風越公園屋外スケート場
私は、冬山登山以外のウインタースポーツに全く興味の無い男で、若い頃は、冬は沖縄(それも八重山)ばかり行ってましたので、スキーはおろかスケートもやったことはありません。一生やらないつもりだったのですが、嬬恋村出身の息子が四歳になったので、やらないわけにはいかなくなり、息子と一緒に風越公園屋外スケート場に行くはめになりました。
南軽井沢にある風越公園屋外スケート場は、大人は800円で一日中滑ることが出来ますので、息子をつれて出かけたのですが、初心者は、椅子を借りて滑るらしい。なにしろ屋外のスケート場なので、捕まるところがないんですよね。で、椅子を借りるわけですが、なかなかうまく滑れません。それは息子も同じようで、二人して悪戦苦闘。1人嫁さんだけは、スイスイと滑っていました。
もちろん息子は、私より上達が早いです。スケート靴を履かせたら、普通にそれで立って歩いていたし、倒れても倒れても立ち上がれる。こっちは、倒れる恐怖と戦っているというのに。子供の運動神経には、舌をまきました。
ここにはカーリング場なんかもあって、有名選手が練習していたりします。冬季オリンピック選手の調整所として世界中からやってきていた時期もありました。外国の選手団に「軽井沢の人は、すごく親切」「最高のホスピタリティ」と評判が良く、それが口コミで世界中に広まっているらしく、東京オリンピックの調整所として検討している国々もあるとか。
〒389-0113 長野県北佐久郡軽井沢町発地1154
電話: 0267-48-5555
http://www.kazakoshi-park.jp/ice-arena/
つづく。
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2018年03月30日
2018年03月29日
中軽井沢の千ヶ滝・せせらぎの道を散策
2017年11月12日のツアー報告です。この日は、中軽井沢の千ヶ滝を散策しました。駐車場から三キロ弱の遊歩道を散策です。11月なのにホタルブクロが咲いててびっくり。公衆トイレには、ムササビの巣もありました。
11月なのにホタルブクロが咲いていたのには驚きましたね。
さて、問題です。
これは、何をしている姿でしょう?
川に何か手をいれていますね?
これは、何をしている姿でしょう?
実は、川底から温泉がわきでているのです。
鉄分の多い炭酸泉です。
浅間山の南斜面には、こういう温泉がたくさんあります。
これが千ヶ滝です。
30メートルくらいでしょうか?
つづく。
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11月なのにホタルブクロが咲いていたのには驚きましたね。
さて、問題です。
これは、何をしている姿でしょう?
川に何か手をいれていますね?
これは、何をしている姿でしょう?
実は、川底から温泉がわきでているのです。
鉄分の多い炭酸泉です。
浅間山の南斜面には、こういう温泉がたくさんあります。
これが千ヶ滝です。
30メートルくらいでしょうか?
つづく。
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2018年03月28日
息子を連れて佐渡島へ 18 佐渡汽船・北軽井沢に帰る
人類は名前がついているだけで25種ありますが、みんな次々と絶滅しています。最後に残ったのがネアンデルタール人とホモサピエンス。この両者は、非常に高度な文明をもっていました。しかし、ネアンデルタール人は滅びてホモサピエンスが生き残った。ネアンデルタール人は、私たちより脳も大きく、ガッシリしていたのに何故か滅びてしまった。彼らは、我々と同等の知能があり、体格も優れ、遺伝的な差異が全くなかったにもかかわらず、なぜか滅びたのか? 逆にどうして私たちホモサピエンスが繁栄したのか?
それを解明するために人類交替劇プロジェクトというものが立ち上がっています。世界中の各分野の学者たちが、ネアンデルタール人が滅びた原因をさぐる人類交替劇プロジェクトです。このプロジェクトは、従来の専門家の他に、文化人類学、発達心理学、生体力学、精密工学、認知神経科学、古神経学などの異分野の人たちを巻き込んで、学問の相互乗り入れをしたユニークなプロジェクトでした。
そのプロジェクトの中で、私にとって面白かった研究は、ネアンデルタール人が社会学習を得意としていたのに対し、ホモサピエンスが個体学習を得意としていたというところです。これをまとめると、こうなります。
◆ネアンデルタール→社会学習を得意(他人を模倣して作る)
◆ホモサピエンス →個体学習を得意(個人が創意工夫する)
社会学習を得意とするネアンデルタールは、親や大人が子供に石器の作り方を教えていたわけです。その方法は伝統的に受け継がれ、そのために生息地域もヨーロッパという狭い地域にしかネアンデルタールは定着しなかった。
では、ホモサピエンスはどうだったか?
というと、どうも、そうではなかったらしいのです。
人類交替劇プロジェクトの文化人類学者グループが、人類交代劇が起きた頃のホモサピエンスに最も近いといわれる狩猟採集民を観察することによって、ホモサピエンスの学習行動の特徴を明らかにしたわけですが、未開の奥地に住む狩猟採集民は、子供に何も教えていない。子供は、親のやることを見ているだけで、何一つ教わってないという事がわかった。
母親は、料理を作っている姿を見せるだけ。
父親や、年長の子供たちも動物を捕らえる罠を作ってみせるだけで、
決して教えようとはしない。
狩猟採集民の子供たちは、見てるだけなんです。
学校制度の整った先進諸国の人間からすると、奇異に感じるかもしれませんが、人類交代劇が起きた頃のホモサピエンスは、子供たちに社会学習をさせてなかった。そのためにホモサピエンスは、創意工夫を必要とする個体学習の力を育てる必要があったわけです。その結果、創意工夫する力が育ち全世界のあらゆる地域に対応していった。
逆に言うと、今の学校制度というのは、ホモサピエンス型ではなく、ネアンデルタール型の学習行動に近いんですよね。しかし、社会学習のネアンデルタールは、生存競争でホモサピエンスに負けている。
ここから本題です。
この仮説の正否はともかく、幼児は、徹底的に親の真似をしますね。教えて無くとも親の本能的に真似をする。そして学習する。ホモサピエンスの原型である狩猟採集民と同じです。幼児は、強制しなくともホモサピエンスのように個体学習をする。逆に言うと社会学習を拒否する。
「これこれをしなさい」
と命令すると天邪鬼のように反発する。ネアンデルタールのように素直に社会学習してくれない。
親が口で言ったことに反発し(社会学習を拒否)、
親の日常行動を真似する(進んで個体学習する)。
幼児という存在は、ホモサピエンスの学習行動にそっくりです。
というか、ホモサピエンスの本質そのものです。
逆に言うと、幼児を操るのは簡単で親が手本を示すだけでいい。
私は、脳科学者の本に「子供は親の真似をする」と書いてあったので、半信半疑で、ある脳科学者の実験の真似をしてみました。息子が二歳の時に、毎日一緒に風呂に入って、そのたびに風呂場に貼った「あいうえお表」を読んでみたら、息子も真似をして二週間で平仮名をマスターしてしまった。
二歳の息子は勝手に個体学習してしまった。逆に、その息子に漢字の勉強という社会学習。つまり勉強を強要してみたら拒否されてしまった。そして一年間、漢字を覚えようとしなかった。幼児は、徹底したホモサピエンスタイプなんだなと思ってしまいました。
話は変わりますが、
うちの息子は、字だけは二歳になる前に読めるようになっています。
勝手に個体学習をして読むようになっています。
けれど、字を書くことは、なかなかしなかった。
当たり前のことなんですが、字が書けなくて当然です。
親の私が字を書いてないからです。
パソコンばかり使っている。
だから息子は、個体学習のしようがない。
そして「字を書け」と命令すれば社会学習になるので、
どうしても反発してしまう。
これじゃ一生かかっても字が書けない可能性が高い。
そこで私は、100円ショップなどで迷路の本やパズルを買ってきて、息子と一緒に寝る前に、迷路やパズルをやるようにしました。迷路やパズルで、字を書く握力をつけるためです。息子は、人より成長が遅く、子供園では「落ちこぼれ」だったために、子供園の先生の紹介で専門の先生に指導を受けていたんですが、その先生が
「指の力がつくまで、文字を書かせないように」
「文字よりも前に、指を鍛えなさい」
と言っていたので、そのために迷路なんかを買いました。
もちろん最初は私が迷路で遊びます。鉛筆で迷路に線を書きながらスタートからゴールをめざします。それを見た息子は、すぐに真似をしはじめます。私から迷路を取り上げて熱中する。それを私は側で見てると、息子はますます熱中する。そうやって、指を鍛えたからこそ、私の母親が30分教えるだけで、自分の名前を書けるようになったと思うのですが・・・・。
しかし、ここが面白いところですが、そばで見てないと息子は数分で迷路ゲームをやめてしまう。私が料理の準備をしだすと、そっちに興味がいってしまう。逆に側で見ていると何十分も迷路ゲームをして厭きる様子もない。でも、こっちが厭きてくるから私が本を読み始めると、息子も真似して絵本を読み始める。親の真似をする。親の後を追い、親の真似をしながら勝手に個体学習をはじめる。
しかし私が「そっちじゃなくて、この絵本を読んだら?」と提案すると拒否する。私の提案は社会学習そのものなので、息子の奴は、社会学習を拒否する。けれど個体学習は進んでやる。親の後を追い続け、親のやることを模倣して、親の行動を真似する。やってることはホモサピエンスそのものであり、狩猟採集民の個体学習と同じです。
逆にいうと、幼稚園・保育園に行きたがらない幼児は、本能的に社会学習を拒否しているのかもしれない。母親の側で、個体学習をしたがるホモサピエンスの本能みたいなものかもしれない。そうなると、
幼児という存在は、ホモサピエンスそのもの。
逆に大人は、ネアンデルタールの世界にいる。
そう考えると、ちょっと笑えてきます。ネアンデルタールタイプの教師が、ホモサピエンスタイプの子供と、ぶつかったらどうなるか? 上司と部下の場合はどうなるのか? 監督と選手の場合はどうなのか? 医師と看護師は? 軍人の場合はどうなのか? 大企業の場合は? 自営業者は? それらを空想してみると、ニヤニヤがとまりません。
それはともかくとして、息子は、私の母親(息子にとってお祖母ちゃん)から、「たける」という文字の書き方を学びました。私の母親の教え方は、ネアンデルタールタイプなんですが、息子は、その社会学習を拒否しません。
私の母親は、褒めまくって勉強させるタイプなので、社会学習をしているという感じを受けなかったのか? とにかく素直に学びました。私の母は、褒めて教えるタイプなので、息子本人にしてみたら、勉強をやらされている感じが無かったのかもしれません。なので息子の奴は、勝手に個体学習しているつもりだったのかもしれません。気がついたら三十分くらいで自分の名前が書けるようになっていたのです。
と言うことは、ネアンデルタールタイプの教え方でも、やり方次第では、幼児もそれを受け入れるということかもしれません。だからこそ、子供園・幼稚園・保育所が大好きな子供がいたりするんでしょうね。
その後、私たちは、北軽井沢に帰るために佐渡汽船の『ときわ丸』に乗り込み新潟港に向かいました。そして乗船後、恒例のカモメさんたちへの餌やり体験をしました。写真をみてもわかるとおり、カモメさんたちは、餌をもとめて近くまでやってきます。
その後は、船内の探検です。ときわ丸は新造船で、レストラン・コンビニ・ゲームセンター・劇場・ペット室はもちろんのこと、授乳室からベビールームまであります。どれも昔の船に無かったものばかり。そのうえ全長125メートル・5380トンという大きさ。私が子供の頃に乗った佐渡汽船『おけさ丸』が、たったの919トンですから5倍以上の大きさ。
そのうえコスプレまでできる。
息子も、コスプレして遊んでいました。
ちなみに嫁さんは、船に弱くてダウン。息子は、好奇心の塊で、船内探検しまくっているうちに、船は新潟港に到着してしまいました。こうして三泊四日の佐渡島旅行は終了です。ちなみに、船の料金は片道2,250円。ただし、うちの場合は、軽自動車で島に上陸したので、カーフェリー自動車航送運賃の正規の値段が二万円くらい。そこからインターネットで割引してもらっています。軽自動車なら自動車を航送した方が良いし、大きめの車なら佐渡でレンタカーを借りた方が安いですね。どっちにしても、佐渡観光する場合、自動車が無いと不便です。
つづく。
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それを解明するために人類交替劇プロジェクトというものが立ち上がっています。世界中の各分野の学者たちが、ネアンデルタール人が滅びた原因をさぐる人類交替劇プロジェクトです。このプロジェクトは、従来の専門家の他に、文化人類学、発達心理学、生体力学、精密工学、認知神経科学、古神経学などの異分野の人たちを巻き込んで、学問の相互乗り入れをしたユニークなプロジェクトでした。
そのプロジェクトの中で、私にとって面白かった研究は、ネアンデルタール人が社会学習を得意としていたのに対し、ホモサピエンスが個体学習を得意としていたというところです。これをまとめると、こうなります。
◆ネアンデルタール→社会学習を得意(他人を模倣して作る)
◆ホモサピエンス →個体学習を得意(個人が創意工夫する)
社会学習を得意とするネアンデルタールは、親や大人が子供に石器の作り方を教えていたわけです。その方法は伝統的に受け継がれ、そのために生息地域もヨーロッパという狭い地域にしかネアンデルタールは定着しなかった。
では、ホモサピエンスはどうだったか?
というと、どうも、そうではなかったらしいのです。
人類交替劇プロジェクトの文化人類学者グループが、人類交代劇が起きた頃のホモサピエンスに最も近いといわれる狩猟採集民を観察することによって、ホモサピエンスの学習行動の特徴を明らかにしたわけですが、未開の奥地に住む狩猟採集民は、子供に何も教えていない。子供は、親のやることを見ているだけで、何一つ教わってないという事がわかった。
母親は、料理を作っている姿を見せるだけ。
父親や、年長の子供たちも動物を捕らえる罠を作ってみせるだけで、
決して教えようとはしない。
狩猟採集民の子供たちは、見てるだけなんです。
学校制度の整った先進諸国の人間からすると、奇異に感じるかもしれませんが、人類交代劇が起きた頃のホモサピエンスは、子供たちに社会学習をさせてなかった。そのためにホモサピエンスは、創意工夫を必要とする個体学習の力を育てる必要があったわけです。その結果、創意工夫する力が育ち全世界のあらゆる地域に対応していった。
逆に言うと、今の学校制度というのは、ホモサピエンス型ではなく、ネアンデルタール型の学習行動に近いんですよね。しかし、社会学習のネアンデルタールは、生存競争でホモサピエンスに負けている。
ここから本題です。
この仮説の正否はともかく、幼児は、徹底的に親の真似をしますね。教えて無くとも親の本能的に真似をする。そして学習する。ホモサピエンスの原型である狩猟採集民と同じです。幼児は、強制しなくともホモサピエンスのように個体学習をする。逆に言うと社会学習を拒否する。
「これこれをしなさい」
と命令すると天邪鬼のように反発する。ネアンデルタールのように素直に社会学習してくれない。
親が口で言ったことに反発し(社会学習を拒否)、
親の日常行動を真似する(進んで個体学習する)。
幼児という存在は、ホモサピエンスの学習行動にそっくりです。
というか、ホモサピエンスの本質そのものです。
逆に言うと、幼児を操るのは簡単で親が手本を示すだけでいい。
私は、脳科学者の本に「子供は親の真似をする」と書いてあったので、半信半疑で、ある脳科学者の実験の真似をしてみました。息子が二歳の時に、毎日一緒に風呂に入って、そのたびに風呂場に貼った「あいうえお表」を読んでみたら、息子も真似をして二週間で平仮名をマスターしてしまった。
二歳の息子は勝手に個体学習してしまった。逆に、その息子に漢字の勉強という社会学習。つまり勉強を強要してみたら拒否されてしまった。そして一年間、漢字を覚えようとしなかった。幼児は、徹底したホモサピエンスタイプなんだなと思ってしまいました。
話は変わりますが、
うちの息子は、字だけは二歳になる前に読めるようになっています。
勝手に個体学習をして読むようになっています。
けれど、字を書くことは、なかなかしなかった。
当たり前のことなんですが、字が書けなくて当然です。
親の私が字を書いてないからです。
パソコンばかり使っている。
だから息子は、個体学習のしようがない。
そして「字を書け」と命令すれば社会学習になるので、
どうしても反発してしまう。
これじゃ一生かかっても字が書けない可能性が高い。
そこで私は、100円ショップなどで迷路の本やパズルを買ってきて、息子と一緒に寝る前に、迷路やパズルをやるようにしました。迷路やパズルで、字を書く握力をつけるためです。息子は、人より成長が遅く、子供園では「落ちこぼれ」だったために、子供園の先生の紹介で専門の先生に指導を受けていたんですが、その先生が
「指の力がつくまで、文字を書かせないように」
「文字よりも前に、指を鍛えなさい」
と言っていたので、そのために迷路なんかを買いました。
もちろん最初は私が迷路で遊びます。鉛筆で迷路に線を書きながらスタートからゴールをめざします。それを見た息子は、すぐに真似をしはじめます。私から迷路を取り上げて熱中する。それを私は側で見てると、息子はますます熱中する。そうやって、指を鍛えたからこそ、私の母親が30分教えるだけで、自分の名前を書けるようになったと思うのですが・・・・。
しかし、ここが面白いところですが、そばで見てないと息子は数分で迷路ゲームをやめてしまう。私が料理の準備をしだすと、そっちに興味がいってしまう。逆に側で見ていると何十分も迷路ゲームをして厭きる様子もない。でも、こっちが厭きてくるから私が本を読み始めると、息子も真似して絵本を読み始める。親の真似をする。親の後を追い、親の真似をしながら勝手に個体学習をはじめる。
しかし私が「そっちじゃなくて、この絵本を読んだら?」と提案すると拒否する。私の提案は社会学習そのものなので、息子の奴は、社会学習を拒否する。けれど個体学習は進んでやる。親の後を追い続け、親のやることを模倣して、親の行動を真似する。やってることはホモサピエンスそのものであり、狩猟採集民の個体学習と同じです。
逆にいうと、幼稚園・保育園に行きたがらない幼児は、本能的に社会学習を拒否しているのかもしれない。母親の側で、個体学習をしたがるホモサピエンスの本能みたいなものかもしれない。そうなると、
幼児という存在は、ホモサピエンスそのもの。
逆に大人は、ネアンデルタールの世界にいる。
そう考えると、ちょっと笑えてきます。ネアンデルタールタイプの教師が、ホモサピエンスタイプの子供と、ぶつかったらどうなるか? 上司と部下の場合はどうなるのか? 監督と選手の場合はどうなのか? 医師と看護師は? 軍人の場合はどうなのか? 大企業の場合は? 自営業者は? それらを空想してみると、ニヤニヤがとまりません。
それはともかくとして、息子は、私の母親(息子にとってお祖母ちゃん)から、「たける」という文字の書き方を学びました。私の母親の教え方は、ネアンデルタールタイプなんですが、息子は、その社会学習を拒否しません。
私の母親は、褒めまくって勉強させるタイプなので、社会学習をしているという感じを受けなかったのか? とにかく素直に学びました。私の母は、褒めて教えるタイプなので、息子本人にしてみたら、勉強をやらされている感じが無かったのかもしれません。なので息子の奴は、勝手に個体学習しているつもりだったのかもしれません。気がついたら三十分くらいで自分の名前が書けるようになっていたのです。
と言うことは、ネアンデルタールタイプの教え方でも、やり方次第では、幼児もそれを受け入れるということかもしれません。だからこそ、子供園・幼稚園・保育所が大好きな子供がいたりするんでしょうね。
その後、私たちは、北軽井沢に帰るために佐渡汽船の『ときわ丸』に乗り込み新潟港に向かいました。そして乗船後、恒例のカモメさんたちへの餌やり体験をしました。写真をみてもわかるとおり、カモメさんたちは、餌をもとめて近くまでやってきます。
その後は、船内の探検です。ときわ丸は新造船で、レストラン・コンビニ・ゲームセンター・劇場・ペット室はもちろんのこと、授乳室からベビールームまであります。どれも昔の船に無かったものばかり。そのうえ全長125メートル・5380トンという大きさ。私が子供の頃に乗った佐渡汽船『おけさ丸』が、たったの919トンですから5倍以上の大きさ。
そのうえコスプレまでできる。
息子も、コスプレして遊んでいました。
ちなみに嫁さんは、船に弱くてダウン。息子は、好奇心の塊で、船内探検しまくっているうちに、船は新潟港に到着してしまいました。こうして三泊四日の佐渡島旅行は終了です。ちなみに、船の料金は片道2,250円。ただし、うちの場合は、軽自動車で島に上陸したので、カーフェリー自動車航送運賃の正規の値段が二万円くらい。そこからインターネットで割引してもらっています。軽自動車なら自動車を航送した方が良いし、大きめの車なら佐渡でレンタカーを借りた方が安いですね。どっちにしても、佐渡観光する場合、自動車が無いと不便です。
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2018年03月26日
息子を連れて佐渡島へ 17 佐渡島から北軽井沢へ
三泊四日の佐渡旅行。4歳の息子は、私のふるさとである佐渡がとっても気に入ったようです。そして最終日。80歳をこえた両親と、次男の弟・三男の弟と、その家族と食事会をしました。私には、2人の弟がいますが、次男の弟は、もうほとんど子育てが終わりつつあります。三男の弟には、2人の小学生がいます。
で、うちの息子が4歳なのに、まだ字が書けないことや箸をうまく持てないことを話題にすると、中学教師の次男坊が
「小学校の先生は字の書き方を教えてくれない」
「小学校の先生は、箸の持ち方まで教えられない」
と、さかんに言ってきました。暗に、早めに親が教えた方が良いと言わんばかりです。
これは、努力して勉強するタイプである次男の弟らしい発言だなと思いました。ただ、自分が保育園時代に、ほとんど字を書くことをしてなかったことをスッカリ忘れています。それに苦笑していました。
逆に高校教師をしている三男の弟は、こういう話題に無関心。努力して勉強するタイプでない天才肌の三男の弟は、こういう事には無関心です。
ただ、この三男も、保育園時代に字を書く練習してません。それについては覚えてないでしょう。それでも弟たちは中学教師や高校教師になっているので、幼児が字を書けなくても何の問題もないことは、この弟たちを見れば一目瞭然です。しかし、弟たちは、そんな自分の過去を覚えてないらしい。
じゃあ何故、私だけが覚えているかというと、私だけが親から徹底的に字を書く練習をさせられたので不公平感もあって覚えているのですね。正座させられ、べそをかきながら、何度も殴られながら嫌々書かされました。弟たちには、コレが無かったので、よく覚えてないのです。
私の場合は、箸の持ち方も、少しでも間違っていると叩かれました。当然のことながら条件反射で、父親の腕が上がるたびにビクつくようになり、それが条件反射として癖になります。そして友人・先生・他の大人が、少しでも手を動かすと、条件反射でびくつくようになり、その癖(条件反射)が15歳くらいまで抜けませんでした。もちろん弟たちには、こういう経験は無い。無いから分からないでいる。
で、どうなったかというと、小学校1年生の時に私は、先生に字がうまいと何度も褒められています。ただし、それは1学期だけで、2学期からは誰よりも下手になっています。緊張しながら字を書く癖がついたために、筆圧が強すぎて、誰よりも書くのが遅くなっていたために、一緒に遊ぼうとする友達に
「早く書けよ」
と急かされてしまい、結局、乱暴に書くようになり、誰よりも字が下手になってしまいました。ただし、字は下手でもトレースは上手になった。地図や絵を上手にトレース(複写)する能力だけはついた。しかし字は汚いのです。この体験から私は、保育園のうちは、息子は字が書けなくても良いと思っているのです。それより指の筋肉をつけた方が良いと。
あと読めれば、字は書けなくてもいいと思ってる。
箸も使えなくて良いと思ってました。
江戸時代の教育方法が、その方式です。
そして大きな成果を残しています。
なので、息子は2歳で平仮名・片仮名・アルファベット・数字をマスターし、3歳で小学校2年生までの漢字を読めるようになっています。ただし、字は書けない。絵も書けない。小学校に入るまで書けなくてよいと思っている。その代わりに指を使う運動だけしている。指の筋肉を作るゲームを与えて遊ばせている。迷路やパズルで指を鍛えるだけ。それで良いと思っている。
ただし絵が書けなかったのは、私に原因があります。40万もするソファーに油性マジックで落書きされた時に、きつく叱ったために、息子は、落書きをしなくなった。絵を描かなくなってしまった。これを矯正するのに2年もかかってしまった。やはり幼児を強く叱る時は、よほど注意深くやらないと、後で強い後遺症を残すので要注意です。叱っても良いけれど、強く叱ってはならない。これだけは失敗したと思っています。
翌日、佐渡から北軽井沢に帰る直前に、元小学校教師だった私の母が、心配して、30分ほど息子に対して文字を書く練習をさせていました。そして「たける」の名前の書き方だけ教わりました。私の母親は、心配性なので、孫たち(と言っても弟の息子たち)に早くから文字を書く練習をさせていたらしく、そのための教材が実家に残っていました。
私は、それをお土産に持って帰りました。字を書かせるのは小学校に入ってからでいいと思っていたのですが、心配性の私の母親の好意を断るのもなんだなあと思ったので、持って帰ったんですね。さらに北軽井沢にかえった後に、再び佐渡の実家から、教材が送られてきました。これにも「心配性だなあ」と苦笑です。あまり心配させるのも何なので、予定より早いけれど、その教材を使わせてもらいました。
話は変わりますが、今日(2018年3月26日)は、息子の5歳の誕生日です。佐渡島から北軽井沢に帰ってから、ちょうど四ヶ月になりますが、息子は、文字が書けるようになっています。大した練習もせずに、たったの二ヶ月くらいで書けるようになりました。
全く書けなかったのに二ヶ月くらいで文字が書けるようになった原因は、ゲームにあります。
1年前から息子に迷路ゲームをやらせていたのです。
うちの息子は迷路が大好きなので、いろんなカラフルな迷路を百円ショップやヤフオクで買ってきて、入口と出口まで、正しい持ち方で鉛筆で線を引かせました。それを佐渡島に遊びに行く1年前から、さんざん遊ばせていました。その結果、指先の力がついていき、文字を書くのが苦にならなくなっていました。そのかいあって、アッという間に文字が書けるようになっていたんですね。
もちろん字は下手くそです。でも、それで良い。今は、書くのが楽しい・・・という感じで充分だと思っています。江戸時代の寺子屋や藩校では、十二歳までに小学・近視録をマスターさせたと言いますが、読むだけで書かせていたわけではないので、それと同じでいいと思っています。
実は息子は、早生まれのうえに、人よりも成長が遅く、子供園では「落ちこぼれ」だったみたいなので、子供園の紹介で専門の先生に指導を受けていたんですが、その先生が
「文字を書かせるのは早い。早すぎると変な癖がつく。それよりも指を鍛えなさい」
と言っていたので、その先生の指導どうりにしていたんですが、それが良かったようです。
ただ、息子の奴は、相変わらず、成長が遅くて年少さん(三歳)ぽいところが抜けてないんですが、私としては、高齢で得た子供であるために、かえって、その方が得した気分になります。成長の遅い息子は、大人びたところがなく、赤ちゃんぽいところが残ってて、ラッキーな感じがします。
あどけなさ、かわいらしさが、今でも残っていて、順調に成長しているお子さんの家庭よりも、余分に親として楽しめるからです。息子は、散歩や登山で、やたらと手をつなぎたがるし、やたと一緒に宿の仕事をしたがります。文字を書くのだって、親と一緒なら喜んでやります。赤ちゃんすぎて親と一緒イコール遊ぶなんですよ。
それだけに、息子の奴は、煩悩のかたまりのままで、字を書くことを、これっぽっちも勉強と思ってないところが、少しばかり不安です。彼にとっては、迷路ゲームしている感覚で字を書いているわけで、遊びの一種なんですよね。勉強しているなんて、これっぽっちも思ってないので、嫌々ながらやるという体験がない。我慢して何かをやらされる経験が全く無い。だから、これからどうなるんだろう? 小学校に行くようになったらどうするんだろう? という不安もありますが、まあ、その時は、その時に考えれば良いか!
つづく。
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で、うちの息子が4歳なのに、まだ字が書けないことや箸をうまく持てないことを話題にすると、中学教師の次男坊が
「小学校の先生は字の書き方を教えてくれない」
「小学校の先生は、箸の持ち方まで教えられない」
と、さかんに言ってきました。暗に、早めに親が教えた方が良いと言わんばかりです。
これは、努力して勉強するタイプである次男の弟らしい発言だなと思いました。ただ、自分が保育園時代に、ほとんど字を書くことをしてなかったことをスッカリ忘れています。それに苦笑していました。
逆に高校教師をしている三男の弟は、こういう話題に無関心。努力して勉強するタイプでない天才肌の三男の弟は、こういう事には無関心です。
ただ、この三男も、保育園時代に字を書く練習してません。それについては覚えてないでしょう。それでも弟たちは中学教師や高校教師になっているので、幼児が字を書けなくても何の問題もないことは、この弟たちを見れば一目瞭然です。しかし、弟たちは、そんな自分の過去を覚えてないらしい。
じゃあ何故、私だけが覚えているかというと、私だけが親から徹底的に字を書く練習をさせられたので不公平感もあって覚えているのですね。正座させられ、べそをかきながら、何度も殴られながら嫌々書かされました。弟たちには、コレが無かったので、よく覚えてないのです。
私の場合は、箸の持ち方も、少しでも間違っていると叩かれました。当然のことながら条件反射で、父親の腕が上がるたびにビクつくようになり、それが条件反射として癖になります。そして友人・先生・他の大人が、少しでも手を動かすと、条件反射でびくつくようになり、その癖(条件反射)が15歳くらいまで抜けませんでした。もちろん弟たちには、こういう経験は無い。無いから分からないでいる。
で、どうなったかというと、小学校1年生の時に私は、先生に字がうまいと何度も褒められています。ただし、それは1学期だけで、2学期からは誰よりも下手になっています。緊張しながら字を書く癖がついたために、筆圧が強すぎて、誰よりも書くのが遅くなっていたために、一緒に遊ぼうとする友達に
「早く書けよ」
と急かされてしまい、結局、乱暴に書くようになり、誰よりも字が下手になってしまいました。ただし、字は下手でもトレースは上手になった。地図や絵を上手にトレース(複写)する能力だけはついた。しかし字は汚いのです。この体験から私は、保育園のうちは、息子は字が書けなくても良いと思っているのです。それより指の筋肉をつけた方が良いと。
あと読めれば、字は書けなくてもいいと思ってる。
箸も使えなくて良いと思ってました。
江戸時代の教育方法が、その方式です。
そして大きな成果を残しています。
なので、息子は2歳で平仮名・片仮名・アルファベット・数字をマスターし、3歳で小学校2年生までの漢字を読めるようになっています。ただし、字は書けない。絵も書けない。小学校に入るまで書けなくてよいと思っている。その代わりに指を使う運動だけしている。指の筋肉を作るゲームを与えて遊ばせている。迷路やパズルで指を鍛えるだけ。それで良いと思っている。
ただし絵が書けなかったのは、私に原因があります。40万もするソファーに油性マジックで落書きされた時に、きつく叱ったために、息子は、落書きをしなくなった。絵を描かなくなってしまった。これを矯正するのに2年もかかってしまった。やはり幼児を強く叱る時は、よほど注意深くやらないと、後で強い後遺症を残すので要注意です。叱っても良いけれど、強く叱ってはならない。これだけは失敗したと思っています。
翌日、佐渡から北軽井沢に帰る直前に、元小学校教師だった私の母が、心配して、30分ほど息子に対して文字を書く練習をさせていました。そして「たける」の名前の書き方だけ教わりました。私の母親は、心配性なので、孫たち(と言っても弟の息子たち)に早くから文字を書く練習をさせていたらしく、そのための教材が実家に残っていました。
私は、それをお土産に持って帰りました。字を書かせるのは小学校に入ってからでいいと思っていたのですが、心配性の私の母親の好意を断るのもなんだなあと思ったので、持って帰ったんですね。さらに北軽井沢にかえった後に、再び佐渡の実家から、教材が送られてきました。これにも「心配性だなあ」と苦笑です。あまり心配させるのも何なので、予定より早いけれど、その教材を使わせてもらいました。
話は変わりますが、今日(2018年3月26日)は、息子の5歳の誕生日です。佐渡島から北軽井沢に帰ってから、ちょうど四ヶ月になりますが、息子は、文字が書けるようになっています。大した練習もせずに、たったの二ヶ月くらいで書けるようになりました。
全く書けなかったのに二ヶ月くらいで文字が書けるようになった原因は、ゲームにあります。
1年前から息子に迷路ゲームをやらせていたのです。
うちの息子は迷路が大好きなので、いろんなカラフルな迷路を百円ショップやヤフオクで買ってきて、入口と出口まで、正しい持ち方で鉛筆で線を引かせました。それを佐渡島に遊びに行く1年前から、さんざん遊ばせていました。その結果、指先の力がついていき、文字を書くのが苦にならなくなっていました。そのかいあって、アッという間に文字が書けるようになっていたんですね。
もちろん字は下手くそです。でも、それで良い。今は、書くのが楽しい・・・という感じで充分だと思っています。江戸時代の寺子屋や藩校では、十二歳までに小学・近視録をマスターさせたと言いますが、読むだけで書かせていたわけではないので、それと同じでいいと思っています。
実は息子は、早生まれのうえに、人よりも成長が遅く、子供園では「落ちこぼれ」だったみたいなので、子供園の紹介で専門の先生に指導を受けていたんですが、その先生が
「文字を書かせるのは早い。早すぎると変な癖がつく。それよりも指を鍛えなさい」
と言っていたので、その先生の指導どうりにしていたんですが、それが良かったようです。
ただ、息子の奴は、相変わらず、成長が遅くて年少さん(三歳)ぽいところが抜けてないんですが、私としては、高齢で得た子供であるために、かえって、その方が得した気分になります。成長の遅い息子は、大人びたところがなく、赤ちゃんぽいところが残ってて、ラッキーな感じがします。
あどけなさ、かわいらしさが、今でも残っていて、順調に成長しているお子さんの家庭よりも、余分に親として楽しめるからです。息子は、散歩や登山で、やたらと手をつなぎたがるし、やたと一緒に宿の仕事をしたがります。文字を書くのだって、親と一緒なら喜んでやります。赤ちゃんすぎて親と一緒イコール遊ぶなんですよ。
それだけに、息子の奴は、煩悩のかたまりのままで、字を書くことを、これっぽっちも勉強と思ってないところが、少しばかり不安です。彼にとっては、迷路ゲームしている感覚で字を書いているわけで、遊びの一種なんですよね。勉強しているなんて、これっぽっちも思ってないので、嫌々ながらやるという体験がない。我慢して何かをやらされる経験が全く無い。だから、これからどうなるんだろう? 小学校に行くようになったらどうするんだろう? という不安もありますが、まあ、その時は、その時に考えれば良いか!
つづく。
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2018年03月25日
息子を連れて佐渡島へ 16 沢根団子・佐渡乳業・柿酒
高千を出発後、沢根団子を買いに行きました。私は、子供の頃、沢根団子が大好きでした。沢根団子というのは、江戸時代の佐渡島の沢根という港町で、売られて大変好評になり、200年以上、佐渡島で人気が衰えなかった団子です。小さな団子を氷水の中に入れて食べるのが沢根団子。
http://shimaya-sawanedango.co.jp/
2年前に佐渡のスーパーで買って食べた時は、私の知っている沢根団子ではなかったので、今回は、本家製造元に買い出しにきてみたら、しまやと池田屋の二店舗があって、どっちが本家か分からなくなってしまった。しまやは、元祖と書いてあるし、池田屋は本家と書いてある。いったい、どっちが本物なのか? 仕方が無いので、両方を買って食べたわけですが、両方とも冷凍物で、私の知ってる沢根団子ではありませんでした。
私が子供の頃に食べた沢根団子は、もっと小粒で薄皮でした。そして団子の中の餡子は、水ようかんみたいな感じでした。容器の底が薄い板状になっていて、それに団子が張り付いていて、上手にとらないと餡子が漏れてしまうしろものでした。団子の大きさも小さくて、今の沢根団子の半分も無かったと思います。それを楊枝でつついて食べるんですが、どうしても団子が薄板にひっついてとれなかった覚えがあります。それを何とか取り出して、氷水の中に浮かべて食べたものです。
今の沢根団子は、大きくて皮が厚いですね。あと機械で作っているのか製品が均一です。容器もプラスチックになっているし。昔の木と紙の容器が懐かしいです。昔の小さな沢根団子は、もう食べられなくなったのですね。ああ・・・残念。
気をとりなおして、佐渡乳業のミルクスポットに行きました。実は、佐渡乳業に外海府ユースホステルの息子さんが働いているらしいです。もし佐渡乳業に矢部さんという人がいたら、おそらく外海府ユースホステルの息子さんです。
この佐渡乳業は、私の実家から徒歩3分の所にあります。なので私の子供の頃の遊び場だったんですが、その頃は小さな会社でした。それが今や大きな会社に成長し、ここの製品である佐渡バターは、軽井沢の高級レストランで使われるほどの高級ブランドになっています。佐渡バターといえば、その世界では有名です。もちろん私も仕入れました。
あと『柿愛好(かきあいす)』も珍品です。『柿酒』も『柿ワイン』も美味しい。もちろんリキュールでは無く、どちらも柿を使った醸造酒です。特に柿酒は、佐渡特産の「おけさ柿」を熟成醸造した日本で初めての柿酒で、飲みやすいお酒です。
佐渡金井のAコープ・海府屋さんのコメコ焼(米粉を使ったお好み焼き)・米粉クレープも忘れてはならないし、佐渡金井のAコープの海鮮おつまみセットもリーズナブルでいい。こいつを買って、佐渡の地酒をひっかけたら最高ですよ。
佐渡猿八のポッポのパンも美味しいですね。
もちろん中堀のタレカツ丼も忘れてはなりません。
中堀のタレカツ丼
https://tabelog.com/niigata/A1501/A150103/15001094/
佐渡猿八のポッポのパン
https://sado-biyori.com/spot/detail/sb0037/
他にも紹介したいものがたくさんありますが、きりがないのでやめときます。
つづく。
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2年前に佐渡のスーパーで買って食べた時は、私の知っている沢根団子ではなかったので、今回は、本家製造元に買い出しにきてみたら、しまやと池田屋の二店舗があって、どっちが本家か分からなくなってしまった。しまやは、元祖と書いてあるし、池田屋は本家と書いてある。いったい、どっちが本物なのか? 仕方が無いので、両方を買って食べたわけですが、両方とも冷凍物で、私の知ってる沢根団子ではありませんでした。
私が子供の頃に食べた沢根団子は、もっと小粒で薄皮でした。そして団子の中の餡子は、水ようかんみたいな感じでした。容器の底が薄い板状になっていて、それに団子が張り付いていて、上手にとらないと餡子が漏れてしまうしろものでした。団子の大きさも小さくて、今の沢根団子の半分も無かったと思います。それを楊枝でつついて食べるんですが、どうしても団子が薄板にひっついてとれなかった覚えがあります。それを何とか取り出して、氷水の中に浮かべて食べたものです。
今の沢根団子は、大きくて皮が厚いですね。あと機械で作っているのか製品が均一です。容器もプラスチックになっているし。昔の木と紙の容器が懐かしいです。昔の小さな沢根団子は、もう食べられなくなったのですね。ああ・・・残念。
気をとりなおして、佐渡乳業のミルクスポットに行きました。実は、佐渡乳業に外海府ユースホステルの息子さんが働いているらしいです。もし佐渡乳業に矢部さんという人がいたら、おそらく外海府ユースホステルの息子さんです。
この佐渡乳業は、私の実家から徒歩3分の所にあります。なので私の子供の頃の遊び場だったんですが、その頃は小さな会社でした。それが今や大きな会社に成長し、ここの製品である佐渡バターは、軽井沢の高級レストランで使われるほどの高級ブランドになっています。佐渡バターといえば、その世界では有名です。もちろん私も仕入れました。
あと『柿愛好(かきあいす)』も珍品です。『柿酒』も『柿ワイン』も美味しい。もちろんリキュールでは無く、どちらも柿を使った醸造酒です。特に柿酒は、佐渡特産の「おけさ柿」を熟成醸造した日本で初めての柿酒で、飲みやすいお酒です。
佐渡金井のAコープ・海府屋さんのコメコ焼(米粉を使ったお好み焼き)・米粉クレープも忘れてはならないし、佐渡金井のAコープの海鮮おつまみセットもリーズナブルでいい。こいつを買って、佐渡の地酒をひっかけたら最高ですよ。
佐渡猿八のポッポのパンも美味しいですね。
もちろん中堀のタレカツ丼も忘れてはなりません。
中堀のタレカツ丼
https://tabelog.com/niigata/A1501/A150103/15001094/
佐渡猿八のポッポのパン
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他にも紹介したいものがたくさんありますが、きりがないのでやめときます。
つづく。
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2018年03月22日
息子を連れて佐渡島へ 15 高千・不時着した英国大使館の飛行機
外海府(岩谷口)から内海府(虫崎)とまわり、そして相川に引き返した私たちは、高千というところで御飯を食べることにしました。ドンテン山が荒廃している謎を解明したいのと、終戦直後に英国大使館の飛行機不時着して、その飛行機を高千村民が、人力で滑走路を作って帰してあげた場所を確認したかったからです。
まず、高千村ですが、岩谷口の外海府ユースホステルと、尖閣湾の佐渡ベルメールユースホステルの中間地点にあります。ここは外海府でも人口の多いところで、すこしばかり開けています。あと大昔から牛を放し飼いし、それをドンテン山に放牧することで有名なところです。もちろん牛市場があります。下の写真がそうです。
このあたりでは、その昔、どの家でも二・三頭の牛を飼っていました。外海府では、相川の貧しい家から労働力としての養子をもらって働かせたりしましたが、そういう子供たちにも子牛を与えました。牛は、冬の間は牛舎で飼いますが、春になると放し飼いにします。そうして大きくなると、それを市場で売り小銭を得ます。養子たちの牛が売れれば、その金は養子たちのものになりますから、養子たちは、決して奴隷のような待遇では無く、そこそこの現金を牛で稼いでおり、小遣が無くても少しも困らなかったといいます。これは、次男坊以下の厄介者でも、牛で小遣い稼ぎをしていたそうです。それが可能だった理由は、千年にわたってドンテン山などに放牧する文化があったからです。
高千の牛市場
外海府の牛は、農耕に使われることもなく、牛乳を搾り取られることもなく、ただひたすらに放し飼いさせて大きくし、それを売り飛ばして儲けるだけの存在でした。その存在のために、ドンテン山の美しいシバ地が千年にわたって守られてきたのですが、それが今や崩壊しつつあります。
詳しくは下記サイトを参照
http://kaze3.seesaa.net/article/456611560.html
いったい、どうしてなのか?
どうして放牧をやめてしまったのか?
高千村に知り合いの無い私は、どうやってヒアリングしようかと困っていたら、ちょうどJA佐渡農業協同組合高千出張所が、何かのイベントで豚汁の振る舞いをしていたので、地元民にまざって豚汁を頂くことにしました。そこで七十歳すぎの老婆と知り合い話を聞くと、牛を飼っているといいます。やはり放牧はしてないようです。
「どうして牛の放牧をやめたんですか?」
「ある場所が危険で、そこで牛が怪我したり死んでしまうんだよ」
「危険?」
「そこを行政がなんとかすれば、放牧してもいいんだけれど」
こんな単純な理由で千年続いた放牧が無くなってしまったとは、本当なら馬鹿馬鹿しいにもほどがあります。行政が予算をつければいいことだからです。早くしないと、ドンテン山のシバ地は壊滅しますよ。はやいところ何とかしてください。もう時間がありませんから。もし、予算がつかないなら、行政の方で牛を飼って放牧したらどうですか? 売れれば利益が出るわけですから。
食後、高千村の海岸を散策しました。
このあたりに英国空軍のダグラスDC−3が不時着したと思われます。
なるほど、広く長い海岸沿いなので、DC−3なら不時着できそうな感じです。
終戦から五か月後の1946年1月14日。
佐渡島の外海府・高千村の海岸に飛行機が不時着しました。
不時着した英軍輸送機は、要人専用機で、
上海の英国総領事が東京での連合国会議に出席するために乗っていました。
全長二十メートル、
両翼三十メートル、
重さ六トンもあります。
これが、よりによって冬の日本海。それも佐渡島の奥地である外海府に不時着します。僻地も僻地の外海府。荒波激しい冬の日本海にです。佐渡島でも人を寄せ付けない僻地にです。下の写真のような隧道を通らないと、たどり着けないような僻地にです。
しかも、その飛行機は上海総領事とその秘書を乗せて東京に向かう途中でした。
緊急着陸したイギリス空軍のDC−3ですが、村人たちは、彼らが無事に帰れるように離陸に必要な滑走路建設をし、海岸を地ならしして石を敷き詰めました。真冬の外海府の海岸でです。真冬の日本海。しかも佐渡島・外海府の気候を知ってるものなら「正気か?」てなもんです。その季節に人力で滑走路を作ったのです。ありえない。絶対にありえない。
この実話は、映画化されていますが、残念ながら出来はいまいちです。というか佐渡島民を馬鹿にしてないか?という内容に私は思えました。下手なフィクションを入れず、ドキュメンタリーにした方が、よほど感動できるのになあというのが、私の個人的な感想です。
嘘っぽいドラマなんか必要なかったのに。
勧善懲悪の筋書きなんかいらないのに。
予定調和の感動なんかいらないのに。
真冬の外海府の海岸の作業だけでドラマになるのに。
イギリス人は、高千村のが用意した旅館に土足であがってくつろぎ、それを黙々と這いつくばって床掃除する女子供の姿をどうして映画で見せなかったんだろう? どうして事実を淡々と見せずに、安っぽいドラマにしたんだろう?
真冬の日本海ですよ? 分かりますよね、真冬の日本海の荒波がどういうものなのか? 真冬の日本海の海岸に、しかも佐渡島の外海府、つまり佐渡島でもかなり僻地である海岸で、老人たちが人力で滑走路を作っただけでは駄目だったんですかね?
そもそも1946年1月14日といえば、日本兵は帰還してません。
島には老人と女子供しかいない。
なのに真冬の日本海に、若者がいない中で
たったの四十日で、6トンもある飛行機を飛ばす滑走路を
老人・女性・子供たちが手作業で作ってしまった。
英国空軍のダグラスDC-3を無事、帰してあげた。
米軍基地から派遣されていたアメリカ人整備員たちが驚いたのなんの。整備員は、佐渡島民の親切にカルチャーショックを受けて、アメリカに帰国したあとも息子さんに何度も「佐渡で世話になった。ぜひ一度佐渡に行きたい」と言いながら亡くなったんです。
しかし、アメリカ人整備員の息子さんが佐渡島にやってきて、この美談の礼を言ったんですね。これがきっかけで、この事件が明るみにでて、映画化されるわけですが、なんと佐渡島民は、米人整備員の息子さんが、やってくるまで、この事件を大っぴらにしてなかった。
誰にもいわなかった。
だから米人整備員の息子さんが、佐渡島に来なければ、
詳しく歴史に残らなかったんです。
結局、バレてしまって、映画化の話になり、
嫌がる当事者にお願いして資料を集めて、
かろうじて歴史に残ったんです。
凄い話です。
映画『飛べ!ダコタ』
つづく。
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まず、高千村ですが、岩谷口の外海府ユースホステルと、尖閣湾の佐渡ベルメールユースホステルの中間地点にあります。ここは外海府でも人口の多いところで、すこしばかり開けています。あと大昔から牛を放し飼いし、それをドンテン山に放牧することで有名なところです。もちろん牛市場があります。下の写真がそうです。
このあたりでは、その昔、どの家でも二・三頭の牛を飼っていました。外海府では、相川の貧しい家から労働力としての養子をもらって働かせたりしましたが、そういう子供たちにも子牛を与えました。牛は、冬の間は牛舎で飼いますが、春になると放し飼いにします。そうして大きくなると、それを市場で売り小銭を得ます。養子たちの牛が売れれば、その金は養子たちのものになりますから、養子たちは、決して奴隷のような待遇では無く、そこそこの現金を牛で稼いでおり、小遣が無くても少しも困らなかったといいます。これは、次男坊以下の厄介者でも、牛で小遣い稼ぎをしていたそうです。それが可能だった理由は、千年にわたってドンテン山などに放牧する文化があったからです。
高千の牛市場
外海府の牛は、農耕に使われることもなく、牛乳を搾り取られることもなく、ただひたすらに放し飼いさせて大きくし、それを売り飛ばして儲けるだけの存在でした。その存在のために、ドンテン山の美しいシバ地が千年にわたって守られてきたのですが、それが今や崩壊しつつあります。
詳しくは下記サイトを参照
http://kaze3.seesaa.net/article/456611560.html
いったい、どうしてなのか?
どうして放牧をやめてしまったのか?
高千村に知り合いの無い私は、どうやってヒアリングしようかと困っていたら、ちょうどJA佐渡農業協同組合高千出張所が、何かのイベントで豚汁の振る舞いをしていたので、地元民にまざって豚汁を頂くことにしました。そこで七十歳すぎの老婆と知り合い話を聞くと、牛を飼っているといいます。やはり放牧はしてないようです。
「どうして牛の放牧をやめたんですか?」
「ある場所が危険で、そこで牛が怪我したり死んでしまうんだよ」
「危険?」
「そこを行政がなんとかすれば、放牧してもいいんだけれど」
こんな単純な理由で千年続いた放牧が無くなってしまったとは、本当なら馬鹿馬鹿しいにもほどがあります。行政が予算をつければいいことだからです。早くしないと、ドンテン山のシバ地は壊滅しますよ。はやいところ何とかしてください。もう時間がありませんから。もし、予算がつかないなら、行政の方で牛を飼って放牧したらどうですか? 売れれば利益が出るわけですから。
食後、高千村の海岸を散策しました。
このあたりに英国空軍のダグラスDC−3が不時着したと思われます。
なるほど、広く長い海岸沿いなので、DC−3なら不時着できそうな感じです。
終戦から五か月後の1946年1月14日。
佐渡島の外海府・高千村の海岸に飛行機が不時着しました。
不時着した英軍輸送機は、要人専用機で、
上海の英国総領事が東京での連合国会議に出席するために乗っていました。
全長二十メートル、
両翼三十メートル、
重さ六トンもあります。
これが、よりによって冬の日本海。それも佐渡島の奥地である外海府に不時着します。僻地も僻地の外海府。荒波激しい冬の日本海にです。佐渡島でも人を寄せ付けない僻地にです。下の写真のような隧道を通らないと、たどり着けないような僻地にです。
しかも、その飛行機は上海総領事とその秘書を乗せて東京に向かう途中でした。
緊急着陸したイギリス空軍のDC−3ですが、村人たちは、彼らが無事に帰れるように離陸に必要な滑走路建設をし、海岸を地ならしして石を敷き詰めました。真冬の外海府の海岸でです。真冬の日本海。しかも佐渡島・外海府の気候を知ってるものなら「正気か?」てなもんです。その季節に人力で滑走路を作ったのです。ありえない。絶対にありえない。
この実話は、映画化されていますが、残念ながら出来はいまいちです。というか佐渡島民を馬鹿にしてないか?という内容に私は思えました。下手なフィクションを入れず、ドキュメンタリーにした方が、よほど感動できるのになあというのが、私の個人的な感想です。
嘘っぽいドラマなんか必要なかったのに。
勧善懲悪の筋書きなんかいらないのに。
予定調和の感動なんかいらないのに。
真冬の外海府の海岸の作業だけでドラマになるのに。
イギリス人は、高千村のが用意した旅館に土足であがってくつろぎ、それを黙々と這いつくばって床掃除する女子供の姿をどうして映画で見せなかったんだろう? どうして事実を淡々と見せずに、安っぽいドラマにしたんだろう?
真冬の日本海ですよ? 分かりますよね、真冬の日本海の荒波がどういうものなのか? 真冬の日本海の海岸に、しかも佐渡島の外海府、つまり佐渡島でもかなり僻地である海岸で、老人たちが人力で滑走路を作っただけでは駄目だったんですかね?
そもそも1946年1月14日といえば、日本兵は帰還してません。
島には老人と女子供しかいない。
なのに真冬の日本海に、若者がいない中で
たったの四十日で、6トンもある飛行機を飛ばす滑走路を
老人・女性・子供たちが手作業で作ってしまった。
英国空軍のダグラスDC-3を無事、帰してあげた。
米軍基地から派遣されていたアメリカ人整備員たちが驚いたのなんの。整備員は、佐渡島民の親切にカルチャーショックを受けて、アメリカに帰国したあとも息子さんに何度も「佐渡で世話になった。ぜひ一度佐渡に行きたい」と言いながら亡くなったんです。
しかし、アメリカ人整備員の息子さんが佐渡島にやってきて、この美談の礼を言ったんですね。これがきっかけで、この事件が明るみにでて、映画化されるわけですが、なんと佐渡島民は、米人整備員の息子さんが、やってくるまで、この事件を大っぴらにしてなかった。
誰にもいわなかった。
だから米人整備員の息子さんが、佐渡島に来なければ、
詳しく歴史に残らなかったんです。
結局、バレてしまって、映画化の話になり、
嫌がる当事者にお願いして資料を集めて、
かろうじて歴史に残ったんです。
凄い話です。
映画『飛べ!ダコタ』
つづく。
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2018年03月21日
息子を連れて佐渡島へ 14 登山家中村謙の虫崎から岩谷口までのコース
息子を連れて佐渡島へ 14 登山家中村謙の虫崎から岩谷口までのコース
いまじゃ百名山の深田久弥・花の百名山の田中澄江を知らぬ登山家はいませんなが、昭和40年頃は、圧倒的に中村謙(加茂鹿之助)でした。彼こそは、全国津々浦々まで登山道を調査発表した開拓者です。登山ルートをひたすら調べまくって『山と渓谷』『岳人』『新ハイキング』『ハイカー』『山と高原』『榾木』『日本山岳会会報』などの登山冊子に昭和十年頃から発表しまくった人で、いわゆる日本の大衆登山を牽引し続けた人です。
中村謙氏
彼は昭和九年に出した『東京付近の山』をはじめとして、毎年何冊も登山ガイドを出し続けます。途中、病気で右手が使えなくなるという事態になりますが、左手で渾身の力を振り絞って書いています。最終作ともいえる昭和四十四年の『ふるさとの山』四百二十二ページを出したときは、七十二歳でした。これ以降の著作がないのは、足を痛めて外出ができなくなったためです。また、ヤマケイの『登山地図帳』・昭文社の『エリアマップ』『山と高原地図シリーズ』などの登山マップなどの制作にもかかわっています。こちらも昭和四十四年まで作り続けています。
さて、中村謙渾身の大作である『山小屋の旅(昭和四十一年)・ベスト200コース』には、佐渡島が5コースも大きく取り上げられています。
@金北山から金剛山
A虫崎から外海府
B沢崎めぐり
C岩首から水津
D妙宣寺から真野宮
このうち登山道は@だけで、ABCDは、海岸歩きです。今でこそ道路がありますが、昭和四十一年頃は、道路が無く、岩から岩を飛び乗るように海岸を歩くしかなかったと言います。そういう場所の地元民の交通手段は、船でした。もちろん海が荒れれば、船は使えませんから山道を使います。なので昔の佐渡は、山道(登山道)がよく整備されてて、それが佐渡の里山の特徴であったわけです。
さらにいうと、A虫崎から外海府が、ものすごい人気のコースでした。で、このコース沿いに昭和40年10月に一軒のユースホステルがオープンしました。外海府ユースホステルです。もちろん若者たちが押し寄せました。その中の旅人に新潟市からやってきた一人の美しい女性がいました。それが今の外海府ユースホステルのマネージャーです。
昭和40年頃までは、内海府・虫崎から、外海府・岩谷口のコースは、ろくに道路がなく、海岸を岩づたいに歩いたり、急な岸壁をよじ登ったりの、一泊二日のコースでした。佐渡一週道路が完成している現在なら車で2時間もあれば、回れるコースですが、当時は、北アルプスに登るような猛者たちが、
「大野亀の花畑を見たい」
「外海府の岸壁を見たい」
という一心で、このコースにチャレンジしていました。
内海府の虫崎が、出発点だったのは、ここまでは路線バスがあったからです。その虫崎とは、どんな所かというと、こんな所です。
https://camp-fire.jp/updates/view/30998 より借用
この写真は、いつのものかわかりませんが、私が保育所か何かの遠足で、この村を通った記憶があります。バスが、崖ギリギリの砂利道を走っていました。この写真は、その道路さえも写っていませんから、かなり前のものでしょうけれど、少なくとも昭和40年頃までは、こんな感じだったと思います。虫崎のある内海府地方は、波が静かなために家の下に船小屋があるつくりになっていたんです。そして村人は漁業で生計をたてていました。その当時は、子供たちも多くて村にも活気がありました。
https://camp-fire.jp/updates/view/30998 より借用
虫崎の隣村で、宮本常一は、こんな話を聞いています。
「北小浦の宿で大敷の話を聞いた。昭和33年には水あげが1億円もあったそうである。そこで利益の2割を組合員で分けたのだが、一人当たり25万円もあった。また金が使い切れないので関西旅行した。一晩に1万円も取られる宿に泊まったそうだと、大変景気の良い話である(私の日本地図・宮本常一より)」
ちなみに昭和33年の大卒初任給は、1万3500円です。その時代に海府のある漁村では、一晩に1万円も取られる宿に泊まって豪遊したわけですから、どれだけ儲かったのか? 限界集落化しつつある今の海府地方を考えると、想像もできません。
もちろん現在は、虫崎といえども限界集落になってしまっています。
今では、住民が、たったの17人。
そのうち14人が老人です。
限界集落もいいところです。
しかも観光地でさえ無く、ガイドブックにも載ってない集落です。
そこに大学生の力を活かした集落活性化事業をはじめたのが、新潟大学の長尾ゼミの若者たちでした。彼らは、たったの17人の住民。そのうち14人が老人という限界集落に100人を集めた盆踊りを企画しました。
http://www.pref.niigata.lg.jp/HTML_Article/126/692/0922_4_mushizaki_sinndaikeizai,0.pdf
もちろん金は無い。そこで最低限の資金を、クラウドファンディングという形で56万円の資金を集めました。それが
https://camp-fire.jp/updates/view/30998
のサイトになります。
クラウドファンディングは感動の連続だったようで、内海府小学校虫崎分校に勤めていた人もいたりで、そういう人たちが何十年ぶりに虫崎に訪れるなど、知人・縁者を虫崎につなぐことになりました。クラウドファンディングは、最終的に達成率112%という成功を収め、結果として虫崎を大きく宣伝することになりました。
2017年(つまり昨年)の8月13日、盆踊り本番では、果たして来場者数は100名に達するのだろうかと心配しましたが、163名を集めて大盛況。受付にカウントしない幼児も含めると200名以上のが集ったといいます。
https://camp-fire.jp/updates/view/30998 より借用
https://camp-fire.jp/updates/view/30998 より借用
この成功の中には、全国の限界集落を活性化させるヒントがある気がします。17人の住民中、14人が老人という小さな集落も、やり方によっては何とかなるかもしれない。外海府ユースホステルのある岩谷口も、似たような限界集落なのですが、そこだって、やりようによれば、何とかなるかもしれない。虫崎の事例のように、私たちは、もっと若者のパワーを信じてよいのではないかと感じました。
これは、滅びつつあるユースホステル業界にも言えるし、
過疎地になりつつある北軽井沢や嬬恋村にもいえることです。
とにかく、虫崎の皆さん、新潟大学のみなさん、地域支援戦隊の皆さん、虫崎を愛する佐渡の皆さん、お疲れ様でした。今後の虫崎に期待しています。虫崎を紹介した昭和の登山家・中村謙氏が生きていたら、この虫崎の変わりようをどう思うでしょうか? 宮本常一なら、どう感じたでしょうか?
つづく。
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いまじゃ百名山の深田久弥・花の百名山の田中澄江を知らぬ登山家はいませんなが、昭和40年頃は、圧倒的に中村謙(加茂鹿之助)でした。彼こそは、全国津々浦々まで登山道を調査発表した開拓者です。登山ルートをひたすら調べまくって『山と渓谷』『岳人』『新ハイキング』『ハイカー』『山と高原』『榾木』『日本山岳会会報』などの登山冊子に昭和十年頃から発表しまくった人で、いわゆる日本の大衆登山を牽引し続けた人です。
中村謙氏
彼は昭和九年に出した『東京付近の山』をはじめとして、毎年何冊も登山ガイドを出し続けます。途中、病気で右手が使えなくなるという事態になりますが、左手で渾身の力を振り絞って書いています。最終作ともいえる昭和四十四年の『ふるさとの山』四百二十二ページを出したときは、七十二歳でした。これ以降の著作がないのは、足を痛めて外出ができなくなったためです。また、ヤマケイの『登山地図帳』・昭文社の『エリアマップ』『山と高原地図シリーズ』などの登山マップなどの制作にもかかわっています。こちらも昭和四十四年まで作り続けています。
さて、中村謙渾身の大作である『山小屋の旅(昭和四十一年)・ベスト200コース』には、佐渡島が5コースも大きく取り上げられています。
@金北山から金剛山
A虫崎から外海府
B沢崎めぐり
C岩首から水津
D妙宣寺から真野宮
このうち登山道は@だけで、ABCDは、海岸歩きです。今でこそ道路がありますが、昭和四十一年頃は、道路が無く、岩から岩を飛び乗るように海岸を歩くしかなかったと言います。そういう場所の地元民の交通手段は、船でした。もちろん海が荒れれば、船は使えませんから山道を使います。なので昔の佐渡は、山道(登山道)がよく整備されてて、それが佐渡の里山の特徴であったわけです。
さらにいうと、A虫崎から外海府が、ものすごい人気のコースでした。で、このコース沿いに昭和40年10月に一軒のユースホステルがオープンしました。外海府ユースホステルです。もちろん若者たちが押し寄せました。その中の旅人に新潟市からやってきた一人の美しい女性がいました。それが今の外海府ユースホステルのマネージャーです。
昭和40年頃までは、内海府・虫崎から、外海府・岩谷口のコースは、ろくに道路がなく、海岸を岩づたいに歩いたり、急な岸壁をよじ登ったりの、一泊二日のコースでした。佐渡一週道路が完成している現在なら車で2時間もあれば、回れるコースですが、当時は、北アルプスに登るような猛者たちが、
「大野亀の花畑を見たい」
「外海府の岸壁を見たい」
という一心で、このコースにチャレンジしていました。
内海府の虫崎が、出発点だったのは、ここまでは路線バスがあったからです。その虫崎とは、どんな所かというと、こんな所です。
https://camp-fire.jp/updates/view/30998 より借用
この写真は、いつのものかわかりませんが、私が保育所か何かの遠足で、この村を通った記憶があります。バスが、崖ギリギリの砂利道を走っていました。この写真は、その道路さえも写っていませんから、かなり前のものでしょうけれど、少なくとも昭和40年頃までは、こんな感じだったと思います。虫崎のある内海府地方は、波が静かなために家の下に船小屋があるつくりになっていたんです。そして村人は漁業で生計をたてていました。その当時は、子供たちも多くて村にも活気がありました。
https://camp-fire.jp/updates/view/30998 より借用
虫崎の隣村で、宮本常一は、こんな話を聞いています。
「北小浦の宿で大敷の話を聞いた。昭和33年には水あげが1億円もあったそうである。そこで利益の2割を組合員で分けたのだが、一人当たり25万円もあった。また金が使い切れないので関西旅行した。一晩に1万円も取られる宿に泊まったそうだと、大変景気の良い話である(私の日本地図・宮本常一より)」
ちなみに昭和33年の大卒初任給は、1万3500円です。その時代に海府のある漁村では、一晩に1万円も取られる宿に泊まって豪遊したわけですから、どれだけ儲かったのか? 限界集落化しつつある今の海府地方を考えると、想像もできません。
もちろん現在は、虫崎といえども限界集落になってしまっています。
今では、住民が、たったの17人。
そのうち14人が老人です。
限界集落もいいところです。
しかも観光地でさえ無く、ガイドブックにも載ってない集落です。
そこに大学生の力を活かした集落活性化事業をはじめたのが、新潟大学の長尾ゼミの若者たちでした。彼らは、たったの17人の住民。そのうち14人が老人という限界集落に100人を集めた盆踊りを企画しました。
http://www.pref.niigata.lg.jp/HTML_Article/126/692/0922_4_mushizaki_sinndaikeizai,0.pdf
もちろん金は無い。そこで最低限の資金を、クラウドファンディングという形で56万円の資金を集めました。それが
https://camp-fire.jp/updates/view/30998
のサイトになります。
クラウドファンディングは感動の連続だったようで、内海府小学校虫崎分校に勤めていた人もいたりで、そういう人たちが何十年ぶりに虫崎に訪れるなど、知人・縁者を虫崎につなぐことになりました。クラウドファンディングは、最終的に達成率112%という成功を収め、結果として虫崎を大きく宣伝することになりました。
2017年(つまり昨年)の8月13日、盆踊り本番では、果たして来場者数は100名に達するのだろうかと心配しましたが、163名を集めて大盛況。受付にカウントしない幼児も含めると200名以上のが集ったといいます。
https://camp-fire.jp/updates/view/30998 より借用
https://camp-fire.jp/updates/view/30998 より借用
この成功の中には、全国の限界集落を活性化させるヒントがある気がします。17人の住民中、14人が老人という小さな集落も、やり方によっては何とかなるかもしれない。外海府ユースホステルのある岩谷口も、似たような限界集落なのですが、そこだって、やりようによれば、何とかなるかもしれない。虫崎の事例のように、私たちは、もっと若者のパワーを信じてよいのではないかと感じました。
これは、滅びつつあるユースホステル業界にも言えるし、
過疎地になりつつある北軽井沢や嬬恋村にもいえることです。
とにかく、虫崎の皆さん、新潟大学のみなさん、地域支援戦隊の皆さん、虫崎を愛する佐渡の皆さん、お疲れ様でした。今後の虫崎に期待しています。虫崎を紹介した昭和の登山家・中村謙氏が生きていたら、この虫崎の変わりようをどう思うでしょうか? 宮本常一なら、どう感じたでしょうか?
つづく。
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2018年03月20日
息子を連れて佐渡島へ 13 願・犀の川原・北軽井沢と佐渡島の共通点
外海府ユースホステルのある岩谷口を出発した私たちは、真更川・北鵜島・願と向かいました。佐渡島の最北端にある『願(ねがい)』という名前の村へです。まず海府大橋を通ります。この大橋の下に、公式には佐渡最大の大滝(50メートルちかい)、大ザレの滝がありますが、それを観光客がみることはできません。この橋を降りることができないからです。
しかし、私は何回も降りています。降り方は、今は亡き外海府ユースホステルの矢部のおじいちゃんに聞きました。あえて、ここには公表しません。降りると、巨大な大滝があるのに加えて、おくに巨大洞窟がありますが、それも佐渡島のどの資料にも載っていません。
次に向かったのが大野亀。
この大野亀。昔は登れたんですが、いまは禁止されています。頂上には、昔の灯台らしきものがあります。このへんは佐渡でも最も美しい場所で、北海道の礼文島に似ています。春にはカンゾウが咲き乱れ、人々でごったがえします。佐渡一週道路ができる前までは、秘境として、全国の登山家が訪れたルートでもあります。登山家・中村謙の登山ガイド『山小屋の旅』にも詳しく紹介されており、そのコースの魅力を絶賛しています。願村は、ここからすぐそばです。
これが願村です。
松浦武四郎によれば、ここにも砲台があったようです。
願と書いて『ねがい』と読みます。全国から、いろんなねがいをもった人々が、この村の石動神社に訪れて願い事をしました。
この村に何を願う人々が多かったのでしょうか?
その願をこれから訪ねてみます。
下の写真は、賽の河原です。
ここに人々の願いがあります。
松浦武四郎の佐渡日誌によれば、「岩が多く並んでいる浜に、小石がたくさん積まれている。土地の人によれば、夕方にそれを崩しておいても次の朝に必ず元通りになっている。そばに洞窟があり、地蔵が安置されている」とあります。写真のとおり、無数の地蔵が安置されています。
内田康夫の浅見光彦を主人公とした推理小説の最高傑作『佐渡伝説殺人事件』は、ここを舞台としていますが、内田康夫は軽井沢の住人なんです。実は、この願村は、軽井沢&北軽井沢と佐渡島をつなげる重要な場所でもあります。
一つは内田康夫の浅見光彦シリーズ。
もう一つは、満州引き揚げ者の開拓地としての共通点です。
軽井沢も北軽井沢も嬬恋村も、満州から多くの引き揚げ者を受け入れていますが、佐渡島の願村も同じでした。願村には、山の方に二重平という大地があるのですが、そこに満州からの引き揚げ者の入植者が、かなりの数入りました。入植者たちは非常に苦労して開墾を行ないましたが、このあたりは佐渡島でも指折りの自然が厳しいところだったので、餓えと寒さと山ヒルなどの天敵に苦しみました。もちろん子供たちも大勢居て餓えながら開墾を手伝いました。
あまりに酷い状況に願村の人たちは同情して魚などを分け与え、外海府村も掘っ立て小屋を建てて、海府小学校・中学校の分校を作りました。しかし開墾生活で食べてはいけず、次々と出稼ぎにでるようになり、高度経済成長時代となると、食料があまりはじめ、国は離農する人に、離農資金を出すようになり、次々と離農者がでて、最終的には一軒の家も無くなってしまいました。
私は、25年前に、大佐渡山脈縦走のついでに、この二重平の跡地を探検したことがあったのですが、かっての開拓地は森の中に沈んでしまい、道路も無くなっており、人の気配さえありませんでした。北軽井沢・軽井沢の入植地とは大違いです。ただし、二重平の開拓者たちは、その後、東京などに上京し、それぞれ立派に成功したと聞いています。
犀の川原からさらに進むと、二つ亀です。
このあたりは、縄文遺跡がたくさん出土しています。
二重平にもです。
二重平の開拓で、縄文土器が出土したのです。
二つ亀は、干潮ならわたれるのですが、満潮のためにわたれませんでした。どのガイドブックにも、郷土資料にも、インターネットにも載っていませんか、二つ亀の反対側には、非常に面白いものがあるのに、それを画面で紹介できないのが残念です。現在の佐渡島の情報は、観光ガイドにしても、インターネットにしても、非常に浅いものばかりです。北軽井沢に住んでる私にしてみれば、
「何をやってるんだ?」
という感じで歯がゆいばかりですが、外海府ユースホステルの矢部のおじいちゃんのように、わざと情報を隠しているケースもあるので、やはり訳があるんでしょうね。ディープな情報を知りたい人は、島民に信頼されないと、教えてくれないかもしれません。しかし、情報を隠し持つあまり、その人が他界してしまったら、どうするんだろう?と私などは、思ってしまいますが、そのへんは大丈夫なんでしょうか?
つづく。
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しかし、私は何回も降りています。降り方は、今は亡き外海府ユースホステルの矢部のおじいちゃんに聞きました。あえて、ここには公表しません。降りると、巨大な大滝があるのに加えて、おくに巨大洞窟がありますが、それも佐渡島のどの資料にも載っていません。
次に向かったのが大野亀。
この大野亀。昔は登れたんですが、いまは禁止されています。頂上には、昔の灯台らしきものがあります。このへんは佐渡でも最も美しい場所で、北海道の礼文島に似ています。春にはカンゾウが咲き乱れ、人々でごったがえします。佐渡一週道路ができる前までは、秘境として、全国の登山家が訪れたルートでもあります。登山家・中村謙の登山ガイド『山小屋の旅』にも詳しく紹介されており、そのコースの魅力を絶賛しています。願村は、ここからすぐそばです。
これが願村です。
松浦武四郎によれば、ここにも砲台があったようです。
願と書いて『ねがい』と読みます。全国から、いろんなねがいをもった人々が、この村の石動神社に訪れて願い事をしました。
この村に何を願う人々が多かったのでしょうか?
その願をこれから訪ねてみます。
下の写真は、賽の河原です。
ここに人々の願いがあります。
松浦武四郎の佐渡日誌によれば、「岩が多く並んでいる浜に、小石がたくさん積まれている。土地の人によれば、夕方にそれを崩しておいても次の朝に必ず元通りになっている。そばに洞窟があり、地蔵が安置されている」とあります。写真のとおり、無数の地蔵が安置されています。
内田康夫の浅見光彦を主人公とした推理小説の最高傑作『佐渡伝説殺人事件』は、ここを舞台としていますが、内田康夫は軽井沢の住人なんです。実は、この願村は、軽井沢&北軽井沢と佐渡島をつなげる重要な場所でもあります。
一つは内田康夫の浅見光彦シリーズ。
もう一つは、満州引き揚げ者の開拓地としての共通点です。
軽井沢も北軽井沢も嬬恋村も、満州から多くの引き揚げ者を受け入れていますが、佐渡島の願村も同じでした。願村には、山の方に二重平という大地があるのですが、そこに満州からの引き揚げ者の入植者が、かなりの数入りました。入植者たちは非常に苦労して開墾を行ないましたが、このあたりは佐渡島でも指折りの自然が厳しいところだったので、餓えと寒さと山ヒルなどの天敵に苦しみました。もちろん子供たちも大勢居て餓えながら開墾を手伝いました。
あまりに酷い状況に願村の人たちは同情して魚などを分け与え、外海府村も掘っ立て小屋を建てて、海府小学校・中学校の分校を作りました。しかし開墾生活で食べてはいけず、次々と出稼ぎにでるようになり、高度経済成長時代となると、食料があまりはじめ、国は離農する人に、離農資金を出すようになり、次々と離農者がでて、最終的には一軒の家も無くなってしまいました。
私は、25年前に、大佐渡山脈縦走のついでに、この二重平の跡地を探検したことがあったのですが、かっての開拓地は森の中に沈んでしまい、道路も無くなっており、人の気配さえありませんでした。北軽井沢・軽井沢の入植地とは大違いです。ただし、二重平の開拓者たちは、その後、東京などに上京し、それぞれ立派に成功したと聞いています。
犀の川原からさらに進むと、二つ亀です。
このあたりは、縄文遺跡がたくさん出土しています。
二重平にもです。
二重平の開拓で、縄文土器が出土したのです。
二つ亀は、干潮ならわたれるのですが、満潮のためにわたれませんでした。どのガイドブックにも、郷土資料にも、インターネットにも載っていませんか、二つ亀の反対側には、非常に面白いものがあるのに、それを画面で紹介できないのが残念です。現在の佐渡島の情報は、観光ガイドにしても、インターネットにしても、非常に浅いものばかりです。北軽井沢に住んでる私にしてみれば、
「何をやってるんだ?」
という感じで歯がゆいばかりですが、外海府ユースホステルの矢部のおじいちゃんのように、わざと情報を隠しているケースもあるので、やはり訳があるんでしょうね。ディープな情報を知りたい人は、島民に信頼されないと、教えてくれないかもしれません。しかし、情報を隠し持つあまり、その人が他界してしまったら、どうするんだろう?と私などは、思ってしまいますが、そのへんは大丈夫なんでしょうか?
つづく。
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2018年03月19日
息子を連れて佐渡島へ 12 岩谷山洞・海鳴山・竜眼の池の伝説
翌朝も、外海府ユースホステルのマネージャーさんのお話を伺いました。ユースホステルの会員減についてや、ユースホステルの未来についてや、御客様の変化などです。やはり会員さんは減っていて、大半が一般客だそうです。といっても御客様が減ってるわけではなく、一般の御客様が増えただけのようです。源兵衛さんが店じまいしてからは、そちらのリピーターさんも外海府ユースホステルに合流したようです。やはりリピーターさんが多く、佐渡の外海府にしかこないという御客様が多いようです。
まあ、そうでしょう。立地と言い、施設レベル・食事レベルと言い、秘境さといい、ハマる人には、ハマります。鮭みたいなイワナが釣れるところなんて、この岩谷口ぐらいでしょうし、光明寺・山居池までの旧参拝道や、笠取峠の旧道歩きも魅力だし、観光ガイドに載ってない(つまりネットや本や郷土資料にも掲載されてない)滝や洞窟や石仏がワンサカありますからね。佐渡島民も知らない、佐渡博士も知らないところがワンサカある。それを源兵衛の御主人や、今は亡き外海府ユースホステルのお爺ちゃんに私は教わったわけですが、それだって私が全部知ってるわけではない。私の知ってるところなんて、1000分の1くらいでしょうけれど、それでも、その1000分の1だって、ネットにも、本にも、郷土資料にもないんですから。
ただ残念なことは、それを知ってる生き証人たちが、次々と他界している現実です。これだけは残念でならない。今回は、四歳の幼児連れなので仕方ないけれど、息子が大きくなったら近いうちにもう一度、外海府ユースホステルに来たいと思いました。
その後、外海府ユースホステルのマネージャーに御挨拶して、岩谷山洞・岩谷観音・岩谷山洞窟に向かいました。といっても外海府ユースホステルのすぐそばで、ユースホステルから百メートルのところです。なにしろ掃除などかかさずに管理しているのが、外海府ユースホステルのマネージャーさんですから。もちろんマネージャーさんの御先祖様のお墓もそこにあります。墓も大小ありますが、昔の大きい立派な墓は、その頃、相川金山に物資を運んで大儲けした御先祖様だとか。
民俗学者の宮本常一によると、佐渡・外海府の墓の特徴として火葬にしていることらしい。墓も海に突き出た岬に集中して固まっているだそうです。岩谷口も例外でなく、岩谷観音付近に墓が集中しています。昭和34年に宮本常一が岩谷口に訪れたとき、岩谷山洞には古くからの焼き場があったらしく「ここで多くの人が焼かれたことであろう」と言っています。
一般的に言って土葬の地方は墓が集中することはありません。死体が腐って墓石が倒れてくるからです。しかし外海府地方は、薪炭に困らない地域なので墓を集中させるためにも火葬の方が都合がかったのでしょう。
ちなみに岩谷山洞窟の天井には「南無阿弥陀仏」が書かれており、弘法大師が筆を投げ上げてスラスラ書いたと言う伝説があります。しかし、さすがにこれは眉唾で、佐渡島の歴史に詳しい田中圭一氏によれば
「その文字と、文字の下に彫られた花押はいずれも弾誓上人の筆跡である。しかし、弾誓上人は石を刻むことはしなかったらしいから、・・・これは、天保期、この地にとどまって多くの石造品を残した木食浄厳の製作にかかるものであろう」
と述べています。
ちなみに弾誓上人とは、密教や修験道を極めた人で、山中の洞窟に籠って持戒・念仏・木食の修行をされた人です。彼は、いわゆる肉類や、人間が栽培した米野菜も食べない人で、木の実や草だけで修行した僧です。木の実や草しかたべないことを木食(もくじき)と言いましたから、木食弾誓上人とも言います。こうした苦行をすることで神仏の力を持つと言われ、佐渡には修験者が多くいたようです。
また洞窟の奥には、竜眼の池があり、
「昔、母竜が、我が子の眼球をこの池で洗っていた。ある日、人の気配を察して逃げる際に、誤って眼球を池の中に落としてしまった。この眼球を拾った老人がこれを岩谷薬師に差し出すと、薬師は大変に哀れんで、眼球をきれいに洗った後に、池に戻してやった。だが、母竜が再び人間界に姿を現すことはなく、置き去られた眼球は、今でも夜中になると母竜を探して青白い光を発しながら池の中を泳ぐ」
という伝説を伝えています。また岩谷口観音の後ろにも洞窟があり、南佐渡・小木の岩屋山洞窟にまで繋がっているという伝説もあります。
松浦武四郎の佐渡日誌には、
「高さ100メートルほどある崖の下に洞窟がある。そこから200メートルほど離れた海岸から叫んでみると、その洞窟が何か答えてくれるような気がする。私も初めは気がつかず、海の波音が洞窟にこだましているのかと思ったが、 12回声を出して叫んでみると、そのこだまが帰ってきた。そこで家に腰をかけて色々叫んでみたら、伊勢の国度会郡度会村一ノ瀬にある鸚鵡岩よりもいっそうよくだまして聞こえた。すぐそばに岩谷明神神社があって、松が二から三株。いずれの上を纏ってあるのだろうか、村人もこの洞窟を崇拝しているらしく、しめ縄を張ってある」
とあります。これは、いわゆる『海鳴山』なのでしょう。詳しくは下記サイトを御覧ください。
(海鳴岩を解説したサイト)
http://henro.gozaru.jp/travel/sado/06-densetu/06-densetu.html
http://www.sado-kouryu.jp/sadonpo/area/iwayaguchi2016/
参考
https://blog.goo.ne.jp/i-epman/e/a8da8fe101ae506a4fa99c3409f20208
(度会郡度会町南中村の「鸚鵡石」)
この岩谷観音からしばらく歩くと滝があります。
この滝の横から笠取峠にいたる旧道があります。とんでもない難所で、写真の滝の近くにある登山道を上って山を越え、暗い松林を抜けて大ザレ川が流れる谷におります。そこからまた急な登りで笠取峠に到着。そして、そこを下ると真更川に到着します。半日のコースです。昔は、隣の部落に行くのに半日もかかっていました。いまは、海府大橋と佐渡一週道路ができたおかげで、30分もかかりません。
しかし、昭和44年までは、陸路だと隣の村まで半日もかかるために、船で行き来していました。昭和45年の観光マップにもその航路が掲載されていますし、小学生だった私も見て知っていました。このへんが分からないと、外海府・内海府がどんなに不便なところだったか、若い佐渡島民にも分からないでしょう。宮本常一も松浦武四郎も、この不便な道を通って岩谷口から真更川まで歩いています。
その真更川ですが、松浦武四郎の佐渡日誌には、
「海岸より300メートルほど沖に離岩という岩礁がある(略)。皆岩石ばかりで岸深く蚫(アワビ)が多い。弁天社あり、鳥居を建てたり(略)。またこれに並んで、前に鴨島という島がある(略)。諸国の廻船、大島と村の間に風町をするという。台場あり 50匁(五円玉50枚分の重さの砲弾の)大砲一門 3匁5分小筒2丁あり」
とありますから、この北の辺鄙なところに諸国の廻船が通過・または風待ちで避難していたことがわかります。廻船といえば、小木をイメージしている佐渡島民が多いですが、そのイメージは、そろそろ捨てた方が良いかもしれません。
また、注目すべきは、ここにも台場(砲台)があったことです。この他にも松浦武四郎の佐渡日誌では、あちこちに砲台があったことを記録してますが、松浦武四郎がこれを記録したのは、ペリーが来航する五年前ですから、幕府は早くから、海防に対して対策をとっていたことがわかります。
つづく。
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2018年03月16日
息子を連れて佐渡島へ 11 外海府ユースホステルのマネージャーさんたち
息子を連れて佐渡島へ 11 外海府ユースホステルのマネージャーさん
いまから25年くらい前、私は五年間にわたって佐渡島の自然調査をしたことがあります。その時に、地元の旧家の方たちから、いろいろ情報をいただいたりしたのですが、外海府・岩谷口の旧家の方々にも、たいへんお世話になりました。一つは、源兵衛(屋号の名前です)さん。もう一つ源四郎(これも屋号の名前です)さんです。
そして源兵衛さんは、民宿「源兵衛」を営業していて、源四郎さんは、外海府ユースホステルです。この二つの旧家に大量の古文書が残されていることから、民俗学者の宮本常一氏も両家に訪れているようです。
実は、この岩谷口。土船衆と岩屋衆に分かれています。北半分が、岩屋衆で、外海府ユースホステルの矢部源四郎が草分け衆の一人です。古くから農地を開墾し、多くの山林を所有して、薪炭を相川金山に送って大もうけした人たちです。
南半分が、船登源兵衛を中心とする土船衆です。民宿「源兵衛」の御先祖様である船登源兵衛が、土船衆の草分け衆です。土船衆は、日本海から瀬戸内海にかけて回船問屋として大活躍したと言われています。
二十五年前のことになりますが、私は、この民宿「源兵衛」さんのところにお邪魔して、岩谷口の文化・歴史・そして民俗について詳しく教えていただきました。そして、廃道となっていた岩谷口から光明仏寺までの参拝ルートの発掘調査などを行なったりしました。
また、外海府ユースホステルに行って、源四郎当主の矢部さんから、岩谷口や外海府の地理を教えてもらい、巨大な七段の滝・大ザレの滝・各種の洞窟・各旧道・壇徳山・大佐渡山脈の縦走路などを調査しました。当主の矢部さんは、御高齢であったにもかかわらず、国勢調査などで山道をガンガン歩いておられ、佐渡の山を隅々まで知っておられました。
また、聞くところによれば、息子さんは、新潟大学の農学部をご卒業され、その縁で、大佐渡山脈にある新潟大学の演習林の管理をまかされており、佐渡の山や自然林についてもかなり詳しいと聞きました。ようするに外海府ユースホステルの矢部さん親子は、佐渡における山のスペシャリストだったんですね。
「大佐渡山脈のことなら外海府ユースホステルの矢部さん親子に聞け」
という感じで、民宿「源兵衛」さんと、外海府ユースホステルの矢部さん親子は、佐渡岩谷口の人間国宝なのです。「彼らからヒアリングしないで、誰から聞くんだ?」てなもんです。
で、外海府ユースホステルに泊まってみたら、矢部のお爺ちゃんは亡くなっており、その息子さんも三年前に亡くなって、今は奥さんのみだという。奥さんといっても、七十歳をとおにこえているんですけれどね。
生前の矢部のおじいちゃんは、本当にいい人で、いろいろ親切に教えてくれたうえに、泊まり客でもないのに、私が率いた調査登山隊二十名近くに越乃寒梅をさんざん振舞った上に、土産に越乃寒梅の一升瓶まで持たせてくれたひとです。その息子さんも(と言っても、私より二十歳も年上だが)、本当にいい人で、若者に親切でした。
宿には、全国からやってきたユースホステルの会員が、楽しそうにマネージャーさんたちを囲んで集まっており、こんな辺鄙なところに外国人も少なからずいました。そして賑やかで温かいユースホステルに見えました。二十五年前の当時は、日本で最もアットホームなユースホステルだったと思います。
しかし、時間の流れは残酷でした。
おじいちゃんも、御主人も亡くなってしまっていたとは。
ああ、困った。
外海府の生き字引が、もう居ないなんて。
「源兵衛さんは、どうしてるんですか?」
「もうお年なので、宿を辞めてしまいました」
「もう一人の生き字引、源兵衛さんも引退か」
源兵衛さんところに泊まることもできないなんて。
時間は待ってはくれない。
「御主人の死因は、なんだったんでしょうか? まだまだ若かったと思いますけれど」
「心労がたたったようです」
奥さんが言いました。
佐渡島の田舎のことです。
いろいろな文化風習があります。
心の病むこともあるでしょう。
しかし、よくもまあ宿をまわしているものです。御主人に先立たれ、外海府ユースホステルという大きな建物を、一人残された70歳すぎの奥さん一人でまわすことができるのか? 息子さんたちは、都会に就職してしまっています。
「よく一人で宿をまわせますね?」
「でも楽しいの」
「楽しい・・・って」
「最近、田んぼも始めたのよ」
「えええええええええええええええええええええええええええええええ?」
外海府ユースホステルは、山も持っているし、山で椎茸もやっていたし、田畑ももっています。宿をやっている70すぎの奥さんのに、田んぼはきつい。田んぼといっても、棚田です。大きな田んぼではないから苦労はひとしおです。そもそも、ここの奥さんは佐渡出身ではありません。新潟県一の都会である新潟市からお嫁に来た元ホステラー(旅人)さんです。外海府ユースホステルが気に入って入り浸るうちに、旦那さんに見初められて嫁さんなった人です。農家のことなど分かるはずもありません。
そもそも奥さんが外海府に嫁さんに来た頃は、佐渡の岩谷口は、秘境も秘境。知床や西表島と何ら変わることのなかった場所です。本州に比べれば、十年は遅れていた地域に嫁にやってきたわけですから、ずいぶん苦労しただろうし、宿の仕事で手一杯だったと思います。文明の地・新潟市からやってきたんですから。
「田んぼなんかはじめて、宿の方は大丈夫なんですか?」
「裏がすぐ棚田でしょ? もし田んぼをやめたらモグラに土手をやられて危ないのよ」
「なるほど、田んぼは水害などに対して安全保障も兼ねているんですね」
「そうです」
「じゃあ、このお米は、自家製ですか。どうりで美味しいと思った」
実際、佐渡米の中でも海府地方の米は、美味しいので有名です。しかし、七十歳すぎて農業をはじめるとは、普通の感覚ではありません。
「でも、大変じゃないですか?」
「それが楽しいのよ」
「え?」
「この歳ではじめて言うのもなんだけれど、作る楽しみに味をしめちゃって・・・。お客さんも手伝ってくれるし」
「へえ」
やはりそうでしたか。この宿も、よい御客様に恵まれている。きっとマネージャーの人格に感銘した御客様でいっぱいなんでしょう。でなければ、農業やりながら宿をまわせるわけがありません。ようするにユースホステルというより農家民宿なんでしょうね。とはいうものの、奥さんの料理は、かなりモダンです。佐渡地域観光交流ネットワークのホームページに、こんなメニューが載っていました。
http://www.sado-kouryu.jp/sadonpo/area/iwayaguchi2016/(佐渡地域観光交流ネットワーク)
「つけどめおにぎり・漬物」 300円
佐渡で昔から食べられていたサンマやイカの保存食。取り出す時は匂いが強烈で勇気が必要?!知る人ぞ知る人気メニュー。〈提供:外海府ユースホステル〉
「夏野菜のごはんピザ」 700円
生地は、お米をおやき風に焼いたもの。具材は夏野菜、シソ、魚介類の入った南蛮味噌。〈提供:外海府ユースホステル〉
ちなみに松浦武四郎の佐渡日誌によると、岩谷口について、こう記録しています。
「岩谷口村には25軒の民家があり、碇のかかりのよい浜である。そして村には観音堂・薬師堂があり、村を流れる川には土船大明神というものがあると。土地の人に聞いた話では、ここに住む団三郎狸が色々の悪さをして農民を苦しめた時に、ここにいたウサギが土の船を作ってその団三郎狸を乗せて大いにタヌキを苦しめたと言う話である。それからは狸も農民に悪事を働くことはなく、これよりこのウサギを土船大明神として崇拝し、秋と春に2回の祭りをしているそうである」
とあります。
ようするに民話『カチカチ山』のことです。『カチカチ山』は、佐渡・岩谷口の民話なのです。岩谷口には、岩屋衆と土船衆がいると、前に書きましたが、この土船衆の守護神が、ウサギなんですよ。そして、それを祭ったのが土船神社。しかし、土船神社は、明治時代に他の神社と合併して、両宮神社となっていました。
両宮神社・Googleマップより借用
ここだけではありません。岩谷口以外にも、民話『カチカチ山』に関する地名があります。佐渡・佐和田にある土船林という山があったりします。
つづく。
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いまから25年くらい前、私は五年間にわたって佐渡島の自然調査をしたことがあります。その時に、地元の旧家の方たちから、いろいろ情報をいただいたりしたのですが、外海府・岩谷口の旧家の方々にも、たいへんお世話になりました。一つは、源兵衛(屋号の名前です)さん。もう一つ源四郎(これも屋号の名前です)さんです。
そして源兵衛さんは、民宿「源兵衛」を営業していて、源四郎さんは、外海府ユースホステルです。この二つの旧家に大量の古文書が残されていることから、民俗学者の宮本常一氏も両家に訪れているようです。
実は、この岩谷口。土船衆と岩屋衆に分かれています。北半分が、岩屋衆で、外海府ユースホステルの矢部源四郎が草分け衆の一人です。古くから農地を開墾し、多くの山林を所有して、薪炭を相川金山に送って大もうけした人たちです。
南半分が、船登源兵衛を中心とする土船衆です。民宿「源兵衛」の御先祖様である船登源兵衛が、土船衆の草分け衆です。土船衆は、日本海から瀬戸内海にかけて回船問屋として大活躍したと言われています。
二十五年前のことになりますが、私は、この民宿「源兵衛」さんのところにお邪魔して、岩谷口の文化・歴史・そして民俗について詳しく教えていただきました。そして、廃道となっていた岩谷口から光明仏寺までの参拝ルートの発掘調査などを行なったりしました。
また、外海府ユースホステルに行って、源四郎当主の矢部さんから、岩谷口や外海府の地理を教えてもらい、巨大な七段の滝・大ザレの滝・各種の洞窟・各旧道・壇徳山・大佐渡山脈の縦走路などを調査しました。当主の矢部さんは、御高齢であったにもかかわらず、国勢調査などで山道をガンガン歩いておられ、佐渡の山を隅々まで知っておられました。
また、聞くところによれば、息子さんは、新潟大学の農学部をご卒業され、その縁で、大佐渡山脈にある新潟大学の演習林の管理をまかされており、佐渡の山や自然林についてもかなり詳しいと聞きました。ようするに外海府ユースホステルの矢部さん親子は、佐渡における山のスペシャリストだったんですね。
「大佐渡山脈のことなら外海府ユースホステルの矢部さん親子に聞け」
という感じで、民宿「源兵衛」さんと、外海府ユースホステルの矢部さん親子は、佐渡岩谷口の人間国宝なのです。「彼らからヒアリングしないで、誰から聞くんだ?」てなもんです。
で、外海府ユースホステルに泊まってみたら、矢部のお爺ちゃんは亡くなっており、その息子さんも三年前に亡くなって、今は奥さんのみだという。奥さんといっても、七十歳をとおにこえているんですけれどね。
生前の矢部のおじいちゃんは、本当にいい人で、いろいろ親切に教えてくれたうえに、泊まり客でもないのに、私が率いた調査登山隊二十名近くに越乃寒梅をさんざん振舞った上に、土産に越乃寒梅の一升瓶まで持たせてくれたひとです。その息子さんも(と言っても、私より二十歳も年上だが)、本当にいい人で、若者に親切でした。
宿には、全国からやってきたユースホステルの会員が、楽しそうにマネージャーさんたちを囲んで集まっており、こんな辺鄙なところに外国人も少なからずいました。そして賑やかで温かいユースホステルに見えました。二十五年前の当時は、日本で最もアットホームなユースホステルだったと思います。
しかし、時間の流れは残酷でした。
おじいちゃんも、御主人も亡くなってしまっていたとは。
ああ、困った。
外海府の生き字引が、もう居ないなんて。
「源兵衛さんは、どうしてるんですか?」
「もうお年なので、宿を辞めてしまいました」
「もう一人の生き字引、源兵衛さんも引退か」
源兵衛さんところに泊まることもできないなんて。
時間は待ってはくれない。
「御主人の死因は、なんだったんでしょうか? まだまだ若かったと思いますけれど」
「心労がたたったようです」
奥さんが言いました。
佐渡島の田舎のことです。
いろいろな文化風習があります。
心の病むこともあるでしょう。
しかし、よくもまあ宿をまわしているものです。御主人に先立たれ、外海府ユースホステルという大きな建物を、一人残された70歳すぎの奥さん一人でまわすことができるのか? 息子さんたちは、都会に就職してしまっています。
「よく一人で宿をまわせますね?」
「でも楽しいの」
「楽しい・・・って」
「最近、田んぼも始めたのよ」
「えええええええええええええええええええええええええええええええ?」
外海府ユースホステルは、山も持っているし、山で椎茸もやっていたし、田畑ももっています。宿をやっている70すぎの奥さんのに、田んぼはきつい。田んぼといっても、棚田です。大きな田んぼではないから苦労はひとしおです。そもそも、ここの奥さんは佐渡出身ではありません。新潟県一の都会である新潟市からお嫁に来た元ホステラー(旅人)さんです。外海府ユースホステルが気に入って入り浸るうちに、旦那さんに見初められて嫁さんなった人です。農家のことなど分かるはずもありません。
そもそも奥さんが外海府に嫁さんに来た頃は、佐渡の岩谷口は、秘境も秘境。知床や西表島と何ら変わることのなかった場所です。本州に比べれば、十年は遅れていた地域に嫁にやってきたわけですから、ずいぶん苦労しただろうし、宿の仕事で手一杯だったと思います。文明の地・新潟市からやってきたんですから。
「田んぼなんかはじめて、宿の方は大丈夫なんですか?」
「裏がすぐ棚田でしょ? もし田んぼをやめたらモグラに土手をやられて危ないのよ」
「なるほど、田んぼは水害などに対して安全保障も兼ねているんですね」
「そうです」
「じゃあ、このお米は、自家製ですか。どうりで美味しいと思った」
実際、佐渡米の中でも海府地方の米は、美味しいので有名です。しかし、七十歳すぎて農業をはじめるとは、普通の感覚ではありません。
「でも、大変じゃないですか?」
「それが楽しいのよ」
「え?」
「この歳ではじめて言うのもなんだけれど、作る楽しみに味をしめちゃって・・・。お客さんも手伝ってくれるし」
「へえ」
やはりそうでしたか。この宿も、よい御客様に恵まれている。きっとマネージャーの人格に感銘した御客様でいっぱいなんでしょう。でなければ、農業やりながら宿をまわせるわけがありません。ようするにユースホステルというより農家民宿なんでしょうね。とはいうものの、奥さんの料理は、かなりモダンです。佐渡地域観光交流ネットワークのホームページに、こんなメニューが載っていました。
http://www.sado-kouryu.jp/sadonpo/area/iwayaguchi2016/(佐渡地域観光交流ネットワーク)
「つけどめおにぎり・漬物」 300円
佐渡で昔から食べられていたサンマやイカの保存食。取り出す時は匂いが強烈で勇気が必要?!知る人ぞ知る人気メニュー。〈提供:外海府ユースホステル〉
「夏野菜のごはんピザ」 700円
生地は、お米をおやき風に焼いたもの。具材は夏野菜、シソ、魚介類の入った南蛮味噌。〈提供:外海府ユースホステル〉
ちなみに松浦武四郎の佐渡日誌によると、岩谷口について、こう記録しています。
「岩谷口村には25軒の民家があり、碇のかかりのよい浜である。そして村には観音堂・薬師堂があり、村を流れる川には土船大明神というものがあると。土地の人に聞いた話では、ここに住む団三郎狸が色々の悪さをして農民を苦しめた時に、ここにいたウサギが土の船を作ってその団三郎狸を乗せて大いにタヌキを苦しめたと言う話である。それからは狸も農民に悪事を働くことはなく、これよりこのウサギを土船大明神として崇拝し、秋と春に2回の祭りをしているそうである」
とあります。
ようするに民話『カチカチ山』のことです。『カチカチ山』は、佐渡・岩谷口の民話なのです。岩谷口には、岩屋衆と土船衆がいると、前に書きましたが、この土船衆の守護神が、ウサギなんですよ。そして、それを祭ったのが土船神社。しかし、土船神社は、明治時代に他の神社と合併して、両宮神社となっていました。
両宮神社・Googleマップより借用
ここだけではありません。岩谷口以外にも、民話『カチカチ山』に関する地名があります。佐渡・佐和田にある土船林という山があったりします。
つづく。
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2018年03月15日
息子を連れて佐渡島へ 10 岩谷口・外海府ユースホステル
息子を連れて佐渡島へ 10 岩谷口・外海府ユースホステル
私たちは、佐渡島の北の果てにある岩谷口に向かいました。
岩谷口はバスの終点です。そこから先も道があることはありますが、その道も昭和44年まで完成しませんでした。それまでは岩谷口から鷲崎まで一日二便の船が交通手段であり、そこから両津までも船が出ていました。つまり佐渡島で一番の僻地が岩谷口だったのです。
しかし、この岩谷口には、江戸時代から200年以上もつづいた旅館がありました。これが後の外海府ユースホステルとなる外海府旅館です。こんな辺鄙なところに、200年も前から、何故?大きな旅館があったのか? という疑問が、佐渡島民なら思うことでしょう。しかし、あって当然なのです。
今でこそ寂れている岩谷口も、江戸時代初期から中期にかけて大量の船が出入りする一大貿易拠点だったからです。取引先は、津軽・秋田・新潟・敦賀・下関・瀬戸内・大阪と広範囲に及び、岩谷口は大商業地帯になっていた時期があったのです。もちろん相川金山へ、資材・農産物・日用品などを送るためです。外海府ユースホステルの御先祖様も、大量の薪炭を相川金山に供給するために大もうけした口で、自宅を旅籠にして、おとずれる商人たちを宿泊させたりしています。それが外海府旅館です。
登山家・中村謙も、渾身の力作『山小屋の旅(昭和41年発行)』で彼は、内海府の虫崎から外海府の岩谷口までの海岸歩きコースを、
「怒濤が岩をかんで作り出した大自然の芸術は、まさに壮美というほかはない」
と手放しで絶賛して、ハイキングコースとして多くのページを割いて紹介しています。そして外海府旅館を紹介しています。それによると昭和41年当時で700円とあります。
ところで、この外海府ユースホステル。このユースホステルこそ日本で一番素晴らしいユースホステルかもしれません。部屋にしても料理にしてもいろいろなところが素晴らしいのですが、このユースホステルの魅力は、まだ観光化されてない秘密の穴場を大量にかかえているからです。もちろん、ここには書きません。心ない人たちに外海府の穴場を荒らしてほしくないからです。
建物は、2000年に建築された比較的新しい建物ですが、古民家風で宿全体がバリアフリーになっています。もともとこのユースホステルは、築200年以上の佐渡島でも最も古い古民家でした。しかし、2000年に火災で燃えてしまい、再建されたのが、今の外海府ユースホステルになります。
設計士は、稲田信之さんといって、この宿のリピーターさんだったか、元ヘルパーさんだったかの人で、外海府とユースホステルを知り抜いている方だったようです。で、御客様が使いよいような設計をしたようです。
http://atelier-baku.com/index.html
廊下は広いですが、これは200年前の古い建物だったときから、こういう建築でした。囲炉裏があったり、ピアノがあったりします。このピアノで、海外の有名なピアニストが、コンサートを開くこともあるそうです。当然のことながら、この宿を愛してやまない外国の方も大勢いらっしゃるようです。トイレも、お風呂もすばらしく、佐渡の郷土史なんかも充実しています。なにより徒歩一分で砂浜の海岸にでられます。
圧巻だったのは、その食事でした。
「いや、これじゃ赤字だろ!」
と叫びたくなる内容です。まずカニの大きさにびっくり。マネージャーさんは「安物です」と言ってましたが、東京の料亭でこれを食べたら、それだけで外海府ユースホステルの宿泊代を越えてしまいます。おまけにサザエ御飯の美味しいこと美味しいこと。なんと贅沢な食事なんだろうと思ってしまいました。もちろん息子も大喜び。
このブリが美味しいこと。
佐渡のブリは、ひと味違う。
カニは、季節ものなので、漁の時期でないと食べられない。
佐渡でカニを食べるなら秋が良いかもしれない。
そして食後、私はマネージャーさんにお話をうかがいました。
で、驚愕の真実を知ることになります。
つづく。
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私たちは、佐渡島の北の果てにある岩谷口に向かいました。
岩谷口はバスの終点です。そこから先も道があることはありますが、その道も昭和44年まで完成しませんでした。それまでは岩谷口から鷲崎まで一日二便の船が交通手段であり、そこから両津までも船が出ていました。つまり佐渡島で一番の僻地が岩谷口だったのです。
しかし、この岩谷口には、江戸時代から200年以上もつづいた旅館がありました。これが後の外海府ユースホステルとなる外海府旅館です。こんな辺鄙なところに、200年も前から、何故?大きな旅館があったのか? という疑問が、佐渡島民なら思うことでしょう。しかし、あって当然なのです。
今でこそ寂れている岩谷口も、江戸時代初期から中期にかけて大量の船が出入りする一大貿易拠点だったからです。取引先は、津軽・秋田・新潟・敦賀・下関・瀬戸内・大阪と広範囲に及び、岩谷口は大商業地帯になっていた時期があったのです。もちろん相川金山へ、資材・農産物・日用品などを送るためです。外海府ユースホステルの御先祖様も、大量の薪炭を相川金山に供給するために大もうけした口で、自宅を旅籠にして、おとずれる商人たちを宿泊させたりしています。それが外海府旅館です。
登山家・中村謙も、渾身の力作『山小屋の旅(昭和41年発行)』で彼は、内海府の虫崎から外海府の岩谷口までの海岸歩きコースを、
「怒濤が岩をかんで作り出した大自然の芸術は、まさに壮美というほかはない」
と手放しで絶賛して、ハイキングコースとして多くのページを割いて紹介しています。そして外海府旅館を紹介しています。それによると昭和41年当時で700円とあります。
ところで、この外海府ユースホステル。このユースホステルこそ日本で一番素晴らしいユースホステルかもしれません。部屋にしても料理にしてもいろいろなところが素晴らしいのですが、このユースホステルの魅力は、まだ観光化されてない秘密の穴場を大量にかかえているからです。もちろん、ここには書きません。心ない人たちに外海府の穴場を荒らしてほしくないからです。
建物は、2000年に建築された比較的新しい建物ですが、古民家風で宿全体がバリアフリーになっています。もともとこのユースホステルは、築200年以上の佐渡島でも最も古い古民家でした。しかし、2000年に火災で燃えてしまい、再建されたのが、今の外海府ユースホステルになります。
設計士は、稲田信之さんといって、この宿のリピーターさんだったか、元ヘルパーさんだったかの人で、外海府とユースホステルを知り抜いている方だったようです。で、御客様が使いよいような設計をしたようです。
http://atelier-baku.com/index.html
廊下は広いですが、これは200年前の古い建物だったときから、こういう建築でした。囲炉裏があったり、ピアノがあったりします。このピアノで、海外の有名なピアニストが、コンサートを開くこともあるそうです。当然のことながら、この宿を愛してやまない外国の方も大勢いらっしゃるようです。トイレも、お風呂もすばらしく、佐渡の郷土史なんかも充実しています。なにより徒歩一分で砂浜の海岸にでられます。
圧巻だったのは、その食事でした。
「いや、これじゃ赤字だろ!」
と叫びたくなる内容です。まずカニの大きさにびっくり。マネージャーさんは「安物です」と言ってましたが、東京の料亭でこれを食べたら、それだけで外海府ユースホステルの宿泊代を越えてしまいます。おまけにサザエ御飯の美味しいこと美味しいこと。なんと贅沢な食事なんだろうと思ってしまいました。もちろん息子も大喜び。
このブリが美味しいこと。
佐渡のブリは、ひと味違う。
カニは、季節ものなので、漁の時期でないと食べられない。
佐渡でカニを食べるなら秋が良いかもしれない。
そして食後、私はマネージャーさんにお話をうかがいました。
で、驚愕の真実を知ることになります。
つづく。
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2018年03月14日
息子を連れて佐渡島へ 9 外海府をドライブ・鹿野浦・安寿と厨子王
息子を連れて佐渡島へ 9 外海府をドライブ
相川奉行所を出発した私たちは、外海府ユースホステルのある外海府に向かいました。外海府とは、佐渡島の北側で、最果ての地です。今でこそ佐渡島1周道路があり、簡単に行けるところなのですが、昭和40年頃(つまり私が4歳くらいの頃)までは、まさにサイハテの地で、知床半島と何ら変わるところのなかった場所です。
村から村に向かう交通手段は、登山道使うか、船を使うしかなかったのです。それでも、私が生まれた57年前は、多少は便利になっていて、外海府ユースホステルまでは、路線バスが繋がるようにはなっていました。
とはいうものの、道路は舗装されてなく、マイクロバスのようなボンネットバスが、やっと1台通れるくらいの道路で、対向車がやってこようものなら、どちらかがバックして道を譲るしかなかったような道路でした。その当時のことを思い出す外海府の佐渡島民は、
「新潟交通のバスの運転手は天才だったよね」
「あんな細い道を擦らずに抜けたんだものね」
「あと30センチで海に落っこちるような道を、よく運転したものだわ」
「しかも反対側は、崖だったよね」
と語っていました。私も激しく同意です。
しかし、今の佐渡島は、海側を埋め立て、巨大な橋をつくり、大規模なトンネルを掘削し、道路を整備したために、小一時間で相川奉行所から外海府に到着できます。しかし、昔は、バスで半日がかりでした。道が悪く、くねくね曲がってて、対向車のたびにバックしたからです。
年齢の若い佐渡島人には、想像がつかないかもしれませんが、昔の佐渡島には、トンネルが1つしかなかったんです。昔は、佐渡島でトンネルといえば、中山トンネル一つで、他のものは、隧道と言っていました。
隧道と言うくらいですから、戦前に掘られたらしく手彫りで崖を掘削したようなトンネルで、途中で海側に穴が空いていたりします。海からの海蝕洞窟とぶつかって、隧道と交差していたんです。時化のときは、バスの窓を開けていると、隧道の中にある海蝕洞窟の窓から、霧状の塩水が浸入してきたものです。しかし、そういう悪路も今は廃道となって、佐渡も便利な道路が走っています。
ここで脱線します。皮肉なことに佐渡島は、便利になると同時に、一部のマニアから注目をあびるようになってきました。立派な道が出来ると、旧道は廃道になります。そのために佐渡島は、廃道・廃線・廃隧道マニアのかっこうの餌食となってしまっています。
http://yamaiga.com/tunnel/tochu/main.html
http://hazami.jugem.jp/?eid=580
http://blog.livedoor.jp/mt_kinpoku1172/archives/51924960.html
http://sado2008.jugem.jp/?cid=34
http://yamaiga.com/koneta/koneta_186.html
上記のホームページを見てもわかるとおり、佐渡島の廃道・廃隧道は、とても怪しく、とても魅力的です。私には土地勘があるので、時間があれば、探検したかったのですが、時間が無いのと4歳の息子を連れて行ける場所ではないので、今回は新しく出来た道路から廃道・廃隧道を眺めるだけにしました。
戸中隧道 http://yamaiga.com/tunnel/tochu/main2.htmlより借用
ちなみに松浦武四郎の佐渡日誌の記録を読んでみると、相川を出発し、下相川・小川村・達者村・姫津村(佐渡ベルメールユースホステルのある場所)・北狄村(尖閣湾のある場所)・戸地村・戸中村・平根岬・鹿の浦・南片辺村・南片辺村・石花村と歩いて、石花村に一泊しています。
注目すべきは、戸地村から戸中村の途中にあった二つの洞窟の記述です。深さ75メートルもある、この洞窟は、明治43年に開通した戸中隧道と交差します。私が幼児の頃に、戸中隧道の中で浴びた霧の塩水は、松浦武四郎が記録した深さ75メートルもあった海蝕洞窟が原因だったようです。
戸中隧道 http://yamaiga.com/tunnel/tochu/main2.htmlより借用
また、松浦武四郎は、戸地村の海に温泉が湧き出ていることも記録しています。
おそらく黒島あたりにわき出ているはずなんですが、
現在、それを利用している形跡はありません。
さらに松浦武四郎は、鹿の浦で、山椒大夫の伝説にもふれています。
この「鹿野浦」には昔、農地がありました。しかし、どういうわけか民家が無いんですよ。民家が無い理由は、安寿と厨子王の呪いのせいだと言われています。安寿と厨子王の話は、誰もが知っていると思います。映画にもアニメにもなっていますからね。映画やアニメでは、立身出世した厨子王が、佐渡でめくらになった母親と涙の再会をして、めでたし、めでたしでおわるのですが、「鹿野浦」につたわる安寿と厨子王の話は、悲劇的です。
安寿姫と厨子王丸は、越後の直江津で人買船に売られた。母は佐渡の島の鹿野浦に連れて来られ、虐待のはて盲目になってしまった。
安寿恋しや ほうやらほう
厨子王恋しや ほうやらほう
と、毎日唄いながら鳥追いをしていた。安寿と厨子王は出世して母を迎えるため佐渡へ渡って来た。そして鹿野浦にいる母を探し出した。しかし盲目の母は、いつも村の悪童どもに、おれは厨子王だ、安寿姫だと、だまされていたので、実際の安寿があらわれても嘘だと言って信じず、持っている杖で殺してしまった。それから鹿の浦の川は、安寿の涙のために毒が流れるようになった。その後、この鹿野浦は、その祟りで一軒も住む者もなくなり、村人は全部片辺村の北に移住してしまった。これが、現在の北片辺村であるという。
現在の鹿野浦
安寿塚
ここで、民俗学者である宮本常一を紹介したいと思います。宮本常一は、明治40生まれの民俗学者で、私の祖母と同年代です。そして1981年1月30日に73歳で亡くなりました。
その時、私は二十歳でした。
私は、四十回も佐渡に調査に来ている宮本常一氏が
死んだという何かのニュースで知りました。
「宮本常一? 誰だ?」
と思った私は、国会図書館で彼の著作(もちろん佐渡に関する著作)を読んでみました。すると、これが非常に衝撃的で、元佐渡島民であった私の常識をひっくり返す内容だったのです。その一部を紹介しますと
「実は相川の町などは、外海府の人たちに支えられていると言ってよかった。相川は長い間全く労働者の街であり、商人の町であった。はなやかに生きている者の間に貧しく暮らしているものは多かった。そして貧乏人には子供が多かった。その子をもらって育てたのは海府の人たちである(宮本常一・離島の旅より)」
つまり外海府は、相川なんかより裕福であったというのです。
三歳まで外海府に住んでいたことがある私には「そんな馬鹿な?」という記述です。
昔の外海府といえば、車の走れる道路は無く、今の知床半島と大差ない辺鄙なところであり、テレビの電波もろくに届かない未開地と言ってよかったので、この記述は間違っていると思いました。しかし、よくよく考えてみると、確かに養子をもらう家は多かったし、四歳以降に住んだ私の実家の家なんかより、三歳まで下宿していた外海府の家の方が大きくて立派だったことを思い出しました。毎日の食事にしても今思えば御馳走だった気がする。
あれは誕生日だったか、クリスマスだったか、あるいは両方だったか、記憶ははっきりしてませんが、当時三歳だった私は、下宿のおばさんに二十センチ以上ある巨大なホールケーキを食べさせてもらっていました。昭和三十年代にそういうものを食べることができた家は、全国でも珍しかったと思います。
もちろん私の実家でも食べたことはないし、そもそも親に誕生日を祝ったことは無い。せいぜい母親と一緒にパン屋のショーウインドに飾ってあったケーキを眺めたことしかない。いや、それ以前に昭和三十年代当時の外海府にケーキ屋なんかなかったし、せいぜい、よろず屋ていどの店が、寒村に一軒あるかないかですから、どうやって大きなホールケーキを手に入れたか疑問だらけです。
宮本常一は、言います。
「海府の人たちは磯でアワビ・ワカメを取り、沖でイカを釣り、また田畑を耕して暮らしを立てていた。冬には雪で閉じ込められてしまうので、夏場の稼ぎだけで1年間の食生活費を稼がなくてはならぬので、村人たちはことのほか、激しく働かねばならず、そのため人出はいくらあっても足りなかった。そこで海府の人たちは相川の貧家から子供をもらい、もらって来ては育てたのである。(宮本常一・離島の旅より)」
さて安寿と厨子王の話です。
http://artkuusatu.blog.fc2.com/img/20140216204942396.jpg/
人買船に売られた安寿と厨子王の母が、佐渡の外海府(鹿野浦)に連れて来られてきたと言う話と、宮本常一の「海府の人たちは相川の貧家から子供をもらい、もらって来ては育てたのである」という話は、微妙にリンクします。海府は、昔から人手を必要とする地域だった。宮本常一が指摘しているように、海府地方では、人出はいくらあっても足りなかった。
「海府は米どころであった。(略)それらの米は相川に供給せられたのである。また山の雑木は切られて町として船で相川に送られた。一方から言えばこれらの村々は相川があったからこそ西北の海に面しつつもたくましく生き継いできたといえるのだが、それだけにまた自然におしひしがれそうな人生がそこに長く続いてきたのであったある(宮本常一・離島の旅より)」
これは外海府ユースホステルのマネージャーも、同じ事を言っていました。外海府ユースホステルの御先祖の墓の中には、大きなものがあり、その大きな墓の時代は、山の雑木を相川に売って大もうけした時代であったということでした。外海府の古くて大きな屋敷の大半は、そういう家系だったということです。
「北小浦の宿で大敷の話を聞いた。昭和33年には水あげが1億円もあったそうである。そこで利益の2割を組合員で分けたのだが、一人当たり25万円もあった。また金が使い切れないので関西旅行した。一晩に1万円も取られる宿に泊まったそうだと、大変景気の良い話である(私の日本地図・宮本常一より)」
http://artkuusatu.blog.fc2.com/img/201312161606001ec.jpg/
北小浦といえば、海府地方の中でも、限界集落もいいところですが、昭和33年頃は違っていたようです。ちなみに昭和33年の大卒初任給は、1万3500円です。その時代に海府のある漁村では、一晩に1万円も取られる宿に泊まって豪遊したわけですから、どれだけ儲かったのか? どうりで相川から人買いのように養子をもらいにくるわけです。限界集落化しつつある今の海府地方を考えると、想像もできません。
残念ながら宮本常一氏は、この記録を残した昭和34年以降、海府地方を訪れてないので、その後、海府地方が、どう寂れていったか分からなくなっていますが、現在、限界集落であっても昔は違っていたということは確かなようです。
再び鹿野浦の話にもどします。
「そのような村にも相川から養子をもらう風習があった。相川にはまずしい町家がたくさんあり、そういう家の子をもらってきた。相川や国中の方では子供が泣くと『海府へ牛のケツたたきにやるぞ』と言えば泣きやんだものであるという(私の日本地図・宮本常一より)」
「たいていの家に2、3人いたという。その子たちを土間の隅に藁を敷き、莚(むしろ)をしいてねかせた。・・・そして25歳になるまで家におき、その春一人前になった祝をしてやってフクギモノという晴着をつくってやる。それからさきは働いて得たものはすべて自分のものになる。そして婿にいくものも多かった。中には相川へかえっていくものも少なくない。妻をもらって分家したものもある(私の日本地図・宮本常一より)」
この話を裏付けるように、昔の海府の戸籍には、「同居人二人」などと書いてあったらしい。安寿の母親は、こういう地域に売られていったのです。そして鹿野浦で鳥追いをしていた。そこに悲劇がおき、鹿野浦に毒水が流れ、そこに住めなくなった住民たちは、そこから隣村の北片辺に移住していったらしい。この北片辺に私は、〇歳から三歳まで住んでいました。そしてこの北片辺で有名な民話が夕鶴で有名な『鶴女房』です。
つづく。
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相川奉行所を出発した私たちは、外海府ユースホステルのある外海府に向かいました。外海府とは、佐渡島の北側で、最果ての地です。今でこそ佐渡島1周道路があり、簡単に行けるところなのですが、昭和40年頃(つまり私が4歳くらいの頃)までは、まさにサイハテの地で、知床半島と何ら変わるところのなかった場所です。
村から村に向かう交通手段は、登山道使うか、船を使うしかなかったのです。それでも、私が生まれた57年前は、多少は便利になっていて、外海府ユースホステルまでは、路線バスが繋がるようにはなっていました。
とはいうものの、道路は舗装されてなく、マイクロバスのようなボンネットバスが、やっと1台通れるくらいの道路で、対向車がやってこようものなら、どちらかがバックして道を譲るしかなかったような道路でした。その当時のことを思い出す外海府の佐渡島民は、
「新潟交通のバスの運転手は天才だったよね」
「あんな細い道を擦らずに抜けたんだものね」
「あと30センチで海に落っこちるような道を、よく運転したものだわ」
「しかも反対側は、崖だったよね」
と語っていました。私も激しく同意です。
しかし、今の佐渡島は、海側を埋め立て、巨大な橋をつくり、大規模なトンネルを掘削し、道路を整備したために、小一時間で相川奉行所から外海府に到着できます。しかし、昔は、バスで半日がかりでした。道が悪く、くねくね曲がってて、対向車のたびにバックしたからです。
年齢の若い佐渡島人には、想像がつかないかもしれませんが、昔の佐渡島には、トンネルが1つしかなかったんです。昔は、佐渡島でトンネルといえば、中山トンネル一つで、他のものは、隧道と言っていました。
隧道と言うくらいですから、戦前に掘られたらしく手彫りで崖を掘削したようなトンネルで、途中で海側に穴が空いていたりします。海からの海蝕洞窟とぶつかって、隧道と交差していたんです。時化のときは、バスの窓を開けていると、隧道の中にある海蝕洞窟の窓から、霧状の塩水が浸入してきたものです。しかし、そういう悪路も今は廃道となって、佐渡も便利な道路が走っています。
ここで脱線します。皮肉なことに佐渡島は、便利になると同時に、一部のマニアから注目をあびるようになってきました。立派な道が出来ると、旧道は廃道になります。そのために佐渡島は、廃道・廃線・廃隧道マニアのかっこうの餌食となってしまっています。
http://yamaiga.com/tunnel/tochu/main.html
http://hazami.jugem.jp/?eid=580
http://blog.livedoor.jp/mt_kinpoku1172/archives/51924960.html
http://sado2008.jugem.jp/?cid=34
http://yamaiga.com/koneta/koneta_186.html
上記のホームページを見てもわかるとおり、佐渡島の廃道・廃隧道は、とても怪しく、とても魅力的です。私には土地勘があるので、時間があれば、探検したかったのですが、時間が無いのと4歳の息子を連れて行ける場所ではないので、今回は新しく出来た道路から廃道・廃隧道を眺めるだけにしました。
戸中隧道 http://yamaiga.com/tunnel/tochu/main2.htmlより借用
ちなみに松浦武四郎の佐渡日誌の記録を読んでみると、相川を出発し、下相川・小川村・達者村・姫津村(佐渡ベルメールユースホステルのある場所)・北狄村(尖閣湾のある場所)・戸地村・戸中村・平根岬・鹿の浦・南片辺村・南片辺村・石花村と歩いて、石花村に一泊しています。
注目すべきは、戸地村から戸中村の途中にあった二つの洞窟の記述です。深さ75メートルもある、この洞窟は、明治43年に開通した戸中隧道と交差します。私が幼児の頃に、戸中隧道の中で浴びた霧の塩水は、松浦武四郎が記録した深さ75メートルもあった海蝕洞窟が原因だったようです。
戸中隧道 http://yamaiga.com/tunnel/tochu/main2.htmlより借用
また、松浦武四郎は、戸地村の海に温泉が湧き出ていることも記録しています。
おそらく黒島あたりにわき出ているはずなんですが、
現在、それを利用している形跡はありません。
さらに松浦武四郎は、鹿の浦で、山椒大夫の伝説にもふれています。
この「鹿野浦」には昔、農地がありました。しかし、どういうわけか民家が無いんですよ。民家が無い理由は、安寿と厨子王の呪いのせいだと言われています。安寿と厨子王の話は、誰もが知っていると思います。映画にもアニメにもなっていますからね。映画やアニメでは、立身出世した厨子王が、佐渡でめくらになった母親と涙の再会をして、めでたし、めでたしでおわるのですが、「鹿野浦」につたわる安寿と厨子王の話は、悲劇的です。
安寿姫と厨子王丸は、越後の直江津で人買船に売られた。母は佐渡の島の鹿野浦に連れて来られ、虐待のはて盲目になってしまった。
安寿恋しや ほうやらほう
厨子王恋しや ほうやらほう
と、毎日唄いながら鳥追いをしていた。安寿と厨子王は出世して母を迎えるため佐渡へ渡って来た。そして鹿野浦にいる母を探し出した。しかし盲目の母は、いつも村の悪童どもに、おれは厨子王だ、安寿姫だと、だまされていたので、実際の安寿があらわれても嘘だと言って信じず、持っている杖で殺してしまった。それから鹿の浦の川は、安寿の涙のために毒が流れるようになった。その後、この鹿野浦は、その祟りで一軒も住む者もなくなり、村人は全部片辺村の北に移住してしまった。これが、現在の北片辺村であるという。
現在の鹿野浦
安寿塚
ここで、民俗学者である宮本常一を紹介したいと思います。宮本常一は、明治40生まれの民俗学者で、私の祖母と同年代です。そして1981年1月30日に73歳で亡くなりました。
その時、私は二十歳でした。
私は、四十回も佐渡に調査に来ている宮本常一氏が
死んだという何かのニュースで知りました。
「宮本常一? 誰だ?」
と思った私は、国会図書館で彼の著作(もちろん佐渡に関する著作)を読んでみました。すると、これが非常に衝撃的で、元佐渡島民であった私の常識をひっくり返す内容だったのです。その一部を紹介しますと
「実は相川の町などは、外海府の人たちに支えられていると言ってよかった。相川は長い間全く労働者の街であり、商人の町であった。はなやかに生きている者の間に貧しく暮らしているものは多かった。そして貧乏人には子供が多かった。その子をもらって育てたのは海府の人たちである(宮本常一・離島の旅より)」
つまり外海府は、相川なんかより裕福であったというのです。
三歳まで外海府に住んでいたことがある私には「そんな馬鹿な?」という記述です。
昔の外海府といえば、車の走れる道路は無く、今の知床半島と大差ない辺鄙なところであり、テレビの電波もろくに届かない未開地と言ってよかったので、この記述は間違っていると思いました。しかし、よくよく考えてみると、確かに養子をもらう家は多かったし、四歳以降に住んだ私の実家の家なんかより、三歳まで下宿していた外海府の家の方が大きくて立派だったことを思い出しました。毎日の食事にしても今思えば御馳走だった気がする。
あれは誕生日だったか、クリスマスだったか、あるいは両方だったか、記憶ははっきりしてませんが、当時三歳だった私は、下宿のおばさんに二十センチ以上ある巨大なホールケーキを食べさせてもらっていました。昭和三十年代にそういうものを食べることができた家は、全国でも珍しかったと思います。
もちろん私の実家でも食べたことはないし、そもそも親に誕生日を祝ったことは無い。せいぜい母親と一緒にパン屋のショーウインドに飾ってあったケーキを眺めたことしかない。いや、それ以前に昭和三十年代当時の外海府にケーキ屋なんかなかったし、せいぜい、よろず屋ていどの店が、寒村に一軒あるかないかですから、どうやって大きなホールケーキを手に入れたか疑問だらけです。
宮本常一は、言います。
「海府の人たちは磯でアワビ・ワカメを取り、沖でイカを釣り、また田畑を耕して暮らしを立てていた。冬には雪で閉じ込められてしまうので、夏場の稼ぎだけで1年間の食生活費を稼がなくてはならぬので、村人たちはことのほか、激しく働かねばならず、そのため人出はいくらあっても足りなかった。そこで海府の人たちは相川の貧家から子供をもらい、もらって来ては育てたのである。(宮本常一・離島の旅より)」
さて安寿と厨子王の話です。
http://artkuusatu.blog.fc2.com/img/20140216204942396.jpg/
人買船に売られた安寿と厨子王の母が、佐渡の外海府(鹿野浦)に連れて来られてきたと言う話と、宮本常一の「海府の人たちは相川の貧家から子供をもらい、もらって来ては育てたのである」という話は、微妙にリンクします。海府は、昔から人手を必要とする地域だった。宮本常一が指摘しているように、海府地方では、人出はいくらあっても足りなかった。
「海府は米どころであった。(略)それらの米は相川に供給せられたのである。また山の雑木は切られて町として船で相川に送られた。一方から言えばこれらの村々は相川があったからこそ西北の海に面しつつもたくましく生き継いできたといえるのだが、それだけにまた自然におしひしがれそうな人生がそこに長く続いてきたのであったある(宮本常一・離島の旅より)」
これは外海府ユースホステルのマネージャーも、同じ事を言っていました。外海府ユースホステルの御先祖の墓の中には、大きなものがあり、その大きな墓の時代は、山の雑木を相川に売って大もうけした時代であったということでした。外海府の古くて大きな屋敷の大半は、そういう家系だったということです。
「北小浦の宿で大敷の話を聞いた。昭和33年には水あげが1億円もあったそうである。そこで利益の2割を組合員で分けたのだが、一人当たり25万円もあった。また金が使い切れないので関西旅行した。一晩に1万円も取られる宿に泊まったそうだと、大変景気の良い話である(私の日本地図・宮本常一より)」
http://artkuusatu.blog.fc2.com/img/201312161606001ec.jpg/
北小浦といえば、海府地方の中でも、限界集落もいいところですが、昭和33年頃は違っていたようです。ちなみに昭和33年の大卒初任給は、1万3500円です。その時代に海府のある漁村では、一晩に1万円も取られる宿に泊まって豪遊したわけですから、どれだけ儲かったのか? どうりで相川から人買いのように養子をもらいにくるわけです。限界集落化しつつある今の海府地方を考えると、想像もできません。
残念ながら宮本常一氏は、この記録を残した昭和34年以降、海府地方を訪れてないので、その後、海府地方が、どう寂れていったか分からなくなっていますが、現在、限界集落であっても昔は違っていたということは確かなようです。
再び鹿野浦の話にもどします。
「そのような村にも相川から養子をもらう風習があった。相川にはまずしい町家がたくさんあり、そういう家の子をもらってきた。相川や国中の方では子供が泣くと『海府へ牛のケツたたきにやるぞ』と言えば泣きやんだものであるという(私の日本地図・宮本常一より)」
「たいていの家に2、3人いたという。その子たちを土間の隅に藁を敷き、莚(むしろ)をしいてねかせた。・・・そして25歳になるまで家におき、その春一人前になった祝をしてやってフクギモノという晴着をつくってやる。それからさきは働いて得たものはすべて自分のものになる。そして婿にいくものも多かった。中には相川へかえっていくものも少なくない。妻をもらって分家したものもある(私の日本地図・宮本常一より)」
この話を裏付けるように、昔の海府の戸籍には、「同居人二人」などと書いてあったらしい。安寿の母親は、こういう地域に売られていったのです。そして鹿野浦で鳥追いをしていた。そこに悲劇がおき、鹿野浦に毒水が流れ、そこに住めなくなった住民たちは、そこから隣村の北片辺に移住していったらしい。この北片辺に私は、〇歳から三歳まで住んでいました。そしてこの北片辺で有名な民話が夕鶴で有名な『鶴女房』です。
つづく。
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2018年03月10日
息子を連れて佐渡島へ 8 相川奉行所・川路聖謨・根岸鎮衛の耳袋
息子を連れて佐渡島へ 8 相川奉行所
松浦武四郎の佐渡日誌の話です。佐渡の両津に到着した松浦武四郎は、役人の取り調べを受けています。そして、相川奉行所に上陸の許可を貰うために飛脚を出しています。そして相川奉行所から許可証をもらって初めて上陸し、加茂・三瀬川・吉井・新保・中奥・泉村・佐渡最大の名刹であった真光寺により、河原田・沢根・二つ岩神社をへて相川に到着。
奉行所へは、翌日の早朝に奉行所に出頭しています。三十日の滞在願を出しています。その費用は、格安だったようですが、朝早く奉行所に行ったにもかかわらず、夕方三時まで待たされた上に白州に呼び出されて吟味をうけています。
この時、松浦武四郎の身元引受人は、宿泊している旅籠(旅館)の主(讃岐屋武右衛門)にお願いしていますが、当時の旅籠は、こういうこともしていたようです。おそらく旅籠の主は、宿泊しているうちに松浦武四郎の人物を確かめて、身元引受人となり、一緒に相川奉行所に付き添ったのでしょう。
と言うわけで、今回は、相川奉行所跡地の見学を行ないました。
昔、相川奉行所には相川中学校があって、古ぼけた看板に『相川奉行所跡地』とあっただけでしたが、国指定の史跡となって7億円もかけて相川奉行所が復元されたようです。少なくとも私が佐渡にいた四十年前には無かった施設です。
実は、相川奉行所は、幕府からも重要視されていた所で、長崎奉行所とならんで最も重要な施設でした。なので佐渡奉行には、幕府でも最高級のエリートが送られています。、ロシア使節プチャーチンと交渉した川路聖謨なども佐渡奉行を務めています。『佐渡日記』を著した久須美祐明も佐渡奉行です。アメリカ総領事ハリスと交渉をした中村時万も佐渡奉行を務めています。
しかし、なんといっても一番有名な佐渡奉行は、『耳袋』を書いた根岸鎮衛(やすもり)でしょう。耳袋とは、彼が三十年間に書き続けた随筆集で、歴史の素人が読んでも圧倒的に面白い本です。岩波文庫で注釈つきで読めますが、古文はちょっと・・・と言う人は、平岩弓枝の「はやぶさ新八御用帳」・宮部みゆきの「霊験お初捕物控」・風野真知雄の「耳袋秘帖」を読むとよいと思います。
ちなみに桜吹雪といえば、遠山の金さんですが、あれは嘘で、本当は、耳袋の根岸鎮衛の方だったという説もあります。根岸鎮衛は富裕な町家か豪農出身で、根岸家の御家人株を買収して根岸家の家督を継いでいるからです。
そう言う人が佐渡奉行になり、江戸町奉行になって、『耳袋』を書いたわけですが、本物の武士ならば朱子学でコチコチなのでオカルトは絶対に口にしません。しかし耳袋にはオカルトが満載されているので、根岸鎮衛は豪商の出自ではないか?といわれているんですよね。しかも入れ墨疑惑もある。
その根岸鎮衛が、耳袋を書くきっかけとなったのは、佐渡奉行になって佐渡に着任し、佐渡の異文化にふれて驚愕したためです。まず彼は、佐渡に狐がいないことに驚き、ムジナ(タヌキ)の多さに驚き、ムジナに騙されたとか、ムジナによって繁盛したとか、ムジナの神社がたくさんあるとか、そういうことに驚いたり、佐渡の文化風習の違いに驚いたことが、耳袋を書きはじめたきっかけです。
同じ佐渡奉行でも、川路聖謨は、佐渡の異文化を軽蔑しまくっていますから、根岸鎮衛の思想は相対的で、科学者のようでもあります。また、文章にヒューマニズムがあふれていて、他の佐渡奉行たちと全く違っていますから、彼こそは『本物の遠山の金さん』だったはずです。逆にいうと佐渡を貶しまくっている川路聖謨を佐渡島民は嫌っています。誰も川路聖謨の「島根のすさみ」を読もうとしません。
さて、復元された相川奉行所ですが、よくできています。復元ですから写真はとりほうだい。幼児をつれて入っても何の問題もありません。嬉しいのは、学芸員さんがマンツーマンで解説してくれるところです。
学芸員さんの解説
釘隠し
復元なので、どの部屋にも自由に出入りできる
精錬に使われた鉛の解説
ところで相川奉行所の面白いところは、奉行所内に金山関係の工場があったことです。その施設についても復元されていて解説を聞かせてもらえますし、それらを手で触る事もできます。息子は、いろいろな体験をさせてもらいました。
ちなみに松浦武四郎の佐渡日誌よると、相川町は人家五千軒で神社仏閣が多く、みな土地相応以上に豪華であると書かれています。江戸時代において相川は、江戸・大坂・京都・名古屋・金沢についでの大都市であったことがわかります。松浦武四郎は、金鉱石から金を取り出すセリ場や金の精錬を見学しています。相川の町並みの美しさにもふれていますが、川路聖謨は逆に「見苦し」と言っていますから、それぞれの立場から正反対のことを述べています。
とにかく川路聖謨は、何かと佐渡をこき下ろしていますが、これは川路聖謨が佐渡奉行に赴任するきっかけとなった天保の佐渡一揆と無関係ではないでしょう。
天保の佐渡一揆によって、川路聖謨の同僚である鳥居正房は失脚するわけですが、かっての同僚が、一揆のために病気になっているさまをみて、川路聖謨の涙が止まらなかったと言います。もちろん鳥居正房も涙しています。だから川路聖謨は、佐渡を憎んだとしても仕方なかったのかもしれません。そもそも天保の佐渡一揆の原因は、鳥居正房と関係なかった。
鳥居正房は、一揆の首謀者である善兵衛を召喚して事情をただそうとしたけれど、善兵衛が応じないので逮捕して相川まで連れてきて取り調べたが黙秘しているのでやむなく投獄しています。しかも一揆側を恐れて善兵衛を釈放しています。
にもかかわらず一揆側は、各地で暴動をおこしていますから、奉行の鳥居正房は泣きっ面に蜂で、その同僚だった川路聖謨にしてみたら、佐渡島民は憎き天敵のようなものだったかもしれません。鳥居正房は、年貢米を蔵からだして飢える島民に支給するなど善政を行なっていたので、川路聖謨にしてみれば、なおさら島民が憎かったでしょう。
そもそも江戸時代を通して佐渡のような天領(幕府直轄地)では年貢が低く、そのうえ代官や奉行たちも善政を行なうことが多かったのですが、それが領民にわかっていたかどうか? そのために江戸幕府は慢性の赤字に悩むくらいですから。
ただし、善兵衛が奉行所で黙秘した理由もわかります。
今回、相川奉行所を見学してわかったことなのですが、
相川奉行所では、お白州が2つあって、
1つは奉行が直々に取り調べる場所で、
もうひとつは小役人が取り調べる場所になっています。
このへんは、高山陣屋などの代官所と違っていて、お白州が二つなんです。
奉行が使ったお白州
奉行が使ったお白州
(ほとんど使われることは無かったらしい)
小役人が使ったお白州
(ほとんど、こちらが使われていた)
そうなると善兵衛を取り調べたのは、小役人のお白州であったに違いなく、そうなると小役人の不正を訴える善兵衛としては黙秘せざるをえません。だからもし、鳥居正房が直々に取り調べをしていたら、結果は違ったものとなっていたと思いますが、残念ながら佐渡相川奉行所は、規模が大きく(100メートル四方)仕事量も多かったために、そうはいかなかったと思います。ここに悲劇があったのかもしれません。
逆にいうと佐渡島民は、あまり島外のことに興味がありませんから、お白州が二つあることに疑問をもってないかもしれません。で、善兵衛を英雄視するあまり、鳥居正房や川路聖謨について冷淡で、奉行所のことや内情に詳しく調べることをしてなかったかもしれません。このあたりは、後世の冷静な研究者に期待したいところです。
参考1
高山陣屋
http://kmimu.html.xdomain.jp/castle/tokai/takajin_madori.html
参考2
相川奉行所
http://kaze3.seesaa.net/upload/detail/image/ttygv-thumbnail2.jpg.html
つづく。
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二つ岩神社
松浦武四郎の佐渡日誌の話です。佐渡の両津に到着した松浦武四郎は、役人の取り調べを受けています。そして、相川奉行所に上陸の許可を貰うために飛脚を出しています。そして相川奉行所から許可証をもらって初めて上陸し、加茂・三瀬川・吉井・新保・中奥・泉村・佐渡最大の名刹であった真光寺により、河原田・沢根・二つ岩神社をへて相川に到着。
奉行所へは、翌日の早朝に奉行所に出頭しています。三十日の滞在願を出しています。その費用は、格安だったようですが、朝早く奉行所に行ったにもかかわらず、夕方三時まで待たされた上に白州に呼び出されて吟味をうけています。
この時、松浦武四郎の身元引受人は、宿泊している旅籠(旅館)の主(讃岐屋武右衛門)にお願いしていますが、当時の旅籠は、こういうこともしていたようです。おそらく旅籠の主は、宿泊しているうちに松浦武四郎の人物を確かめて、身元引受人となり、一緒に相川奉行所に付き添ったのでしょう。
と言うわけで、今回は、相川奉行所跡地の見学を行ないました。
昔、相川奉行所には相川中学校があって、古ぼけた看板に『相川奉行所跡地』とあっただけでしたが、国指定の史跡となって7億円もかけて相川奉行所が復元されたようです。少なくとも私が佐渡にいた四十年前には無かった施設です。
実は、相川奉行所は、幕府からも重要視されていた所で、長崎奉行所とならんで最も重要な施設でした。なので佐渡奉行には、幕府でも最高級のエリートが送られています。、ロシア使節プチャーチンと交渉した川路聖謨なども佐渡奉行を務めています。『佐渡日記』を著した久須美祐明も佐渡奉行です。アメリカ総領事ハリスと交渉をした中村時万も佐渡奉行を務めています。
しかし、なんといっても一番有名な佐渡奉行は、『耳袋』を書いた根岸鎮衛(やすもり)でしょう。耳袋とは、彼が三十年間に書き続けた随筆集で、歴史の素人が読んでも圧倒的に面白い本です。岩波文庫で注釈つきで読めますが、古文はちょっと・・・と言う人は、平岩弓枝の「はやぶさ新八御用帳」・宮部みゆきの「霊験お初捕物控」・風野真知雄の「耳袋秘帖」を読むとよいと思います。
ちなみに桜吹雪といえば、遠山の金さんですが、あれは嘘で、本当は、耳袋の根岸鎮衛の方だったという説もあります。根岸鎮衛は富裕な町家か豪農出身で、根岸家の御家人株を買収して根岸家の家督を継いでいるからです。
そう言う人が佐渡奉行になり、江戸町奉行になって、『耳袋』を書いたわけですが、本物の武士ならば朱子学でコチコチなのでオカルトは絶対に口にしません。しかし耳袋にはオカルトが満載されているので、根岸鎮衛は豪商の出自ではないか?といわれているんですよね。しかも入れ墨疑惑もある。
その根岸鎮衛が、耳袋を書くきっかけとなったのは、佐渡奉行になって佐渡に着任し、佐渡の異文化にふれて驚愕したためです。まず彼は、佐渡に狐がいないことに驚き、ムジナ(タヌキ)の多さに驚き、ムジナに騙されたとか、ムジナによって繁盛したとか、ムジナの神社がたくさんあるとか、そういうことに驚いたり、佐渡の文化風習の違いに驚いたことが、耳袋を書きはじめたきっかけです。
同じ佐渡奉行でも、川路聖謨は、佐渡の異文化を軽蔑しまくっていますから、根岸鎮衛の思想は相対的で、科学者のようでもあります。また、文章にヒューマニズムがあふれていて、他の佐渡奉行たちと全く違っていますから、彼こそは『本物の遠山の金さん』だったはずです。逆にいうと佐渡を貶しまくっている川路聖謨を佐渡島民は嫌っています。誰も川路聖謨の「島根のすさみ」を読もうとしません。
さて、復元された相川奉行所ですが、よくできています。復元ですから写真はとりほうだい。幼児をつれて入っても何の問題もありません。嬉しいのは、学芸員さんがマンツーマンで解説してくれるところです。
学芸員さんの解説
釘隠し
復元なので、どの部屋にも自由に出入りできる
精錬に使われた鉛の解説
ところで相川奉行所の面白いところは、奉行所内に金山関係の工場があったことです。その施設についても復元されていて解説を聞かせてもらえますし、それらを手で触る事もできます。息子は、いろいろな体験をさせてもらいました。
ちなみに松浦武四郎の佐渡日誌よると、相川町は人家五千軒で神社仏閣が多く、みな土地相応以上に豪華であると書かれています。江戸時代において相川は、江戸・大坂・京都・名古屋・金沢についでの大都市であったことがわかります。松浦武四郎は、金鉱石から金を取り出すセリ場や金の精錬を見学しています。相川の町並みの美しさにもふれていますが、川路聖謨は逆に「見苦し」と言っていますから、それぞれの立場から正反対のことを述べています。
とにかく川路聖謨は、何かと佐渡をこき下ろしていますが、これは川路聖謨が佐渡奉行に赴任するきっかけとなった天保の佐渡一揆と無関係ではないでしょう。
天保の佐渡一揆によって、川路聖謨の同僚である鳥居正房は失脚するわけですが、かっての同僚が、一揆のために病気になっているさまをみて、川路聖謨の涙が止まらなかったと言います。もちろん鳥居正房も涙しています。だから川路聖謨は、佐渡を憎んだとしても仕方なかったのかもしれません。そもそも天保の佐渡一揆の原因は、鳥居正房と関係なかった。
鳥居正房は、一揆の首謀者である善兵衛を召喚して事情をただそうとしたけれど、善兵衛が応じないので逮捕して相川まで連れてきて取り調べたが黙秘しているのでやむなく投獄しています。しかも一揆側を恐れて善兵衛を釈放しています。
にもかかわらず一揆側は、各地で暴動をおこしていますから、奉行の鳥居正房は泣きっ面に蜂で、その同僚だった川路聖謨にしてみたら、佐渡島民は憎き天敵のようなものだったかもしれません。鳥居正房は、年貢米を蔵からだして飢える島民に支給するなど善政を行なっていたので、川路聖謨にしてみれば、なおさら島民が憎かったでしょう。
そもそも江戸時代を通して佐渡のような天領(幕府直轄地)では年貢が低く、そのうえ代官や奉行たちも善政を行なうことが多かったのですが、それが領民にわかっていたかどうか? そのために江戸幕府は慢性の赤字に悩むくらいですから。
ただし、善兵衛が奉行所で黙秘した理由もわかります。
今回、相川奉行所を見学してわかったことなのですが、
相川奉行所では、お白州が2つあって、
1つは奉行が直々に取り調べる場所で、
もうひとつは小役人が取り調べる場所になっています。
このへんは、高山陣屋などの代官所と違っていて、お白州が二つなんです。
奉行が使ったお白州
奉行が使ったお白州
(ほとんど使われることは無かったらしい)
小役人が使ったお白州
(ほとんど、こちらが使われていた)
そうなると善兵衛を取り調べたのは、小役人のお白州であったに違いなく、そうなると小役人の不正を訴える善兵衛としては黙秘せざるをえません。だからもし、鳥居正房が直々に取り調べをしていたら、結果は違ったものとなっていたと思いますが、残念ながら佐渡相川奉行所は、規模が大きく(100メートル四方)仕事量も多かったために、そうはいかなかったと思います。ここに悲劇があったのかもしれません。
逆にいうと佐渡島民は、あまり島外のことに興味がありませんから、お白州が二つあることに疑問をもってないかもしれません。で、善兵衛を英雄視するあまり、鳥居正房や川路聖謨について冷淡で、奉行所のことや内情に詳しく調べることをしてなかったかもしれません。このあたりは、後世の冷静な研究者に期待したいところです。
参考1
高山陣屋
http://kmimu.html.xdomain.jp/castle/tokai/takajin_madori.html
参考2
相川奉行所
http://kaze3.seesaa.net/upload/detail/image/ttygv-thumbnail2.jpg.html
つづく。
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二つ岩神社
2018年03月09日
息子を連れて佐渡島へ 7 二つ岩神社と松浦武四郎の佐渡日誌
息子を連れて佐渡島へ 7
妙見山を下山して、次に向かったのが佐渡の旧道(笠取峠)です。昔は、佐渡島の妙見山から金山のある相川に続くメインの道路として、笠取経由の道路と金山経由の2つ道路がありました。今回、佐渡に帰省するに当たってグーグルマップで調べてみたら、金山経由の道路は、はっきりしているのに笠取峠の道路が出てきません。
「へんだな?」
と思いつつ車で現地にいってみたら、笠取峠の道路は途中から廃道寸前になっていました。軽自動車に雑木の枝で傷つけながら前進していると、二つ岩神社に到着。四十年ぶりに訪れた二つ岩神社は、崩壊寸前でした。
私が高校生の頃、この神社は、伏見稲荷のようなところで、鳥居がズラーリと並んでいたものでしたが、その鳥居たちの大半が腐ってくずれており、参道に横に朽ちた鳥居の残骸が捨てられていて、かろうじて立っている鳥居さえも、指先で押したら倒れかねない状態です。社殿も崩壊寸前。見る影も無いようになっています。写真をみても分かるとおり、目も当てられない状態でした。
佐渡の皆さん、これでいいんですかね?
これ、放置していいんですか?
二つ岩神社といえば、佐渡の伏見稲荷ですよね。佐渡ムジナ(タヌキ)の大親分じゃないですか。ジブリの『平成狸合戦ぽんぽこ』でも紹介された日本最強のタヌキを祭る神社じゃないですか。
ここで解説します。
二つ岩神社とは何か?
看板には
『古い昔山中に団三郎という老狸が住んでいたといいます。昔の有名な作家 滝沢馬琴の『燕石雑志』にも病気をして町の医者を呼びに行ったり困った人にお金を貸せた(今から400年前)話も出ている。佐渡狸の頭領と言われて島内に百以上の部下(諸神)を持っていたという。関の寒戸(さぶと)や赤泊の禅達などと昔は山伏の祈祷所だったらしく安産家内安全消除諸災のご利益があると、参詣者が多い。毎月12日が縁日である。春、4月12日大祭を行う。』
とあります。参詣者が多いと看板にはありますが、この荒れようは、とてもじゃないけれど参詣者がいるとは思えません。私が高校生の30年前には、もっと荘厳でしたけれど。
ちなみに、二つ岩神社は、江戸時代には相川奉行所に向かう交通の要路で、途中、何軒もの茶店があって、いきかう旅人の咽を潤したと言います。幕末に佐渡を訪れた探検家松浦武四郎も、この二つ岩神社でお参りしており、佐渡日誌に記録があります。
松浦武四郎というのは、幕末の志士であり、海防家であり、日本を代表する探検家であり、北海道の名付け親です。彼は、ペリーが来航する以前の1847年9月3日に佐渡に渡っています。この時、新潟港には船が50ー60艘も入ってくれば一斉に出港したそうです。松浦武四郎は、佐渡にスルメを買い付けに行く船に乗って佐渡にわたっていますが、その時の費用は、現代のお金にして2,500円位でした。平成時代のカーフェリーの代金とほぼ同じです。
佐渡に到着した松浦武四郎は、宿屋で山盛りのご飯、焼き魚、イカの汁、焼き鮭、鮑の酢の物などのごちそうを食べています。そしてその宿代は、たったの158文(860円)という値段に驚愕しています。当時の佐渡島の物価は相当安かったようです。ちなみに、松浦武四郎が佐渡に上陸すると役人がやってきて取り調べを受けています。そして、相川奉行所に上陸の許可を貰うために飛脚を出しています。料金は往復700文(3500円)。許可が下りるまでは常に寝泊まりしていました。
松浦武四郎によると、ベリーが来航する5年前にもかかわらず、両津港に砲台があり大砲があったといいます。実は、江戸幕府は海外の情勢に非常に詳しく、ペリーが来航する何年も前から日本各地の海岸に砲台を築きた大砲を設置していました。松浦武四郎の佐渡日誌によれば、佐渡島の例に漏れず、あちこちに大砲があったようです。
相川奉行所から飛脚が許可証をもらって両津港に到着すると、松浦武四郎は、加茂・歌代・三瀬川・吉井・新保・中奥と進んで、本間西蓮寺(私の小学校の担任の先生が下宿していたところでした)に寄っています。そして泉村(私が生まれたところです)に到着。旧知である根岸与右衛門のところで昼食を食べています。松浦武四郎は、佐渡島に多くの知り合いがいたようで、あちこちに寄り道をしています。つまり、佐渡島にも幕末の志士たちが大勢だということになります。
その後は、佐渡最大の名刹であった真光寺によっていますが、この寺は、明治元年(1868)の神仏分離令により廃寺となっています。明治政府も馬鹿なことをしたものです。松浦武四郎は、この真光寺で、佐渡で最も有名な乙羽池伝説について聞き取っています。
乙羽池伝説については、こちらを参照
http://kaze3.seesaa.net/article/428880928.html
そして河原田・沢根・二つ岩神社をへて相川に到着。
二つ岩神社について『佐渡には獣がいなかったが、富山からタヌキをもってきて、それを増やして、その毛皮を金の精錬の鞴につかった』と書いています。ようするにタヌキを繁殖させて儲けた人がいて、その男が団三郎だったわけですが、それがいつの間にか、タヌキの皇帝の名前に変っていたわけです。
佐渡では、二つ岩の団三郎がタヌキの大将。その配下に四天王(関の寒戸・禅達・才喜坊・重屋の源助)がいて、その配下に何百何千というタヌキがいたといわれています。その総元締めが二つ岩の団三郎。ちなみに昔の島民は、タヌキのことをムジナあるいはトンチボーと言っていました。で、ムジナといえば、タヌキをイメージし、トンチボーというと、もっと怖いドロドロしたイメージです。
松浦武四郎の佐渡日誌の話です。松浦武四郎は。二つ岩神社を通って相川の旅籠に宿泊。その日では無く、翌日の早朝に奉行所に出頭しています。三十日の滞在願を出しています。その費用は、格安だったようですが、朝早く奉行所に行ったにもかかわらず、夕方三時まで待たされた上に白州に呼び出されて吟味をうけています。
この時、松浦武四郎の身元引受人は、宿泊している旅籠の主(讃岐屋武右衛門)にお願いしていますが、当時の旅籠は、こういうこともしていたようです。おそらく旅籠の主は、宿泊しているうちに松浦武四郎のようすを伺っていたのでしょう。
つづく。
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妙見山を下山して、次に向かったのが佐渡の旧道(笠取峠)です。昔は、佐渡島の妙見山から金山のある相川に続くメインの道路として、笠取経由の道路と金山経由の2つ道路がありました。今回、佐渡に帰省するに当たってグーグルマップで調べてみたら、金山経由の道路は、はっきりしているのに笠取峠の道路が出てきません。
「へんだな?」
と思いつつ車で現地にいってみたら、笠取峠の道路は途中から廃道寸前になっていました。軽自動車に雑木の枝で傷つけながら前進していると、二つ岩神社に到着。四十年ぶりに訪れた二つ岩神社は、崩壊寸前でした。
私が高校生の頃、この神社は、伏見稲荷のようなところで、鳥居がズラーリと並んでいたものでしたが、その鳥居たちの大半が腐ってくずれており、参道に横に朽ちた鳥居の残骸が捨てられていて、かろうじて立っている鳥居さえも、指先で押したら倒れかねない状態です。社殿も崩壊寸前。見る影も無いようになっています。写真をみても分かるとおり、目も当てられない状態でした。
佐渡の皆さん、これでいいんですかね?
これ、放置していいんですか?
二つ岩神社といえば、佐渡の伏見稲荷ですよね。佐渡ムジナ(タヌキ)の大親分じゃないですか。ジブリの『平成狸合戦ぽんぽこ』でも紹介された日本最強のタヌキを祭る神社じゃないですか。
ここで解説します。
二つ岩神社とは何か?
看板には
『古い昔山中に団三郎という老狸が住んでいたといいます。昔の有名な作家 滝沢馬琴の『燕石雑志』にも病気をして町の医者を呼びに行ったり困った人にお金を貸せた(今から400年前)話も出ている。佐渡狸の頭領と言われて島内に百以上の部下(諸神)を持っていたという。関の寒戸(さぶと)や赤泊の禅達などと昔は山伏の祈祷所だったらしく安産家内安全消除諸災のご利益があると、参詣者が多い。毎月12日が縁日である。春、4月12日大祭を行う。』
とあります。参詣者が多いと看板にはありますが、この荒れようは、とてもじゃないけれど参詣者がいるとは思えません。私が高校生の30年前には、もっと荘厳でしたけれど。
ちなみに、二つ岩神社は、江戸時代には相川奉行所に向かう交通の要路で、途中、何軒もの茶店があって、いきかう旅人の咽を潤したと言います。幕末に佐渡を訪れた探検家松浦武四郎も、この二つ岩神社でお参りしており、佐渡日誌に記録があります。
松浦武四郎というのは、幕末の志士であり、海防家であり、日本を代表する探検家であり、北海道の名付け親です。彼は、ペリーが来航する以前の1847年9月3日に佐渡に渡っています。この時、新潟港には船が50ー60艘も入ってくれば一斉に出港したそうです。松浦武四郎は、佐渡にスルメを買い付けに行く船に乗って佐渡にわたっていますが、その時の費用は、現代のお金にして2,500円位でした。平成時代のカーフェリーの代金とほぼ同じです。
佐渡に到着した松浦武四郎は、宿屋で山盛りのご飯、焼き魚、イカの汁、焼き鮭、鮑の酢の物などのごちそうを食べています。そしてその宿代は、たったの158文(860円)という値段に驚愕しています。当時の佐渡島の物価は相当安かったようです。ちなみに、松浦武四郎が佐渡に上陸すると役人がやってきて取り調べを受けています。そして、相川奉行所に上陸の許可を貰うために飛脚を出しています。料金は往復700文(3500円)。許可が下りるまでは常に寝泊まりしていました。
松浦武四郎によると、ベリーが来航する5年前にもかかわらず、両津港に砲台があり大砲があったといいます。実は、江戸幕府は海外の情勢に非常に詳しく、ペリーが来航する何年も前から日本各地の海岸に砲台を築きた大砲を設置していました。松浦武四郎の佐渡日誌によれば、佐渡島の例に漏れず、あちこちに大砲があったようです。
相川奉行所から飛脚が許可証をもらって両津港に到着すると、松浦武四郎は、加茂・歌代・三瀬川・吉井・新保・中奥と進んで、本間西蓮寺(私の小学校の担任の先生が下宿していたところでした)に寄っています。そして泉村(私が生まれたところです)に到着。旧知である根岸与右衛門のところで昼食を食べています。松浦武四郎は、佐渡島に多くの知り合いがいたようで、あちこちに寄り道をしています。つまり、佐渡島にも幕末の志士たちが大勢だということになります。
その後は、佐渡最大の名刹であった真光寺によっていますが、この寺は、明治元年(1868)の神仏分離令により廃寺となっています。明治政府も馬鹿なことをしたものです。松浦武四郎は、この真光寺で、佐渡で最も有名な乙羽池伝説について聞き取っています。
乙羽池伝説については、こちらを参照
http://kaze3.seesaa.net/article/428880928.html
そして河原田・沢根・二つ岩神社をへて相川に到着。
二つ岩神社について『佐渡には獣がいなかったが、富山からタヌキをもってきて、それを増やして、その毛皮を金の精錬の鞴につかった』と書いています。ようするにタヌキを繁殖させて儲けた人がいて、その男が団三郎だったわけですが、それがいつの間にか、タヌキの皇帝の名前に変っていたわけです。
佐渡では、二つ岩の団三郎がタヌキの大将。その配下に四天王(関の寒戸・禅達・才喜坊・重屋の源助)がいて、その配下に何百何千というタヌキがいたといわれています。その総元締めが二つ岩の団三郎。ちなみに昔の島民は、タヌキのことをムジナあるいはトンチボーと言っていました。で、ムジナといえば、タヌキをイメージし、トンチボーというと、もっと怖いドロドロしたイメージです。
松浦武四郎の佐渡日誌の話です。松浦武四郎は。二つ岩神社を通って相川の旅籠に宿泊。その日では無く、翌日の早朝に奉行所に出頭しています。三十日の滞在願を出しています。その費用は、格安だったようですが、朝早く奉行所に行ったにもかかわらず、夕方三時まで待たされた上に白州に呼び出されて吟味をうけています。
この時、松浦武四郎の身元引受人は、宿泊している旅籠の主(讃岐屋武右衛門)にお願いしていますが、当時の旅籠は、こういうこともしていたようです。おそらく旅籠の主は、宿泊しているうちに松浦武四郎のようすを伺っていたのでしょう。
つづく。
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2018年03月01日
息子を連れて佐渡島へ 6 佐渡と登山・日本のシルマン中村謙
息子を連れて佐渡島へ 6佐渡と登山・日本のシルマン中村謙
翌日、息子と嫁さんと三人で妙見山に登りに来ました。まず白雲台まで車で行きます。この白雲台には、その昔、白雲荘という国民宿舎があったのですが、今は壊されてしまってもうありません。私は子供の頃、親に連れられて白雲荘の展望デッキから、佐渡全体を眺めました。望遠鏡で自宅を見たりしました。
ただ子供の頃は、白雲荘という国民宿舎にいったい誰が泊まるんだろう?と不思議に思っていたものですが、今ならわかります。眺めはいいし、高山植物は豊富にあるし、大佐渡山脈縦走の出発点として絶好の場所だったからです。現に、昔は白雲荘という国民宿舎があって、多くの登山家が縦走のためのベース基地として重宝していました。
http://sadokoi.com/blog/?p=1568 より借用
昭和三十年代から四十年代の登山ガイドブックにも、人気コースとして詳細に説明文が載っています。と、こう書くと佐渡島の住人は驚かれるかもしれません。しかし知らぬは佐渡島民ばかりで、戦前から昭和三十年代にかけては、大佐渡山脈の縦走路は、多くの登山家たちで賑わっていたんです。
これは元島民の私も全然知らなかったし、佐渡の地元民も知らないと思います。しかし、昭和三十年代の登山家たちにとっては、有名なコースで、白雲荘という国民宿舎からドンテン山の大佐渡ロッジまでのコースを多くの人たちが歩いていました。昭和四十年頃の白雲荘行きの終バスは、金沢発十六時五十五分で、朝、東京から電車で出発しても白雲荘宿泊に間に合うようになっていました。
この白雲荘からドンテン山の大佐渡ロッジまでは、七時間三十分のコースで紹介されていますが、私も三回ほど縦走していますが、そんなものです。ちなみに昭和四十一年における白雲荘の宿泊料金は、二食付き千円です。消費者物価指数でみると、昭和四十年の一万円は平成二十八年の約四万円に相当する計算になりますから、現在の物価でいうと二食付き四千円。ずいぶん安かったようです。
https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/history/j12.htm/
当時の登山家に愛された理由もわかります。
では、このルートを誰が全国に紹介したかというと、
中村謙(加茂鹿之助)という偉大な登山家でした。
中村謙は、私が最も尊敬する登山家であり
忘れ去られつつある登山家です。
百名山ブームのおかげで、百名山の深田久弥・花の百名山の田中澄江を知らぬ登山家はモグリと言われる時代になってしまいましたが、いったいどれだけの人が、中村謙(加茂鹿之助)を知っているでしょうか? 彼こそは、全国津々浦々まで登山道を調査発表した開拓者なのです。
彼を一言で言うと、日本のリヒャルト・シルマンです。昭和の松浦武四郎と言ってもいい。登山ルートをひたすら調べまくって『山と渓谷』『岳人』『新ハイキング』『ハイカー』『山と高原』『榾木』『日本山岳会会報』などの登山冊子に、昭和十年頃から発表しまくったひとで、いわゆる日本の大衆登山を牽引し続けた人です。しかし忘れ去られて誰にも知られてない。ネットで検索しても全く出てこない。せいぜいペンネームの加茂鹿之助の名前がでてくるだけです。昔なら中村謙の名を知らないのは「もぐり」というほど有名だった人なのに、今ではネットにもでてこない。もちろん私も知らなかった。
私が、この人を知ったのは偶然です。
知床探検の準備作業で、松浦武四郎に興味をもった私は、三重県の松浦武四郎記念館の学芸員だった武馬さんという人に知り合い、その人の紹介で、見知らぬ人から大昔の登山本をいただいたことから大昔(戦前から昭和四十年頃)の登山本を三百冊ほど読む機会があり、そこで中村謙という人を知りました。
彼は、明治三十年に新潟県高田市に生まれ、東京外国語大学英文科を卒業し、伊藤忠に勤めた後、群馬県桐生中学校に勤めた後、東京府立第一商業学校で教員を続けつつ、同校山岳部の顧問をやりつつ、日本中の山という山を登りまくって、調査した登山道を昭和五年頃から発表しまくっています。
そのうえ都立興亜商業学校・日本橋女子商業学校の校長にも就任しており、戦後は極東空軍資材司令部で働き、その後は警察予備隊米国顧問団特殊翻訳官として働いています。その後には京北学園高等学校教員として活躍しながら、多くの著作本を出しています。
また、東京中等学校山岳連盟会長・全日本徒歩連盟理事・日本山岳会会報編集委員・東京都キャンプ協会顧問といった登山関係に関する無数の役職にもついており、各地の観光協会の理事や顧問にもついており、山に関することに一生を捧げた人でもあります。
彼は昭和九年に出した『東京付近の山』をはじめとして、毎年何冊も登山ガイドを出し続けます。途中、病気で右手が使えなくなるという事態になりますが、左手で渾身の力を振り絞って書いています。最終作ともいえる昭和四十四年の『ふるさとの山』四百二十二ページを出したときは、七十二歳でした。これ以降の著作がないのは、足を痛めて外出ができなくなったためです。また、ヤマケイの『登山地図帳』・昭文社の『エリアマップ』『山と高原地図シリーズ』などの登山マップなどの制作にもかかわっています。こちらも昭和四十四年まで作り続けています。
さて、中村謙渾身の大作である『山小屋の旅(昭和四十一年)・ベスト200コース』には、佐渡島が5コースも大きく取り上げられています。
@金北山から金剛山
A虫崎から外海府
B沢崎めぐり
C岩首から水津
D妙宣寺から真野宮
このうち登山道は@だけで、ABCDは、海岸歩きです。今でこそ道路がありますが、昭和四十一年頃は、道路が無く、岩から岩を飛び乗るように海岸を歩くしかなかったと言います。そういう場所の地元民の交通手段は、船でした。もちろん海が荒れれば、船は使えませんから山道を使います。なので昔の佐渡は、山道(登山道)がよく整備されてて、それが佐渡の里山の特徴であったわけです。
さらにいうと、A虫崎から外海府も人気のコースでした。で、このコース沿いに昭和40年10月に一軒のユースホステルがオープンしました。外海府ユースホステルです。もちろん若者たちが押し寄せました。その中の旅人に新潟市からやってきた一人の美しい女性がいました。それが今の外海府ユースホステルのマネージャーです。これについては、また後日書きます。
私たちは、妙見山に登りました。この山には、息子が2歳の頃にも登っているのですが、二歳児の頃はヨチヨチ歩きでした。しかとし4歳ともなると、親より速く歩きます。というか息子の奴は、先頭で無いと機嫌が悪くなる。親より速く歩こうとする。そして徒競走になるのですが、こっちは息子の写真を正面から撮りたいから負けられないのですが、そうすると機嫌が悪くなるので困ったものです。
それにしても妙見山は、何度来ても素晴らしいところです。これで自衛隊の基地が無かったらもっといいんですけれど、北朝鮮からミサイルが飛んでくるわけですかすら仕方ないですね。佐渡に来たら絶対に訪れたい絶景ポイントです。つつじが多いので、花の季節は美しいこと間違いないでしょう。
つづく。
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翌日、息子と嫁さんと三人で妙見山に登りに来ました。まず白雲台まで車で行きます。この白雲台には、その昔、白雲荘という国民宿舎があったのですが、今は壊されてしまってもうありません。私は子供の頃、親に連れられて白雲荘の展望デッキから、佐渡全体を眺めました。望遠鏡で自宅を見たりしました。
ただ子供の頃は、白雲荘という国民宿舎にいったい誰が泊まるんだろう?と不思議に思っていたものですが、今ならわかります。眺めはいいし、高山植物は豊富にあるし、大佐渡山脈縦走の出発点として絶好の場所だったからです。現に、昔は白雲荘という国民宿舎があって、多くの登山家が縦走のためのベース基地として重宝していました。
http://sadokoi.com/blog/?p=1568 より借用
昭和三十年代から四十年代の登山ガイドブックにも、人気コースとして詳細に説明文が載っています。と、こう書くと佐渡島の住人は驚かれるかもしれません。しかし知らぬは佐渡島民ばかりで、戦前から昭和三十年代にかけては、大佐渡山脈の縦走路は、多くの登山家たちで賑わっていたんです。
これは元島民の私も全然知らなかったし、佐渡の地元民も知らないと思います。しかし、昭和三十年代の登山家たちにとっては、有名なコースで、白雲荘という国民宿舎からドンテン山の大佐渡ロッジまでのコースを多くの人たちが歩いていました。昭和四十年頃の白雲荘行きの終バスは、金沢発十六時五十五分で、朝、東京から電車で出発しても白雲荘宿泊に間に合うようになっていました。
この白雲荘からドンテン山の大佐渡ロッジまでは、七時間三十分のコースで紹介されていますが、私も三回ほど縦走していますが、そんなものです。ちなみに昭和四十一年における白雲荘の宿泊料金は、二食付き千円です。消費者物価指数でみると、昭和四十年の一万円は平成二十八年の約四万円に相当する計算になりますから、現在の物価でいうと二食付き四千円。ずいぶん安かったようです。
https://www.boj.or.jp/announcements/education/oshiete/history/j12.htm/
当時の登山家に愛された理由もわかります。
では、このルートを誰が全国に紹介したかというと、
中村謙(加茂鹿之助)という偉大な登山家でした。
中村謙は、私が最も尊敬する登山家であり
忘れ去られつつある登山家です。
百名山ブームのおかげで、百名山の深田久弥・花の百名山の田中澄江を知らぬ登山家はモグリと言われる時代になってしまいましたが、いったいどれだけの人が、中村謙(加茂鹿之助)を知っているでしょうか? 彼こそは、全国津々浦々まで登山道を調査発表した開拓者なのです。
彼を一言で言うと、日本のリヒャルト・シルマンです。昭和の松浦武四郎と言ってもいい。登山ルートをひたすら調べまくって『山と渓谷』『岳人』『新ハイキング』『ハイカー』『山と高原』『榾木』『日本山岳会会報』などの登山冊子に、昭和十年頃から発表しまくったひとで、いわゆる日本の大衆登山を牽引し続けた人です。しかし忘れ去られて誰にも知られてない。ネットで検索しても全く出てこない。せいぜいペンネームの加茂鹿之助の名前がでてくるだけです。昔なら中村謙の名を知らないのは「もぐり」というほど有名だった人なのに、今ではネットにもでてこない。もちろん私も知らなかった。
私が、この人を知ったのは偶然です。
知床探検の準備作業で、松浦武四郎に興味をもった私は、三重県の松浦武四郎記念館の学芸員だった武馬さんという人に知り合い、その人の紹介で、見知らぬ人から大昔の登山本をいただいたことから大昔(戦前から昭和四十年頃)の登山本を三百冊ほど読む機会があり、そこで中村謙という人を知りました。
彼は、明治三十年に新潟県高田市に生まれ、東京外国語大学英文科を卒業し、伊藤忠に勤めた後、群馬県桐生中学校に勤めた後、東京府立第一商業学校で教員を続けつつ、同校山岳部の顧問をやりつつ、日本中の山という山を登りまくって、調査した登山道を昭和五年頃から発表しまくっています。
そのうえ都立興亜商業学校・日本橋女子商業学校の校長にも就任しており、戦後は極東空軍資材司令部で働き、その後は警察予備隊米国顧問団特殊翻訳官として働いています。その後には京北学園高等学校教員として活躍しながら、多くの著作本を出しています。
また、東京中等学校山岳連盟会長・全日本徒歩連盟理事・日本山岳会会報編集委員・東京都キャンプ協会顧問といった登山関係に関する無数の役職にもついており、各地の観光協会の理事や顧問にもついており、山に関することに一生を捧げた人でもあります。
彼は昭和九年に出した『東京付近の山』をはじめとして、毎年何冊も登山ガイドを出し続けます。途中、病気で右手が使えなくなるという事態になりますが、左手で渾身の力を振り絞って書いています。最終作ともいえる昭和四十四年の『ふるさとの山』四百二十二ページを出したときは、七十二歳でした。これ以降の著作がないのは、足を痛めて外出ができなくなったためです。また、ヤマケイの『登山地図帳』・昭文社の『エリアマップ』『山と高原地図シリーズ』などの登山マップなどの制作にもかかわっています。こちらも昭和四十四年まで作り続けています。
さて、中村謙渾身の大作である『山小屋の旅(昭和四十一年)・ベスト200コース』には、佐渡島が5コースも大きく取り上げられています。
@金北山から金剛山
A虫崎から外海府
B沢崎めぐり
C岩首から水津
D妙宣寺から真野宮
このうち登山道は@だけで、ABCDは、海岸歩きです。今でこそ道路がありますが、昭和四十一年頃は、道路が無く、岩から岩を飛び乗るように海岸を歩くしかなかったと言います。そういう場所の地元民の交通手段は、船でした。もちろん海が荒れれば、船は使えませんから山道を使います。なので昔の佐渡は、山道(登山道)がよく整備されてて、それが佐渡の里山の特徴であったわけです。
さらにいうと、A虫崎から外海府も人気のコースでした。で、このコース沿いに昭和40年10月に一軒のユースホステルがオープンしました。外海府ユースホステルです。もちろん若者たちが押し寄せました。その中の旅人に新潟市からやってきた一人の美しい女性がいました。それが今の外海府ユースホステルのマネージャーです。これについては、また後日書きます。
私たちは、妙見山に登りました。この山には、息子が2歳の頃にも登っているのですが、二歳児の頃はヨチヨチ歩きでした。しかとし4歳ともなると、親より速く歩きます。というか息子の奴は、先頭で無いと機嫌が悪くなる。親より速く歩こうとする。そして徒競走になるのですが、こっちは息子の写真を正面から撮りたいから負けられないのですが、そうすると機嫌が悪くなるので困ったものです。
それにしても妙見山は、何度来ても素晴らしいところです。これで自衛隊の基地が無かったらもっといいんですけれど、北朝鮮からミサイルが飛んでくるわけですかすら仕方ないですね。佐渡に来たら絶対に訪れたい絶景ポイントです。つつじが多いので、花の季節は美しいこと間違いないでしょう。
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