2016年01月17日

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる

 西暦2000年に私は、嬬恋村の北軽井沢地区に引っ越してきて、今の宿屋を始めるわけですが、最初はなかなか地元の人と馴染めなかったです。これはどこの田舎でもそうだと思うんですが、最初はなかなかなじめないものなんですね。ただし、 3年ぐらい経つと、周りから地元民がどんどん私に接触してくるようになりました。理由は簡単です。地元の店舗とかレストランをホームページで徹底的に紹介したからです。そして、うちのお客さんを、どんどんそういう店に紹介していたものだから、地元の人たちに感謝されたんですよね。で、地元民と仲良くなった訳ですが、ある程度仲良くなると、仰天するような事を体験します。その一つが、自殺に関する話題です。

「最近なになにさんが、見えないねぇ」
「あ、その人は自殺したわ」
「そうだったのか。ところで話は変わるけれど…」

 普通、人が自殺すると大ニュースになります。これは、私が生まれた佐渡島でも、あたしが17年間住んでいた東京の池袋でも同じでしたが、嬬恋村では普通に日常会話で流されてしまう。自殺が少しも珍しく語られない。これに衝撃を受けたわけです。

 どうしてだろう?

 と不思議に思っていたら、この村で校長先生をやっていたこともある人に、その理由を教えてもらいました。この村では、親族間の結婚が多くて、遺伝子的に精神が弱いところがあるのかもしれないとの事でした。だから、躁鬱症にかかる人も多く自殺率も高いらしいのです。

 それが事実かどうかは、さておいて、この地域には親戚が多い事は確かです。例えば、嬬恋村の隣にある長野原町は、人口の半分が◇◇一族だと言われています。先祖をたどると、半分近くが親戚になってしまうわけです。嬬恋村でもご多分にもれず、大抵はどこかで血が繋がっているわけです。で、その血の繋がりというのは、みんな真田一族なんですね。

 そんなバカな?

 と最初は思っていましたが、本当にそうでした。私のようなよそ者はともかくとして、村の人の大半が真田1族なんですね。で、真田の血筋のものと、私のようなよそ者では、行動原理が違うわけです。例えば真田系の人たちというか、嬬恋村の人たちは、上田市に買い物に行くわけです。しかし、私のようなよそ者は、軽井沢に行きます。向いている方向が違うわけです。嫁さんにしても上田市の方(旧真田町)に嫁に行ったり、上田市の方(旧真田町)から嫁をもらったりしてるわけです。親戚が県をまたいでいるんですね。

 面白いなぁと思ったのは、登山道の整備に関してです。日本百名山の1つ四阿山の登山道は、嬬恋村の中にあります。当然のことながら登山道の整備は、嬬恋村役場の観光商工課がやっているわけですが、嬬恋村が登山道整備すると、旧真田町(上田市北部)の人たちが、お礼を言ってくるわけです。明らかに、四阿山の登山道は、旧真田町(上田市北部)の人たちのものだと思っているし、自分たちが整備すべき場所だと思っているわけですが、本来ならば嬬恋村の土地にあるわけですから、嬬恋村の役場が整備して当然なわけですよね。しかし、旧真田町(上田市北部)の人たちは、そうは思っていないわけです。

 なぜか?
 実は、ここに嬬恋村と真田一族の謎を解く鍵があります。

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 実は嬬恋村は、非常に特殊な歴史をもっているんですよね。
 修験者たちが開拓した村だったんです。

 平安時代末期、一人の修験者が、嬬恋村に流れてきました。
 信州に大帝国を拡げていた、海野一族の跡取りの一人でした。
 名は、海野幸房と言います。
 兄は、海野幸家。真田一族の家祖にあたります。

 彼は、戦争に嫌気がさし、修験者となって、人も住んでない嬬恋村にやってきました。当時の嬬恋村は、1108年の天仁の噴火で壊滅して間もない頃でしたから、ほとんど人は住んでなかったようです。そこに、修験者となって、流れてきた海野一族の一人は、粗末な庵をつくり、『捨城庵』と名付けました。城を捨てて、造った粗末な小屋という意味です。刀を捨てて、修験者となって、修行を行いつつ、嬬恋村の開拓をはじめました。場所は、嬬恋村の万座鹿沢口駅のあたりです。

 海野幸房は、名前を、下屋将監幸房と改名します。そして、子孫たちに嬬恋村を開拓させていき、広大な領地をもつにいたりますが、下屋氏は、勢力が大きくなると、次々と分村していき、譲り状を渡し、小国に分割していきます。

 わざと巨大な帝国を造らずに、逆に小さくしていったのです。今風にいえば、地方分権に徹したわけですね。そのために、下屋本家は、戦国時代の下克上からも逃れることができました。そして、今なお嬬恋村に存在しています。嬬恋村には、千年の歴史をもつ名家が、いまでもいるのですね。

 下屋本家を造った下屋将監は、映画「阿弥陀堂だより」の阿弥陀堂あたりに、修験道の神社を造りました。そして、甲冑鎧などの武器を埋めて、『捨城庵』を建てました。そして、神社は大いに栄えるのですが、山津波で壊滅します。壊滅した後に「阿弥陀堂」が建ちます。まあ、それはいいとして、そのあたりに住む人たちは、宮崎の姓を名乗るひとが多いのですが、ご先祖様が、神社に使えていたためです。

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 下屋氏一族は、さかんに嬬恋村を開拓します。そして、真田から嫁をもらって人口を増やします。この風習は、現在でも残っていて、嬬恋村と旧真田町は、親戚どうしみたいになっています。そのために、嬬恋村は真田と隣接している西部の政治力が強く、東部の北軽井沢側は、風に飛ばされてしまいそうに弱体です。村長も、議員も、真田側からワンサカでてきますが、北軽井沢側は政治的に沈黙したままです。

(そのへんの事情は、詳しくは、以下のページを御覧ください)
 http://kaze3.seesaa.net/article/123305890.html



 脱線しました。
 下屋氏一族のことです。

 下屋氏一族は、武器を捨て、宗教(修験道)の力をもって開墾を続けました。武器の力ではなく、信心の力で開墾を行い、天仁の噴火で壊滅した嬬恋村を見事に再生させます。そして、広大な領土をもつに至りますが、下屋氏一族には、領土的野心はこれっぽっちもなく、分村し、暖簾分けし、村々を次々と分家たちに譲り渡してしまいます。

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 暖簾分けされた中に、鎌原氏という存在があります。下屋氏一族の開祖、下屋将監の孫にあたります。この鎌原氏が、勢力を伸ばし、嬬恋村の地頭職に出世します。しかし、下屋将監直系の本家は、武力を持たず、ひたすら修験道に励んで荘園領主として平和国家を作っていました。

 しかし、平和国家なるものは、自分の都合だけでは成立しません。武器無き民を攻め掠めようとする侵略者たちは、かならず現れます。それに対抗したのが鎌原氏でした。

 北軽井沢ブルーベリーYGHの住所は、嬬恋村鎌原1506-12ですが、これは鎌原氏の領土範囲だったことを示します。鎌原観音堂も、鎌原氏ゆかりの寺であったはずです。そして鎌原氏が、武力で他国の侵略を防ぐわけですが、そういう役割を人間を鎌倉時代では、「地頭」と言ったわけです。

 こうして、荘園領主の下屋氏一族と、地頭職にある鎌原氏の2大勢力が成立します。では、下屋氏一族と鎌原氏は、その後、どのような運命になっていったのでしょうか?


つづく。

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posted by マネージャー at 20:43| Comment(7) | TrackBack(0) | 真田丸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする