが、行政(領国経営)で失敗してしまったみたいなんですよね。それで多くの国人(国衆)たちにそっぽをむかれたんだと思います。なにしろ武田軍団の領地の大半は、名田武士たちですから。

 ではなぜ? 武田信玄は、領国経営を重んじるようになったのでしょうか?
 実は、武田信玄は、戦国時代には珍しいスーパーインテリだったんですよね。
 その上、血筋も最高でした。
 その側で、英才教育を受けたのが真田昌幸だったわけです。


つづく。

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2016年01月28日

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 4 真田丸2話解説

 10日前に50センチの大雪が降りました。そして1週間前にさらに40センチの大雪が降り、うちの宿はてんてこ舞いです。なにしろ土地が1,000坪もあるので、雪かきも半端でない量になります。おまけに大雪の初日から、ウィンターフェステバルの作業が始まっていました。午前中はウインターフェスティバルのボランティア作業をします。これがなかなかの重労働です。そのために出席するホテルやペンションオーナーはほとんどいません。皆さん自分のところの雪かきで、精一杯なんですね。

 無理もないです。
 自分もそうしたいです。

 けれど、それをやったらだれも出席する人がいなくなります。欠席したいけれど欠席できない状態が続きいました。なので午前中はウィンターフェスティバルの手伝いをし、午後から自分の宿の雪かきです。もちろん日が暮れるまであります。朝から晩までこの仕事をして、体はクタクタなのですが、おそらく今年が最後だと思うので、老骨に鞭を打って頑張ってきました。おかげで体重はどんどん減ってきました。

 まぁそういうわけなので、最近はテレビを見る暇もありません。ようやく昨日、テレビを見るゆとりが出てきたので、 NHK大河ドラマの真田丸の2話と3話の録画を見ることができました。今日は、2話について少しばかり解説します。(明日は、3話を解説しますね)

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 2話は、真田信幸と幸村が、甲府の新府城から、群馬県吾妻郡にある岩櫃城に向かうのが主なストーリーなのですが、その時に野党に狙われたり、裏切り者の小山田一族に殺されかかったりします。それを、真田幸村の機転によって何とか切り抜けるのが、主な見せ場になっています。たとえば、兵糧狙いの農民には、着物をばらまいてその隙に逃げるとか、みすぼらしい農民の格好して、逃げるとかです。ドラマとして非常に面白かったですが、これはあくまでもドラマです。本当はちょっと違うことを述べておきたいと思います。

 実際は、この時は兄の信幸の大活躍で一同は助かるんですよね。兄の信幸は、身長185センチの当時としては大男です。彼がつけていた鎧の大きさでわかるんですよね。もちろん巨大な鎧を身につけ、彼は甲州黒と言う名馬にまたがって、岩櫃城に向かうんです。このとき彼の年齢は17歳。馬にまたがって十文字槍をとって、堂々と街道行きます。

 当然のことながら、甲斐の落ち武者狩りがやってきますが、 17歳の信幸の超人的な活躍によって次々と返り討ちにします。そのために、誰も近づけないわけです。そこで、埼玉県や群馬県あたりの忍者たち(おそらく北条氏の手のもの)が、彼らを暗殺しにくるわけですが、これも撃退します。もちろん幸村も活躍したと思いますが、ゲリラのように百姓の姿になって岩櫃城に向かったわけではなく、甲冑鎧をつけて馬にまたがり、堂々と帰還しているんですよ。

 だからあれは、いわゆるフィクションです。

 それはともかく闘いながら、岩櫃城に戻るわけですから予定通りに到着しません。行軍の日程が伸びてしまい食料がなくなってしまうわけです。それでもなんとか草津街道あたりに到着し、腹が減ってどうしようもなくなった頃に、吾妻郡の鎌原氏(嬬恋村)・湯本氏(草津町)が迎えにきて、腹を満たします。そして、嬬恋村の大笹の雁ヶ沢に到着。このあたりです。

http://kazeno.info/karuizawa/9-hoka/9-hoka-3-06.htm

 関所跡のあるあたりです。

 雁ヶ沢という地名は、雁がこの谷へ降りても、ふたたび飛び上がるのも難しいということでつけられた地名。目がくらむほどの断崖絶壁。信幸は誰かここから飛び降りるものはいないか?と冗談を言うのですが、赤沢嘉兵衛という者が「それがしが飛んでご覧にいれましょう」と飛び降りました。

 真田兄弟は、呆然とします。
 もちろん真田昌幸は烈火のごとく怒ります。

「せっかくの赤沢を無駄事にさせるとは何事だ。言語道断である」

 真田昌幸は、家来を無駄に死なせた信幸に大激怒です。
 そこに死んだと思ったら赤沢嘉兵衛がやってきました。そして

「あの程度の谷へ飛び下りたところで、死ぬような自分ではありません」

 赤沢は茶目っ気たっぷりに答えました。
 しかし、それに対する真田昌幸の回答はこのようなものです。

「稀には死なないこともあろう。しかしこのような無茶なものは俺の用にはたたぬ。無益に命を捨てようとしたのは不届き千万」

と勘気を申し付けました。後に赤沢嘉兵衛は徳川家康が上田城を攻めた折、神川合戦で首級二をぶらさげて昌幸の実検に現れ、勘気を説かれました。その後も数度の戦功をあらわし、一生のうちに二十五の首級を捕ったと伝えられています。

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 このエピソードから分かる事は、真田昌幸は、むやみに命を失うような無茶を嫌う人だったということです。命を大切にし、着実に物事を納めることを重視している姿が見えます。これがもし、豊臣秀吉だったらどうだったかと思うと、派手好きな秀吉だっただけに、赤沢に感動していたかもしれません。それだけに昌幸のキャラクターが浮き出てきますね。

 また、このエピソードで、真田昌幸は息子達に独自の帝王学を教えています。家来に無茶をさせるなと怒っているわけです。つまり真田昌幸は、無茶ぶりの人ではなく、むしろ慎重で着実に物事を進めるタイプに見えます。いわゆる官僚タイプです。武田信玄のもとで行政官(奉行)や伝令を行っていた感じの人ですね。

 17歳の真田信幸も赤沢嘉兵衛と同じように、無茶をするタイプだったのかもしれません。だから真田昌幸は息子の教育のためにも、無茶をした赤沢を公衆の面前で激怒してみせたのかもしれません。

 のちに真田昌幸は徳川軍を2度も撃退しますが、無茶な博打のような戦で撃退したわけではありません。非常に慎重に行動した結果、徳川軍を撃退しています。その時に、真田信幸が調子に乗って作戦を台無しにしかかるケースもあったかもしれないんですが、その頃の信幸は、慎重なキャラクターに変化していました。昌幸の帝王学がうまく通じたようです。


つづく。

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2016年01月26日

業務連絡・浅間高原ウィンターフェスティバル

 嬬恋村ウインターフェスティバルまで、あと3日となりました。実は10日前から、嬬恋村の浅間高原観光協会の皆さんがウインターフェスティバルのために毎日ボランティア作業をやっています。もちろん私も毎日作業しています。アイスキャンドルを作ったり、雪でできた巨大なブロックを作ったり、アイスバーを作ったり、テントを設営したり、椅子や机を搬入したりで、大忙しです。

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 作業している人たちの平均年齢は55歳ぐらいから73歳位迄です。皆さん、年齢を重ねているので、かなり体に来ているみたいです。なにしろ今年は、急激な寒波がやってきて、大雪に見舞われたために、皆さん自宅の雪かきでへとへとになってしまっているんですよね。そのために、なかなか作業が進まなかったのですが、今日やっと見通しが明るくなってきました。で、私も、このようにブログを書くゆとりができてきたわけです。 


 それはともかくとして、業務連絡です。

 1月30日土曜日にお泊りのお客様は、夕食を遅らせることができます。理由は、嬬恋村ウィンターフェスティバルがあるからです。ウィンターフェスティバルの花火の打ち上げが、 18時50分からなので、 18時30分からのいつもの食事時間では、見ることができません。



 それなので、ウィンターフェスティバルの花火をご覧になるお客様は、夕食を19時30分以降に遅らせるように手配します。もし、ウィンターフェスティバルの花火をご覧になるお客様がいましたら、前もって夕食時間の変更を、メールか電話でご連絡ください。

 また正確な事はわかりませんが、予算場の問題もあって、ウィンターフェスティバルは、おそらく今年が最後になる可能性があります。もし興味がありましたら、お祭りに参加してください。イベントの詳しい内容については、下記サイトをご覧ください。

http://asama-winter.jp/detail.html


つづく。

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2016年01月25日

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 3

 私は新潟県で生まれています。当然のことながら上杉謙信が大好きです。子供の頃、天と地とというNHKの大河ドラマを見て、興奮した覚えがあります。だからどうしても、武田信玄に対して良い感情を持っていません。その上で言うのですが、上杉謙信と武田信玄。 2人は川中島(長野市)で、向かいにわたる激闘を繰り広げて、天下に名を轟く明日戦国武将ですが、 2人は対照的な武将でした。2人の違いを簡単に説明すると、上杉謙信がロンメル将軍だとするならば、武田信玄はヒットラーみたいな感じです。だけど、この例えだと武田信玄ファンは、怒ってしまいますよね。では、このように言い換えましょう。

 上杉謙信がナポレオンだとすれば、武田信玄はウェリントンとグナイゼナウ。
 上杉謙信が義経だとすれば、武田信玄は源頼朝。
 上杉謙信が遠山の金さんだとすれば、武田信玄は必殺仕事人たち。
 上杉謙信が仮面ライダーだとすれば、武田信玄はゴレンジャー。
 
 戦国武将で最も戦闘力が高いのは、上杉謙信で間違いありません。その勝率は9割にもなります。NHK BS歴史館によれば、上杉謙信は、69戦して61勝2敗8分の記録を作りました。

 勝率は9割です。これがどのぐらい凄いかというと、ライバルの武田信玄でさえ、49戦33勝11敗3分。勝率6割です。武田信玄得意の調略による城攻めを含めれば、通算72戦49勝3敗20分になりますが、それでも勝率は6割です。川中島の戦いでも、引き分けということになっていますが、戦闘そのものは上杉軍の勝利で間違いないと思います。なにしろ武田軍の主な武将たちが何人も死んでいるからです。上杉軍で大将首を盗られたものはありません。しかも、上杉謙信は侵略のために戦争したことが1度もありません。それに対して武田軍は、侵略に次ぐ侵略です。そもそも武田軍の旗印である「風林火山」からして、私は侵略しますよ・・・と言っているようなものです。なにしろ「侵略すること火の如し」ですからね。

 だから、新潟県民にしてみたら、武田信玄を好きな人など誰もいません。それは武田信玄の侵略方法からして非常に残酷だからです。例えば、稲刈りの時期に敵国に攻めていきます。もちろん敵国は山城にこもるわけですが、武田軍は略奪の限りを行ったうえに、実った苗を全部刈り取って帰っていくわけです。もちろん暖房狼藉の上に住民たちを人買いたちに売りさばいてしまったりする。こんな連中を好きになれといっても、新潟県民は、なかなか好きにはなれないわけです。

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 しかし、別の見方をすると武田信玄という男は、すごい名君なんですね。自分の犠牲を出さずに、相手を降伏させる天才なんです。それは「風林火山」の元になっている「孫子」の兵法を使っているからです。孫子のテーマは「戦わずして勝つ」ですから、こんな合理的な事はありません。戦国武将だって、できるだけ死傷者は出したくないですから。

 けれど、武田信玄の1番の魅力は、戦争上手というよりも行政能力にあります。徳川家康が手本にして江戸幕府の基本法律に取り入れたぐらい武田信玄の行政能力は高かった。特に甲州法度はすごかった。長い前置きはこのくらいにして、ここから本題に入ります。

 世の混乱には、ある法則があります。法律と警察と裁判所が機能しなくなったときに混乱するのです。例えば戦後の混乱期は、法律と警察を裁判所が機能しなくなって起きたものでした。法律が平等でなくなり治外法権ができると混乱するんですね。戦国時代でもそうです。

 武士というのは基本的に農民ですから、水争いや土地争いがしょっちゅう起こります。それを収めるために鎌倉幕府というものができたのですが、裁判で自分の土地を明確にしてもらうのが当時の政府の主な役目でした。もちろん室町幕府でも事情は同じです。しかし、これがだんだん機能しなくなってくるわけです。そうすると水争いや土地争いが起きると、喧嘩になってしまいます。たいていは、親戚同士の喧嘩なんですが、それがだんだん大きくなって、収まりがつかなくなって、周りの有力大名を抱きこんでの戦争が起きてしまうわけです。

 そうなると有力大名も、土地争いに介入して子分をどんどん増やしていって勢力圏を拡大していく。そうしないと他の有力大名に滅ぼされる可能性がありますから。そうして戦国時代が始まるわけですが、その戦国時代に有力大名のエースが山梨県から出てきました。戦争が上手で、他国をどんどん侵略するエースです。

 その人の名前は「武田信虎」です。
 いわゆる武田信玄のお父さんですね。

 この人は、上杉謙信ばりに戦が上手でした。戦争の仕方も、武田信玄というよりも上杉謙信のほうに近いかもしれません。なにしろ14歳で家を継ぎ、その翌年に叔父を滅ぼし、そして今川軍と戦っています。その後も今川軍や北条軍と戦いながら甲斐国を統一していますから戦争の天才といってもいいでしょう。下手したらこの人が、甲斐国の上杉謙信。いや、甲斐国の織田信長になっていたのかもしれません。

 しかし、そうはならなかったんです。武田信虎は、戦争が上手でも行政能力がイマイチだったんです。部下に対しては信長のように厳格だったために、何人ものの部下が明智光秀のような感じになっていました。でも、それだけならまだ救いがあったんですが、当時の山梨県は災害に明け暮れているいたんです。例えば、4月に1メール50センチの雪が降っている年もあり、翌年に全く降らなかったりしています。2年連続で領民が壊滅状態になるほどの自然災害がおきたこともあります。で、その結果、何がおきたかというと、武田家の内紛が起きたんです。家臣と息子の武田信虎を追放して、武田信玄が領主になっているのです。

 信長は、明智光秀と言うたった1人の部下に謀反を起こされて死ぬわけですが、武田信虎の場合は、すべての部下たちと息子である武田信玄に謀反を起こされているわけです。よほどみんなから嫌われていたようです。しかも、当時の記録によれば、武田信虎が息子に追放されると、甲斐国の武士から坊さんから農民に至るまでみんな喜んだと書いてあります。

 で、父親を追放して君主となった武田信玄は、父親を反面教師として、行政に力を入れるわけです。

 まず法律の制定です。これがいわゆる甲州法度ですね。そして警察と裁判所を設置して、土地争いを収めます。そして、下々に訴訟する権利を与えます。訴訟があれば、中央から綿密な調査を行って仲裁します。したがって、喧嘩両成敗となります。喧嘩になれば、どちらに非があろうが処罰されるわけです。私闘による解決を禁止して、公的機関で決着をつけさせると言う方法をとっているわけですね。法治国家を目指していたわけです。法治国家を作ることによって、土地争い・相続争いをなくして混乱を防ごうとしているわけです。

 その他にも、金山の経営を行って貨幣を生産したり、計量単位を統一したり、大規模な土木工事行って農業生産を上げたりしています。商業も保護しました。保護した上で商人たちから情報を収集しました。その上、温泉の開発などの福祉政策も積極的に行っています。武田信虎を反面教師とした武田信玄は、このように内政を徹底的に重視したんですね。

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 当然のことながら、官僚が(行政官)法治国家を支えます。
 その官僚の1人に、武藤喜兵衛という人がいます。
 彼こそが信玄の行政官として領国経営を行っていました。
 戦争時には、武田信玄の伝令として活躍していました。

 この武藤喜兵衛が、真田昌幸なんですよ。

 つまり彼は、武田信玄のもとで、行政官として活躍し、戦場では伝令として戦争を目撃する立場にあり、情報集める立場にありました。武田信玄の目玉に成っていたのです。まさに、真田昌幸イコール武田信玄であったわけです。武田信玄の能力の後を継いだのは、武田勝家ではなくて真田昌幸だったのかもしれないのですよ。

 意外に思われるかもしれませんが、真田昌幸は、決して上杉謙信のように勇猛な武将であったわけではありません。むしろ行政官として民心の安定を心がけ、戦場では、もっぱら情報を扱う縁の下の力持ちでした。


つづく。

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2016年01月22日

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 2

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 2

 実は私は、新潟県のド田舎で生まれ育ちました。そこから上京して東京の池袋の街中に17年住むわけですが、最初の頃は、ご多分にもれず、東京の人達はちょっと冷たいと、みんなそれぞれに距離があると思ったものです。まあ口に出しては言えませんでしたが、田舎から来る人たちは、たいていの人たちがそう思ったと思います。特に関西地区から来た人たちは、大声で叫んでいました。

 しかし、池袋の駅から徒歩10分ぐらいのところに、数年ぐらい住んでいると、なぜ東京の人たちは、ちょっと冷たいと感じたかがわかってきます。冷たいのではなくて、礼儀正しいのですね。礼儀正しく生きていくのが、人生の知恵にならざるをえないのです。

 今では考えられないことですが、昔は、トイレや台所が共同のアパートが多かったですから、池袋から徒歩10分のところに住むと言う事は、そういうところに部屋を借りるということになります。もちろんお風呂なんかありません。みんな銭湯に出かけます。台所もない4畳半がほとんどで、ちょっとリッチな部屋になると、 6畳間に、 半畳ほどの水回りが付いている場合もあります。そんな狭いアパートが、20部屋ぐらいあったりして、そういうところについ最近まで、というかバブルの頃まで多くの日本人は住んでいました。

 もちろん、それだけの住人がいれば、変わった人たちも、中には1人ぐらいいて、酒乱か何かになって他の住人に迷惑をかけるケースもあります。そうなると、大家さんが激怒したり、警察を呼んでみたりで、一騒動が起きるわけですが、それで片付けば良いのですが、なかには、おかしな人たちもいて、片付かないケースもあるわけです。

 すると、今まで全く無関心だった紳士ぽい隣の部屋の人が、突然出てきて、あっという間に、おさめてしまいます。警察や裁判所でも解決できなかった問題を、今まで空気のような存在だった影の薄い隣人が、全部解決してしまう。

「あれ?」

 と思うわけですね。

「なんだろうこれは?」

 と、 20歳ぐらいの私は不思議に思っていたのですが、後でその隣人は、 893関係者だったということを、ある人から聞かされて「えええええええええええええ?」と驚きました。というのも、とても親切で優しげなサラリーマンにしか見えなかったからです。つまり、東京の池袋駅から徒歩数分ぐらいのところのアパートに住んでいたら、人は全く見かけによらないという事を、否が応でも学習します。そう簡単に、喧嘩なんかできません。自然と礼儀正しくなるわけです。

 これは運転免許をとって自動車を運転してみるともっとよくわかります。都心に近づけば近づくほど運転マナーがよくなってきます。都心部では譲り合いを徹底しています。しかし都心から離れて北関東のほうに来ると、運転マナーは、次第に悪くなってきますね。田舎に行くほど、運転マナーがひどくなってきます。

 じゃぁ、田舎のほうは、人間がダメなのかというとそうではないと思います。ある意味、人間を信頼しているから、多少マナーが悪くてもなんとかなってしまうこともあるのかなぁと思っています。しかし、東京の都心では、どんな人がいるか分からないので、マナーを守らないと安心して運転なんか出来ないんですよね。

 まぁここまで書くと、極論になりますが、何が言いたいかと言うと、
 東京人の礼儀正しさの中には、
 安全保障の一面がある

 ということを言いたいわけです。

 前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。 17年間池袋に住んでいた私は、その後、 3年ぐらい埼玉県の春日部に住むことになります。春日部は、東京のベットタウンみたいなところなので、古い住民と新しい住民が住んでいるわけなのですが、新しい住人は、東京と同じく礼儀正しいのですが、古い住民たちは、ちょっと口が悪いんですね。逆に言うと、距離感がないというか温かみがあったりするわけです。これに衝撃を受けるわけです。その前に17年間池袋に住んでいたので、この人たちは大丈夫なんだろうか?と思うわけです。

 例えば何かのトラブルが起きた場合、古い住民は、ささいなことでも、人に文句をつけてくるわけですね。新しい住民は、ささいな事はとりあえず我慢して、我慢しきれなくなった場合は、警察に相談するとか、法的手段に訴えるといった行動をとるわけですが、古い住民たちはそういうことをしないんですよね。ストレートに文句を言ってくるわけです。それも、相手の神経を逆なでするような言葉も使ってくるわけです。つまり安全保障のために礼儀正しくするという感覚がうすいのです。

 これにはハラハラしました。相手が893関係者だったらどうするんだろうと、ハラハラしたもんです。池袋にいた住人たちは、相手がどんな人間か分からないわけですから、かなり慎重に行動するわけですが、春日部あたりの古い住人たちは、そういう配慮をしないわけです。つまりそれだけ、池袋よりも安全な地域なんですね。相手に対して信頼感があるわけです。だからそういう無茶ができるんですね。

 そして、その後に、私は北軽井沢に引っ越してくるわけですが、こちらに来ると、もっとそれがひどいわけです。ここでも安全保障のために礼儀正しくするという感覚がうすいのです。だから平気で悪態をつける。相手の素性が知れているから安心して悪態がつける。何処の誰か分からないということがないからです。ある意味、人間を信頼しているわけでしょうが、それゆえに田舎特有のトラブルもあるわけです。これは私が生まれた佐渡島でも一緒でした。

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 話をもどします。
 嬬恋村は修験者たちが開拓した村でした。

 平安時代末期、一人の修験者が、嬬恋村に流れてきました。信州に大帝国を拡げていた、海野一族の跡取りの一人でした。名は、海野幸房と言います。彼は、戦争に嫌気がさし、修験者となって、人も住んでない嬬恋村にやってきました。当時の嬬恋村は、1108年の天仁の噴火で壊滅して間もない頃でしたから、ほとんど人は住んでなかったようです。そこに、修験者となって、流れてきた海野一族の一人は、粗末な庵をつくり、『捨城庵』と名付けました。城を捨てて、造った粗末な小屋という意味です。刀を捨てて、修験者となって、修行を行いつつ、嬬恋村の開拓をはじめました。

 海野幸房は、名前を、下屋将監幸房と改名します。そして、子孫たちに嬬恋村を開拓させていき、広大な領地をもつにいたりますが、下屋氏は、勢力が大きくなると、次々と分村していき、譲り状を渡し、小国に分割していきます。わざと巨大な帝国を造らずに、逆に小さくしていったのです。今風にいえば、地方分権に徹したわけですね。

 こうして、吾妻郡はどんどん開拓されていくわけですが、そのたびに譲り状を渡して小さな豪族が生まれるわけです。そして、吾妻郡一帯は、みんな親戚だらけに成ってしまうんですね。先祖をたどると海野一族(下屋氏)になってしまうわけです。ここが重要なんです。吾妻郡の先祖が、みんな海野一族ということが重要なんですね。

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 吾妻郡というのは、後に、武田信玄と上杉謙信が激動する場所であるのですが、戦場では圧倒的に強かった上杉謙信が、武田信玄に徐々におされてしまう理由は、ここにあるわけです。まともに戦ったら、武田信玄は上杉謙信に勝てるわけがないんですが、実際は、少しずつ武田信玄の方が吾妻郡の領土を拡大していくんですよね。そして最終的には、群馬県の北部をほぼ手に入れるわけです。その理由が、吾妻郡のほとんどが親戚同士だったということがあるんですよね。

 さて、この親戚というのが曲者なんです。

 お里が知れているために、安全保障のために我慢する(譲歩する)という感覚が、お互いにないんですよ。今現在、田舎に住んでいる人なら分かると思いますが、親戚というのは、それも遠い親戚というのは、よくもめるんですよね。お里が知れているからよくもめる。特に農家は、土地争いをします。相続あらそいもします。戦国時代の吾妻郡もご多分に漏れず、領地をめぐって争いが絶えなかったようです。

 この時代の武士というのは、ほぼ農民の事でしたから、農地をめぐって戦いに明け暮れました。これが鎌倉時代なら、問題は簡単でした。鎌倉幕府に訴えを出して、裁定してもらえばよかったからです。けれど、 室町幕府には、そういう力がだんだんなくなってきたために、土地争いが激しくなってくるんですね。それで、近くの有力な大名をバックに自分の土地の安全保障をしてもらうわけです。こうして、自分の土地を守ろうとしたわけです。

 吾妻郡嬬恋村でも例外ではありません。鎌原氏と羽尾氏が土地をめぐって争い、鎌原氏が武田信玄をバックにし、羽尾氏が上杉謙信をバックにして戦うわけです。両方とも親戚なんですが、バックに超大国を持ってきて同族同士が戦ったわけですね。

 で、これに関わったのが「真田幸隆」という人間なんですが、こいつが、またくせ者なんですよ。嬬恋村の隣にある旧真田町の国人衆なんですが、戦いに敗れて嬬恋村に落ち延びてきます。そして、嬬恋村の親戚の羽尾入道のもとに逃げてくるわけですが、この「真田幸隆」が、後に武田信玄の家臣となり、最強の武田軍団を作っていくんですね。つまり、真田イコール武田だと思って間違いありません。で、どういうところが「イコール」なのかと言いますと、長くなるので、続きは、後日、解説したいと思います。


つづく。

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2016年01月17日

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる

 西暦2000年に私は、嬬恋村の北軽井沢地区に引っ越してきて、今の宿屋を始めるわけですが、最初はなかなか地元の人と馴染めなかったです。これはどこの田舎でもそうだと思うんですが、最初はなかなかなじめないものなんですね。ただし、 3年ぐらい経つと、周りから地元民がどんどん私に接触してくるようになりました。理由は簡単です。地元の店舗とかレストランをホームページで徹底的に紹介したからです。そして、うちのお客さんを、どんどんそういう店に紹介していたものだから、地元の人たちに感謝されたんですよね。で、地元民と仲良くなった訳ですが、ある程度仲良くなると、仰天するような事を体験します。その一つが、自殺に関する話題です。

「最近なになにさんが、見えないねぇ」
「あ、その人は自殺したわ」
「そうだったのか。ところで話は変わるけれど…」

 普通、人が自殺すると大ニュースになります。これは、私が生まれた佐渡島でも、あたしが17年間住んでいた東京の池袋でも同じでしたが、嬬恋村では普通に日常会話で流されてしまう。自殺が少しも珍しく語られない。これに衝撃を受けたわけです。

 どうしてだろう?

 と不思議に思っていたら、この村で校長先生をやっていたこともある人に、その理由を教えてもらいました。この村では、親族間の結婚が多くて、遺伝子的に精神が弱いところがあるのかもしれないとの事でした。だから、躁鬱症にかかる人も多く自殺率も高いらしいのです。

 それが事実かどうかは、さておいて、この地域には親戚が多い事は確かです。例えば、嬬恋村の隣にある長野原町は、人口の半分が◇◇一族だと言われています。先祖をたどると、半分近くが親戚になってしまうわけです。嬬恋村でもご多分にもれず、大抵はどこかで血が繋がっているわけです。で、その血の繋がりというのは、みんな真田一族なんですね。

 そんなバカな?

 と最初は思っていましたが、本当にそうでした。私のようなよそ者はともかくとして、村の人の大半が真田1族なんですね。で、真田の血筋のものと、私のようなよそ者では、行動原理が違うわけです。例えば真田系の人たちというか、嬬恋村の人たちは、上田市に買い物に行くわけです。しかし、私のようなよそ者は、軽井沢に行きます。向いている方向が違うわけです。嫁さんにしても上田市の方(旧真田町)に嫁に行ったり、上田市の方(旧真田町)から嫁をもらったりしてるわけです。親戚が県をまたいでいるんですね。

 面白いなぁと思ったのは、登山道の整備に関してです。日本百名山の1つ四阿山の登山道は、嬬恋村の中にあります。当然のことながら登山道の整備は、嬬恋村役場の観光商工課がやっているわけですが、嬬恋村が登山道整備すると、旧真田町(上田市北部)の人たちが、お礼を言ってくるわけです。明らかに、四阿山の登山道は、旧真田町(上田市北部)の人たちのものだと思っているし、自分たちが整備すべき場所だと思っているわけですが、本来ならば嬬恋村の土地にあるわけですから、嬬恋村の役場が整備して当然なわけですよね。しかし、旧真田町(上田市北部)の人たちは、そうは思っていないわけです。

 なぜか?
 実は、ここに嬬恋村と真田一族の謎を解く鍵があります。

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 実は嬬恋村は、非常に特殊な歴史をもっているんですよね。
 修験者たちが開拓した村だったんです。

 平安時代末期、一人の修験者が、嬬恋村に流れてきました。
 信州に大帝国を拡げていた、海野一族の跡取りの一人でした。
 名は、海野幸房と言います。
 兄は、海野幸家。真田一族の家祖にあたります。

 彼は、戦争に嫌気がさし、修験者となって、人も住んでない嬬恋村にやってきました。当時の嬬恋村は、1108年の天仁の噴火で壊滅して間もない頃でしたから、ほとんど人は住んでなかったようです。そこに、修験者となって、流れてきた海野一族の一人は、粗末な庵をつくり、『捨城庵』と名付けました。城を捨てて、造った粗末な小屋という意味です。刀を捨てて、修験者となって、修行を行いつつ、嬬恋村の開拓をはじめました。場所は、嬬恋村の万座鹿沢口駅のあたりです。

 海野幸房は、名前を、下屋将監幸房と改名します。そして、子孫たちに嬬恋村を開拓させていき、広大な領地をもつにいたりますが、下屋氏は、勢力が大きくなると、次々と分村していき、譲り状を渡し、小国に分割していきます。

 わざと巨大な帝国を造らずに、逆に小さくしていったのです。今風にいえば、地方分権に徹したわけですね。そのために、下屋本家は、戦国時代の下克上からも逃れることができました。そして、今なお嬬恋村に存在しています。嬬恋村には、千年の歴史をもつ名家が、いまでもいるのですね。

 下屋本家を造った下屋将監は、映画「阿弥陀堂だより」の阿弥陀堂あたりに、修験道の神社を造りました。そして、甲冑鎧などの武器を埋めて、『捨城庵』を建てました。そして、神社は大いに栄えるのですが、山津波で壊滅します。壊滅した後に「阿弥陀堂」が建ちます。まあ、それはいいとして、そのあたりに住む人たちは、宮崎の姓を名乗るひとが多いのですが、ご先祖様が、神社に使えていたためです。

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 下屋氏一族は、さかんに嬬恋村を開拓します。そして、真田から嫁をもらって人口を増やします。この風習は、現在でも残っていて、嬬恋村と旧真田町は、親戚どうしみたいになっています。そのために、嬬恋村は真田と隣接している西部の政治力が強く、東部の北軽井沢側は、風に飛ばされてしまいそうに弱体です。村長も、議員も、真田側からワンサカでてきますが、北軽井沢側は政治的に沈黙したままです。

(そのへんの事情は、詳しくは、以下のページを御覧ください)
 http://kaze3.seesaa.net/article/123305890.html



 脱線しました。
 下屋氏一族のことです。

 下屋氏一族は、武器を捨て、宗教(修験道)の力をもって開墾を続けました。武器の力ではなく、信心の力で開墾を行い、天仁の噴火で壊滅した嬬恋村を見事に再生させます。そして、広大な領土をもつに至りますが、下屋氏一族には、領土的野心はこれっぽっちもなく、分村し、暖簾分けし、村々を次々と分家たちに譲り渡してしまいます。

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 暖簾分けされた中に、鎌原氏という存在があります。下屋氏一族の開祖、下屋将監の孫にあたります。この鎌原氏が、勢力を伸ばし、嬬恋村の地頭職に出世します。しかし、下屋将監直系の本家は、武力を持たず、ひたすら修験道に励んで荘園領主として平和国家を作っていました。

 しかし、平和国家なるものは、自分の都合だけでは成立しません。武器無き民を攻め掠めようとする侵略者たちは、かならず現れます。それに対抗したのが鎌原氏でした。

 北軽井沢ブルーベリーYGHの住所は、嬬恋村鎌原1506-12ですが、これは鎌原氏の領土範囲だったことを示します。鎌原観音堂も、鎌原氏ゆかりの寺であったはずです。そして鎌原氏が、武力で他国の侵略を防ぐわけですが、そういう役割を人間を鎌倉時代では、「地頭」と言ったわけです。

 こうして、荘園領主の下屋氏一族と、地頭職にある鎌原氏の2大勢力が成立します。では、下屋氏一族と鎌原氏は、その後、どのような運命になっていったのでしょうか?


つづく。

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posted by マネージャー at 20:43| Comment(7) | TrackBack(0) | 真田丸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月16日

地元民から見たららスキーバスの事故について

 軽井沢の駅の近くでバスの転落事故が起きていましたが、死者が14人もいたということで驚いています。まず最初に御冥福をお祈りさせてください。

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 この事故で、乗客12人と乗員2人の合わせて14人が死亡し、死亡した乗客は全員が19歳から22歳の大学生で、男性が9人、女性が5人と確認されました。また、乗客26人がけがをしていて、このうち23歳と21歳の男性2人が重体、15人が頭や足の骨を折るなどの大けがだということです。

 ツアーを企画した東京・渋谷区の「キースツアー」によりますと、このバスは東京を出発して、長野県飯山市の斑尾高原に向かっていましたが、行程表にある上信越自動車道ではなく、別のルートの碓氷バイパスを通っていました。現場は左に曲がるゆるやかなカーブで、警察によりますと、現場のガードレールの痕跡からバスは進行方向の左側のガードレールに接触したあと、右側の反対車線を越えてガードレールに突っ込んだ可能性があるということです。さらに、乗客の一部が「バスは事故を起こす直前、かなりのスピードを出して左右に揺れた」などと話していることが分かりました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160116/k10010373601000.html

 このニュースを知ったとき、今回の事故は地元民から見たら、ありえない事故であることがわかりました。あの場所は、私もよく知っていますが、自動車が転落するような場所ではないんですよ。事故現場は国道18号の軽井沢の近くです。ほとんどカーブがない場所です。しかも今年は暖冬で、路面凍結もなく雪もありません。そもそも軽井沢には雪は降ってません。ノーマルタイヤでも走れるぐらいです。しかも、直線に近い傾斜もない場所で、しかも反対車線で転落するなんて考えられませんよね。

 事故は反対車線で起きています。どうして反対車線で転落したのか? 「バスは事故を起こす直前、かなりのスピードを出して左右に揺れた」ということは、居眠りなんでしょうかね? しかしバスの運転手は2人いたということなので、居眠りも考えにくいですよね。場所も普通に走行していたら、事故が起きる場所ではないです。一体何が起きたんでしょうね?

 また、このあたりは、サルやイノシシやタヌキが飛び出してくるところなので、運転するにあたって慎重に行動すべき場所でもあります。なのに「かなりのスピードを出して左右に揺れた」というわけですから、訳が分かりません。

 いや、それよりも不思議でならないのは、このバスが斑尾高原のスキー場に行く予定だったということです。だったらどうして高速道路を使わずに、碓氷バイパスを通ったのかさっぱり分かりません。普通なら高速料金の節約と考えるところでしょうか、これもちょっと考えにくいんですよ。この場所は、過去に大雪で隔離されたり、大惨事が起きたりしたいわく付きの場所なので、普通の常識ならバス会社は避けるべき場所なんですよね。だから地元民でも、危険を感じたら高速乗って、軽井沢インターを通り越して佐久平インターで降りて軽井沢方面に向かいますから、ますます原因がわかりません。どうして、高速道路を使わなかったんでしょうね?

 とにかく今回の件で、はっきりした事は、どんなに安くても格安のバスを使わないということです。使うなら西武バスとかJRバスといった大手の高速バスを使うべきでしょう。もしくは、地元をよく知っているバス会社を使うべきですね。それにしても、亡くなられた方がみんな若い人ということらしいので、被害者の親御さんの気持ちを思うと、本当にやり切れない思いでいっぱいです。私も人の親なので、心中お察しします。 落ち着いた頃に、地元民として花束を持って事故現場に手を合わせに行こうかと思っています。みなさんもよくよく考えて、命を大切にしてください。


つづく。

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posted by マネージャー at 09:00| Comment(8) | TrackBack(0) | ニュース・時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月15日

読売新聞に掲載されました

 今日は、大河ドラマの「真田丸」について何か書こうかと思ったんですが、ちょっと変更して読売新聞に、私のことが大々的に掲載されたので、それの紹介をしたいと思います。とりあえず、どんな風に掲載されたかというと、こんな感じです。あまりにもでかでかと載っていたので驚きました。

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 実はうちの宿は、日本経済新聞や上毛新聞をはじめとして、全国の地方紙を含めてたくさんの新聞で紹介されたことがあります。いちいち、それをホームページなんかで紹介してこなかったのは、めんどくさかったからです。

 というのも、小さな宿屋が新聞に紹介されるパターンの大半が、共同通信などの電話取材から、あちこちのマスコミ媒体に掲載されるケースだったり、日本ユースホステル協会などを通して、取材されるケースだったりします。その場合、共同通信などに、いちど取材を受けると、全国各地の地方新聞に一斉に紹介されたりするわけです。それも同じ日ではなくて、バラバラに記事になるんですね。だから、いちどの取材で10社くらいの新聞に掲載されるわけです。それをいちいちホームページで紹介するのはめんどくさいのでやめていました。どうせ掲載されている内容は全部同じなのです。

 ちなみに本当に、じっくりと取材を受けて、新聞に載ったのは、過去に3回くらいです。 1回目は、確か読売新聞だったと思いますが、昔の旅人(ホステラー)が、宿主(マネージャ)となって帰ってきたと言う記事でした。 2回目は、日本経済新聞でした。この時は、やたらとお客さんが増えた記憶があります。3回目は、上毛新聞で、ユースホステルの創設者リヒャルトシルマンの伝記を書いたことの紹介だったと思います。その時は、記者の人に、何時間もじっくりと取材を受けたものです。こういう場合は、比較的大きな紙面に載ることが多いんですよね。そうでない場合、つまり電話取材の場合は、何時間も話したにもかかわらず、 2〜3行ぐらいの記事にしかならないんですよね。

 で、今回は、以前に比べてかなりじっくりと、取材を受けていました。それも何日にもわたってです。もちろん電話で細かい確認も受けています。ずいぶん丁寧に、取材をする人だなぁと思っていたら、今日の朝、でかでかと掲載されていたので驚いちゃいました。

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 まぁそんな事はどうでもいいとして、こういう取材を受ける場合、必ず聞くのは、新聞社の内情です。今回の読売新聞さんの人は、渋川支社の人でした。渋川支社といっても、たった1人で、群馬県の北半分を受け持っているらしいと聞いて仰天しました。上毛新聞は、中之条に支社があって、 2人で吾妻郡をカバーしています。その他にも

東毛総局 〒373-0851 太田市飯田町1035 MSビル4階
高崎支社 〒370-0006 高崎市問屋町2-3-6
前橋支局 〒371-8666 前橋市古市町1-50-21(本社内)
沼田支局 〒378-0044 沼田市下之町880-3
渋川支局 〒377-0007 渋川市石原1841-26
中之条支局 〒377-0424 吾妻郡中之条町中之条937-2
藤岡支局 〒375-0024 藤岡市藤岡2436-3
富岡支局 〒370-2316 富岡市富岡45-1
安中支局 〒379-0116 安中市安中2-3-30
桐生支局 〒376-0025 桐生市美原町5-43 ALSOKビル3階
伊勢崎支局 〒372-0042 伊勢崎市中央町8-20
太田支局 〒373-0851 太田市飯田町1035 MSビル4階
館林支局 〒374-0024 館林市本町3-8-34
大泉支局 〒370-05141 邑楽郡大泉町朝日2-32-13 ジョイアビル1階A号室
わたらせ支局 〒376-0101 みどり市大間々町大間々1466-2

という部隊。人的戦力から言うと読売新聞の10倍から20倍くらいいるわけです。こういうことがあるから、群馬県においては上毛新聞の方が強いんでしょうね。読売新聞さんから取材をうけているときに、そのへんあたりの差の大きさに驚いたものでした。おそらく、地方紙が強い都道府県の新聞事情は、どこでも、こんな感じなのかもしれませんね。


つづく。

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posted by マネージャー at 13:59| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュース・時事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月14日

大河ドラマの「真田丸」について

 私は、 NHKの大河ドラマをあまり見ない方なのですが、今年はたまたま、真田幸村が主人公だと聞いたので、とりあえず第1話を見てみました。で、率直な感想を言わせてもらえば、なかなか面白かったです。時代考証が、残念なことになっていましたが、シナリオが面白かった。エンターテイメントとして考えたら、これはかなり面白いドラマになるのかもしれません。シナリオライターが、かなり面白いものを書く人なので、これからも期待してもいいかもしれません。

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 今回の大河ドラマの1話で感心した事は、最初から「美味しいところ」を見せる切り口を見せているところですね。まるでルパン3世カリオストロの城のように、真田幸村がドタバタなアクションを繰り広げるところから話はスタートしていました。

父である真田昌幸モ、なんともいい味を醸し出していました。昌幸の(草刈正雄)のキャラクターもなかなか面白かったですね。特にセリフがよかった。ちょっと残念だったのは、真田信幸のキャラクターでした。真田信幸という武将は、父親の昌幸に劣らないすごい武将なのですが、それがちょっと見えてないのが残念でしたけれど、まだ一話なので、こんなものなのかもしれません。

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 ところで真田軍団というのは、長野県上田市の軍団のようなイメージがありますが、実は主力部隊の大半は、群馬県の吾妻郡の武士団なのです。北軽井沢ブルーベリーYGHのある嬬恋村あたりの武士たちが、真田軍団の中心部隊なのですね。そして真っ先に突撃する先鋒の軍団が、吾妻衆と言われている嬬恋村の武士団です。上田の武士たちは、馬周り。つまり殿様のそばにいる兵士たちでした。そして後詰めが沼田衆といわれる部隊です。いちばん勇猛で戦闘能力が高いのが吾妻の武士団であったということです。その中でも中心的な武士団が鎌原氏です。つまり北北軽井沢ブルーベリーYGHの住所にあたる嬬恋村鎌原という場所の武士なんですよね。

 というわけで、これから何回かに分けて、真田軍団のゆかりの地について解説してみたいと思っています。岩櫃城とか、伊香保温泉とか、沼田城とかです。そして、どうして徳川秀忠が関ヶ原に間に合わなかったのか? 本当に第二次上田合戦が原因だったのか? また、どうして大阪城は落城したか? 真田丸とは、なんであったのか? ということを解説してみたいとも思っています。


つづく。

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posted by マネージャー at 20:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 真田丸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月13日

2016年の初日の出ツアー

長いこと更新を怠ってもうしわけありませんでした。
体調が悪くて更新できませんでした。
これから、できるかぎり毎日更新したいと思っています。

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まず2016年の初日の出ツアーの紹介です。

15年にわたってのツアーです。過去に見られなかったのは1回のみ。もちろん今年もすばらしい初日の出でしたが、いつもと違うのは、多くのホテルがツアーを出していたこと。こうやってブログで紹介していたら、いろんな宿泊施設も追従するようになりました。これは、いいことです。各ホテルも、どんどんまねして北軽井沢の素晴らしさを発信していただきたいです。

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つづく。

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posted by マネージャー at 10:14| Comment(0) | TrackBack(0) | イベント | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする