実は私は、新潟県のド田舎で生まれ育ちました。そこから上京して東京の池袋の街中に17年住むわけですが、最初の頃は、ご多分にもれず、東京の人達はちょっと冷たいと、みんなそれぞれに距離があると思ったものです。まあ口に出しては言えませんでしたが、田舎から来る人たちは、たいていの人たちがそう思ったと思います。特に関西地区から来た人たちは、大声で叫んでいました。
しかし、池袋の駅から徒歩10分ぐらいのところに、数年ぐらい住んでいると、なぜ東京の人たちは、ちょっと冷たいと感じたかがわかってきます。冷たいのではなくて、礼儀正しいのですね。礼儀正しく生きていくのが、人生の知恵にならざるをえないのです。
今では考えられないことですが、昔は、トイレや台所が共同のアパートが多かったですから、池袋から徒歩10分のところに住むと言う事は、そういうところに部屋を借りるということになります。もちろんお風呂なんかありません。みんな銭湯に出かけます。台所もない4畳半がほとんどで、ちょっとリッチな部屋になると、 6畳間に、 半畳ほどの水回りが付いている場合もあります。そんな狭いアパートが、20部屋ぐらいあったりして、そういうところについ最近まで、というかバブルの頃まで多くの日本人は住んでいました。
もちろん、それだけの住人がいれば、変わった人たちも、中には1人ぐらいいて、酒乱か何かになって他の住人に迷惑をかけるケースもあります。そうなると、大家さんが激怒したり、警察を呼んでみたりで、一騒動が起きるわけですが、それで片付けば良いのですが、なかには、おかしな人たちもいて、片付かないケースもあるわけです。
すると、今まで全く無関心だった紳士ぽい隣の部屋の人が、突然出てきて、あっという間に、おさめてしまいます。警察や裁判所でも解決できなかった問題を、今まで空気のような存在だった影の薄い隣人が、全部解決してしまう。
「あれ?」
と思うわけですね。
「なんだろうこれは?」
と、 20歳ぐらいの私は不思議に思っていたのですが、後でその隣人は、 893関係者だったということを、ある人から聞かされて「えええええええええええええ?」と驚きました。というのも、とても親切で優しげなサラリーマンにしか見えなかったからです。つまり、東京の池袋駅から徒歩数分ぐらいのところのアパートに住んでいたら、人は全く見かけによらないという事を、否が応でも学習します。そう簡単に、喧嘩なんかできません。自然と礼儀正しくなるわけです。
これは運転免許をとって自動車を運転してみるともっとよくわかります。都心に近づけば近づくほど運転マナーがよくなってきます。都心部では譲り合いを徹底しています。しかし都心から離れて北関東のほうに来ると、運転マナーは、次第に悪くなってきますね。田舎に行くほど、運転マナーがひどくなってきます。
じゃぁ、田舎のほうは、人間がダメなのかというとそうではないと思います。ある意味、人間を信頼しているから、多少マナーが悪くてもなんとかなってしまうこともあるのかなぁと思っています。しかし、東京の都心では、どんな人がいるか分からないので、マナーを守らないと安心して運転なんか出来ないんですよね。
まぁここまで書くと、極論になりますが、何が言いたいかと言うと、
東京人の礼儀正しさの中には、
安全保障の一面がある
ということを言いたいわけです。
前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。 17年間池袋に住んでいた私は、その後、 3年ぐらい埼玉県の春日部に住むことになります。春日部は、東京のベットタウンみたいなところなので、古い住民と新しい住民が住んでいるわけなのですが、新しい住人は、東京と同じく礼儀正しいのですが、古い住民たちは、ちょっと口が悪いんですね。逆に言うと、距離感がないというか温かみがあったりするわけです。これに衝撃を受けるわけです。その前に17年間池袋に住んでいたので、この人たちは大丈夫なんだろうか?と思うわけです。
例えば何かのトラブルが起きた場合、古い住民は、ささいなことでも、人に文句をつけてくるわけですね。新しい住民は、ささいな事はとりあえず我慢して、我慢しきれなくなった場合は、警察に相談するとか、法的手段に訴えるといった行動をとるわけですが、古い住民たちはそういうことをしないんですよね。ストレートに文句を言ってくるわけです。それも、相手の神経を逆なでするような言葉も使ってくるわけです。つまり安全保障のために礼儀正しくするという感覚がうすいのです。
これにはハラハラしました。相手が893関係者だったらどうするんだろうと、ハラハラしたもんです。池袋にいた住人たちは、相手がどんな人間か分からないわけですから、かなり慎重に行動するわけですが、春日部あたりの古い住人たちは、そういう配慮をしないわけです。つまりそれだけ、池袋よりも安全な地域なんですね。相手に対して信頼感があるわけです。だからそういう無茶ができるんですね。
そして、その後に、私は北軽井沢に引っ越してくるわけですが、こちらに来ると、もっとそれがひどいわけです。ここでも安全保障のために礼儀正しくするという感覚がうすいのです。だから平気で悪態をつける。相手の素性が知れているから安心して悪態がつける。何処の誰か分からないということがないからです。ある意味、人間を信頼しているわけでしょうが、それゆえに田舎特有のトラブルもあるわけです。これは私が生まれた佐渡島でも一緒でした。
話をもどします。
嬬恋村は修験者たちが開拓した村でした。
平安時代末期、一人の修験者が、嬬恋村に流れてきました。信州に大帝国を拡げていた、海野一族の跡取りの一人でした。名は、海野幸房と言います。彼は、戦争に嫌気がさし、修験者となって、人も住んでない嬬恋村にやってきました。当時の嬬恋村は、1108年の天仁の噴火で壊滅して間もない頃でしたから、ほとんど人は住んでなかったようです。そこに、修験者となって、流れてきた海野一族の一人は、粗末な庵をつくり、『捨城庵』と名付けました。城を捨てて、造った粗末な小屋という意味です。刀を捨てて、修験者となって、修行を行いつつ、嬬恋村の開拓をはじめました。
海野幸房は、名前を、下屋将監幸房と改名します。そして、子孫たちに嬬恋村を開拓させていき、広大な領地をもつにいたりますが、下屋氏は、勢力が大きくなると、次々と分村していき、譲り状を渡し、小国に分割していきます。わざと巨大な帝国を造らずに、逆に小さくしていったのです。今風にいえば、地方分権に徹したわけですね。
こうして、吾妻郡はどんどん開拓されていくわけですが、そのたびに譲り状を渡して小さな豪族が生まれるわけです。そして、吾妻郡一帯は、みんな親戚だらけに成ってしまうんですね。先祖をたどると海野一族(下屋氏)になってしまうわけです。ここが重要なんです。吾妻郡の先祖が、みんな海野一族ということが重要なんですね。
吾妻郡というのは、後に、武田信玄と上杉謙信が激動する場所であるのですが、戦場では圧倒的に強かった上杉謙信が、武田信玄に徐々におされてしまう理由は、ここにあるわけです。まともに戦ったら、武田信玄は上杉謙信に勝てるわけがないんですが、実際は、少しずつ武田信玄の方が吾妻郡の領土を拡大していくんですよね。そして最終的には、群馬県の北部をほぼ手に入れるわけです。その理由が、吾妻郡のほとんどが親戚同士だったということがあるんですよね。
さて、この親戚というのが曲者なんです。
お里が知れているために、安全保障のために我慢する(譲歩する)という感覚が、お互いにないんですよ。今現在、田舎に住んでいる人なら分かると思いますが、親戚というのは、それも遠い親戚というのは、よくもめるんですよね。お里が知れているからよくもめる。特に農家は、土地争いをします。相続あらそいもします。戦国時代の吾妻郡もご多分に漏れず、領地をめぐって争いが絶えなかったようです。
この時代の武士というのは、ほぼ農民の事でしたから、農地をめぐって戦いに明け暮れました。これが鎌倉時代なら、問題は簡単でした。鎌倉幕府に訴えを出して、裁定してもらえばよかったからです。けれど、 室町幕府には、そういう力がだんだんなくなってきたために、土地争いが激しくなってくるんですね。それで、近くの有力な大名をバックに自分の土地の安全保障をしてもらうわけです。こうして、自分の土地を守ろうとしたわけです。
吾妻郡嬬恋村でも例外ではありません。鎌原氏と羽尾氏が土地をめぐって争い、鎌原氏が武田信玄をバックにし、羽尾氏が上杉謙信をバックにして戦うわけです。両方とも親戚なんですが、バックに超大国を持ってきて同族同士が戦ったわけですね。
で、これに関わったのが「真田幸隆」という人間なんですが、こいつが、またくせ者なんですよ。嬬恋村の隣にある旧真田町の国人衆なんですが、戦いに敗れて嬬恋村に落ち延びてきます。そして、嬬恋村の親戚の羽尾入道のもとに逃げてくるわけですが、この「真田幸隆」が、後に武田信玄の家臣となり、最強の武田軍団を作っていくんですね。つまり、真田イコール武田だと思って間違いありません。で、どういうところが「イコール」なのかと言いますと、長くなるので、続きは、後日、解説したいと思います。
つづく。
↓ブログ更新を読みたい方は投票を
人気blogランキング