『風のたより』の登山ツアーに参加した人は分かるかと思いますが、『風のたより』の登山ほどスパルタ式から遠いものはありません。「みんなが楽しいから自分が楽しい」という部分を一番にしています。仲間内から一人でも辛そうに登ってる姿を見つけたら、その登山は失敗だったと思うのが『風のたより』の登山スタイルです。だから一番体力のない人に合わせた登山をします。
と書くと、高尾山にも登れない軟弱登山サークルのように思われるかもしれませんが、そういう軟弱登山サークルになってもおかしくない団体が、全くの初心者を連れて、秘境中の秘境である知床連山を縦走している。歴史ある山岳会でも行けないような西穂高縦走、妙義山縦走もしている。
では、スパルタ式では初心者を連れての知床連山の縦走・西穂高縦走・妙義山縦走ができたかというと無理だと思う。あれは楽しいからできた。みんなで楽しみながら、しかも初心者が喜んでくれる姿を見て、リーダーたちが喜んでいる。そういう団体だからできたんです。
それは、生まれたばかりの息子や娘が、やっとのことでハイハイし、一生懸命歩き出す1歳児の姿を見て心から楽しんでるお父さんお母さんの姿と一緒です。何一つ違いはありません。初心者の人たちを連れて難しい山に登る。そして自分には登れそうもないと思っていた初心者が、楽しそうに山に登って感動している。絶対に登れなかったと思っていた山に登ることができて喜んでいる。それを見て喜んでるリーダーの姿と、子供の成長を喜んでる親御さんの姿はイコールです。
なのに『風のたより』の登山ツアーに参加したことがある古い仲間たちから、私のブログやFacebookをみて
「佐藤さんがこんなに親バカになるとは思わなかった」
と言ってきます。息子に対して親バカかどうかはともかくとして、私は『風のたより』のツアーリーダーとして、参加者に対しては、かなりの親バカだったはずです。
それをすっかり忘れて「佐藤さんがこんなに親バカになるとは思わなかった」と言われては、苦笑するしかない。みんな自分のことを忘れてている。登山ツアーでツアーリーダーから親バカ丸出しの至れり尽くせりのサポートを受けていたのをすっかり忘れてしまって、私の子育てに対して
「親バカだなあ」
と言ってくる。みんな『風のたより』の登山と私の子育てがイコールだとは夢にも思ってない。というか、別物だと思っている。というか、昔も気づいてなかった可能性が高い。でも、それはそれで私の勲章なんですよね。
1歳児・2歳児・3歳児の幼児たちが、親の苦労を知らないで遊んでいるのと一緒で、楽しく遊んでいるうちに成長しているのが子供というものです。これと一緒で過去の『風のたより』の登山ツアー参加者たちも、ツアーリーダーたちの意図なんか全く感じないで楽しんでくれたんだと思います。「意図なんか全く感じないで」ということは、『次郎物語』を書いた下村湖人のめざした『干渉しない教育』を『風のたより』でも行っていたんだということかもしれません。
これは育児でも一緒で、子供が遊んでるつもりでも、その遊びのなかには、親たちの計算された「教育」が入っているかもしれない。それに気がつかずに子供たちは遊んでいると勘違いする。そういう教育が『干渉しない教育』です。しかしそれはわかりにくい。スパルタ式に対してわかりにくい。だから3歳児を八ヶ岳につれていくと、スパルタ式で連れて行ったと勘違いする向きの人が多い。けれどスパルタ式で難度の高い登山をさせるのは無理です。同じように教育だってスパルタ式で結果をだすのは効率的ではない。
そもそも3歳の子供に漢字のお勉強をさせることは不可能です。3歳児に勉強させようというのが無理。けれど幼児の脳の仕組みを利用して、平仮名・カタカナ・アルファベット・漢字を覚えさすことは簡単にできる。ただし成長してしまうと、自分の意思というものが出てきて親の真似をしなくなります。現に、うちの息子も、3歳6ヶ月頃になると親の真似をしなくなり漢字も覚えなくなってきました。うちの息子の学力は、ここでストップです。ある種の臨界期がきたのです。
脳科学の研究成果を利用すると子育てが非常に楽になります。育児本や教育学者の書いた本よりも即効性がある。これは登山においても同じです。うちの息子は三千メートル級の山さえ一人で登るようになりました。おんぶもダッコも肩車もなしです。仮に親が背負おうとしても、それをさせてくれません。
「自分で登るの」
と、親の手を振り払います。滑落が心配なので、息子に気づかれないように息子のリュックサックの一部をもったりするのですが、すぐ気がつかれて息子は激怒します。もちろんハーネスも嫌います。他人に引っ張られるということが嫌いなんです。そういうマイルールが3歳の息子にできてしまっている。
前にも言いましたが、2歳児・3歳児は、手探りで世の中の法則やルールを探そうとしますから、いったん3歳児の息子にルール化されてしまうと、山に登るときは親の手を借りないというルールが、息子に確定します。私が、ブログで何度も紹介している「幼児のマイルール化現象」です。
http://kaze3.seesaa.net/article/423723311.html
こういうことは育児本や教育関係図書にはあまり書かれていません。しかし、脳科学の本には、それらしいヒントは書かれてあります。ただし、あくまでも科学であるので「子供をこのように教育すべきだ」とは書いてありません。実験結果が書かれてあるだけで「どうするべきだ」という哲学の問題には触れていません。
私たちは無味乾燥な研究結果をヒントにして子育てに応用するしかない。これを一般のお母さんが、行うのは少し難しいと思いますから、余計なお世話と思いつつも、私がこのような文章を書いているわけです。
話は、変わりますが、私が子育てにおいて最も信頼している教科書があります。下村湖人の『次郎物語』と、永杉喜輔の『親と教師のための次郎物語』です。『次郎物語』は、児童文学と思われがちですが作者は大人を読者に想定して書いています。そもそもこの作品が発表されたのが『青年』という大人むけ雑誌で、作者の下村湖人は、お父さんお母さんに、次郎という人間をとおして教育論を述べています。
例えば、次郎の父親は「教育しすぎないことだね」と母親に語っていますが、この「教育しすぎない」というのが、『次郎物語』の大きなテーマで、作者の思想の中心部でもあります。下村湖人は、怒れば生徒を殴ったり怒鳴ったりするので、外見的には保守的・厳格・スパルタに見えるのですが、それは的外れもいいところで「教育しすぎない」典型的な先生でした。
高等学校の校長を辞職し、青年団講習所で青年たちを教育するときなどは、何一つ教えなかった。何も教えないことによって、何かを教える。それが下村湖人のやり方でした。それは次郎物語の次郎の父のやり方とよく似ています。
人間というものは、教えすぎると覚えなくなる。私は築地でマグロ屋の丁稚をやっていたことがあるから分かるのですが、魚市場では仕事を教えません。仕事は目で覚えろと言われます。先輩のやってることを盗めと言う。だから最初のうちは仕事ができなくても何も言われません。目で見ていろというわけです。
これを能率的でないと思った私は、部下に教える立場になったときに、マニュアル化して細かく仕事を教えたんですが失敗しました。確かに仕事を覚えるのは早いのですが、マニュアル通りの仕事しかできなくなる。修行しなくなる。何も教わってない人の方が、最終的には良い職人になるんです。そして良い職人が一人いるだけで店が大繁盛する。一人の有能な職人が十人の給料を稼ぐ。そういう職人を一人育てるためにわざと築地の魚河岸では遠回りしている。
話を戻します。
下村湖人は、「教育しすぎない」先生であり、全く教えない先生でも有名でした。それでいて厳格な先生で、叱るときは容赦なくゲンコツを出しました。「教育しすぎない」先生といっても、今はやりの叱らない躾をしてるわけではなく、叱るときは叱る。時には殴る先生なんです。教育をしすぎないことと、叱ることは矛盾しないんですね。
それは築地でも一緒です。叱るときは叱って、時には殴ったり蹴ったりする。でも、なるべく上から教え込まず、本人の発見を引き出す。あるいは才能を引き出してやる。あくまでも本人が自分自身で考えて自分自身で伸びていくことを第1とする。そういう教え方をする。これが干渉しない教育です。 叱らない教育と勘違いしないでください。あくまでも干渉しない教育。そして叱るときは叱る教育。
つづく。
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