それが森岡俊之(明治35年生)であり、
森岡ママの御主人です。場所は軽井沢の万平ホテル。
マッカーサーと面会した森岡俊之氏は、
マッカーサーに対して怒鳴りました。
「どうして原爆を落とした! 人間として、あまりに酷いじゃないか」
「確かに人道的ではなかったが、戦争を早く終わらせるには仕方なかった」
マッカーサーに対して、正面から怒鳴った日本人は、この森岡俊之氏ぐらいだった。森岡俊之氏は被爆者であり、原爆症に苦しんでいた。また、多くの友人知人が、一人二人と原爆で亡くなっていた。その事実に怒り沸騰していた。だからマッカーサーに対して怒鳴っていた。マッカーサーは、
「これは原爆症に効く薬です」
と赤い錠剤を渡そうとしたが、森岡俊之氏は
「バカヤロー」
と錠剤を床に叩きつけた。その瞬間、憲兵たちが身構えた。
もし、ここでマッカーサーが、森岡俊之氏を逮捕するなりしていたら、この事件は神話になっていたかもしれない。森岡俊之氏は、歴史に名を残しただろう。しかし、マッカーサーは偉かった。森岡俊之氏と奥さんに、できるかぎりの事をしている。なので、森岡俊之氏は伝説になりそこねた。
しかし森岡俊之氏は、別の事で伝説になり、神話となるのである。たった四畳半のユースホステル(MGユースホステル)をつくり、若い人に被爆体験を語り続け、多くの若者たちのカリスマとなる。その噂は、全国に広まり、文部大臣から呼び出され
「国立青年の家の館長になってほしい」
と懇願されました。しかし、森岡俊之氏は辞退します。あばら屋で、たった四畳半のユースホステルで、青少年と雑魚寝をする方を選んでしまった。彼は、文部大臣に、このように答えました。
「吉田松陰が一間の私塾から始めて、幕末維新の志士を輩出した松下村塾のように、四畳半のユースホステルから次代を担う立派な若者を育てることが私の夢であり役目だと思っています」
初期のユースホステルのオーナーには、こういうマネージャーが多く存在しています。その人たちの魂がユースホステル業界に宿っている。だから
「ユースホステルなんかやめて、ゲストハウスにしたら? その方が儲かるよ」
という人がいても、素直にはうなずけない。森岡俊之氏のようなマネージャーたちが渡してくれたバトンを引き継いで、若い人たちに渡していかなければならないからです。
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