二月二日のことです。息子がこども園から帰ってくると、「お父さんちょっと」と私の腕を引っ張ります。何事かと思っていると、こども園で作ってきた鬼のお面を取り出しました。ああ、節分か。と理解した私は、息子に豆を持たせて、私は息子が作った鬼の面を被って「ガオー」と叫んだのですが、息子はキョトンとしています。何をしていいかわからないのです。仕方がないので、鬼の役はやめて、一緒に豆まきだけをすることにしました。しかし、息子のやつは、どうやって豆まきをしていいのかわからない様子です。なので、手本を見せるわけですが、これで初めて豆まきができるようになりました。
うちの息子は一事が万事、すべてがこういう調子です。手本を示すと、その通りやるのですが、手本がないとなかなか動こうとしません。どうやっていいか分からないんだと思います。そのかわり、親の真似はよくします。私がベットメイクや部屋掃除をすると、一生懸命手伝おうとします。私が外で雪かきをすると、自分も雪かきをし出します。除雪機を動かして息を飛ばしていると、さすがにそれだけは真似ができないので、小さなスコップを持ち出して、小さな四歳の体で一生懸命雪かきをします。別に強制されているわけでもないのに、自発的に動くんです。子供は親の鏡とはよく言ったものです。
トイレに行く時は、それがよく現れます。私はトイレから出るときにスリッパを揃えないという悪い癖があるのですが、息子もそれを真似します。息子のトイレのスリッパが乱雑に放り投げられてしまうのです。これはまずいなーと思った私は、反省して、トイレのスリッパをそろえるようになるのですが、それを一週間ぐらい続けると、今度は息子も、トイレから出てくるときに、トイレのスリッパをきれいにそろえるようになります。こどもは、実に親の姿をよく見ているし、よく真似をします。
しかし、親というものは、案外見られていることに気がつかないものです。しかし子供の性格の大半は、親が作っているのも事実です。私は宿屋をやっていますが、もし別の職業に就いていたら、今の息子の性格は、絶対違うものになっていたはずです。息子は、宿屋として接客業をしている姿を見ているわけですから、それが今の息子の性格に影響しないわけがありません。もし私がサラリーマンだったとしたら、そして会社の愚痴を家庭でこぼしていたとしたら、息子は別の性格になっていたと思います。しかし、その別の性格になった原因が、自分にあるとは夢にも思ってないでしょう。なぜならば、普通の会社員であれば、息子をじっくり観察する機会に恵まれなかったからです。
実は私は、四歳から五歳位の時に歴史オタクになっています。原因は親の影響です。私の親や祖母は、好んでNHKの歴史大河ドラマと、を見ていました。親が見るテレビ番組をただ何となく漠然と見ていたわけですが、太閤記・源義経という子供の絵本に出てくる素材であったこともあって、土曜日の昼間に祖母と一緒に大河ドラマの再放送を見ては、絵本の『豊臣秀吉』『牛若丸』を読んでもらっていました。祖母は、文盲で文字が読めない人だったんですが、絵本を上手に解説していました。もちろん、書いてあることと、祖母の解説は、全く違いますので、どうして違うんだろうと、自分で調べるようになり、その時に何でも自分で調べる癖がついています。これは親と言うより祖母の影響です。
小学校に入ると、私は動物オタクになっています。これも両親が、マーリン・パーキンスの『野生の王国』と言う動物ドキュメンタリー番組を好んで見ていたからです。最初は、全く動物に興味がありませんでしたが、何度か番組を見ているうちに、自然と頭の中に入ってきます。そして、小学校の図書館に入り込んでは、動物図鑑を眺めながら、名前や生態を片っ端から暗記しました。もちろん恐竜やウルトラマンの怪獣も含めてですが、図鑑にある動物は全部暗記していましたから、かなりの動物博士になっていました。だから私にとってディズニーといえば、ミッキーマウスで無く、動物ドキュメンタリー映画のことでした。ディズニーは、数々の傑作ドキュメンタリーを製作していたのです。もちろん当時から難しい本も読んでいます。
あと、子供の頃に『野生のエルザ』と言う映画を観て感動したと言うこともあります。映画『野生のエルザ』は、実話を元にしたドラマです。主人公たちは、親を失った三匹のライオンの子供を見つけるわけですが、そのうちの二匹を動物園に手渡し、一匹だけを自分でペットとして飼うわけですが、これがエルザです。エルザは、元気に大人になっていくんですが、発情期になり、それを持て余して苦しんでいる。そこで飼い主は、エルザを野生に戻すようにがんばり、ついに野生に帰っていくというハッピーエンドの物語でした。この映画に感動した私は、将来は動物園の飼育員になるか、犬の訓練士になりたいと思ったくらいです。
そして三十年後、私は宿屋を始めて自然ガイドなどをしていました。もちろん動物についての知識も格段にアップしています。で、なんとなく気になったので、野生のエルザのビデオを購入して、三十年ぶりに見てみたわけです。で、愕然としてしまいました。これはやばい映画だ。エルザは、あの後すぐ死んでいるはずだと容易に想像できるからです。
で、原作本を読んでみたら、案の定、すぐに死んでいました。詳しい解説は、やめときますが、主人公たちは、致命的なミスを犯していたからです。しかし、これは動物学が進歩した現代の視点から言えることであって、1956年当時の知識水準からしたら、しょうがない事だったとも言えます。それほど現代の動物学は進歩しています。
あと、昔の佐渡島には、見世物小屋やってきました。大蛇や象なんかがやってきたのです。もちろん親とで見に行きます。そのつど食い入るように見たものです。親が、鶏・猫・ウサギ・鳩・犬・金魚などを飼っていたということもあって、身近に動物がいたというのも私が動物好きになった原因の一つです。
また実家の近所に豚・牛の飼育小屋があって、子牛や子豚とふれあえたんですよね。みかんの皮やリンゴの皮・芯などの食べ残しなんかを持って行くと、豚は喜んで食べていました。牛には藁をもっていって食べさせました。牛たちは、角を切られており、縄でつながれていました。現代では、口蹄疫のこともあって勝手に入れませんが、四十五年も前だと簡単に動物とふれあえるいい時代だったんです。
前置きはこのくらいにして本題に入ります。
動物オタクだった子供の頃の私の悲願は、朱鷺を見ることです。しかし、昭和四十年代の佐渡島では、島民といえども朱鷺を見ることは先ず不可能でした。見たことがあるという人も希でした。たまに、食べたことがあるという老人の話を聞きましたが、肉が赤すぎて気味が悪いので、暗い夜にしか食べられなかったという話しでした。今でこそ、大量の朱鷺が放鳥されていますが、昔は、本当に幻の鳥でした。
ドンテン山から下山した私たちは、佐渡にある『トキの森公園』に向かいました。息子と嫁さんに朱鷺を見せてあげるためです。もちろん私も初めて見ます。
私は、できるだけ息子に動物との距離を縮めさせたいと思っています。だから犬も飼っているし、動物園にも牧場にも連れて行ってます。登山中には野鳥の観察もしていますし、庭木には鳥小屋もあるし、鳥の餌もおいてあります。
嫁さんは、何度も息子を猫カフェに連れて行ってます。それもすごく厳しいルールのある猫カフェです。猫の権利が強くて、これでもサービス業なの? サービス業としてはまずいんじゃ無いの? 詐欺じゃないの? というくらいに厳しいルールのある猫カフェなんですが、あえて連れて行っています。動物をおもちゃのように扱わない子供に育てると言う意味では、効果のあることだからです。佐渡にある『トキの森公園』も、きっと厳しいルールのもとに見学が許される場所ではないかと期待して、出かけてみました。
トキの森公園は、昔、新穂村といわれた地区にあります。私が子供の頃には、佐渡島は十の市町村に分かれていました。その中の一つである新穂村といえば朱鷺のイメージでした。朱鷺は、新穂村に住んでいたのです。
いまでこそ絶滅が危惧されている朱鷺ですが、かっては日本全土で普通に見られる鳥で、害鳥のナンバー三と言われた時期もありました。鳥追い歌に、
一番にくい鳥はスズメ。
二番目がサギ。
三番目がドウ(朱鷺)。
とあるとおり、昔は田んぼに大量の朱鷺がいたんですよね。田んぼに住んでるドジョウなんかを食べていたんです。しかし、明治維新後の政策によって輸出用の羽毛(ダウン)の需要が急増し、朱鷺が乱獲されます。朱鷺の羽毛布団は柔らかく生産が間に合わないほどで、ヨーロッパで流行した婦人帽の飾りとして輸出されました。
そのために明治末期には絶滅の危機となり、大正末期には新潟県でも絶滅したと報告されています。そこで新潟県は、懸賞金をつけて絶滅したといわれる朱鷺をさがしたわけですが、昭和五年に佐渡で目撃したという報告がありました。そして、大々的に調査が行われた結果、60〜100羽ほど朱鷺が生息していたことがわかりました。
世紀の大発見でした。
すぐさま朱鷺は、国の天然記念物に指定されるわけですが、朱鷺は年々数が少なくなっていきました。原因は、第二次世界大戦で薪炭用に大量の木が山から切り出され、山が丸坊主になったため冬に餌場になる沢が雪で埋まって、餌が取れなくなったためです。雪国の人ならわかるかと思いますが、森の中の雪は早く溶けますが、丸坊主では溶けません。朱鷺たちの冬の餌場が無くなってしまいます。見かねた地元民は、サワガニやカエルを集めて水田に放しました。そのおかげで、朱鷺は細々と生きながらえました。
それが再び絶滅しかかったのは、農薬汚染のせいです。ドジョウやカエルなどが農薬汚染され、それを食べた朱鷺も農薬汚染となり、生殖しなくなってしまったのです。朱鷺は、里山の樹に巣をつくり、田んぼの中のドジョウなどを食べていたので、農薬汚染によって生殖能力を失ってしまったのです。
で、1952年「特別天然記念物」に1960年「国際保護鳥」に指定されるんですが、農薬の使用などで、田んぼにいたドジョウなんかが死滅すると激減し、佐渡と能登半島にしかいなくなるんです。私が、小学生の頃には、そういう状態でした。そして17〜18羽の群れがいた能登半島の朱鷺がろくに保護されないまま壊滅するわけですが、壊滅の理由が能登半島のゴルフ場ではないか? 能登半島では朱鷺よりもゴルフ場をとって朱鷺が壊滅したらしい・・・とは、当時から良く言われていました(なので私はゴルフが嫌いでやったことがありません)。
幸か不幸か佐渡にはゴルフ場が無かった。
おまけに天敵も少なかった。
佐渡にはキツネはいなく、テン・イタチくらいしかない。
しかし、佐渡の朱鷺は、何度も孵化に失敗し、1981年には野生のトキを捕まえて人工飼育をしたけれど失敗を続け2003年まで続けられたが成功せず日本産トキは絶滅してしまったんです。ところが1999年中国から贈呈されたトキの人工繁殖が成功。成功した理由は、無農薬の水で育ったドジョウを餌にあげたことらしい。やはり農薬と環境破壊が朱鷺絶滅の理由だったわけです。
以上、ここまでは佐渡島民なら誰でも知っている常識です。私は子供の頃、朱鷺の書籍を読んで朱鷺に詳しいわけですが、これは私だけではなく佐渡島民ならみんな知っていたと思います。なぜならばどの家庭にも朱鷺の本が置いてあったからです。それほど佐渡島民は、朱鷺に愛着あったということをここに記録しておきます。
小学校の授業の脱線などで朱鷺の話を良く聞きました。昭和何年にどこそこで見たことがあると。それは美しかったと。そういう話を学校の先生なんかがするわけです。それを羨ましく聞くわけですが、佐渡島民であっても朱鷺を見ることなど99.9パーセント不可能な話なんです。保護されているために、朱鷺を見るチャンスはほぼないわけです。昔見たことがあると言う人の話を聞いて、想像するしかないんですね。
ところが、現在では朱鷺を簡単に見ることができます。皮肉なものですが、佐渡島の朱鷺が絶滅することが決定したことによって、島民は初めて朱鷺を見ることができるようになったんです。で、佐渡の朱鷺は、2003年のキンの死亡によって絶滅します。
現在佐渡島にいる朱鷺は、1998年に中国から貸してもらった朱鷺の子孫たちです。貸してもらった朱鷺ですから、子孫の半数は中国に返しています(そういう約束で借りている)。現在は、環境省によって朱鷺の野生化プロジェクトをすすめています。
このプロジェクトは、トキが生息できるのために、自然環境・社会環境を変えていくプロジェクトで、水田や湿地に、ドジョウ・雨蛙・バッタが大量にいるような地域にする。そして、それらの近くにアカマツ・コナラなどの営巣に適した高木を保全するといった、人とトキが共生できる社会づくりです。
朱鷺の場合は、生息環境だけ整えても成功しにくいんですよね。というのも朱鷺は里山の鳥だからです。人との関わりの中で生息しているからです。と言うわけで、『トキの森公園』は、朱鷺のことを地元民に知ってもらうための啓蒙施設でもあります。もちろん観光施設でもありますが、どちらかというと環境教育施設なんですよ。佐渡に行ったらぜひ訪れてほしい施設なんです。
住所〒952-0101 新潟県佐渡市新穂長畝383-2
電話番号0259-22-4123
開館時間午前八時三十分〜午後五時(入館締切 午後四時三十分)
休館日毎週月曜日(三月〜十一月までは無休)、年末年始
大人:一人四百円
小人:一人百円
http://tokinotayori.com/
望遠鏡で朱鷺をのぞける
本当は、このくらいの距離
ケージに飼われている朱鷺は、エネルギーを消耗しないためか1日に一回くらい。ドジョウを一匹くらいしか食べないらしい。下手したら2日間餌を食べないこともあるらしいので、餌を食べている姿を見られたらラッキーなことらしい。
ちなみに職員さんは、とても親切に朱鷺について解説してくれます。
つづく。
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