2020年05月28日

例のウイルスで息子の夢が消えてしまった その2

 二十年ほど前に『幸田露伴の語録に学ぶ自己修養法(渡部昇一)』という本を読みました。幸田露伴の面白いことは、幸福を語るのに『幸福論』と書かずに『努力論』を書いているところです。その『努力論』で幸福を引き寄せる方法として「惜福、分福、植福」が必要だと言っています。幸福を引き寄せるためには、惜福・分福・植福といった努力が必要だと言うのです。

 分福について幸田露伴は、自分に巡ってきた福を独り占めしないで周囲にも分け与える。しかも見返りは期待しない。福は天からの授かりものであり人々の間を巡るもの。自分に巡ってきた福を天の一角に返す気持ちを持つ心掛けが大切。周囲を幸福にすることが、自らの幸福につながる。だから分福によって、よりいっそう大きな福がやって来る。例えば、
「商売で儲かった時に利益を使用人らに分けたとしよう。すると使用人らは、店主が福利を得るならば自分たちも福利を得るのだということが分かり、熟心に業務に励み、店主を儲けさせようと努力するものなのである」
というふうに。

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 ところで幸田露伴が、なぜ露伴なのかというと、仕事をやめて北海道から徒歩で餓死寸前になりながら帰京したことがあり、露を伴って野宿したので「露伴」と名乗ったと言います。ああ、なるほどと思いましたね。これなら幸田露伴が、
『分福』
と言った理由が分かります。私でなくても、1980年代から1990年代にわたって北海道を徒歩旅行した人なら誰だって分かると思います。どれだけ『分福』のお裾分けに預かってきたか、身にしみて分かると思います。

 今から四十年ぐらい前の北海道では、電車に乗れば、地元民の人たちが誰彼なく気さくに話しかけてきました。道を歩いていれば、車が止まって乗せてくれましたし、車中で話が盛り上がれば、「俺の家に泊まっていけ」と言われて、何日もお世話になることも多かった。もちろん住所交換もした。年末になると新巻鮭が送られてきたり、色々なものが送られてきました。もちろんこちらの方もお返しに何らかのものを送り返しましたが、相手は金額にして倍ぐらいのものを送ってくる。

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 そういえばライダーハウスなんてものが北海道にはありました。今でも存在してるとは思いますが、当時のライダーハウスはちょっと違ってました。ラーメン屋の駐車場の隅に小屋なんかがあって、ラーメン一杯を食べるとそこに無料で泊めてくれました。ライダーハウスには旅人も泊まっていましたが、ジプシーみたいな人たちも泊まっていました。そして近くの農家や漁師番屋で働いていました。その人たちは、野菜を持ってきたり、魚を持ってきたりして、夜になるとみんなで持ち寄った食材で美味しそうな鍋を作ったりしていた。するとどこからともなく差し入れが届いてくる。ラーメン屋の親父が、余ったご飯を届ける場合もあれば、近所の農家がとうもろこしや酒を届ける場合もある。お礼を言うと
「何もだ」
と言って、一緒に酒を飲んだりします。
「俺もここの人間だ」
近所の農家のご主人は、ライダーハウス出身だと言う。農家でアルバイトしてるうちに、そこの娘と結婚して、今は農家の大黒柱になっているらしい。

 そのご主人のおじいちゃんの話によれば、昔は芋掘りさんという人たちがいて、家族でじゃがいも掘りの季節労働して北海道中を渡り歩いていた人たちがいたらしい。だから芋掘りの季節になると大勢の子供たちが転校してきて、二週間後に去っていったという。

 どの子供たちも服はボロボロで身なりは良くなかったけれど、地元の子供たちも、大人たちもみんな親切にしてあげた。彼らは貴重な労働力だったし、学校から帰ってすぐに雇われた農家で親と一緒に芋掘りの手伝いをする。一生懸命親孝行する子供たちを馬鹿にできる人たちは、当時の北海道のどこにもいなかった。むしろ尊敬の眼差しで見ている人たちの方が多かったという。

 芋掘りさんたちが転校していく日、ご主人のおじいちゃんは、餞別に宝物でも何でも差し出したといいます。そして時代が変わって芋掘りさんたちが住んでいた小屋は、ライダーハウスの前身になりました。

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 また北海道には、開拓地だというのに神社がいっぱいありました。神社にはたいていテントが並んでいて、大勢のキャンパーたちが生活していました。1990年の頃。バブルのさなかの頃です。キャンパーたちの中は、優雅に写真撮影をしてる人たちもいたし、バイクでツーリングしている人たちもいましたけれど、農家で働いてる人たちも多かった。

 寒さの厳しい冬になると、日本列島を南下していき、沖縄の波照間・石垣島・西表島に向かって製糖工場で働く人たちも多かったけれど、真冬の北海道でキャンプしてる人たちも多かった。キャンプと言っても、山ガールのキャンプをイメージとは程遠い。ジプシーみたいな生活。芋掘りさんに近いと思います。彼らが厳冬の北海道でキャンプできたのも、北海道の庶民に分福が根付いていたからだと思います。でなければ、彼らは厳冬の北海道では生きていけなかったはずです。

 長い前置きはこのくらいにして、分福について。

 分福と言えば、嫁さんの実家のある群馬県館林が本家です。あの分福茶釜は、群馬県館林にある茂林寺にありました。館林というところは、昔から裕福な土地だったらしく、その理由が、いくらお湯を汲んでも全く尽きることのない茶釜のおかげであると言われていました。お湯が無限に湧いてくれれば、燃料代が助かりますから、村全体が裕福になるという理屈です。

 本当にそんなことがあったかどうかは別にして、ポイントは、お湯を分け合ったということにあります。分福が徹底したからこそ館林は裕福になった。それを周辺の市町村が信じたということに大きな意味があります。館林からちょっと離れると栃木県になりますが、その栃木県の住民たちにも館林の分福は有名であったという明治時代の記録が残っています。

 実際に館林周辺の市町村は、江戸時代の昔から栃木県も含めて分福を徹底していました。なので、この辺りには多くの人たちが集まってきたと言います。NHKのテレビドラマで有名な「おしん」のような存在が、わんさか押し寄せてきたのも、館林周辺地域です。

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 彼らは、奥州子と言われて、わずかばかりの米俵と引き換えに奉公に出された子供であり、小さい赤ん坊の子守をしながら学校の校庭に集まっていました。

 その辺の事情を知っている教師たちは、わざと窓際で奥州っ子に聞こえるように、窓に向かって叫ぶように授業をしました。子守の子供たちは、それに甘えて勉強した。教科書もノートもないので子守の子供たちは棒で地べたに文字の練習をしました。一事が万事、みんなこの調子です。

 お墓のお供え物も、白米のおむすびでした。そのおむすびは、貧しい人たちの食事にやることが前提です。実際、おそなえをすると、貧しい人たちが、それを食べていた。

 赤ん坊を抱えて物乞いをする人には、温かいご飯を食べさせたと言います。お金をあげても、コンビニのない時代ですから、お金よりも食事の方がありがたかった。米をもらっても、金をもらっても困るだけだった。このような館林の分福も、館林出身の嫁さんには興味がないようなので、あまり話していません。

 話は変わりますが、どういうわけか、うちの息子には分福が身についています。時としてやりすぎることがあるくらい。原因は、宿屋の息子なためだと思われます。子供というものは親の真似をします。特に長男や一人っ子の場合、信じられないくらい親の真似をします。うちの息子も、何でも真似をしました。問題は、私が宿のオーナーであることです。

 親が盛んに接客サービスをしていると、息子もそれを真似する。息子なりに何でもサービスをする。それがお客さんに好評で、売上が伸びたのも確かです。小さなお子さん連れのご家族が来ると、自分が持ってるおもちゃを両手に抱えて小さなお子さんたちのところに走って行きます。絵本を読んであげるし、こっそり溜め込んだ自分のおやつも持っていく。お客さんが、メガネを探していると、度数の合わない私のメガネまで持っていく。

 まさに分福。
 なんでもかんでも差し出そうとする。
 売り物の小さなおもちゃまで勝手にあげてしまう。
 それを叱るんですが、何が悪いのか今ひとつ分からない。

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 最初は微笑ましいなぁと思っていたんですが、さすがに大変な弊害があるということに気がついた。分別のない分福は、かなり危険だということに。

 なので幼稚園の年長さんの頃に、お金を学習させるためにコンビニやスーパーに連れて行って、こづかいをあげて、自分でおやつを買わせますと、買ったおやつを、親にも分けてくれます。決して独り占めしようとはしません。

 と書くと美談のように思えますが、これは少しばかり危険です。お金の怖さを分かってない。幼稚園時代の息子は、呆れるばかり物欲がないので、お金でもおやつでも、おもちゃでも、何でも他人にあげてしまう。親の接客姿をみて、そういうものだと勘違いしている節がある。

 それはそれで決して悪いことではないのですが、世の中にはクレクレ君と言う、物欲の塊の人たちが少なからずいるし、悪意のある人もいる。そういう人たちと出会ったら必ずトラブルになるのは目に見えている。なので分福という行為は、惜福に比べて、かなり高度で難しい判断を必要とする。どの過ぎた分福には、必ずトラブルが生じてしまう。

 そこで、欲というものを教えることにしました。具体的に言うと、アルバイトなどをさせて、お金を稼がせることにした。何かお手伝いをしたら十円ずつ払い、その十円が貯まったら、おやつか何かを買わせるようにした。お金の価値を自身の労働によって身をもって分からせるようにした。

 しかしこれを実行してみると、少々具合の悪いことに気がつきました。
 幼稚園児が行うお手伝いというものは、かえって足手まといになる。

 なので、勉強や運動することに十円ずつ払うことにしました。その代わり、おやつも与えなければ、おもちゃを買わない。欲しければ自分で稼ぐように仕向けました。その結果、苦労して手に入れた十円は、簡単に手放さなくなりました。労働することによってお金の価値が分かってきた。そうなると、コンビニでお菓子を買うこともなくなる。苦労の末、手に入れたお金を滅多に使わなくなった。

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 これにアジをしめた私は、息子に十円をジャンジャン支払うようになり、小学校一年生になる頃には、何かする事に百円ずつ払うようになった。そのかわりに罰金を取ることも始めました。お金はジャンジャン払いますけれど、忘れ物をしたり、嘘をついたり、やってはいけないことをした場合、千円とか二千円の罰金を取るようにしました。

 罰金制度にしたのは、子供をきつく怒鳴っても効果が無いからです。怒鳴ったところで忘れ物がなくなるわけではない。でも、忘れ物をすることに千円の罰金を命じると、忘れ物はなくなる。それはもう嘘のように忘れ物をしなくなる。怒ったり叩いたりしても忘れ物をするくせに、千円の罰金だとピタッと忘れ物がなくなってしまう。千円を稼ぐのが、どんなに大変か身をもって体験したためか、恐ろしいほど忘れなくなる。その結果、おこずかいが、どんどん増えていく。

 不思議なもので、お小遣いが増えると、お金を使わなくなる。増やすことに執念をもちはじめ、アルバイト・勉強・運動など、お金になることを率先してやるようになった。で、自分の貯金通帳を作りたいと言ってきた。群馬銀行に出かけて息子の貯金通帳を作ってあげた。で、私の方は、新型コロナウイルスで経営悪化したので定期預金を解約手続きを行った。帰り際に息子が
「1億円ためたいな」
と言うので
「そんなに貯金して、何に使うの?」
と聞くと、ロシアで寿司屋をやるための資金で必要だと言った。
「こいつ、何を言ってるんだ?」
と首を傾げていると、息子は得意満面で、将来の計画を語り始めたのです。今年の二月頃の話です。ダイヤモンドプリンス号が入港した頃で、まだ新型コロナウイルスが、深刻な状況でなかった頃の話です。

つづく。

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posted by マネージャー at 01:42| Comment(0) | テーマ別雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする