2016年04月07日

大河ドラマ「真田丸」を地元から語ってみる 11 真田丸13話解説 後編

 第一次上田合戦の解説のつづきです。

 松尾古城・砥石城を散策してみると分かると思いますが、古来から真田の城というのは、一本道なんです。どんな大軍が来ても、一本道を登りながら戦うしかないんです。一列縦隊で登るしかないわけですから、大軍が意味をなさない。逆に言うと、守るほうは少数で十分なわけですね。で、防御側が敵に被害を与えつつ、どんどんどんどん後退するのが、彼らの戦い方なんです。

 で、上田城というのは、古典的な真田の城を平地に持ってきたような作りになっているんですね。大手門から長い一本道を作っているんですよ。普通城下町というのは、大手門まで一本道というのはありえない。ジグザグになったりして、攻めにくくなっている。しかし上田城は例外で、長い一本道が続いていて、その突き当たりが大手門あたりなんです。そして、その一本道の両サイドに武家屋敷・横郭(よこぐるわ)と呼ばれる小さな城が両サイドにあったりする。ここに多少の武士を隠しておいて、徳川逃げていくときに横から攻撃する手はずに成っているのです。

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 このスタイルは、大阪城の真田丸も全く同じなんですね。大阪城の真田丸の前は寺町であるために、長い一本道が通っています。その一本道を徳川軍がどんどん押し寄せるわけですが、それに対して真田は、銃撃を浴びせます。慌てた徳川軍は逃げようにも逃げられない。なぜならば一本道の後ろの方から、どんどん大軍が押し寄せてきて、おしくらまんじゅうのように、ぎゅうぎゅう押し寄せるので戻るに戻れない。

 つまり人が一本道に攻撃側が過密に集まってきているわけですが、そこに火縄銃を浴びせかければ、目をつぶってても絶対に弾があたるわけです。で、敵はバタバタと倒れていくにもかかわらず、逃げるに逃げられない。しかし後ろからはジャンジャンと人がやってくる。おしくらまんじゅうのようにやってくる。そこを真田軍は虐殺するように火縄銃を浴びせかけるわけです。

 これが彼らの闘いの常套手段なんです。
 敵を一本道に詰め込んで、
 飛び道具で虐殺するわけです。
 これなら味方は無傷で、敵が一方的にやられることになります。

 もっとも、この作戦は、もともとは村上義清の戦法だったとも言われています。この方法で武田軍が散々やられたことから学んだんではないかといわれているんです。神川をせき止めて、それを決壊させて撤退する徳川にとどめを刺したのも、沼田の方で真田がやられたことから学んだ作戦だとも言われています。

 つまりこれらの戦術は、真田昌幸の独創ではなくて、真田家臣団から出てきた意見を昌幸が拾い上げたと考えた方が無難です。そもそも真田昌幸は、武田信玄の一番弟子です。

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 大河ドラマでは、真田昌幸(草刈正雄)は毛皮なんか来たりして、いかにも山猿のような格好をしていますが、子供の頃から小京都と言われている甲府で育っていますから、いわゆるシティーボーイなわけです。そして武田信玄のコピーなんですよ。

 じゃあ武田信玄はどうやって戦を戦ったかというと、重臣たちと何度も何度も会議を開いて、下からの意見を吸い上げて戦略を練るわけです。そして軍団全部が作戦をよく認識して、リハーサルなんかも何度もやっちゃうわけです。

 恐らく武田信玄も、一介の武将としては優れていたとは思いますが、それは表には出さない。出さないで部下の意見を吸い上げて、それを全軍に徹底させて、リハーサル行って、本番の合戦に挑む。こういうスタイルなんですね。だから真田昌幸も、当然のことながら同じことをしたはずなんです。それが証拠に、自分たちがやられた敵の戦術を、そのまま採用して徳川軍を撃退している。

 とはいうものの、第一次上田合戦の戦術が、武田信玄に配下の重臣たちが考えた戦術と違うわけです。真田の代々の家臣が考えた戦術なんです。もし、真田昌幸が前面に出て戦術を指揮したとすれば、どこか武田信玄の重臣たちが考えた戦術と似てくるわけですが、そういうところはあまり見られない。いかにも真田の家臣たちが考えたというか、自分たちが体験した戦術をとっています。これは真田昌幸が、武田信玄のように、部下から意見を吸い上げて採用し、上手く部下を使った証拠かなと思っています。

 なのにTVドラマでは、全て真田昌幸が考えたようになってる。
 世間的なイメージとしても、真田昌幸が、
 天才的な戦術を駆使して戦ったと思われているんですよね。
 どうしてそうなったか?



 これにも訳があるんですよね。真田軍というのは、兵農分離をしてないんですよ。これは武田軍にも言えることなんですが兵農分離をしていない。兵農分離をしていない真田軍の中には、修験者が大量にいます。つまり重い荷物を持って山の中をホイホイと登っていく連中がたくさんいる。それも全国百名山、全国三百名山をしょっちゅう登ってるような連中がたくさんいるわけです。そして修験者は、原則として関所をフリーパスで移動できます。

 彼らは、商人になったり、情報屋(忍者)になったり、医者になったりして病気を治して金をもらったりする。この時代のインターネットみたいな連中が、大勢真田の家臣の中にいるわけです。というか、そもそも、そういう連中が真田の大半なのです。こいつらは、山で製鉄を行ったり、銃砲火器でツキノワグマなんかも仕留めている連中なので、そういう連中に相談しつつも、絶対に勝てる方程式をつくりあげ、みんなに納得してもらったうえに、部署についている。

 だから負ける気がしないとも思ってる。なぜなら勝つための方程式を上から下まできちんと話し合っているし、リハーサルもしている。部下は戦国時代のインターネットみたいなやつらですから、勝てるという見込みも情報として持っているわけです。だから寝返らない。

 仮に負けたとしても、山の中に隠れればいいだけのことです。修験者でもある彼らは、万が一負けたとしても、この時代の常識として許されて新しい君主に仕えることになります。だから気楽なんです。一方で負ける訳がないとも思っている。勝てるという見込みも情報として持っているわけです。

 こういう人たちには、名前がないんですよね。
 名前がないから、勝利の原因は全て真田昌幸にするしかない。
 または真田十勇士という架空の存在にしてしまうしかないんですよね。


つづく。

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posted by マネージャー at 07:05| Comment(2) | TrackBack(0) | 真田丸 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする