2016年01月28日

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 4 真田丸2話解説

 10日前に50センチの大雪が降りました。そして1週間前にさらに40センチの大雪が降り、うちの宿はてんてこ舞いです。なにしろ土地が1,000坪もあるので、雪かきも半端でない量になります。おまけに大雪の初日から、ウィンターフェステバルの作業が始まっていました。午前中はウインターフェスティバルのボランティア作業をします。これがなかなかの重労働です。そのために出席するホテルやペンションオーナーはほとんどいません。皆さん自分のところの雪かきで、精一杯なんですね。

 無理もないです。
 自分もそうしたいです。

 けれど、それをやったらだれも出席する人がいなくなります。欠席したいけれど欠席できない状態が続きいました。なので午前中はウィンターフェスティバルの手伝いをし、午後から自分の宿の雪かきです。もちろん日が暮れるまであります。朝から晩までこの仕事をして、体はクタクタなのですが、おそらく今年が最後だと思うので、老骨に鞭を打って頑張ってきました。おかげで体重はどんどん減ってきました。

 まぁそういうわけなので、最近はテレビを見る暇もありません。ようやく昨日、テレビを見るゆとりが出てきたので、 NHK大河ドラマの真田丸の2話と3話の録画を見ることができました。今日は、2話について少しばかり解説します。(明日は、3話を解説しますね)

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 2話は、真田信幸と幸村が、甲府の新府城から、群馬県吾妻郡にある岩櫃城に向かうのが主なストーリーなのですが、その時に野党に狙われたり、裏切り者の小山田一族に殺されかかったりします。それを、真田幸村の機転によって何とか切り抜けるのが、主な見せ場になっています。たとえば、兵糧狙いの農民には、着物をばらまいてその隙に逃げるとか、みすぼらしい農民の格好して、逃げるとかです。ドラマとして非常に面白かったですが、これはあくまでもドラマです。本当はちょっと違うことを述べておきたいと思います。

 実際は、この時は兄の信幸の大活躍で一同は助かるんですよね。兄の信幸は、身長185センチの当時としては大男です。彼がつけていた鎧の大きさでわかるんですよね。もちろん巨大な鎧を身につけ、彼は甲州黒と言う名馬にまたがって、岩櫃城に向かうんです。このとき彼の年齢は17歳。馬にまたがって十文字槍をとって、堂々と街道行きます。

 当然のことながら、甲斐の落ち武者狩りがやってきますが、 17歳の信幸の超人的な活躍によって次々と返り討ちにします。そのために、誰も近づけないわけです。そこで、埼玉県や群馬県あたりの忍者たち(おそらく北条氏の手のもの)が、彼らを暗殺しにくるわけですが、これも撃退します。もちろん幸村も活躍したと思いますが、ゲリラのように百姓の姿になって岩櫃城に向かったわけではなく、甲冑鎧をつけて馬にまたがり、堂々と帰還しているんですよ。

 だからあれは、いわゆるフィクションです。

 それはともかく闘いながら、岩櫃城に戻るわけですから予定通りに到着しません。行軍の日程が伸びてしまい食料がなくなってしまうわけです。それでもなんとか草津街道あたりに到着し、腹が減ってどうしようもなくなった頃に、吾妻郡の鎌原氏(嬬恋村)・湯本氏(草津町)が迎えにきて、腹を満たします。そして、嬬恋村の大笹の雁ヶ沢に到着。このあたりです。

http://kazeno.info/karuizawa/9-hoka/9-hoka-3-06.htm

 関所跡のあるあたりです。

 雁ヶ沢という地名は、雁がこの谷へ降りても、ふたたび飛び上がるのも難しいということでつけられた地名。目がくらむほどの断崖絶壁。信幸は誰かここから飛び降りるものはいないか?と冗談を言うのですが、赤沢嘉兵衛という者が「それがしが飛んでご覧にいれましょう」と飛び降りました。

 真田兄弟は、呆然とします。
 もちろん真田昌幸は烈火のごとく怒ります。

「せっかくの赤沢を無駄事にさせるとは何事だ。言語道断である」

 真田昌幸は、家来を無駄に死なせた信幸に大激怒です。
 そこに死んだと思ったら赤沢嘉兵衛がやってきました。そして

「あの程度の谷へ飛び下りたところで、死ぬような自分ではありません」

 赤沢は茶目っ気たっぷりに答えました。
 しかし、それに対する真田昌幸の回答はこのようなものです。

「稀には死なないこともあろう。しかしこのような無茶なものは俺の用にはたたぬ。無益に命を捨てようとしたのは不届き千万」

と勘気を申し付けました。後に赤沢嘉兵衛は徳川家康が上田城を攻めた折、神川合戦で首級二をぶらさげて昌幸の実検に現れ、勘気を説かれました。その後も数度の戦功をあらわし、一生のうちに二十五の首級を捕ったと伝えられています。

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 このエピソードから分かる事は、真田昌幸は、むやみに命を失うような無茶を嫌う人だったということです。命を大切にし、着実に物事を納めることを重視している姿が見えます。これがもし、豊臣秀吉だったらどうだったかと思うと、派手好きな秀吉だっただけに、赤沢に感動していたかもしれません。それだけに昌幸のキャラクターが浮き出てきますね。

 また、このエピソードで、真田昌幸は息子達に独自の帝王学を教えています。家来に無茶をさせるなと怒っているわけです。つまり真田昌幸は、無茶ぶりの人ではなく、むしろ慎重で着実に物事を進めるタイプに見えます。いわゆる官僚タイプです。武田信玄のもとで行政官(奉行)や伝令を行っていた感じの人ですね。

 17歳の真田信幸も赤沢嘉兵衛と同じように、無茶をするタイプだったのかもしれません。だから真田昌幸は息子の教育のためにも、無茶をした赤沢を公衆の面前で激怒してみせたのかもしれません。

 のちに真田昌幸は徳川軍を2度も撃退しますが、無茶な博打のような戦で撃退したわけではありません。非常に慎重に行動した結果、徳川軍を撃退しています。その時に、真田信幸が調子に乗って作戦を台無しにしかかるケースもあったかもしれないんですが、その頃の信幸は、慎重なキャラクターに変化していました。昌幸の帝王学がうまく通じたようです。


つづく。

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posted by マネージャー at 08:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 真田丸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする