それが小串鉱山。
小串鉱山は、儲かったらしい。村の男は、みんな出稼ぎに行った。土地の古老の話では、田畑で稼ぐ十倍の賃金をもらえたらしい。で、男たちが村に帰ってくると、酒ばっかり飲んで働かなくなった。このへんからも、かかあ天下の土壌が生まれたとのこと。
この鉱山には、朝鮮からも大量の出稼ぎがあったらしい。戦争中は人手不足だったから彼らは大儲けした。札束をリュック一杯になるほど稼いだ。なので彼らは北軽井沢あたりまで行って牛を買いに行った。その牛を、彼らは生で食べた。その光景によほどの衝撃を受けたと土地の古老は言っている。
農家にとって牛は家族のようなものであり、生で食べる風習はなかったからだ。しかし、働き手を兵隊にとられて貧乏な日本人たちは、それを分けてもらったりした。当時、牛は高価な買い物だったので、いかに稼いだかわかるというものである。そして、その牛の骨が万座川や仁田川の川原に、戦後間もない頃に、牛たちの白骨が何十も野ざらしになっていた。その光景を干又の古老が話してくれたことがある。
また、ここには悲しい歴史がある。昭和12年11月11日午後3時半頃、鉱山北側の斜面が、幅約500メートル、長さ1キロにわたって崩落し建物35棟が埋没、15棟が焼失したのである。
死者245名。
しかも、女子供が大半だった。犠牲になった人の多くは、鉱山で働いていた人ではなく、家族の方だったようだ。そこには31名の児童も含まれていた。実は、その時の生き証人が嬬恋村で存命である。2時間かけて走って、嬬恋村役場に向かい救援隊をよんだそうである。普通に歩いたら8時間かかる距離なのに2時間。そして、嬬恋村の人たちが救援に到着したとき多くの人たちが黒こげに焼かれて身元の判別がつきにくかったと言う。そのためか鉱山が復旧するのに2年もかかっている。
そして小串鉱山は、人口2100名、従業社員数675名の大鉱山に発展。人口にものをいわせて嬬恋村に議員を多数おくりこんだ。嬬恋村の前村長も、小串鉱山関係者だった。さらに公民館・診療所・小中学校・幼稚園が完備。当時珍しいスーパーマーケットまであった。私の知人は、戦時中、小串鉱山に布団を売りに行って大儲けし、その金で結婚式場(館林の羽衣会館)をオープンしたというから鉱山町は、かなり景気が良かったらしい。ちなみに嫁さんは、その結婚式場(館林の羽衣会館)でバイトまでしている。
ところが戦後、昭和46年7月に閉山。
小串鉱山跡地は一面の荒野となっている。
ちなみに私が、どうしてこんなに詳しいかというと、当時をよく知っている人たち数名から何回もヒアリングをしているからである。その人たちも亡くなっている人が多いので、歴史を風化させないために、今回は詳しく書いておいた。
話は、変わるが2015年6月2日に、うちの宿は、小串鉱山ツアーを行っている。そのときに小串鉱山の慰霊祭の準備をしている人たちと遭遇している。旧小串鉱山関係者たちが大勢やってきていた。映画も作られるとのこと。
で、2019年3月に映画が完成した。
製作したのは【スタジオまりりん】
http://www.studiomaririn.qcweb.jp/
監督は、道下直樹
映画は、「記憶 〜雲上のまち小串鉱山〜」
http://www.studiomaririn.qcweb.jp/ogushi.html
映画のホームページによれば、
「活況に湧いた山深い町も、災害、不況に襲われ、他の鉱山と供に閉山へと追い込まれた。時代の波にのまれたこのまちを再び緑へと回帰させて行く静かで力強い自然の力を余すところなく綴った映像美とそこに暮らした方々の息吹きを描く。大地滑り、毛無随道などの謎を、風景とインタビューでじっくりと解明してゆく。嬬恋村の山中にひっそりと存在する「小串鉱山」の“新感覚な風景とドキュメンタリーの遺構探訪映画”」
とあります。
ホームページの製作年表をみると、2005月08月02日 第1回撮影を開始し、2018年04月21日までに第45回の撮影。13年に45回にわたる撮影。しかも監督は、その間に脳硬塞の入院している。満身創痍で編集も1年かけてやっている。見る価値のある映画だと思うが、今、完成を知ったばかりなので私は、まだ見てない。
以下、小串鉱山廃墟画像を紹介します。
つづく。
↓ブログ更新を読みたい方は投票を
人気blogランキング