ではなぜ昭和30年代に硫黄鉱山が繁栄していたかと言うと、日本に外貨がなかったからです。いくらアメリカ産の硫黄が安くても買うことができなかった。つまり硫黄に関しては自由貿易が成立してなかった。
しかし、日本の経済成長のためには硫黄が欠かせませんでした。自動車も家電も造船も製鉄もまだ赤ちゃんの頃で、必ずしも国際的に競争力があるとは限らなかった。昭和30年代における日本経済の牽引力は、繊維産業だった。なのでナイロンを作るための硫黄が必要不可欠だった。その結果、吾妻鉱山(嬬恋村)・小串鉱山(嬬恋村)・石津鉱山(嬬恋村)・万座鉱山(草津町)といった硫黄鉱山が空前の繁栄を迎えるわけです。
そういうことを広報誌に書いてある。価格的にアメリカのものに対抗できないことも書いてある。自由化が始まったら吾妻鉱山が危機を迎える事も書いてある。直接的に書いてなくても暗黙の了解と言うか、そういうことですよという信号を広報誌で読者に送っている。そしてそれを吾妻鉱山で働いている人達は、しっかり読んでいる。読んでいる人にとっては複雑な心境だったでしょう。
この硫黄鉱山の仕事によって日本の経済は発展していくけれど、日本経済が成長し、日本が外貨を溜め込んだとたん、自由化がすすみ硫黄鉱山は壊滅する。つまり硫黄鉱山は、期限付きの繁栄でしかないことを、吾妻鉱山の人たちは、みんな知っていた。その可能性がある。
広報誌に詳しく書いてあるからです。直接的には書いてないけれど、そういうことだという間接的な文章はいくらでも見受けられる。察しの良い人なら、誰もがわかっていたと思うし、一人でもわかった人がいれば、情報は、全家庭に筒抜けとなり、すべてに共有されてしままう狭い社会なので、やはり吾妻鉱山の大人全員が分かっていたと思う。そういうふうに広報誌を読んでいくと、なんともやるせない気持ちになってしまう 。
(広報『吾妻鉱山』より借用)
しかしそれは大人たちの話であって、子供達がそこまで考えていたとは思えない。子供達にとっては、ある日突然、今まで住んでいたところが、廃墟になってしまい、みんなバラバラに全国に散っていってしまった・・・・という思いがあったと思います。そしてその子供たちが、40年〜50年経って、老人となって再び嬬恋村に訪れる。その瞬間に、私は宿屋の主人として立ち会えたわけです。
吾妻鉱山の子供たちは優秀だったという。
群馬県でもトップレベルだったという。
それは広報誌に掲載されている作文や習字を見れば一目瞭然でわかってしまう。
(広報『吾妻鉱山』より借用)
(広報『吾妻鉱山』より借用)
見ただけで優秀なのが一発でわかってしまう。でも、だからみんな大学に進学したのかというと、違っていて、卒業後には就職して手に職をつけて頑張っている。そして学校に近況を知らせる便りを送っている。ある人は、東京の寿司屋で働いている。もうじき魚の解体を教えてもらえると嬉しそうに手紙を学校に送っている。前にも書いたけれど、吾妻鉱山では生鮮食品は週に1回しか配給されない。他の6日は、缶詰ばかりなのだ。寿司どころか生の魚さえ週に1回も見られるかどうかの僻地なのである。そこに生まれ、そこで育ち、そこの中学を卒業して東京の寿司屋で働く少年。きっと親に寿司を食べさせたいと思って就職したに違いないのだ。
吾妻鉱山は僻地だけれど、当時希少なテレビはあった。電波も届いていた。と言っても他の地域の人には分からないだろうけれど、北軽井沢にテレビの電波がくるようになったのは、ほんの数年前なのである。吾妻鉱山には昭和35年頃には、どの家庭にもテレビがあって電波が届いていたのだ。テレビドラマには寿司屋もあったことだろう。寿司屋になろうと思った少年がいても不思議は無い。そういう人たちが吾妻鉱山で生活をし、ある日、突然、鉱山を去って行く日がくるのである。
(広報『吾妻鉱山』より借用)
私は吾妻鉱山のことを何も知らなかった。今回、万座の企画展で、知ることができて大変良かったと思っています。これで彼らの心情を少しでも理解できることができた。しかし、以前は、知る機会が無かった。インターネットで検索しても何もひっかからなかった。だから、吾妻鉱山関係者が泊まりに来ても何も出来なかった。しかし、もう大丈夫。少しだけれど、当時のことをしることができた。で、この知識をインターネットに残しておきたいと思った。
うちの宿に限らず、他のお宿さんでも、昔、吾妻鉱山に住んでいた人たちがやってくるかもしれません。その時のための準備として、吾妻鉱山のことを知ってもらいたいと思い、余計なお節介とは思いつつ、吾妻鉱山について少しばかり語ってしまいました。必要に迫られて、吾妻鉱山について検索をかけ、この文章にたどり着いた方がいらっしゃいましたら、これを書いた甲斐があったというものです。
つづく。
↓ブログ更新を読みたい方は投票を
人気blogランキング