2016年04月24日

健康と食事について

 今年は桜が咲くのが早いようです。嬬恋村では、毎年ゴールデンウィークに桜が満開になるのですが、今年は今がピークのようです。軽井沢でも、少しずつ桜が咲いています。今日は、夏になったかのように暖かかったので、さらに桜が咲いたかもしれません。もう春なんですね。

 春といえば、毎年自治体が行っている癌に対する健康診断がありました。 3歳になったばかりの息子を連れて、夫婦で健康診断に行ってきたのですが、 3歳ともなると、かなり空気が読めるようになるので、息子はおとなしく椅子でずーっと待っててくれました。

 面白かったのは、今年からポイントカードが付いたことです。がん検診の1つ行うとポイントカードにスタンプが押されてます。 4つのがん検診を行うと、 4つのスタンプが押されて、次のがん検診が1回だけ無料になるか、もしくは万歩計がもらえるシステムになっていました。要するに、自治体はできるだけ多くのがん検診を住民にさせたいわけですね。

 そういえば、同じペンションの仲間で癌でお亡くなりになった人がいましたが、その方はいちども健康診断を受けてなかったです。そのために、癌の病気がわかったときには.もう手遅れでした。このような悲しい出来事を防ごうと、自治体も必死なんでしょうね。

 健康診断が終わってから、 1週間ぐらいがたつと、特定健康診断があります。いわゆるメタボ診断です。めんどくさいと言ったらないですが、これも村民の義務なので、3歳の息子を連れて夫婦で出かけました。

 特定健康診断というのは、体重身長などを測り、血液を検査し、食生活をチェックして、心電図や血圧をはかり、メタボにならないように指導するための検査です。非常にめんどくさい検査で、あちこち移動するために、私は息子の手を引っ張りながら検査を受けます。

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 うちの息子は、非常に行儀が良いので、その辺の椅子に座らせておいても、静かに座って待っているのですが、周りの大人達はそれを許しません。3歳児というものは、ちょっと目を離すと、どこにでも行ってしまうものだと言う概念があって放置すると怒られてしまうので、仕方なく私が息子の手をつなぎながら移動します。

 例えば、体重をはかる時など、カーテンの中に一緒に入るときにも、息子を一緒に連れて行きます。外で待たせてもいいんですが、 一部の大人たちがハラハラするらしいんですよね。で、この特定健康診断では、いろいろなことを聞かれて、その都度、書類に記入されていくんです。

 朝食事をしたかどうかとか、
 どんな薬を飲んでるかとか、
 普段の血圧はどうなってるかとか、
 まあいろんな事をしつこくしつこく聞かれるわけです。
 いい加減うんざりしながら答えるわけですが、
「何歳ですか? 」
と聞かれたので、
「 54歳です」
と答えました。
すると係りの人は、
「いえいえ、坊やの年齢です」
「・・・・・」

 息子はこういうところに来ると、たちどころに空気を読んでおとなしくなるんです。これは宿屋の子供たちの特徴かもしれません。毎日いろんなお客さんがやってくる中で、瞬時に空気を読んで、お客さんに合わせる作業は、私も家内も日常的にやっているので、息子もそれを真似しているんでしょう。

 そのせいか、係りの人やお医者さんが、本来なら必要のない息子のお腹にまで聴診器を当てたりしてくれました。うちの息子は、いつもこのような調子で、ちょっと得をします。もっとも本人には、まったく自覚はないでしょうけれど。

 そういえば、私も、礼儀正しくて、お行儀の良い子供さん達が泊まりに来ると、ガンガンサービスしちゃうなぁと、人のことは言えないなぁと思ったりします。本当はこういう事はあってはいけないんですが、そこは人間ですから、可愛いらしい子供さんを見ると、ついついデザートで頑張ってみたりしてしまいます。これはどこの宿さんでも一緒でしょうけれど。

 それはともかく、 54歳ともなると、食事に対する考え方が若い頃とずいぶん違ってきてますね。オープンの頃から、 15年前からうちの宿に泊まっているリピーターさんなら分かるかと思いますが、うちの宿は10年くらい前までは、お客様にキャベツを出してなかった。日本一のキャベツの産地であるにもかかわらず、オープンしてから5年ぐらいはキャベツを出さなかったんですね。その理由は、キャベツを徹底的に研究した結果、野菜の中でもキャベツは最も多くの農薬を使うことがわかったからです。

 だからキャベツを出さなかった。
 私自身もキャベツが好きじゃなかった。
 それに、キャベツは、何か安っぽい感じがしたんです。
 野菜の中でも1番安いのがキャベツ。
 それをてんこ盛りに出すのに気が引けたわけです。

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 しかし現在は、キャベツをじゃんじゃん出しています。キャベツの美味しさを知ってしまったからです。嬬恋村には市場に出回らない幻のキャベツや、伝説のキャベツがあって、これがまた美味しいんですよ。一口にキャベツと言っても、いろんな種類があって、料理ごとに使うキャベツは違ってくるんですよ。

 しかし、もっと本音を言うと、キャベツが癌に効くからです。癌に対する最強の野菜と言われています。特に、乳癌や肺癌、膀胱癌、前立腺癌、大腸癌などの癌に効果があるとされている野菜なんです。ニンニクの次に各種の癌に効果があると言われています。ちなみに3番目に癌に効き目があると言われてるのが、人参なんです。

 私も54歳ですから、似たような世代の友人が、数多く癌で亡くなっています。明日は我が身ということを考えると、キャベツを食べないわけにはいかないのですね。

 また、うちのお客さんの中にも、何人かが癌で亡くなっています。
 癌を発病したけれど完治した人もいます。

 それを思うと、お客さんに、キャベツやニンジンやニンニクを出さないわけにはいかない。だからうちの味噌汁は、人参や白菜や大根がたっぷり入っています。どれも癌に効果のある食材です。というか、最強の癌対策野菜です。もちろんキノコもたっぷり入っています。こいつも癌にいい。だから、癌が気になるなら、うちの朝食の汁物をたっぷりお代わりしてほしいです。

 ニンニクは、直接出すわけにはいきませんから、ステーキソースにこっそりまぜてあったりします。たまにお茶会で、にんにく揚げを出したりもします。

 料理もこの数年間でずいぶん変わりました。昔は、 1人あたり250 gの肉を焼いたこともありましたが、今はやめて、少量にして品数を増やしています。小さな皿を10皿以上、出すようになりました。少量のおかずを多数出すようになったのも、健康を考えてのことです。夕食だけで 30品目を食べられるようにメニューを変えたんです。

 もちろん豆腐は必ず出します。

 リピーターのみなさんは、毎回豆腐が出てくるのに不思議に思ってるかもしれませんが、豆腐に含まれるイソフラボンはガン細胞の増殖を抑制するんです。豆腐などの大豆製品を多く摂取している人は乳ガンや前立腺癌になる率が低いことは有名な話です。

 私は前立腺がんの疑いで入院したことがあります。結局なんでもなかったんですが、それ以降、毎日豆腐を食べるようになりました。また、私の母親が骨粗しょう症になったこともあって、嫁さんにも豆腐を食べるように勧めています。なぜならば、イソフラボンは、抗酸化作用や抗腫瘍効果があるうえに、骨粗しょう症を予防したり、コレステロールを下げる効果があると言われているからです。

 話は飛びますが、息子が産まれてから、この3年間。食事について色々考えさせられることが多くなりました。子供が生まれると、食事に対して勉強することが多くなります。特にアレルギーを持っているお子さんのお母さんは、なおさらだと思います。そういうお母さんは、素晴らしいお食事をお子さんに作っているんですよね。 3歳児健診の時に、メニューが素晴らしいと先生にほめられたりするわけです。

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 逆に、全くアレルギーのないお子さんのお母さんは、パンと牛乳ばかりだったりして、先生から注意受けたりするんですね。

 つまり健康だと健康のありがたみが、今ひとつわからなくて、ついつい食育がおろそかになったりする。むしろ、 1つぐらい病気があった方が、健康に対する危機意識を持てるために、食事に気を付けたりする。

 年をとっていくと、体にガタが来たり、友人が病気でなくなったりしますので、どうしても健康を考えてしまう。だから、息子が生まれた時にも健康であればそれでいいと考えたし、宿屋の料理も、どうしても健康を中心にメニューを考えてしまいようになる。食育を考えるようになってしまうんですよね。


つづく。

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2016年04月21日

庭仕事を手伝う3歳児

 息子が、こども園に通うようになってから1週間ぐらいがたちます。うちの息子は、初日から1人でバスに乗って出かけたにもかかわらず、こども園が大変気に入ったようです。毎日行くのが、楽しくてたまらないという感じで、迎えに来るスクールバスに1人で乗るのも楽しくてたまらないようです。

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 ちなみに、こども園の先生方も素晴らしい方々で、毎日細かい報告を電話でしてくれます。下手したら親の私たちよりも息子のことをよく観察しています。私が子供だった頃よりも100倍以上って手厚く保護されていますね。私が保育所に通っていた頃は、こんなに手厚くなかったです。だから息子を託児所に預けても託児所が素晴らしいと思えたんでしょうね。

 今から50年ぐらい前の保育所は、現在の託児所と変わらなかったと思います。
 下手したら現在の託児所の方が50年前の保育所より手厚いかもしれません。
 逆に言うと、待機児童が問題になっている原因は、
 保育所が手厚くなったために
 人手が足りないためでは無いかと思えてきました。

 前にも書きましたが、50年前に私が保育所に通っていた頃は、何か工作をするときに家庭から持ってこさせるような行事があったときは、保育所の先生は、幼児に対して持ってくるように言っていました。当時はコピー機もないし、わざわざプリントを印刷する手段もない。電話だって普及率は半分以下だったと思います。もちろん私の家にも電話はなかった。迎えに来る人だって必ずしも親とは限らない。近所のお母さんが、ついでに連れてかえるケースもあるし、どうしても伝達手段が保育園児に限られていたわけです。

 例えば、翌日に七夕飾りを作る行事があった場合は、幼児に笹竹と折り紙を持ってくるように言っていたんです。当然のことながら、忘れてくる子どもたちもいます。私もその1人です。で、忘れてしまって、笹も折り紙も持ってこなかった私は、他の子供達が七夕飾りを作るのをじっと見ていました。

 問題が起きたのは、保育所からの帰り際です。私の祖母が、自分の孫だけ七夕飾りを持ってないのに怒りだしたわけです。慌てた保育所の先生は、大急ぎで保育所の裏にある笹竹を私と一緒に取りに行ってきて、 3分ぐらいで七夕飾りを作っちゃって、それを私に持たせ、
「おばあちゃんには自分が作ったって言うんだよ」
と言ったわけです。もちろん私は先生との約束を守って、自分がこの七夕飾りを作ったと言い張ったのですが、そんなことが自分の祖母に通用する訳がなく、祖母はますます激怒していきました。

 ここで重要な事は、 50年前の佐渡島の保育所では、折り紙と笹竹の用意は、子供達に直接言っていたという事実です。今では考えられないことですが、当時は、こういう事が通じたんだと思います。当時、保育園児だった私自身も、これによって忘れ物をしたらどうなるかということを経験できたので、貴重な体験だと思っていました。だから私は保育所の先生との約束を守ったんだと思います。当時の私にしてみたら、祖母の方が、モンスターペアレントに見えていたと思います。

 しかしこの体験も、現代の価値観からしてみたら、180度変わりますね。

 コピー機や電話が発達した今の世の中なら、物忘れをしがちな園児に、七夕飾り用の笹竹と折り紙を持って来るように言うこと自体が信じられない行為であると思うし、忘れ物した園児に七夕飾りを作らせないと言うことも問題になる行為かもしれません。なにより
「おばあちゃんには自分が作ったって言うんだよ」
と園児に嘘をつかせた行為は、大事件に発展するかもしれません。そういう意味では、1960年代の保育園というのは、のどかな時代だったのです。

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 まぁそんな事はどうでもいいとして、本題に入ります。

 息子がこども園に通うようになると、ショックを受けますよと、いろいろな方々から忠告されてはいたんですが、その意味がようやく分かってきました。こども園に通いだして間もなく、息子がトイレに入るたびに
「最高だぜ」
と雄叫びをあげるようになりました。年配の園児の真似をしてるんでしょうね。このほかにもいろいろな言葉を覚えてきています。良いも悪いも、上品な言葉も下品な言葉も覚えてきます。世の中のお母さんたちが、こどもの友人を選びたがるのは、こういうことが影響しているんでしょうね。

 以前、子供は育てたようにしか育たないと、このブログに書いていますが、こども園に通いだしてからは、これが別の意味に作用しますね。今までは、なんだかんだと言って親の影響が大きかったのですが、これからはこども園の影響も大きくなってくると思います。トイレで「最高だぜ」と絶叫する息子を見るたびに、そう思うようになりました。

 ただし、私はあまり心配をしていません。うちは自営業なので、親の方が圧倒的に息子に接する時間が長いんです。息子は、こども園から帰ったら、楽しそうに親の仕事の手伝いをします。ベットメイクをしたり、ワックスをかけたり、ゴミを片付けたり、何でも親子で一緒にやります。多少邪魔なのは仕方がないとして、 0歳児の頃から息子は、ずっと一緒に仕事をしていました。でも息子にしてみたら、遊んでるのと一緒なんです。
 
 動物学をやった人なら、こんな事は常識なんですが、いかなる野生動物も子供は親の真似をしながら成長します。しかも親と遊びながら成長します。ライオンも狼も狐も、子ども遊ばせながら教育するわけです。だから私も、遊びながら息子と一緒にベットメイクしたり、客室の掃除をしています。息子と遊びながら、時には叱りながらやっています。これがいつまで続くのかわかりませんが、行けるところまで行こうと思っています。

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 話は変わりますが、現在ゴールデンウィークのお客様を迎えるにあたって、毎日忙しい日々が続いています。まず、 1,000坪もある庭を整備しなければいけません。大きな花壇を耕して土を入れ替えて、肥料を入れて、花の苗を植えるわけですが、これが大体、毎年5万円から8万円位かかるんですよね。しかも1週間ぐらいの肉体労働が必要なんです。

 もちろんその作業をしている最中に息子もそばにいて、手伝おうとしてきます。どうしても子供は親の真似をしたがりますので、私が車輪で土を運んでいると、息子も一緒になって運ぼうとします。スコップやクワで土を耕していると、息子もそれをもって耕し始めます。それはいいんですが、先ほど苗を植えたばかりの花壇を踏みつけたり耕したりするので、邪魔で邪魔でしょうがない。

 しかし邪魔だと言えないのが辛いところです。
 もし言ってしまったら最後、息子は二度と手伝わなくなります。
 そういうものなんですね。

 いったん息子から興味を奪ってしまうと、後でどんなに興味を持たせようとしても、二度と振り返ってくれなくなるんです。これはインターネットで調べれば似たような事例がどんどん出てくる。そもそも自分の体験からして、そういうものだった。だから、どんなに邪魔でも、邪魔だと言えない。 1万円分ぐらいの花壇を破壊されても、これは痛い授業料だと思って我慢しなければなりません。そこが辛いところです。

 おかげで、大量の鉢植えが庭に存在します。

 この鉢植えの中には、非常に無惨な形をしたチューリップや水仙やムスカリなどがありますが、これらの大半は息子のお手伝いの結果です。ちょっと残念なことになりましたが、これも子供のためなので、仕方ないかなーと思っています。もし、家にお泊まりになるお客様で、このブログを読んでいる人がいたら、無惨な姿の鉢植えを見たとしても、
「どうしてこんな変な鉢植えがあるんですか? 」
なんて思わずに、スルーしていただけるとありがたいです。

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つづく。

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2016年04月20日

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 13

 真田丸15話の録画を見ました。いやー笑った笑った。 15話は、喜劇を書くシナリオライターの個性が非常によく出た回でしたね。秀吉のキャラクターが、非常に面白かったです。あと色々な伏線が、随所に散りばめられていました。

 それはそうとして、やはりこの15話も、ちょっと説明不足のところがあります。まず、いきなり秀吉が、徳川家康を使って真田昌幸を攻めると上杉景勝に宣言し、上杉景勝が非常に驚いた顔をしていましたが、これは見ていた視聴者の皆さんも、同じだったのではないでしょうか? いつの間にか、秀吉、家康が仲良くなっていて、いつの間にか秀吉が家康を使って真田昌幸を攻撃することになっていたからです。

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 この辺の事情に詳しくない人たちにとっては、「? 」ですよね。
 説明が足りないです。
 この大河ドラマでは、肝心な説明を省いてしまう癖があるんですよね。

 では、どうしてこうなったのか?
 ちょっと説明をしたいと思います。

 実は第一次上田合戦で勝利した真田昌幸は、秀吉と連合して徳川を徹底的に攻撃するつもりでいたんです。もちろん秀吉もそのつもりでした。ところが、その直後に、天変地異が起こります。

 天正の大地震が起きるんです。


 この地震は、ものすごい地震で、飛騨では城が一瞬のうちに消えてしまい、一族が全滅したところまででてきました。他にもいろいろな城が壊滅しています。熊本地震の熊本城なんかより被害の大きい城が続出したんです。その上、若狭湾と伊勢湾に同時に津波が発生しています。その結果、近畿地方と濃尾地方は、経済が壊滅的な打撃を受けます。東日本大震災をイメージすればいいと思います。

 問題は、震災によるダメージの大きかったのが秀吉の領土だったことです。
 もう少しで、家康を追い詰める寸前だったのに、
 いきなり東日本大震災クラスの災害が起きてしまった。
 しかも一ヶ月にわたって大規模余震が続いた。
 家康を攻撃するどころではなくなってしまったんですね。
 それが、第一次上田合戦で真田昌幸が勝利した四ヶ月後に起きるわけです。
 そこで秀吉は、家康を懐柔することにしたんですね。
 戦争をやめて、政略で家康を子分にしようとしたわけです。

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 もちろん家康も、秀吉の意図を知っています。
 だから条件を出します。
 信濃の国衆をくれと言うわけです。
 要するに、真田をちょうだいと言ってるわけです。

 家康にしてみたら、石川数正の寝返りによって、徳川の軍事システムが秀吉にばればれになっているために、早急に軍事体制を武田信玄のシステムに変更しなければなりません。そのためには、真田の力がどうしても必要なわけです。

 もちろん、真田昌幸にしたらとんでもない話ですから、良い返事をする訳がありません。秀吉に対しても、渋い顔します。もちろん秀吉は、激怒します。 家康に、真田を攻撃することを容認し、上杉景勝に、真田に対して支援することを禁じます。そして、秀吉自ら真田昌幸を討伐するぞと言い始めるんです。

 もちろんこれは芝居です。家康の面子を立ててあげてるだけです。本気で真田を攻撃するつもりは全くありません。それは家康も知っていますから、真田を攻めるそぶりをして、甲府まで軍を進めますが、そこで引き返して、家康は秀吉に臣従するんです。

 また、真田を家康に渡すためには、上杉景勝から引き離さないとならない。だから秀吉は、上杉景勝に真田を攻撃するから手出しはするなと言って、真田を上杉から引き離すのです。そうしないと、真田を家康にやれない。これも秀吉の巧妙な計算です。真田昌幸などより一枚も二枚も上手なんです。真田昌幸は、してやられたんですね。

 しかし、これは真田にとって悪いことではなかった。
 秀吉によって、国衆から大名に引き上げられたからです。
 もちろん家康の配下になりましたけれど。

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 ところで、もし織田信長であったら、天正の大地震で経済がめちゃくちゃであっても、真田昌幸と連合して家康を攻撃して滅ぼしたと思います。しかし秀吉は、根っからの商人ですから、そういう不経済なことはしません。それよりも、手っ取り早く家康を子分にして、その軍事力を使って、早く天下統一を成し遂げる事を選んだんでしょうね。この時点の秀吉は、領土の拡張よりも、経済の中枢を握ることに熱心でしたから。天下統一をしたら、領土の大小なんか意味をなさないことを知っていましたね。統一さえしたら、その気になったら家康など、一ひねりでつぶせますから。


つづく。

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2016年04月16日

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 12

 やっと真田丸14話の録画を見ることができました。14話は、と第一次上田合戦の続きを放送するんだと思っていたら、後半戦の戦いを全部カットしてあったのに仰天してしまいました。あのドラマを見た視聴者は、徳川軍が上田城を攻撃しようとして失敗して、それで終わってしまったのだと勘違いしてしまいますね。

 実は違うんです。

 第一次上田合戦は、この後が重要なんです。徳川軍は、上田城を攻略するのに失敗した後に、もっと小さな丸子城を攻めるのですが、そうはさせないと真田昌幸は、徳川軍の邪魔をします。そうこうしているうちに、上杉景勝が援軍にやってきてピンチになります。慌てた徳川家康は、さらに大規模な援軍を送りますが、戦わずに佐久方面に撤退します。この間4ヶ月。 4カ月間も、両者は戦ったりにらみあったりしているわけです。

 もちろん豊臣秀吉も黙って見てはいません。
 いろいろと工作をします。

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 大河ドラマの方では、徳川の人質となっている真田信尹(真田昌幸の弟)が、徳川家康の家老である石川数正が、家康を裏切って豊臣秀吉に仕えるように工作したことになっていますが、実は違います。これは秀吉の差し金なんです。秀吉が、石川数正の裏切りを画策したのです。そして、裏口から真田昌幸を助けたんです。で、真田昌幸に
「小笠原貞慶と、よく相談して失敗のないように、うまくやり過ごしなさい」
と言う手紙を送っているんです。

 この手紙をもらった真田昌幸は「? 」と、頭をひねったことでしょう。小笠原貞慶は、徳川方なんですよ。変だなぁと思ったと思います。しかし、その1ヶ月後に大変なことが起きます。徳川の家老である石川数正が、秀吉側に寝返たんです。で、石川数正の軍勢の中には、小笠原貞慶の人質もいたんです。つまり、石川数正が、秀吉側に寝返ることによって、小笠原貞慶も一緒に寝返ることになったわけです。

 この事件は、徳川を揺るがす大事件となりました。
 ここが、 14話の最大のポイントです。
 これによって、前提条件が、すべてひっくり返ったわけです。


 石川数正の寝返りによって、徳川の軍事情報が
 すべて秀吉に筒抜けになってしまったからです。
 真田征伐しているどころではなくなってしまったんです。
 そこで、徳川は全軍を撤退させます。
 そして、軍事体制を一新させるわけです。

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 暗号とかを変更したり、
 情報機関をすべて変更したり、
 戦術を大幅に変更したり、
 影武者を一新させたり、
 城の構造を変更させたり、
 何から何まで変更しなければならなくなったんですね。

 実は徳川軍というのは、今川義元の弟子みたいな軍事体制なんですね。徳川家康は、今川義元を手本にしていたんです。もっとはっきり言うと、今川義元の師匠と徳川家康の師匠は同一人物なんです。太原雪斎と言う和尚さんが師匠なんです。若い頃、徳川家康は今川家の人質で、静岡県の駿府で青春時代を送っています。徳川家康は、青春時代に過ごした駿府が、よほど気に入っていたらしく、晩年もここで暮らしています。駿府に、甘酸っぱい思い出があったんでしょうかね。この駿府で、太原雪斎から学問を学び、それが基本となって徳川軍の軍事制度を作っています。

 これが石川数正の寝返りによって、
 徳川の軍事情報がすべて秀吉に筒抜けになってしまった。
 ここが重要なんです。

 困った徳川家康は、軍事制度を大幅に変更しなければならない。で、藁をもすがるように飛びついたのが、武田信玄の軍事制度です。

 で、それに1番詳しい奴がいたんですよ。
 うまい具合に、いちばん詳しい奴がいた。
 それは、真田昌幸と真田信尹なんです。

 この2人は、武田信玄のもとで、優秀な官僚として大いに活躍しているからです。残念ながら真田昌幸とは、今は敵対していますが、真田信尹なら人質として徳川家にいる。彼を家臣に加えれば、武田信玄の軍事制度を短期間で学べます。できれば、真田昌幸とも戦争をやめて仲良くなり、彼も取り込みたいと、家康は考えたはずです。

 ここから先は、まだ大河ドラマで放送されていませんが、
 ちょっとネタバレを言います。
 真田昌幸は、結果として家康の配下につくんです

 嫌々ながらでしょうが、豊臣秀吉の命令で、徳川家康の配下になるんです。おそらく、家康が秀吉のところに上洛するにあたって、色々と根回しをしていたんだと思います。秀吉に「真田をくれ、そしたら秀吉の家来になる」と。真田昌幸にしてみたら、秀吉に臣従したつもりが、その秀吉の命令で家康の配下にされてしまうわけですから、内心複雑だったと思います。

 で、家康のすごいところは、真田昌幸の長男である真田信幸に、政略結婚で本田忠勝(藤岡弘)の娘を結婚させているところです。そこまでして、武田信玄の軍事システムを手に入れないと、やばかったです。情報が筒抜けとなった今、秀吉相手に、小牧長久手の戦いのような戦いは通用しないですから、次はあっという間に、秀吉にやられちゃうかもしれない。それを防ぐためには、武田信玄の軍事システムが、どうしても必要なんです。

 この辺が分からないと「真田丸」14話が見えてこない。
 もちろん15話以降の話も見えてこない。

 私がシナリオライターなら、そこを重点的に書いていたはずです。石川数正の寝返りは、それほどの大事件だったんです。皆殺しにするつもりの真田昌幸を、逆に味方に取り込まなければいけない位の情勢の変化があったんですね。

 それ以前は、何とかして北条氏と同盟を結んで、秀吉に対抗しようとしてたんです。だから真田昌幸に、沼田城を北条氏に渡せと言って、第一次上田合戦が起きてしまった。しかし、石川数正の寝返りによって、それどころではなくなった。北条氏と同盟を結んで秀吉に対抗しても、勝てる見込みがなくなってしまったわけです。おまけに、第一次上田合戦によって、徳川の軍事システムよりも、武田信玄の軍事システムの方が優れていることが分かってしまった

 だから、家康は頭を切り替えたんです。
 つまり家康は、かなり頭の切れる男だった。
 逆に真田昌幸にしてみたら、
「天地は複雑怪奇なる新情勢を生じたので」
 と思ったでしょうね。

つづく。

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2016年04月14日

嬬恋村が、日本一子育てがしやすい村になった理由

嬬恋村が、日本一子育てがしやすい村になった理由

 前回、日本一子育てがしやすい嬬恋村という記事を書いたら反響が大きかったので、勘違いをされても困るので続編を書くことにしました。

 実は嬬恋村は、もともとは裕福な村ではありません。今から10年前は、超赤字の自治体で、夕張市とどっこいどっこいの村でした。かなり、ヤバい自治体だったんですよ。

 嬬恋村は、幼稚園保育所小学校中学校の給食が無料だし、小中学校で教材等して使われる購入費も大半が無料に成っています。また、中学生の英検受験料が、年5,000円まで補助が出ますし、幼稚園保育園の保育料も無料です。また、嬬恋村では子供が生まれると、第一子・第二子に5万円のプレゼント。第三子に10万円。第四子からは15万円も支給されます。こういう地方自治体は、日本中探しても、嬬恋村しかないかもしれません。

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 でも、最初から、こういう村だったわけではないんですね。 10年以上前は、すごい赤字を抱えていて、村長以下、役場の役職ある立場の人たちも、給料を返上するような事態まで陥っていたんです。昔は、子育てに優しくするどころではなかったんです。どうしてそういうことになったかというと、当時は、 12年も続く革新系の村長だったために、やたらとばらまきをやっていて、村の財政が極端に悪化していたんです。

 その象徴ともいえるのが、幼稚園の統合問題で、新しい箱物(新しい幼稚園)を作って、財政をかなり悪化させた事件がありました。これがきっかけで、リコール運動というか、財政改革を訴えている新しい村長(保守系)を支援する動きがあって、新しい村長が誕生したのです。

 面白いのは、12年も続いた革新系村長をやめさせるために先頭きって動いたのが、村の中学校の校長先生も務めたこともある、思想的に左側だった人でした。左側の人が、左側の村長を追い詰めたのです。ようするに、こういうことに、右も左も関係ないんですよね。

 ちなみに私はこの人から、嬬恋村の歴史や、地質学を学んでいますから、かなりお世話になっています。それだけにこの先生のことをよく知っていますが、自腹を切って、新聞の折り込みチラシに、村長のばらまき財政を止めさせる訴えの自腹の広告を何度も出していました。もちろん私も、お手伝いしています。

 まぁそういうことがあって、今度は保守系の村長が誕生したわけですが、新しい村長は、行政改革を熱心に行いました。そして10年ぐらいで村の財政は良くなってきて、お金も余ってきたので何十ヘクタールと言う国有地を買い取って、道の駅でも作ろうかというところまでなったのです。

 しかし、議会では、それよりも子育て支援をした方がいいんじゃないかという話になって、子育てに多額の予算が使われることになったんですね。なぜそういうことを私が知っているかというと、私自身が観光協会の役員をやっていて、その役員仲間に村会議員や、商工会の役員や、色々な役員さんがいるからなんですね。もちろん私の師匠筋にあたる、地元の元校長先生のブレーンの人たちからの情報もあります。

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 まぁそんな話はどうでもいいんですが、ここで重要な事は、子育て支援のための予算は、どっかから沸いて出てきたお金では無いということです。嬬恋村という小さな地方自治体が、一生懸命行政改革を行ってきた結果なんですよね。

 その行政改革は、ちょっとやり過ぎじゃないかと思うことも多々ありました。もう少し観光に予算を増やしてくれればよかったのにとか、何も嬬恋村郷土資料館の館長を辞めさせることも無いのではないかとか、思っていました。もちろん思っているだけで、私自身は黙っていましたけれど。

 しかし、そういう努力が実ったからこそ、子育て支援をするための予算的なバックグラウンドができたのではないか?と私は考えています。こういったお金は、どこから湧いてくるのではなくて、いろいろなところを切りつめないと、出てこないんですよね。要は、いかに無駄をなくすかですよ。

 でも、自然災害に対する対策は、切り詰めては駄目なんです。安全のための資金は絶対に減らせない。前村長が、負けたのは、村の災害積立金にまで手をつけて、ばらまこうとしたからです。だから村民が怒った。嬬恋村は、何度か川が氾濫して橋が流されている。それの対策として、災害積立金を200億位をプールしていたけれど、それを使ってばらまこうとした。それに村民が怒ったんですよね。そういう失敗を前の村長はしている。

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 そういう意味では、以前の革新系村長は、いろいろな大失敗をしていると思います。ばらまき財政の原因を作った以前の村長が行った最大の失敗は、幼稚園の統合から始めたことです。そして新幼稚園という箱物を作ってしまった。

 幼稚園の統合ではなくて、小学校の統合から始めれば良かったんですよね。そうすると、いくつかの小学校が余るわけです。その余った小学校を、幼稚園として施設を利用すれば、大きな箱物作る必要はなかったわけです。余計なお金がかからなかったはずなんですよね。

 それを反省したのか、どうなのかわかりませんが。村長が変わってから役場がやった事は、小学校の統合を最初にした事です。小学校の統合で、いくつかの小学校が余ります。そのうちの1つを、幼稚園の施設として、再利用したわけです。

 もちろん元々は小学校ですから、幼稚園としては大きすぎます。その大きすぎる利点を利用して、幼稚園と保育園を統合してこども園にしたわけです。そして巨大なグランド(野外運動場)を2つに分割して、半分を駐車場に、半分を巨大なドックランみたいなものにして、そこで幼稚園児保育園児を遊ばせるわけです。まぁよく考えたと思いますね。

 こうやって予算を節約していき、その結果、給食が無料、教材購入費が無料、英検受験料が年5,000円まで補助。幼稚園保育園の保育料が無料。第一子・第二子に5万円のプレゼント。第三子に10万円。第四子からは15万円。ということになったんだと思います。村長・議員・役場の三つが、無い知恵を絞って出した結果なんだと思います。

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 ちなみに私は1人の一般的な村民なので、以上の認識に誤りがあったら申し訳ありません。私の知ってる範囲で書いてみました。ひょっとしたら、このほかにも、いろいろな要因があったのかもしれません。

 それはともかくとして、嬬恋村がここまで変化すると、若い人たちが浅間高原に移住してこようと思う人たちは、長野原町や軽井沢町ではなくて、嬬恋村を選ぶようになるかもしれませんね。だって、これだけ手厚い自治体は、よそにはなかなかないかもしれませんから。長野原町や軽井沢町も、真似しにくいだろうなぁ。

 ただし、嬬恋村にも問題点は残っています。それは職業です。働き口が少ないんですね。今後は、どうやって就職先を増やすか?というところが、重要になってきますね。まだ余ってる小学校を利用して、私立学校を誘致するとか、工場かなにかを誘致するとか、何か対策を立てないと、せっかく、子育てのために充実した制度も、あまり使われないということになるかもしれませんから。私が嬬恋村に移住してきた時は、12000人いた人口も、いまは、たったの9000人台です。なんとかしないとねえ。


つづく。

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2016年04月12日

日本一子育てがしやすい嬬恋村

 今週の月曜日には、全国の幼稚園保育園で入園式があったと思います。私の友人たちも、それぞれ入園式があったようで、 Facebookなどに写真が沢山アップされていました。そーゆー私の家でも、息子が月曜日に入園式でした。当然のことながら、私も入園式に出ようかなーと思ったんですが、嫁さんが嫌がるので、やめておきました。もっともその日は、私自身が商工会で研修があったものですから、それに欠席するのも義理を欠くと思ったのも確かです。

 ところで、このことは書こうか、書かないでおこうか散々迷ったのですが、さんざん迷ったあげくの上に、今日書くことに決めました。

 実は嬬恋村は、今年から保育園も幼稚園も給食も小学校で使う教材も無料なんですよね。と、こんなことを書くと、幼児のお子さんを持つ全国のお母さんたちが、激怒するんではないかと思ったので、ここに書く気が起こらなかったんですよね。

 うちの宿には、子連れのお母さんが、たくさん泊まりにきてくれますが、多くのお母さんたちが、毎月10万円くらい払ってお子さんを幼稚園に入れているのをしているために、どうも書く気になるなかったんです。息子の入園式の晴れ姿を、ブログでアップする気にはなれなかったんですよね。

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 嬬恋村は恵まれているけれど、全国的には珍しいケースであって、多くのお母さんたちは、非常に困っておられる。現にスタッフとして、時々 、ボランティアで宿を手伝ってくれる土井くんのところも、幼稚園に 10万円くらいかかると言っていました。土井くんは、埼玉県の浦和に住んでいるんですが、周りには私立の幼稚園しかないんですよね。だから彼は苦労しています。これは、都心部ならほとんどのお母さんが抱えている悩みなのではないでしょうか?

 それに比べて嬬恋村のお父さんやお母さんたちは本当に恵まれています。嬬恋村くらい子育てのしやすい村はないかもしれません。うちの嫁さんが妊婦の時も、わざわざ役場の職員の人たちが、家庭訪問に来てくれたこともありましたし、幼児や子供のためのイベントも盛りだくさんにあります。いろんなことが、至れり尽くせりで、これぐらいに恵まれている村は全国的に見ても珍しいかもしれません。だから、ちょっとブログには書きにくかったんですよね。

 で、今日、その実態を書こうかなーと思ったのは、観光協会の会議で、その現実を知らない人たちがいたからです。全国が嬬恋村と一緒だと思ってる人たちがいるんですね。都会のお母さんたちが、幼稚園に毎月10万円を払っているという話をしたら、信じないんですよ。
『そんなわけないよ』
と私自身が笑われちゃうわけです。

 嘘つきにされちゃうわけです。
 3人の子供を育てているお父さんが、信じてくれないんです。
 幼稚園10万円もかかるわけないだろうと思っているわけです。
 嬬恋村は10万円どころか、無料なんですよ。
 無料の送迎バスがあって、
 給食費から教材費まで無料なわけです。
 そして、 1クラス13人。

 おまけにこども園ときたら、やたらでかいんです。小学校を改造しているわけですから、ものすごく大きい。その辺にある児童公園の10倍ぐらいは広い敷地に、大量の遊具が並んでいる。にもかかわらず子供たちが少ないために、ものすごい勢いで遊んでいるのですね。幼児たちが、鬼ごっこをしていたりするんですが、全力疾走で100メートルぐらい走り回ってても息を切らしてないんです。なかには、小学校で使っていたと思われる椅子や机を担いで走り回ってる子どももいたりする。要するに野生児なんです。

 こども園が、野生児養成所になっている。

 うちの息子も、毎日のように小浅間山に登ったりするので、かなりの野生児だと思っていたら、とんでもない、とんでもない。毎日こども園に通っている子供たちも、うちの息子に負けず劣らず野生児なんです。なにしろ元小学校の運動場の大半が、わずかな数の幼児たちの遊び場になっているわけですから、広いこと広いこと。そこで、鬼ごっこなんかすれば、幼児たちの運動能力は、半端無いわけです。もう少しで逆上がりができそうな幼児たちが、鉄棒にぶら下がって楽しそうに遊んでいるわけです。目が点になりました。

 どうりで嬬恋村には、児童公園が無いわけです。児童公園がないから、私はわざわざ息子を軽井沢まで連れて行って、軽井沢の児童公園で遊ばしていました。だからうちの息子は、軽井沢の幼児たちといっぱい知り合いになっています。要するに軽井沢は、児童公園が必要なんですね。しかし嬬恋村は必要ない。巨大なドッランみたいなところで、犬ならぬ幼児が走っている。

 とにかくこの村は恵まれすぎています。おそらく日本でいちばん子育てのしやすい村では無いかと思います。けれど地元民が、恐ろしいほど気がついてないんですよね。当たり前だと思っている。今日、それに気がついたために、あえてこの文章を書く気になった次第です。田舎と、都会では、こうも違うものかと。


つづく。

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posted by マネージャー at 23:32| Comment(0) | TrackBack(0) | グンマーで嫁が出産と育児 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月08日

息子の3歳の誕生日

 息子が3月26日の土曜日に3歳の誕生日を迎えました。やっと3歳です。当日は、お誕生日の人がお客様の中に2人たので一緒に誕生祝いをしました。お客様から、たくさんの差し入れをいただきました。ロールケーキや、大きなイチゴが4箱に、お酒、蝋燭など。うちの息子もお客様からプレゼントをいただいたりしました。

 ありがとうございました。
 おかげで、賑やかな誕生日になりました。

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 また、よく来られるお客様が、お孫さんを連れて行きました。とっても可愛いお孫さんですが、うちの息子より6ヶ月若いお孫さんです。可愛いですね。女の子のせいか、言葉もよく喋ります。しかも英語を話します。

 そのうえ、すごく良い子なんですよね。

 うちの息子も、手がかからないのですが、 2歳半になる、この女の子も、すごく行儀が良いんですよね。おとなしくて、立派で賢いんです。きっと、ご両親の育て方が素晴らしいんだと思います。もちろんおじいちゃんおばあちゃんのサポートも、かなり的を得た事をしているんだと推測できます。

 で、このこのおじいちゃんおばあちゃんなんですが、私とほぼ同じ年なんですよね。つまり50代。人間の知能が1番ピークの時ですから、やはりというか孫との接触の仕方もうまいんですよね。それらを見させていただいて、色々と参考になりました。

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 これは子供を育てていてつくづく思うことなんですが、子供は育てたようにしか育ちませんね。そういう意味では、さすが、このおじいちゃんおばあちゃんの孫だなぁと思いました。おじいちゃんもおばあちゃんも、とても素敵な方ですから。もちろんお母さんも、いい味を出していました。きっと素晴らしいお母さんなんでしょうね。でないとこんなに良い子に育ちませんから。

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 ちなみに、この2歳半の女の子を連れて、真田丸歴史ツアーに出かけたんですが、最後まで本当によいこでした。全くと言っていいぐらいグズらないんですよね。大人向けの難しい歴史ツアーだったのに、それだけに絶対に退屈だったはずなのに、最後まで良い子でおとなしかったのには本当に驚きました。本当なら、ありえないです。 2歳半でこれですから、男ならジェントルマンと言われて大絶賛されているはずです。すごいですよ。おそらくこの子が、北軽井沢ブルーベリーYGHに参加した最年少のお客さんかもしれませんね。


つづく。

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posted by マネージャー at 12:31| Comment(0) | TrackBack(0) | グンマーで嫁が出産と育児 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月07日

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 11 真田丸13話解説 後編

 第一次上田合戦の解説のつづきです。

 松尾古城・砥石城を散策してみると分かると思いますが、古来から真田の城というのは、一本道なんです。どんな大軍が来ても、一本道を登りながら戦うしかないんです。一列縦隊で登るしかないわけですから、大軍が意味をなさない。逆に言うと、守るほうは少数で十分なわけですね。で、防御側が敵に被害を与えつつ、どんどんどんどん後退するのが、彼らの戦い方なんです。

 で、上田城というのは、古典的な真田の城を平地に持ってきたような作りになっているんですね。大手門から長い一本道を作っているんですよ。普通城下町というのは、大手門まで一本道というのはありえない。ジグザグになったりして、攻めにくくなっている。しかし上田城は例外で、長い一本道が続いていて、その突き当たりが大手門あたりなんです。そして、その一本道の両サイドに武家屋敷・横郭(よこぐるわ)と呼ばれる小さな城が両サイドにあったりする。ここに多少の武士を隠しておいて、徳川逃げていくときに横から攻撃する手はずに成っているのです。

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 このスタイルは、大阪城の真田丸も全く同じなんですね。大阪城の真田丸の前は寺町であるために、長い一本道が通っています。その一本道を徳川軍がどんどん押し寄せるわけですが、それに対して真田は、銃撃を浴びせます。慌てた徳川軍は逃げようにも逃げられない。なぜならば一本道の後ろの方から、どんどん大軍が押し寄せてきて、おしくらまんじゅうのように、ぎゅうぎゅう押し寄せるので戻るに戻れない。

 つまり人が一本道に攻撃側が過密に集まってきているわけですが、そこに火縄銃を浴びせかければ、目をつぶってても絶対に弾があたるわけです。で、敵はバタバタと倒れていくにもかかわらず、逃げるに逃げられない。しかし後ろからはジャンジャンと人がやってくる。おしくらまんじゅうのようにやってくる。そこを真田軍は虐殺するように火縄銃を浴びせかけるわけです。

 これが彼らの闘いの常套手段なんです。
 敵を一本道に詰め込んで、
 飛び道具で虐殺するわけです。
 これなら味方は無傷で、敵が一方的にやられることになります。

 もっとも、この作戦は、もともとは村上義清の戦法だったとも言われています。この方法で武田軍が散々やられたことから学んだんではないかといわれているんです。神川をせき止めて、それを決壊させて撤退する徳川にとどめを刺したのも、沼田の方で真田がやられたことから学んだ作戦だとも言われています。

 つまりこれらの戦術は、真田昌幸の独創ではなくて、真田家臣団から出てきた意見を昌幸が拾い上げたと考えた方が無難です。そもそも真田昌幸は、武田信玄の一番弟子です。

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 大河ドラマでは、真田昌幸(草刈正雄)は毛皮なんか来たりして、いかにも山猿のような格好をしていますが、子供の頃から小京都と言われている甲府で育っていますから、いわゆるシティーボーイなわけです。そして武田信玄のコピーなんですよ。

 じゃあ武田信玄はどうやって戦を戦ったかというと、重臣たちと何度も何度も会議を開いて、下からの意見を吸い上げて戦略を練るわけです。そして軍団全部が作戦をよく認識して、リハーサルなんかも何度もやっちゃうわけです。

 恐らく武田信玄も、一介の武将としては優れていたとは思いますが、それは表には出さない。出さないで部下の意見を吸い上げて、それを全軍に徹底させて、リハーサル行って、本番の合戦に挑む。こういうスタイルなんですね。だから真田昌幸も、当然のことながら同じことをしたはずなんです。それが証拠に、自分たちがやられた敵の戦術を、そのまま採用して徳川軍を撃退している。

 とはいうものの、第一次上田合戦の戦術が、武田信玄に配下の重臣たちが考えた戦術と違うわけです。真田の代々の家臣が考えた戦術なんです。もし、真田昌幸が前面に出て戦術を指揮したとすれば、どこか武田信玄の重臣たちが考えた戦術と似てくるわけですが、そういうところはあまり見られない。いかにも真田の家臣たちが考えたというか、自分たちが体験した戦術をとっています。これは真田昌幸が、武田信玄のように、部下から意見を吸い上げて採用し、上手く部下を使った証拠かなと思っています。

 なのにTVドラマでは、全て真田昌幸が考えたようになってる。
 世間的なイメージとしても、真田昌幸が、
 天才的な戦術を駆使して戦ったと思われているんですよね。
 どうしてそうなったか?



 これにも訳があるんですよね。真田軍というのは、兵農分離をしてないんですよ。これは武田軍にも言えることなんですが兵農分離をしていない。兵農分離をしていない真田軍の中には、修験者が大量にいます。つまり重い荷物を持って山の中をホイホイと登っていく連中がたくさんいる。それも全国百名山、全国三百名山をしょっちゅう登ってるような連中がたくさんいるわけです。そして修験者は、原則として関所をフリーパスで移動できます。

 彼らは、商人になったり、情報屋(忍者)になったり、医者になったりして病気を治して金をもらったりする。この時代のインターネットみたいな連中が、大勢真田の家臣の中にいるわけです。というか、そもそも、そういう連中が真田の大半なのです。こいつらは、山で製鉄を行ったり、銃砲火器でツキノワグマなんかも仕留めている連中なので、そういう連中に相談しつつも、絶対に勝てる方程式をつくりあげ、みんなに納得してもらったうえに、部署についている。

 だから負ける気がしないとも思ってる。なぜなら勝つための方程式を上から下まできちんと話し合っているし、リハーサルもしている。部下は戦国時代のインターネットみたいなやつらですから、勝てるという見込みも情報として持っているわけです。だから寝返らない。

 仮に負けたとしても、山の中に隠れればいいだけのことです。修験者でもある彼らは、万が一負けたとしても、この時代の常識として許されて新しい君主に仕えることになります。だから気楽なんです。一方で負ける訳がないとも思っている。勝てるという見込みも情報として持っているわけです。

 こういう人たちには、名前がないんですよね。
 名前がないから、勝利の原因は全て真田昌幸にするしかない。
 または真田十勇士という架空の存在にしてしまうしかないんですよね。


つづく。

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posted by マネージャー at 07:05| Comment(2) | TrackBack(0) | 真田丸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月06日

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 10 真田丸13話解説 前編

 久しぶりに大河ドラマを地元から語ってみます。と先ほど、ブログを書いたのですが、書いているうちに前置きが長くなって、嫁さんが川に落っこちて大けがしたことで終わってしまいました。おかげで大河ドラマの真田丸については何も語りませんでした。なので、文書をあらためてもう一度仕切り直しで書いてみます。

 真田丸も13話で、第一次上田合戦を放送しましたね。
 非常に面白い内容でしたが、やはりフィクションが多いです。

 大河ドラマでは、真田軍も被害を受けていたように書かれてありましたが、実際は、被害はほとんど皆無に近いです。記録によれば、徳川軍の死者は千三百です。それに対して真田軍はたったの四十です。この四十という数字は、ほぼゼロと一緒です。

 この時代の戦いでは、弓矢や鉄砲なども使われますから、どんな完璧な勝利でも流れ弾が当たって死ぬ人が出てきます。真田軍が二千人だとすれば、流れ弾で死ぬ人は、 四十人ぐらいはいるでしょう。相手が七千人なら、飛び道具を持っている人が千人ぐらいいるので、そのくらいはいて当然です。つまり真田軍は、圧倒的に勝利しているのですよ。

 大河ドラマで見るよりも、完璧に勝っているんです。
 それは徳川軍の記録にきちんと書いてあります。
 みんなおびえきって戦いにならなかったと大久保彦左衛門が書いているんです。

 あとドラマでは、真田昌幸が諸葛孔明ばりに、いろいろと小細工をして、徳川軍を退けているように描いていましたが、これもちょっと史実とは違います。

 真田軍は、もっと単純に戦って勝っています
 もっとシンプルに勝利してるんです。

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 それについては、後日、詳しく解説するとして、こういう大河ドラマにありがちな説明不足を、今日は解説をしようと思います。

 これは仕方がないことなのかもしれませんが、シナリオライターも、歴史作家も、歴史小説家も、少しばかり見落としてるところがあります。それは我々一般的な日本人が、外交とか戦略に詳しくないというところです。多くの視聴者は、戦略戦術を正式に学んでいないんですよ。だからわかる人にはわかるんですが、わからない人にはまったくわからない。なぜ徳川軍が、あれほど焦って沼田城を北条氏に返さなければいけないかが、このドラマだけではよくわからないんです。

 だから、どうしても徳川家康が悪人に見えてしまう。

 しかし、徳川家康にしてみたら沼田城は絶対に北条に返さなければいけない場所なんです。そうしないと自分が滅びてしまう可能性がある。それがわからないと、このドラマは、勧善懲悪の予定調和のドラマになってしまう。

 そもそもこのドラマのスタートからして、ちょっと不親切なんですよね。いきなり武田勝頼が滅びるところからスタートしているんですが、どうして武田勝頼が滅びるのか書いてないんですよ。それがわからないと、このドラマはわかりにくい。

 なのでお節介にも私が説明しますが、
 武田勝頼が滅びる直接の原因が沼田城なんです
 武田は沼田城で滅んでるわけです。
 これがなければ、武田軍はそう簡単に滅びはしません。
 しかし、沼田城の取り扱いで滅んでいるんです。
 それと同じ立場に、家康も立たされているんですよ

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 そもそも武田信玄のお父さんが甲斐国から追放されたのも、今川と同盟を結んで北条氏を刺激したからです。つまり、武田軍団というのは、北条氏と同盟を結ぶことによって地上最強になり得たわけです。上杉謙信と激闘していた時も、北条氏と同盟を結び、さらには織田徳川と同盟を結んで川中島を戦っています。もちろん織田信長と戦う時も、北条と同盟を結び、上杉とも同盟を結んだ上で、敵を信長軍に絞って戦っているわけです。

 武田信玄は絶対に二正面作戦をしていません。
 というか、二正面作戦をした段階で武田軍は滅びる運命にある。
 だけど信玄のお父さんは、馬鹿だからそれをやった。
 それに危機意識をもった家臣たちが、信玄をそそのかして、
 信玄のお父さんを甲斐国から追放したんです。
 こうして二正面作戦を避けたんです。
 それが分からないと小山田信茂(温井洋一)が、
 武田勝頼を裏切った理由も分からない。

 武田勝頼は、戦闘能力そのものは、武田信玄より勝っていましたが、所詮、それだけの男で、兵法の基本中の基本を全く知らなかったようです。だからあちこちに戦を仕掛けて、二正面作戦をしてしまいました。織田信長や徳川と戦っているにもかかわらず、北条氏をカンカン怒らせてしまい、両方で戦わざるをえなくなります。これには、武田信玄の重臣たちも青ざめたと思います。

 北条氏と言うのは、 二百五十万石もある最強の大名です。もちろん織田信長も、それに匹敵する以上の領土を持っています。それに対して、武田勝頼の領土は、たったの七十万石です。もし、本気で織田軍と北条氏が同時に攻めてきたら、いくら武田軍団が強くても全くかなわない事は、戦国武将にとっては常識中の常識なんです。

 にもかかわらず、上杉謙信が死んだ後の相続争いで、北条氏を裏切って、上杉景虎ではなく上杉景勝を応援し、しかも北条氏の城である沼田城を奪い取ったわけですから、北条氏が激怒する事は火を見るよりも明らかです。しかも、それの実行者が真田昌幸なわけですから、真田昌幸も武田家を滅亡させるのに手を貸したようなものです。

 もし、武田軍が北条氏と徹底的に戦うならば、まずその前に徳川家康や織田信長と同盟を結ぶべきなんですね。しかしそれをせずに、信長や家康をさんざん挑発して戦争を仕掛けたわけですから、武田の重臣たちも
「なんというバカ殿なんだろう」
とあきれ果てて物も言えなかったに違いありません。

 そういう意味では、武田勝頼という男は、全く戦略を知らなかったと言って良いと思います。真田昌幸も、内心はやばいと思いつつ、もうどうしようもなかったんでしょうね。だからこそ、岩櫃城に武田勝頼を撤退させる策をうったえたんだと思います。なぜならば、勝頼と上杉景勝は、同盟関係にあるので、上杉側は勝頼を助けないと自分が危ないからです。

 前置きが長くなりましたが、
 大河ドラマの13話における徳川家康の立場というのは、
 この武田勝頼と全く同じ立場なんです。


 秀吉がどんどん日本を統一していく中で、このままでは圧倒的な差ができてくるのは時間の問題なんです。つまり、北条氏と戦っている場合ではなくなってきたんです。二正面作戦は絶対に避けないといけないわけです。なにしろ北条氏の領土は二百五十万石です。それに対して家康の領土は百二十万石です。この差は圧倒的なので、絶対に戦えない。

 もし北条氏と戦ったら、秀吉との二正面作戦となって、武田勝頼と同じことになってしまいます。だから、何が何でも沼田城を北条氏に渡さなければならない。しかし真田昌幸は、これを拒否して上杉景勝に寝返るわけです。これが原因となって第一次上田合戦が起こるわけです。

 徳川家康としては、冷や汗握る瞬間だったと思います。
 なにしろ自分が武田勝家と同じ状況に陥ってるからです。
 同じ沼田城が原因で自分の滅びかねない。
 この辺が分からないと、あのドラマはわかりにくいかもしれません。



 では、真田昌幸は、第一次上田合戦をどうやって戦ったか?

 ドラマでは、いろいろな策を使って、敵を分断して撃退していることになっていますが、彼はもっとシンプルに戦っています。それについては後日詳しく述べるとして、そもそも真田昌幸は、上田城に籠城する気なんかさらさら無いわけですね。上田城の城下町を使って合戦する気でいるわけです。事実、上田城の戦いで勝利した後も、ずっと地上戦が続いていますから。

 では真田軍が、どのように戦ったかというと、真田軍としては非常に伝統的に戦ってるんですね。これは松尾城や戸石城を散策した人ならよく分かると思いますが、真田の城というのは、ずっと一本道なんですよ。敵が長い一本道をどんどん攻めるような形になってます。つまりどんな大軍が来ても、一本道を登りながら戦うしかないんです。 一列縦隊で登るしかないわけですから、大軍が意味をなさないわけです。逆に言うと、守るほうは少数で十分なわけですね。で、防御側が、敵軍に被害を与えつつ、どんどんどんどん後ろのほうに下がっていくのが、彼らの戦い方なんです。

 で、上田城というのは、古典的な真田の城を平地に持ってきたような作りになっているんですね。大手門から長い一本道を作っているんですよ。普通城下町というのは、大手門まで一本道というのはありえないんです。ジグザグになったりして、攻めにくくなっている。

 しかし上田城は例外で、長い一本道が続いていて、その突き当たりが上田城の大手門あたりなんです。そして、その一本道の両サイドに武家屋敷が並んでいます。それだけでなくて、横郭(よこぐるわ)と呼ばれる小さな城(上田高校と清明小学校あたり)が両サイドにあったりする。ここに多少の武士を隠しておいて、徳川逃げていくときに横から攻撃する手はずになっているのですね。テレビのように民家に隠れていたわけではありませんし、徳川が攻撃してくるときにはじっと沈黙していました。敵が逃げるまで隠れていたんですよ。だから、ドラマの方はフィクションです。


 文章が長くなったので、この続きは、半日後にアップします。
 ちよっと用事をすませてきます。
 そろそろ息子を保育所に迎えに行かなければならないので。


つづく。

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2016年04月05日

エイプリルフール 登山靴と湿潤治療について

とんでもない4月1日のエイプリルフール

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 久しぶりに大河ドラマを地元から語ってみます。しばらくブログを更新できなくてすいませんでした。とにかく3月は忙しくて、ブログもツイッターもFacebookも何もいじれなかったです。実は今日初めて息子が保育所に入るんですよね。で、色々忙しかったです。特に4月1日のエイプリルフールの時は、大変でした。

 家内が愛犬コロと息子を連れて散歩に行って、 2人とも近くの川に落っこちちゃったんです。息子は、 3歳0ヶ月とは言え、非常に体が頑丈なので、泣きながらも自力で道路に戻り、わんわん泣いていたわけですが、うちの家内は一瞬気を失ったみたいです。しかし息子がわんわん泣くものですから、それで正気に戻ったらしく、なんとか道路に這い上がって血まみれになって、私に救援の電話をかけできました。しかし頭が朦朧としてるせいか、トンチンカンな場所を教えたために、私が教えられた場所に駆けつけても、それらしい人影は見つかりません。

変だなぁ?

と思っていたら、あらぬ方向から息子の泣き声が聞こえてきたので、そちらのほうに向かったら全身血まみれの家内と、わんわん泣きながらもピンピンしている息子が、少しずつ動いていました。

ああ、こいつは歯を折ったな。
下手したら鼻の骨も折れてるかもしれない

 そう思った私は、救急車を呼ぼうとしたんですが、うちの嫁さんは断固拒否するのです。しかも自分で病院に行こうとしています。もう呆れてものが言えませんが、とりあえず私が病院に連れて行くことにしました。

 話がずれますが、うちの嫁さんはいつもこうです。融通がきかないというか頑固というか、こういうことでは決して救急車を呼ぼうとしません。妊娠している時も、妊婦用の駐車スペースに止めようとしません。私は大丈夫だからと言って、外を優先刺そうとしますが、それこそ迷惑なんですよね。妊婦は妊婦用の駐車スペースに止めなければ、一般の人はもっと遠くの駐車スペースに止めなければいけないのはさっぱりわからないらしい。

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 こういう性格だからよく交通事故も起こします。その事故のおこし方が非常にバカバカしいおこし方です。信号機の前の停止線を1メートルぐらい超えてしまうと、馬鹿正直にルールを守ろうとしてバックして、よそ様の車にぶつけたりするのです。こういうルールバカなところが、うちの嫁さんにはあります。もし学校の同級生だとしたら、確実に委員長タイプの人であり、私の敵であったでしょう。小学生時代だったら、絶対に男の子に嫌われていたと思います。まぁそんなことはどうでもいいんですが。

 幸い、事故のあった日は、金曜日なので今日泊まるはずのお客さんのチェックインは、 20時以降なので、時間はたっぷりありました。まず嫁さんに服を着替えさせて、私は息子をお風呂場に連れて行って、シャワーを浴びさせ、怪我をしているかどうか点検しながらの服を着替えさせました。どうやら息子にケガは無いようです。体が柔らかいせいか、倒れ方が良かったのか、息子はあまり怪我をしない人間なんですよね。いちど階段の上から転がり落ちたこともありましたが、ピンピンしていました。もちろん病院には連れて行きましたが、なんともなかったです。

 とりあえず、助手席にチャイルドシートを取り付けようとすると、もう既に嫁さんの方が後部座席にチャイルドシートを取り付けていました。私は後部座席を倒して、嫁さんが寝られるようにしようと思っていたのですが、こういう時でも、息子のチャイルドシートを後部座席に付けて、自分が助手席に座ろうとするのがうちの嫁さんの悪い癖です。優先順位がわかってないんですよね。必ずルールを守ろうとするんですよ。ここで争っても仕方がないので、嫁さんを助手席に座らせて、病院に向かう途中に、状況を聞こうとしたんですが、鼻や口周りがひどいことになっていて喋ることができないわけです。

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 息子の入園式の準備に、保護者様の服を準備したり、色々していたのに、これはさぞかし無念だろうなあと思いつつ、とりあえず西吾妻福祉病院という大きな病院に連れて行きました。もちろん急患です。で、お医者さん三人と看護婦さん五人くらいで、手術というか処置を行ったわけですが、これが3時間くらいかかっています。ただし、運良く歯も鼻の骨も折れてなかったようで、その辺だけは安心しました。

 こういう時に、息子がおとなしい性格でよかったなぁとつくづく思いましたね。西吾妻福祉病院で3時間もおとなしく待つことができたわけですから大したものです。私のほうも、本を1冊読みきることができましたから、息子には感謝です。というか、丈夫な体に育ってくれた息子に感謝です。もし川に落ちた時に、息子も一緒に気を失っていたら、もっと大事になっていたでしょうし、私も2人を発見することができなかったかもしれません。息子が自力で這い上がってわんわん泣いたから、その声で見つけることができたわけなんですよね。

 ところで今回の事故で、 1つ教訓があります。このような事故が起きた原因に、安物の登山靴がありました。嫁さんは、非常に安い登山靴(2000円くらい)をSPORTS DEPOで買ったんですが、これが良くなかったようです。買ってすぐに、金具が取れて靴紐がうまくしばれなかったようです。しかも、取れてない方の金具に、もう片方の靴の靴紐が引っかかって、それで倒れたようなんですね。ご存知の通り登山靴の金具というのは、非常に出っ張っています。つまり何かを仕掛けやすくなっているわけです。それでも靴紐がきちんと縛ってあれば、問題ないのですが、片方の金具が取れてしまって、片方の金具だけが残っている状態だと、何かをひっかけやすいままになっていて、非常に危険なわけです。今回はそれが仇となったようです。

 もう絶対に安い登山靴は買わない。
 仮に買ったとしても、金具が1個でも取れたら廃棄する。
 そういうことに決めました。
 まぁこれは、高い登山靴でも一緒なんですけれどね。

 安物買いの銭失いとはよく言ったものです。そもそも登山靴は、安全のために履くわけですから、安全を脅かすような状態になったら履く意味がありませんね。そういう場合はさっさと捨てて、新しいものを買うか、修理に出すのが正解かもしれません。変な登山靴を吐くぐらいだったら、スニーカーの方がよほど安全かもしれません。みなさんもよくよく気をつけてください。

 ところで嫁さんのほうの状態ですが、実は非常に経過が良好です。あのあと歯医者さんにも行って、診療してもらいましたが、 歯は仮に抜けたとしても、すぐに手当てをすればくっつくらしいんですよね。うちの家内の場合は、抜けてないし神経も通っているようなので大丈夫でした。西吾妻福祉病院も、ホームページで書いてある通り治療方針が湿潤治療であったことも幸いして経過は非常に良好です。 4月9日に、こども園の正式な入園式があるのですが、なんとか出られそうです。

 湿潤治療というのは素晴らしい治療ですね。
 治り方が圧倒的に早いです。
 大げさでなく、 2倍ぐらい早いのではないでしょうか。
 おまけに、痕も付きにくい気がします。

 こういう事故は起きた場合、湿潤治療をとっている病院に駆け込むのが1番かもしれませんね。そういう意味で、結果論になりますが救急車を呼ばなかったのは正解かもしれません。湿潤治療をとっている病院に連れて行くことができたわけですから。みなさんも、近くの病院が湿潤治療をとっているかどうかをいちど調べてみた方が良いと思います。万が一の時に、どの病院に駆け込むべきか、じっくりと調べておけば、後々後悔をしないですみますからね。このブログを読んでる近所の人たちも、いちど調べてみておいてください。湿潤治療を知らない人は、これもインターネットで調べてみてください。

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 ただ、申し訳なかったのは、 4月1日から4月3日にかけてお泊まりになったお客様です。あの時は黙っていましたが、私も家内も、こういうわけで、お茶会などに顔を出せなかったので申し訳ないことをしました。また直前に予約を入れてきた何人かのお客様も、お断りしてしまって申し訳なかったです。


つづく。

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posted by マネージャー at 11:08| Comment(9) | TrackBack(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする