まず国語について。
1.漢字に対する誤解
教科書で、1年生は80の漢字。二年生は、160の漢字を習うことになっている。あわせて240なので、これは簡単なことだと思っていた。実際、240の漢字を覚えるのは、そう難しくは無い。しかし、勉強を教えていくうちに、それではダメだということに気がついた。当たり前と言えば、当たり前のことだが、漢字には組み合わせがあり、組み合わせによって熟語になりうる。つまり、覚える数は240ではなく、500にも1000にもなりうるのだ。外国人が、日本語に苦戦するのは、あたりまえである。「通」と「行」だと2つ覚えるだけだけれど、この二つを習うと「通行」と言う文字も覚えなければならない。
あと「人」という漢字はすぐに覚えるし、「間」という漢字も簡単だけれど、これを合わせると「人間」になる。では、「人」と「人間」の違いは何か?と息子に問われると、一瞬、ぐっと詰まってしまう。
実は、この質問は、私も50年以上前に、私が小学生2年生の時に、学校の先生に同じ質問をしている。で、その時の先生の答えは、
「間(ま)が抜けているのが『人』なんだよ」
というものだった。
禅問答のような珍妙奇妙な回答だったので、今でもハッキリ覚えている。もちろん私は、息子にそんな珍妙な回答を息子にはしてない。かといって「人間」という文字が仏教用語で、「世間」とか「人の世」という意味からきていると7歳の息子に説明しても分からないので、こういう難しい解説もしてない。
「原」という字についても質問されて答えに詰まったことがある。「野原」と「高原」で、どうして野原の原は「はら」とよぶのに、高原の原は「げん」なの? と聞かれ、音読みと訓読みの違いと歴史的背景を説明する気にはなれない。息子の理解の範疇を超えてしまうからだ。
その点、嫁さんは偉いと思う。どんな難しい用語を使ってでも息子に説明してしまうからだ。私と違って嫁さんは、息子を対等に扱っているのだが、息子が嫁さんの言葉を理解しているかどうかは、はなはだ怪しい。
嫁さんは、息子に音読み言葉を使って説明し、私は息子に大和言葉(訓読み言葉)で説明しているのだが、大和言葉(訓読み言葉)で説明するのは、本当に難しい。途中で投げ出したくなることが何度もあった。
2.漢字に対する理解の仕方の違い
そう言えば、団塊の第2世代の嫁さん(オイルショック生まれ)と、昭和36年生まれの私では、漢字に対する理解の仕方が違っていた。10歳年下の嫁さんは、機械的に漢字を覚えていた。それが私には衝撃だった。つい最近まで、うちの嫁は、天然のおバカだと思っていたが、実は、とんでもなく頭が良いことに気がついた。
息子に漢字を教えていると、背後から嫁さんが非常に感心している。息子よりも私の講義を一生懸命に聴いているのだ。最初は
「なんだ?こいつ?」
「変な奴だなあ」
と思って、最初はウザいと感じていた。
例えば、息子に「時」という字を教える場合には
「大昔は、時計がなかったんだ。それだと不便だから、お寺の人が、お日さま(太陽)の角度から時間を推定して、鐘をならして皆に時間を教えていたんだ。だから『時(とき)』という字は、『日』と『寺』からできてるんだよ」
と、大昔に私が国語教師から教わったように、息子に説明すると、嫁さんが盛んに感心して感嘆の声をあげる。
変だなと思った私が、嫁さんに「お前は、時という字をどうやって覚えたの?」と聞くと、機械的に何度もノートに書いて覚えたという。それには驚愕した。そんな芸当は、私にはとても無理である。機械的に漢字を覚えるなんて絶対に無理だ。十歳の年齢差で、こうも教わり方が違っているのだろうか?と驚いてしまった。
嫁さんは団塊の第二世代なので、私の時代(昭和36年生まれ)の丁寧な教わり方とは、だいぶ違っているみたいなのだ。聞けば、嫁さんの小学校は11クラスもあったらしく、それでも子供の人数が増えすぎて困ったために、新しく学校を作って、生徒を2分割したという。逆に私の場合は、団塊世代と第二団塊世代の中間にあたり、子供が減っていた丙午(ひのえうま)世代に近いために、丁寧な教育を受けられる土壌があったと思う。そのうえ旧漢字表記世代の先生が少なからずいた。
なので私が子供の頃は、漢字を機械的に教わってない。かならず意味づけで覚えた。だから月偏と肉月偏は、かなり厳格に習っている。漢字テストで「胃」「脈」「腹」「脳」といった漢字が出たら、神経質になって「とめはね」に気をつかったものだ。でも、令和時代では、両方とも「月」にしか見えないフォントになっている。かろうじて肉月偏の面影を残しているのは「胃」ぐらいしかない。「脈」「腹」「脳」も、普通の月偏にしか見えない。肉の簡略文字に見えない。いつから、こんなフォントになったのか? 私が、小学校時代に、さんざん苦杯を味わった「とめはね」の間違いは、いったい何だったのか?
午前とか午後という漢字にしても、まず「午の刻(12時)」から習った。
「午(うま)」には、角が無いだろう? だから「午(うま)」なんだ。牛には角があるだろ?だから「牛(うし)」と書くんだよ・・・と教えられた。もちろん牛の刻(午前2時)も習っているし、丑の時参り(うしのこくまいり)とか、落語にでてくる
「草木も眠る丑三つ時(うしみつどき・2時半のこと)」
という言葉なんかも習っています。
ここまで習った上で、午前・午後の漢字を教わっている。だから漢字を機械的に覚えるという発想がなかった。そもそも機械的に覚えられるものなんだろうか?と思うのだが、嫁さんは機械的にしか習ってない。ノートに何度も何度も書いて覚えたという。これが本当なら、うちの嫁さんの頭脳は凄い。
どうりで英語が得意なわけだ。あの分厚い「指輪物語」の原書を英語でスラスラと読んで楽しむことができるのは、こういう背景があったからできるようになったのかもしれない。団塊の第二世代の嫁さんは、小さい頃から漢字を機械的に暗記することによって、脳が鍛えられ、その結果、語学の才能が開花したのかもしれない。逆に言うと私は、ズルして楽に漢字を学んだから、それが後々まで響いて語学が苦手になったのかもしれない。とにかく私の覚え方が、嫁さんの覚え方と、根本的に違っていた。
3.昭和の頃の国語の授業スタイル
おまけに私に教えた昭和時代の先生たちときたら、授業の大半が漢字練習だった。テストも漢字さえできていれば、70点は確保できた。漢字が一番の得点源だった。そして教師は、漢字を覚えさせるために「漢字」を使った対戦ゲームをさせていた。
大相撲の番付表をつけて、毎日行われる5分程度の早朝の小テストによって対戦させ、その勝率によって、前頭何枚目とか、関脇とか、大関とかに昇格するシステムをつくって、みんなを一喜一憂させ、子供たちに漢字練習に熱中させた。成績下位の人間は、下位どうしで戦って、前頭の順位を争った。
頭の良い奴も、頭の良い奴と戦うので、黒星をもらって、横綱から関脇によく落ちた。それを15日にわたって行い、3週間後に「勝ち越し・負け越し」の表を貼りだして、新しい番付表を教室に貼りだした。今と違って当時の子供たちは相撲に熱中していた。そういう時代ならではの国語教育だったと思う。令和時代に、こんな授業をやったら確実に問題になっただろう。思えば、昭和時代はノンビリしていた。
長くなったので、ここらで終わりにします。この続きは、後日に。
つづく。
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