上杉謙信がナポレオンだとすれば、武田信玄はウェリントンとグナイゼナウ。
上杉謙信が義経だとすれば、武田信玄は源頼朝。
上杉謙信が遠山の金さんだとすれば、武田信玄は必殺仕事人たち。
上杉謙信が仮面ライダーだとすれば、武田信玄はゴレンジャー。
戦国武将で最も戦闘力が高いのは、上杉謙信で間違いありません。その勝率は9割にもなります。NHK BS歴史館によれば、上杉謙信は、69戦して61勝2敗8分の記録を作りました。
勝率は9割です。これがどのぐらい凄いかというと、ライバルの武田信玄でさえ、49戦33勝11敗3分。勝率6割です。武田信玄得意の調略による城攻めを含めれば、通算72戦49勝3敗20分になりますが、それでも勝率は6割です。川中島の戦いでも、引き分けということになっていますが、戦闘そのものは上杉軍の勝利で間違いないと思います。なにしろ武田軍の主な武将たちが何人も死んでいるからです。上杉軍で大将首を盗られたものはありません。しかも、上杉謙信は侵略のために戦争したことが1度もありません。それに対して武田軍は、侵略に次ぐ侵略です。そもそも武田軍の旗印である「風林火山」からして、私は侵略しますよ・・・と言っているようなものです。なにしろ「侵略すること火の如し」ですからね。
だから、新潟県民にしてみたら、武田信玄を好きな人など誰もいません。それは武田信玄の侵略方法からして非常に残酷だからです。例えば、稲刈りの時期に敵国に攻めていきます。もちろん敵国は山城にこもるわけですが、武田軍は略奪の限りを行ったうえに、実った苗を全部刈り取って帰っていくわけです。もちろん暖房狼藉の上に住民たちを人買いたちに売りさばいてしまったりする。こんな連中を好きになれといっても、新潟県民は、なかなか好きにはなれないわけです。
しかし、別の見方をすると武田信玄という男は、すごい名君なんですね。自分の犠牲を出さずに、相手を降伏させる天才なんです。それは「風林火山」の元になっている「孫子」の兵法を使っているからです。孫子のテーマは「戦わずして勝つ」ですから、こんな合理的な事はありません。戦国武将だって、できるだけ死傷者は出したくないですから。
けれど、武田信玄の1番の魅力は、戦争上手というよりも行政能力にあります。徳川家康が手本にして江戸幕府の基本法律に取り入れたぐらい武田信玄の行政能力は高かった。特に甲州法度はすごかった。長い前置きはこのくらいにして、ここから本題に入ります。
世の混乱には、ある法則があります。法律と警察と裁判所が機能しなくなったときに混乱するのです。例えば戦後の混乱期は、法律と警察を裁判所が機能しなくなって起きたものでした。法律が平等でなくなり治外法権ができると混乱するんですね。戦国時代でもそうです。
武士というのは基本的に農民ですから、水争いや土地争いがしょっちゅう起こります。それを収めるために鎌倉幕府というものができたのですが、裁判で自分の土地を明確にしてもらうのが当時の政府の主な役目でした。もちろん室町幕府でも事情は同じです。しかし、これがだんだん機能しなくなってくるわけです。そうすると水争いや土地争いが起きると、喧嘩になってしまいます。たいていは、親戚同士の喧嘩なんですが、それがだんだん大きくなって、収まりがつかなくなって、周りの有力大名を抱きこんでの戦争が起きてしまうわけです。
そうなると有力大名も、土地争いに介入して子分をどんどん増やしていって勢力圏を拡大していく。そうしないと他の有力大名に滅ぼされる可能性がありますから。そうして戦国時代が始まるわけですが、その戦国時代に有力大名のエースが山梨県から出てきました。戦争が上手で、他国をどんどん侵略するエースです。
その人の名前は「武田信虎」です。
いわゆる武田信玄のお父さんですね。
この人は、上杉謙信ばりに戦が上手でした。戦争の仕方も、武田信玄というよりも上杉謙信のほうに近いかもしれません。なにしろ14歳で家を継ぎ、その翌年に叔父を滅ぼし、そして今川軍と戦っています。その後も今川軍や北条軍と戦いながら甲斐国を統一していますから戦争の天才といってもいいでしょう。下手したらこの人が、甲斐国の上杉謙信。いや、甲斐国の織田信長になっていたのかもしれません。
しかし、そうはならなかったんです。武田信虎は、戦争が上手でも行政能力がイマイチだったんです。部下に対しては信長のように厳格だったために、何人ものの部下が明智光秀のような感じになっていました。でも、それだけならまだ救いがあったんですが、当時の山梨県は災害に明け暮れているいたんです。例えば、4月に1メール50センチの雪が降っている年もあり、翌年に全く降らなかったりしています。2年連続で領民が壊滅状態になるほどの自然災害がおきたこともあります。で、その結果、何がおきたかというと、武田家の内紛が起きたんです。家臣と息子の武田信虎を追放して、武田信玄が領主になっているのです。
信長は、明智光秀と言うたった1人の部下に謀反を起こされて死ぬわけですが、武田信虎の場合は、すべての部下たちと息子である武田信玄に謀反を起こされているわけです。よほどみんなから嫌われていたようです。しかも、当時の記録によれば、武田信虎が息子に追放されると、甲斐国の武士から坊さんから農民に至るまでみんな喜んだと書いてあります。
で、父親を追放して君主となった武田信玄は、父親を反面教師として、行政に力を入れるわけです。
まず法律の制定です。これがいわゆる甲州法度ですね。そして警察と裁判所を設置して、土地争いを収めます。そして、下々に訴訟する権利を与えます。訴訟があれば、中央から綿密な調査を行って仲裁します。したがって、喧嘩両成敗となります。喧嘩になれば、どちらに非があろうが処罰されるわけです。私闘による解決を禁止して、公的機関で決着をつけさせると言う方法をとっているわけですね。法治国家を目指していたわけです。法治国家を作ることによって、土地争い・相続争いをなくして混乱を防ごうとしているわけです。
その他にも、金山の経営を行って貨幣を生産したり、計量単位を統一したり、大規模な土木工事行って農業生産を上げたりしています。商業も保護しました。保護した上で商人たちから情報を収集しました。その上、温泉の開発などの福祉政策も積極的に行っています。武田信虎を反面教師とした武田信玄は、このように内政を徹底的に重視したんですね。
当然のことながら、官僚が(行政官)法治国家を支えます。
その官僚の1人に、武藤喜兵衛という人がいます。
彼こそが信玄の行政官として領国経営を行っていました。
戦争時には、武田信玄の伝令として活躍していました。
この武藤喜兵衛が、真田昌幸なんですよ。
つまり彼は、武田信玄のもとで、行政官として活躍し、戦場では伝令として戦争を目撃する立場にあり、情報集める立場にありました。武田信玄の目玉に成っていたのです。まさに、真田昌幸イコール武田信玄であったわけです。武田信玄の能力の後を継いだのは、武田勝家ではなくて真田昌幸だったのかもしれないのですよ。
意外に思われるかもしれませんが、真田昌幸は、決して上杉謙信のように勇猛な武将であったわけではありません。むしろ行政官として民心の安定を心がけ、戦場では、もっぱら情報を扱う縁の下の力持ちでした。
つづく。
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