確かに息子の成長は、普通より遅かったですが、もともと三月末の生まれであるし、そのへんは個性の範囲内ととらえていました。
幼稚園で友達づきあいがスムーズでないのも多少気にはなりますが、うちの宿に泊まりに来るお客さんのお子さんとは、とてもスムーズに友達関係をきづいているし、公園に行けば見知らぬ子供たちと、すぐに仲良くなっています。
これは他の子供たちに無い特技です。
四歳児が、五歳児が、見知らぬ公園で、初めて会う子供たちと、すぐに仲良くなって一緒に遊べる。そんな幼児は、少ないはずですから、これも立派な特技です。宿に泊まりに来る御客様のお子さんとも、すぐに仲良くなって遊んだりするし、特に小さなお子さんの面倒をよくみます。自分のおやつを、へそくりのように貯めて、それをプレゼントしたりする。なので、御客様から喜ばれて、何度も泊まりに来てくれるようになったりする。そういう対人スキルがある。
運動神経に関しては、確かに良いとはいえないことは、運動会でいつもビリであるのと、ラジオ体操が下手くそなことを見れば分かります。空手教室に通っていても、敏捷な動きが出来ていません。
しかし、足が遅いのは、山で走らないように何度も怒っているからです。息子は、晴れてれば毎日のように小浅間山に登っていますから、そこで親から「走るな」と言われ続けていますので、仕方ないといえば仕方ないです。体力だってないわけではない。毎晩スクワットや腹筋を二十〜三十回やっているし、三千メートル級の北アルプスにスイスイ登れる体力もある。週末にはサッカーボールを蹴りながら小浅間山なんかに登っているし、ドッチボールも大好きなので決して運動が出来ないわけではないと思っています。
スキーも、あっと言う間に覚えて、下手くそながら猛スピードで滑走し、親が見失うくらいです。親以上に滑れるようになっている。スケートも何だかんだで滑れるようになり、今ではせがまれて週に一度はスケートリンクに通っています。とても運動音痴とは思えない。
ようするに運動に対するスイッチの入り方が、よその子供たちと違うだけなんではないかと思っています。第一、同学年に3月生まれも、2月生まれもいません。かろうじて1月生まれがいるだけですから、圧倒的に他の子供たちと月齢差がある。3月26日に生まれた息子が、人よりテキパキ動けないのは仕方ないと思っています。
それは各専門の先生も分かっていて、息子が指導をうけるという作業は、あまりやらなくなって、しだいに私たちと世間話をして時間を潰すことが多くなってきました。その先生の息子さんと、うちの息子が、よく似た症状だったこともあり、さらに、先生の御実家が、うちと同じく宿屋だったこともあって、非常に似た環境下であったこともあって、世間話に花が咲きました。
で、専門の先生と世間話をするうちに、とんでもないことが分かってきました。ここ数年のうちに、幼児教育において、恐ろしい発見が相次ぎ、過去に行なわれていた幼児教育が、否定されつつてしまっているらしい。それが、とても興味深い内容だったのです。
世間話で専門の先生は、ここ数十年の幼稚園教育の歴史的な流れを話してくれました。まずゆとり教育というものは、どういうものかを教えてくれました。そしてそれが、どういう問題を引き起こしたのかというのも教えてくれました。
それらをいちいち話すとキリがないので、ここでは触れませんが、世間話をしていくうちに気がついたことがありました。私が息子にやっていた教育は、ゆとり教育ぽかったことなんだと気がついたのです。
私は、過去に何度も「ゆとり教育」を批判しており密かに小馬鹿にしてきました。前にも言いましたが、ゆとり教育とは、ただ単に「バカを量産する教育」ぐらいにしか思ってませんでした。しかし、どうやら、それは私の勘違いだったようです。
そもそも「ゆとり教育」というのは、科学的根拠にもとづいた教育方法ではなく、「個性重視の原則」という思想にもとづいた、文部科学省が押しつけた教育だったらしいのです。いわゆる個性教育イデオロギーとでも言うのでしょうか? 科学的研究が、ほとんど検証されないまま行なわれた教育だったのです。
ゆとり教育以前は、『自立した人間を育てる』を第一とした社会思想にもとづいた教育がさかんだったと言います。私が幼児の頃は、自立した人間を育てるという思想のもとに、幼児に個室を与えようとか、乳離れを早くさせようとか、抱き癖をつかせないために、むやみに抱かないとか科学的に根拠のない育児方法が母子手帳に書かれてあったらしいのです。
それらは当時、世界的に大流行した『スポック博士の育児書』からきたものらしいのですが、現在では、この育児方法は、科学的に否定されており、スポック博士も誤りを認めています。
それらに毒された育児をされた子供たちは、凶暴化して校内暴力がはびこり、金属バット事件なんかが日本ではおきてしまいましたが、海外ではもっと酷いことになっていたようです。何の根拠もなく、イデオロギーや、ある種の思想で教育する危険性は、非常にリスクがあったわけですが、それは「個性重視の原則」という思想に染まったゆとり教育にも言えたようです。
で、ゆとり教育時代の幼稚園では、「個性重視の原則」からできた教育指導要領にもとづいて、各個人個性をのばす教育をめざしていました。積み木遊びの好きな子供には、一日中、積み木遊びをさせるような教育をおこなっていたらしいのです。
現在、幼稚園教育は、ゆとり教育を廃止して、いろいろな知能をバランスよく伸ばす方向に切り替えていますが、それは脳の多重知能の特性がわかってきたからです。
多重知能とは、多くの知能があるということではなく、
それらが互いに独立している。
並列しているということがポイントです。
つまり、ある一つの知能を伸ばしても
他の知能は伸びない。
漢字書き取りが得意になっても、
歌が上手くなるわけではない。
むしろ逆である。
ある知能を伸ばしすぎると、別の知能の発達を抑えてしまう可能性の方が高い。つまり脳内で、それぞれの知能は競争し合うということなのです。例えば、右目を塞いで、左目だけで見ていると、左目のニューロンだけが異常に発達して、右目のニューロンは発達しない。右目の脳神経は、左目の脳神経に競争でやぶれてしまいます。そして、いびつな脳ができあがってしまう。そういうことが、脳科学の発達によってわかってきた。その結果、ゆとり教育が幼児にとって致命的な欠陥があることが分かってきた。
脳の多重知能は、それらが互いに独立して競争しています。
幼児期に一つだけを伸ばしすぎることは、危険である可能性がある。
成長過程にある幼少期の脳内は、互いに競争してあっています。その脳の一つだけを伸ばすのは、成人ならともかく、未就学児に行なうことは、かなりリスキーなことなのだそうです。
脳の多重知能には、それぞれ別個に臨界期があります。それらは、適切にのばす時期があるわけで、それは、『進化的予想している環境』によって決めるのが無難であるようです。カモの刷り込み現象のように、進化の結果で人間が適応してしまった時期を見極めて、適切にのばす必要があるわけです。
しかし幼児のうちに、一部の脳だけを成長させすぎると、他に大切な知能である別の脳の成長がうまくいかなくなる可能性がある。大げさに言うと両眼視を失う可能性だってある。つまり、ゆとり教育というのは、脳科学的に非常に危険な教育だったという説がでてきている。
極端な例として、サバン症の人たちがあります。発達障害などのせいで、自閉症的だったりする人たちの中に驚異的な能力を示す人がいますが、それがサバン症です。サバン症を主人公にしたドラマで『グットドクター(山ア賢人主演)』というドラマがありましたが、あれがサバン症です。
何らかの障害によって、ある知能だけが突出して発達することがある。その典型例がサバン症だと言われています。サバン症の人は、何らかの理由で、特定の知能だけが発達して、他の知能の発達が遅れている状態です。映画『レインマン』や、ドラマ『グットドクター』の主人公や、放浪画家・山下清画伯みたいな感じを思い浮べるとよいかもしれません。かれらは、確かに天才ですが、そのままでは日常生活に支障をきたします。
なのでサバン症の幼児を養護学校にいれて、遅れた知能を伸ばしてやる。他の知能を人並みにしてあげるわけですが、他の知能が人並みになると、突出していた知能も平凡な物にもどってしまう。天才でなくなってしまう。代わりに、普通の人間として生きていけるようになる。ドラマ『グットドクター』の主人公や、エジソンや、アインシュタインや、山下清画伯のような天才的な人間が、普通の人になってしまう。では、山下清画伯のようなタイプの天才を量産すべきか? 普通の人間として生きられる能力をもつ人間にしてあげるべきかと問われれば、後者の立場をとるのが公立幼稚園のあるべき姿です。子をもつ親なら後者をとりたいと思う。
以上は、大げさな話ですが、ゆとり教育には、そういう危険性がなくもないというのです。そういうことを直接的ではないけれど、専門の先生は、世間話の中で、暗に教えてくれました。ゆとり教育というのは、(特に幼少期において)非常に危険な諸刃の剣なんですね。それを私は聞きかじって知っていたから、息子の視力検査で異常が出たと聞いて青ざめ、幼稚園を休み、眼科で最も有名な御代田総合病院に駆け込んだわけです。
つづく。
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