ドンテン高原が壊滅の危機的に!
で、私がどうしてドンテン山で宿をやりたかったかというと、この山から眺める夜景が、函館の夜景にそっくりなんですよね。おまけに植生がすごい。高山植物の宝庫で、シラネアオイなんかがワンサカ咲いている。シラネアオイといっても、ピンとこない人が多いかもしれませんが、北軽井沢でシラネアオイを買うと一鉢一万円です。それほど希少な高山植物です。
五月の登山道はカタクリでいっぱい。花を踏まないで歩くことは不可能でした。今は、どうか知りませんけれど、二〇年前。つまり二〇世紀のドンテン山付近の山々は、花の島・礼文島なんかより、よほど花が咲いていたのです。それに目をつけた私は、佐渡に山小屋があったら凄いことになると思ったのです。
では、なぜドンテン山付近に花が多かったのか?
それには理由があります。
牛の放牧に原因があります。
実は佐渡の放牧の歴史は古いんです。最も古い記録は大同年間(806−810)。そしてこの頃に山師が、さかんに佐渡島内に寺社を勧進しています。つまり、たたら製鉄を行なったする山の民たちが見え隠れしたころに、すでに放牧がはじまっています。しかし、なにぶん古い時代であるために、詳しい記録が残っていません。
比較的記録が残っている江戸時代だと、佐渡島内における牛馬の飼育数は600〜7000頭で、その中で放牧頭数は2000頭くらいと言われています。ちなみに1990年頃には、400頭までに減少しています。つまり九世紀から二十一世紀までの1200年間にわたる長期間、放牧を行なわれていたということになります。これが大佐渡山脈における高山植物の植生に大きな影響を与え、日本一花の多い山に変えてしまっています。
この事実を知ったのは、今から三〇年前のことです。旅の仲間と大佐渡山脈の縦走を企画して、大佐渡山脈について調べるために国会図書館に通い詰めたことがありました。そのときに見つけたのが『源四郎文書』と『佐渡の植物シリーズ(6巻)』などです。その他にも、いろいろ面白い資料がたくさんあったのですが、この二つは私に縁がありました。
まず『源四郎文書』を所蔵している外海府の矢部家に行ってみると、そこは外海府ユースホステルでした。私は、そこの当主・矢部さんにいろいろ教えを請うことになり、貴重な資料についてや、民族風習や、地理と古道についてヒアリング(聞き取り調査)して、それにもとづいて調査しています。
そして『佐渡の植物シリーズ』(非売品)ですが、手書きで書かれて自費出版された同人誌のような本ですが、900ページ以上もあって、それが6冊です。中身は濃くて、どう考えても一流の学者。いや佐渡最大の植物学者。いや日本を代表する植物学者といっても言いすぎではないと思いました。読んだ私は、ただただ驚愕して言葉も出ませんでした。
この著者は、超有名な植物学者にちがいない。
いったい誰なんだ?
どこの大学教授なのか?と
著者を調べてみたら伊藤邦男とある。
はて?
どこかで聞いた名前だな?
と思いつつ奥付にある著者の住所を調べてみたら私の実家の三軒隣だった。
「えええええええええええええええええええええええええええええええええ」
と腰をぬかさんばかり驚きました。
私のよく知っている人だったからです。
私の父親は、長男の私だけに厳格な人で、母親に口答えしようものなら風呂の中や池などに放り投げられたり、コンセントでムチのように叩かれたり、家から追い出されるのも日常茶飯事でした。追い出されて家に入れずにウロウロしていると、三軒隣の家から必ずおじさんが自転車で出てくる。そしてニコニコしながら私の周りを通り過ぎます。
一時間に三回ほど通ります。
家の周りにいても仕方ないので、どこかにフラリと出かけると、母親や祖母が名前を叫びながら探しに来るわけで、それが日常茶飯事だったので、それが近所に伝わらないわけがなく、超有名になっていたようです。しかし、他人のうちの家庭にお節介する人などはいません。けれど三軒となりのおじさんは、20分おきにニコニコしながら必ず私の前を自転車で通り過ぎる。
なのでよく覚えていたのです。
で、母親が弟を妊娠したり盲腸なんかで入院すると、父親との間をとりなす人がなくなるので、放浪の旅にでかけるわけですが、そういうときに三軒となりのおじさんは、自転車で遠くからついてくるんです。しかし、声をかけたりはしない。しばらくついてきて何もしない。祖母が私を呼ぶ声がしたら、ササーッといなくなる。しかしいつまでも祖母の声が止まないと、またサササーッと現れる。しかし、決して何もしない。
そのくせ私は、このおじさんと一度も口をきいたことが無い。息子さんとは、近所だったこともあって、小さい頃に遊んだことはあったし、集団登校で一緒に学校に通った仲だったのですが、おじさんとは、ほぼ他人でした。この人が『佐渡の植物シリーズ6集』を書いた伊藤邦男先生でした。
国会図書館で佐渡島の植生について調べていたら、感心する論文の大半が伊藤邦男という名前。この人は、凄い人だ。世間はもっと注目していい凄い人なのに、どうして無名なんだろう?思っていたら、私の実家の三軒隣のおっちゃんだった。
「えええええええええええええ?」
ですよ。そのおっちゃんも、すでに亡くなっています。ちなみに、このおっちゃんと、外海府ユースホステルの御当主は、同じ大学の同じ学部の同窓です。おそらく知り合いのはずです。著作をみると外海府ユースホステルの所有している土地の調査もしていますから。
◆伊藤邦男
昭和3年新潟県佐渡に生まれる
昭和22年新潟大学農学部卒業
以後、佐渡島内で高校教員として活躍
◆著述
植物とくらし : 佐渡草木ノ−ト 1976
金井町の名木・巨木・美林 金井町教育委員会 1988
佐渡 原書房 1988
佐渡植物民俗誌 1987
佐渡植物誌 1987
佐渡植物歳時記 1990
佐渡植物風土記 1990
佐渡の植物シリーズ全6集
南佐渡小木の花・名木・美林 1990
佐渡山菜風土記 1991
佐渡花の風土記 : 花・薬草・巨木・美林 1992
佐渡薬草風土記 1992
佐渡の花 春 1995
佐渡の花 秋 1995
佐渡の花 夏 1995
佐渡巨木と美林の島 1998
佐渡花の民俗 2000
佐渡山野植物ノ−ト 2001
佐渡 自然と草木と人間と 2003
話をもどします。
なぜドンテン山付近に花が多かったのか?
伊藤邦男先生によれば、牛の放牧に原因があったという。
佐渡の放牧の歴史は古く、大同年間(806−810)から始まり江戸時代には2000頭も放牧されたと言います。1200年間にわたる長期間、放牧を行なわれていたということになります。つまり牛馬による一千年以上の喫食の歴史で、それが花畑ほこるドンテン山の植生を変えてしまっています。嬬恋村の天然記念物・湯の丸高原のレンゲツツジのようにです。
もちろんドンテン山も、レンゲツツジ・ホツツジなどの有毒のツツジ科が多いです。牛たちは、毒をもっているツツジ科の植物を食べません。他の植物が食べられても、ツツジ科だけが残るようになるからです。
1980年代に私の実家のすぐそばにある農業技術センターでは、ドンテン山のシバ草原の一角をフェンスで囲んで牛たちが食べられないようにした実験を行ないました。6ケ月後には、さまざまな植物を交えたススキ原となり、2年後はススキ原に芽生えたハナヒリノキ、レンゲツツジ、ヤマモミジなどが繁茂し、ススキ草原は低木林に遷移しています。つまりドンテン山のシバ草原は、牛に支えられているわけです。
で、ドンテン山の花は、放牧牛の糞とかかわっているという。伊藤邦男氏は、『糞跡(ふんあと)群落』と言っています。牛の糞跡に生育するシバは、濃い緑でよく繁殖しているのですが、糞の成分が残っているかぎり牛は食べようとしない。糞の成分も少なくなるとシバの繁殖力は弱くなり、シロツメクサ・ツリガネニンジン・ウツボ草・ノコンギク・オトギリソウなどが生育し花を咲かせますが、糞の成分が残っている限り、これらの植物は牛に食われずに数年間、花をさかせるのです。糞成分とともに出没し、糞成分の消失とともに消えていくのです。
今から二〇年前に『風のたより』という団体で、これらの糞跡群落を調査しながら大佐渡山脈を縦走したことがあります。そのときは花畑に参加者はみなうっとりしたものでした。
驚くべきはハマナスです。海岸植物のハマナスが、ドンテン山付近の高原にみられる。私たちは、ありえないことに驚いていると、野鳥を得意とする地元山岳会と出会って彼らの解説を聞きました。
「海岸で野鳥がハマナスを食べて、その種を野鳥がドンテン山に落としたんだよ」
「へえー」
その時は、なるほどなあと思ったものです。しかし、伊藤邦男先生の説は違います。
「海岸でハマナスの実を食べた牛が、ドンデンに放牧される。動物の腸管をとおったハマナスの種子は発芽率が高まる。ハマナスの実は目然条件下ではほとんど発芽しない。鳥や牛の腸管をとおり、糞の中で発酵すると発芽する。牛伝播によるハマナス群落が、ドンデンのハマナスである」
野鳥説。牛伝播説。どちらが正解かわかりませんが、野鳥説をとなえる地元山岳会と仲良くなった私たちは、ドンテン山荘に泊まり、一緒に酒を酌み交わしました。
で、地元山岳会の中に佐渡金井町図書館館長がいました。佐渡金井町図書館は子供の頃からよく利用していたので、それを伝えると、私の名前を聞いてくる。で、私が名乗ると
「あなたとは何度か会ってる」
という。しかし、こっちには見覚えが無い。で、よく聞いてみると
「福祉課にいた頃に、あなたの祖母に、支援事業を行なっていた」
という。そのときに会っているというのです。
そう言えば、そんなことがあった事を思い出しました。祖母は、働き者で、毎日せっせと竹細工を作っては役場におさめていたことを。私は、学校から帰ってから、それを何時間も眺めていたし、一緒に納めに行ったこともありました。
昭和40年代前半の佐渡は、まだ豊かとは言えず、内職しながら子育てしている母子家庭もおおく、そういう同級生も何人かいたものです。彼らの家に遊びに行くと、たった四畳半の町営の母子寮に親子で住んでいました。しかし、彼らが貧乏には見えなかった。小学生の持ち物に大差なかった。差があったのは親の方で、子供たち貧富は無かった。金持ちの子供がいたとしても、子供には贅沢させてなかったからです。ただし、これが四歳下の弟の世代になると、そうでもなくなってきます。高度経済成長時代は、急激に世の風習を変えていきます。
おっと回りくどい話をしてしまいました。
これから本題に入ります。
私たち親子は、ドンテン山荘からドンテン高原に向かいました。タダラ峰・尻立山・芝尻山・論天山の四つを合わせてドンテン高原というのですが、それら一面がシバ草原で、面積800ヘクタールもあります。北軽井沢にある広大な浅間牧場と同じ面積といえば、どれだけ広いかわかるかと思います。
実は、大佐渡山脈には、このような広大なシバ草原が19ケ所余もあり、総面積は8200ヘクタール。浅間牧場の10倍。釧路湿原と同じ面積にもなります。その草原のシバは牛馬の喫食に強く、地下茎は地下5ミリほどもあり、成長点も地表すれすれのところにあります。牛馬に食べられてもすぐ新芽をだして伸びます。1200年にわたる放牧によって喫食に弱い植物は消え、喫食に強いシバの純度が高まっていったわけで、きわめて珍しい植生となっていきました。
かって私は、佐渡金山から北端の鷲崎岬まで縦走したことが何度かあるのですが、苦戦を予想しながらも、これらのシバ地のおかげで楽に縦走できています。知床山脈から知床岬までの縦走に比べたら何と楽な縦走であったことか。そして、花の多さにどれほど驚愕したことか。
私が佐渡島に住んでいるときには、それに気がついて無かったです。島を出て上京し、ほぼ全国の山々を登り切ったあとで、佐渡島の山に入って、その事実に愕然としたのです。花が多いなんてものではなくて、花がありすぎて何処を踏んで良いのかわからなかったからです。
しかし、11月のドンテン高原に花があるわけが無く、枯れたススキの草原をひたすら歩きました。で、気がつきました。
「あれ? ススキだなあ?」
「・・・・」
「あれ? あれあれ?」
息子と嫁さんが怪訝そうに聞いてきます。
「どうしたの?」
「あれれれれれれれれれれれ?」
「・・・・」
「ススキだ。ススキの草原になっている。シバ地がススキに変っている」
写真をみてもわかるとおり、
シバ地がススキの植生に変異しています。
私は青ざめてしまった。
農業技術センターの実験を思い出してしまった。シバ草原の一角をフェンスで囲んだ実験です。牛の喫食をたたれると、ススキ草原となり、ブッシュ(低木林)に遷移したという実験を。で、足下をみてみたら牛のウンチが無い。どこにもない。
いったい、どうなってるんだ?
ドンテン高原に、
大佐渡山脈に、
いったい何が起きているのか?
あとで調べてみたら、今は佐渡島で放牧が行なわれなくなったらしい。20年前に縦走したときは、どこを見渡しても牛だらけだったのに、今は放牧がされなくなっているらしい。そのために1200年かけてできたドンテン高原のシバ地が壊滅的な状況になっているようなのです。
ヤバいですよ。
佐渡の皆さん、本当にヤバいですよ。
いますぐ手をうたないと、とんでもないことになりますよ。
特に行政の方、わかってますよね?
登山家の皆さんも、
観光関係者の皆さんも、
いつまでもドンテン高原に花があると思ったら
大間違いですよ。
このままだと佐渡の山は死にますよ!
1200年かけて育てた景観は無くなりますよ!
農業技術センターの実験では、2年後にススキ原。その後、低木林に遷移していますからね
とにかく明日は外海府ユースホステルに行こう。外海府ユースホステルの御主人は、佐渡の山林地主だし、新潟大学演習林の管理者なので、詳しい状況を教えてくれるかもしれないからです。矢部文書についても聞きたいし・・・・。
つづく。
↓ブログ更新を読みたい方は投票を
人気blogランキング