2016年02月06日

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 7

 前回は、真田昌幸は諸葛孔明では無い。黒田官兵衛・竹中半兵衛では無い。諸葛孔明ではなくて、武田信玄であったということを述べました。真田昌幸は、武田信玄の遺伝子を濃厚に受け継いでいると言いました。では、武田信玄とはどういう人間であったのか?について、真田丸の5話が始まる前に、少し解説しておきたいと思います。

 これは以前にも話したことなんですが、武田信玄と言うのは、戦国時代には珍しいインテリだったんですね。どうしてかというと、血筋がスーパーサラブレットだったんです。下手したら足利将軍なんかよりもずっと血筋がいい。だから鎌倉幕府には警戒されていたくらいです。そういう血筋なので、幼い頃から教育を受けています。もちろん禅宗の坊さん達から儒教などの古典教育をしっかり受けています。当時の僧たちは、今で言う大学教授みたいなもので、政治経済歴史古典なんでもたしなんでいましたので、武田信玄は山梨県の田舎にいながらも、その情報収集力は京都にいるのと全く変わらなかったようです。

 有名な風林火山の旗印も、心頭滅却すれば火もまた涼しと叫んで、織田信長に焼かれてしまった快川紹喜が書いて与えたものだと言われています。ちなみに風林火山とは、孫子の言葉からとった文句でもあります。孫子の本質は戦わずして勝つことにありますので、武田信玄の兵法は、無駄な死者を出さないことに集中していました。

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 まぁそんな事はどうでもいいんですが、ここで注目したいのは、武田信玄が、戦国大名には珍しい教養人だったということです。要するにエリートだったんですね。幼い頃から帝王学を学び、中国の古典、儒教などを学ぶことによって、人に気遣いをする様に訓練をし、さらに和歌、絵画、蹴鞠まで嗜みました。

 こんな武田信玄は、 21歳で父親を追放して、家督を継いでから、すぐに行ったのは土木工事です。戦争ではなく、土木工事行っているんですね。これがいわゆる信玄堤です。これは家督を継いでから19年もかけて完成しています。もちろんそのメンテナンスも抜かりありません。メンテナンスをする農民たちには税金を免除して、これに従事させています。

 さらに、すごいことには鉱山の開発を行いました。もちろん金鉱石を精錬するためには燃料が必要です。その燃料は、もちろん樹木です。金銀がが掘られるたびに、次々と山が禿山になっていきますが、その禿山も段々畑や田んぼにして、農業生産力を拡大してしまいました。

 また、道路の建設や、通信手段としての狼煙台も盛んに設置しています。もちろん狼煙台は、嬬恋村にも跡地が残っています。有名なのは、桟敷山の狼煙台です。

 福祉施設も大量につくりました。その一つが温泉です。山梨県には、信玄の隠し湯なるものはたくさんありますが、群馬県にもたくさんあります。その中でも有名なのが、伊香保温泉です。これについては後で解説してみたいと思います。その上、商業を奨励し、付加価値の高い農作物を作らせました。

 とにかく武田信玄という男は、自分の国のGNPを増やし続けました。どのくらい増えたかというと、平安時代には、たったの1万石しかなかった甲州 の石高が、太閤検地の頃には、22万石に増えています。22倍に増えているんです。これが隣の長野県になると、平安時代には15万石で、太閤検地の頃には、40万石です。だいたい2.5倍ぐらいしか増えていません。他の国々でもにたようなもんです。同じ山国の飛騨なんかは、平安時代も太閤検地の頃も同じ3万石ちょっとです。これを考えると、武田信玄の開発力が、いかに凄かったか分かるかと思います。

 だから甲斐の領民たちが、武田信玄を崇拝する気持ちはよくわかります。領主が交代しただけで、あっという間に豊かになったわけですから、尊敬しない領民が居る訳がないのです。おまけに武田信玄は、甲州法度で法治国家を作り上げ、領民に不平不満がないようにしています。その上、戦争になっても、できるだけ自分のところには犠牲のないように、謀略を中心とした方法で領土を拡大しています。

 雑談も大好きで、家来に気配りをし、常に家来や領民の言葉に耳を傾けたわけですから、これほど心地よい上司もないかもしれません。その信玄の側で、一部始終見ていた男が、真田昌幸であり、武田信玄のエッセンスをことごとく自分のものにしていたわけです。


つづく。

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posted by マネージャー at 23:53| Comment(6) | TrackBack(0) | 真田丸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする