船はやがて両津港に到着しました。実は、佐渡の両津港こそは、日本最初の鉄船建造をしたところです。ここで、日本で初めて船体構造に鉄材を使用した船が造られたのです。その船の名前は『新潟丸』で、明治四年のことです。
安政5年(1858)、江戸幕府はアメリカなどと通商条約を結び、横浜、長崎、函館・神戸・新潟の開港を約束しました。そして、明治元年11月19日に正式に新潟が開港となります。そのときに両津が補助港となり、港湾工事が着工され、それが完成されると、新潟と両津を結ぶ、蒸気船を建造して外国人の旅客や貨物を運送することとなりました。
そして英国造船技師マクニホールを雇い、造船場を建設し、鉄船を建造しました。明治四年のことです。それが日本最初の鉄船「新潟丸」です。意外に思えるかもしれませんが、明治以前の佐渡は、金山のために日本有数の工業地帯でもありました。製鉄に使われる木炭も豊富であり、砂鉄も多かったために、鉄の生産も豊かで、製鉄に関連する山の名前「ドンテン山(タダラ峰)」もあるくらいで、日本最初の鉄船を建造するのに適した土地であったわけです。
新潟丸は、相川町北沢町(金山の北沢浮遊選鉱場跡あたり)に溶鉱炉を作り、ここで精錬した鉄材で両津で建造されています。つまり、金山の施設を利用して鉄が作られ、それを両津に運んで鉄船を建造したわけです。
子供のころ私は、大きな磁石を紐で結んで家の周りを引きずり歩いたことがあります。ものの10メートルも歩いてみると、磁石は砂鉄だらけになりました。さらに何十メートル歩いてみると、磁石は砂鉄で真っ黒になって驚いた記憶があります。
子供ながらに調べてみると佐渡島は、特に砂鉄が多いところで、日本海の沿岸・関東地方に次いで砂鉄の多い地域でした。その影響は、佐渡島の水にも表れていたらしく、佐渡島の井戸水は鉄分多いために、昔は濾過をして飲んでいたと聞きました。実際、私が通っていた小学校の中庭には井戸があったのですが、それを飲むのは鉄分が多いからと禁止されていました。
当然のことながら、佐渡島には赤土が多く取れます。鉄分が含まれているからです。そして、この赤土を使って有名な焼物『無名異焼(国指定重要無形文化財)』があり、その伝統を受け継ぐ伊藤赤水は人間国宝でもあります。無名異とは酸化鉄を含有する赤土で、止血のための漢方薬でもあります。松浦武四郎の「按北扈従」で紹介した『土殷けつ』と同じものであり、松浦武四郎記念館が所蔵するコレクションの中に武四郎が雲出川で収集した狐火吹き竹をひもで連結した標本がありますが、あれと同じです。
http://www.tok2.com/home/moguramoti/doinketu/tkhp10.htm
赤土といえば関東ローム層ですが、関東地方の大地も鉄分を多く含んでいるために、土が赤いですね。そして、佐渡島も関東地方も砂鉄多い地域なんです。ただ違うところは、関東地方では製鉄で必要な木炭が十分に取れなかったということです。
江戸時代の大都市江戸では、どんな貧しい庶民でも白米を食べていました。しかし、佐渡島のような木炭が豊富にある地域では、富裕層でも稗粟などの雑穀を食べています。木炭などの燃料が安いからです。稗粟は、燃料が安くないと食べられません。それに対して白米は、燃料が高くても食べられる食材なんですね。コンビニのおにぎりのように、朝に炊くだけで晩までもつんです。なので炊きたてを「御飯」といい、それ以外を「飯」と言ったわけです。
つまり何が言いたいかといいますと、関東地方には、砂鉄があってもそれを製鉄するための燃料が高かったということ。しかし佐渡では、砂鉄も木炭も豊富にありました。そして、たたら製鉄の技術も高かった故に、佐渡の両津にて日本最初の鉄船建造が行われる素地があったんですね。
佐渡島の両津港についた私たちは、そのまま車に乗ってドンテン山に直行しました。ちょうど紅葉の時期だったのと、ドンテン山が佐渡のたたら製鉄の聖地(元祖)だったので、それを再確認するためです。ドンテン山の正式名はタダラ峰です。古代たたら製鉄の一族が、ここを根城にしていたと言われています。そうです、アニメ『もののけ姫』の元祖がドンテン山だったりするのです。
そのちょっと北東に足をのばすと壇特山という山伏の聖地があります。また、佐渡には多くの神社仏閣がありますが、その多くが奈良時代から平安初期に山師によって創建させられています。山師・山伏も親戚みたいなものですから、古代から佐渡は、たたら製鉄・山師・山伏が活躍する場所だったのかもしれません。まさにアニメ『もののけ姫』の島です。
ちなみに佐渡島にも、古墳があります。
http://nirr.lib.niigata-u.ac.jp/bitstream/10623/27405/1/017_14_1-32.pdf
その中でも古い二見半島古墳群(台ヶ鼻古墳)は、6世紀はじめ(西暦510〜550年頃)のものですが、そこから鉄刀・鉄片・刀・鏃・鍬・鎌・小刀といった鉄製品が出土しています。しかも、その近くには製鉄遺跡も発見されています。当然のことながら古墳の造成前に鉄器が使われていたことになり、全国的に見ても、かなり早くから佐渡で製鉄が行われていたようです。
ところでドンテン山には、私にとっては少なからず因縁があります。
ここには昔、ドンテン山荘という国民宿舎があったのですが、一時期そこで支配人をやってた人に、Mさんという人がいました。このMさんは、北海道出身の人で、ユース民宿と言われている『とほ宿』グループの創設にかかわった人でした。もちろんドンテン山荘も短期間ですが一時期、『とほ宿』グループに加わった時期があります。とほ宿というのは、いまでいうとゲストハウスみたいなものなのですが、昔は、ゲストハウスの方が無名で、『とほ宿』の方が圧倒的にメジャーだったんですよね。
『とほ宿』のホームページ
https://www.toho.net/map/
それはともかくMさんですが、この人は、ちょっと変わった人で、いろんなものを作るんです。佐渡島版の『とほ』である『されど』を作ったり、朱鷺を守る民間団体『ジューンネットワーク』をつくったり、佐渡の限界集落・猿八の再開発をしたりしますが、絶対にトップになろうとしない。すぐに陰に隠れてしまう。で、勝手に潰したりもする。私の知らないところでも、きっといろいろ活動しているはずです。高杉晋作や坂本龍馬みたいな人です。
まあ、一種の変人奇人で、突然現れては消えたりするパワフルで迷惑な人なんですが、それでいて生死にかかわる難病をかかえていたりする。もちろん自然にも詳しくて樹木や植物はおろか、佐渡の山を知り尽くしている。ツリーハウスを作ったり、大佐渡山脈を縦走したりしていますけれど、いつ死んでもおかしくない難病をかかえているんですよ。この人が、
「佐藤さん閉鎖された国民宿舎ドンテン山を買い取ってそこで宿をやらない?」
と言ってきたので動いたんですが相手にされず、私は北軽井沢でユースホステルをオープンさせたわけです。その後、ドンテン山の国民宿舎は、あたらしくドンテン山荘として、すばらしい山小屋によみがえりました。
で、私がどうしてドンテン山で宿をやりたかったかといいますと、この山から眺める夜景が、函館の夜景にそっくりなんですよね。おまけに植生がすごい。高山植物の宝庫で、シラネアオイなんかがワンサカ咲いている。シラネアオイといっても、ピンとこない人が多いかもしれませんが、北軽井沢でシラネアオイを買うと一鉢一万円です。それほど希少な高山植物です。
五月の登山道はカタクリでいっぱい。花を踏まないで歩くことは不可能でした。今は、どうか知りませんけれど、二〇年前。つまり二〇世紀のドンテン山付近の山々は、花の島・礼文島なんかより、よほど花が咲いていたのです。それに目をつけた私は、佐渡に山小屋があったら凄いことになると思ったのです。
では、なぜドンテン山付近に花が多かったのか?
それには理由があります。
牛の放牧に原因があります。
実は佐渡の放牧の歴史は古いんです。最も古い記録は大同年間(806−810)。そしてこの頃に山師が、さかんに佐渡島内に寺社を勧進しています。つまり、たたら製鉄を行なったする山の民たちが見え隠れしたころに、すでに放牧がはじまっています。しかし、なにぶん古い時代であるために、詳しい記録が残っていません。
比較的記録が残っている江戸時代だと、佐渡島内における牛馬の飼育数は6000〜7000頭で、その中で放牧頭数は2000頭だったと言われています。ちなみに1990年頃には、400頭までに減少しています。つまり九世紀から二十一世紀までの1200年間にわたる長期間、放牧を行なわれていたということになります。これが大佐渡山脈における高山植物の植生に大きな影響を与え、日本一花の多い山に変えてしまっています。
つづく。
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