2020年12月05日

『ふふはり亭』から黒姫童話館へ【4】

 ふふはり亭から、車で5分の黒姫高原に黒姫童話館(信濃町立)があります。
 世界の童話をテーマとする文学館で、
 ここには、ドイツ人作家ミヒャエル・エンデの2000点を超える作品資料が、あります。
 本人からの寄贈だそうです。


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 ミヒャエル・エンデというば、なんといっても『モモ』です。
 ある世代ならみんなモモを読んでると思います。
 また映画『ネバーエンディングストーリー』の原作者と言ったらもっと分かるでしょうか?


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 特に『モモ』は面白い。私は、中学生か高校生の時に読んでいるけれど、ぐんぐん引き込まれていったことを覚えている。不思議な少女モモと、時間泥棒の灰色の男たちとの対決は、愉快で面白かった。こういう作品を書く人は、どういう人なのかと思って黒姫童話館にいってみたら、作者は、ナチスを嫌ってイエズス会神父のところで反ナチス運動の伝令としてミュンヘンを自転車で駆け回ったとのこと。ようするに作者が、アウトサイダーだったわけです。

 逆に言うと、ミヒャエル・エンデの資料がドイツではなく、信州の黒姫にある意味もなんとなく納得できました。
 奥さんも日本人ですからね。


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 それからこの童話館に来て初めて合点のいくことがありました。 映画のネバーエンディングストーリーを見たときのことです。この映画を映画館で見たんですが、途中までは、夢中になってみていたんですが、ラストシーンになってちょっと違和感を覚えた。 違和感を覚えたけれど、ヨーロッパ人の感覚というのはこういうもんなんだろうなぁと自分で納得して映画館を出たのです。あのラストシーンさえなければ、名作だったのになあと思ったんですが、人の感性は様々なんだろうなと当時は自分を納得させていました。この辺のところを嫁さんに聞いてみたことがあるんですが 、嫁さんには全く違和感はなかったらしい。

 で、今回黒姫童話館に行ってみたら、ラストシーンは原作者の意図と反して映画会社が勝手に付け足したものらしい事が分かって、やっと納得できるようになりました。と同時に、当時感じていた自分の違和感が、あながち間違いでなかったことに今更ながら嬉しくなった。 どうして嫁さんに違和感がなかったか? この辺が不思議だったので、モモを読んだことがあるかと聞いてみたら、読んだことはないと言います。 この違いが、違和感の有無なのかもしれません。調べてみたらネバーエンディングストーリーは、1から10までミヒャエルエンデの希望が通らなかったので裁判にもなったと言うことらしい。


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 童話作家である松谷みよ子の常設展示室もありました。彼女は、戦時中に黒姫に疎開しており、その時に黒姫の坪田譲治に弟子入りして、それもあってか黒姫に別荘をもっていたようです。


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 松谷みよ子は、全国各地の太郎伝説(ちから太郎・三年寝太郎・食っちゃ寝の太郎など)をかき集めて、それらを一つの物語に結集して『龍の子太郎』を作ったことで有名ですが、この物語のパターンは、信長の伝記に似ていますね。


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 私は、高校生の時に、この松谷みよ子の手法を真似て、佐渡島から山形・秋田にまで広がる団三郎伝説を収集して、『龍の子太郎』のような絵本を作ろうとしたことがあったのですが、製作途中に転校することになってあきらめたことがあります。それほど民話の収集と統合は難しい。



 私が、吾妻郡に住んでいて興味があるのは、吾妻郡の大柏木付近に点在する『大場三郎(だいばさぶろう)伝説』です。それは、こんな伝説です。

 昔、京の美しい姫が東に下り大柏木で三郎を生みました。三郎は剣術の達人となって村人を助け、剛勇の名をとどろかせるエピソードが沢山ある。それらを龍の子太郎のようにつなぎ合わせると吾妻郡版『龍の子太郎』になる可能性がある。ただし、龍の子太郎と違っているのは、ラストシーンです。ラストシーンとなるエピソード。それは、こんな話です。

「ある夜のこと、大きな地響きと雷鳴とともに山伏姿の天狗が現れ、
 さすがの三郎も太刀打ちできずにいると
 天狗はこう言いました。
『私は、この里に禍をもたらしにきたのではない、おまえに天狗道を教えに来たのだ』
 すると三郎の背中に羽が生えており、
『これから天狗道に赴いて生まれ育ったこの村の守りになる』
 と村人に叫びながら天狗に導かれて姿を消しました。
 それ以来、大柏木の里では穏やかで平和の日々が続いているということです」

その伝説の7ヶ所の地名を総称して「大場七景」と言います。

1.三郎の産湯の水を汲んだ井戸「かじか京」
2.武術の稽古に使ったと言われる「蒔田の松」
3.三郎の母が独経しながら亡くなったと言われる「上臈が平」
4.三郎の乳母を葬ったと伝えられる「お乳が窪」
5.三郎のために衣食足りて礼節を知る運んだと伝えられる
  ツバメに似た岩「つばくろ岩」 
6.どんな干ばつにも涸れず三郎の暮らしを支えたという
  「独りのみの井戸」
7.三郎が倒した盲人の亡霊を祀った石がある「盲目神」

では、大場三郎とは、何者でしょうか? 源平盛衰記によると源頼朝が伊豆を小船で脱出したときに追っ手として出てきたのが東入道50余騎、その後には大場三郎景親1000余騎が続いたとされています。その後、石橋山の戦いで頼朝を撃破。しかし、安房国へ逃れた頼朝が再挙して多くの東国武士に迎えられて鎌倉へ入ると抗する術を失う。頼朝が富士川の戦いで平氏に大勝した後に降伏し、処刑されています。この大場三郎と、大柏木の大場三郎の関連は、まだ明らかにされていません。

 しかし、これらの話を統合して絵本をつくれば、群馬に『龍の子太郎』以上のスケールの大きな童話が出来るはずです。地元の皆さん誰か作ってみませんか? 誰もやらないなら私がやりますけれど。



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  ここには、いわさきちひろがアトリエとして使用していた黒姫山荘もありました。


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 今でこそいわさきちひろは有名人ですが、私が子供の頃は、幼児用図書の新人挿絵作家として、いろんな学習図書・雑誌などでバリバリ働いている頃でした。当時の子供向けの本には必ず掲載されている。当時としてはポピユラーな絵柄で、多作作家として、あらゆる幼児用学習図書にいわさきちひろの絵が使われていました。

 つまり昭和30年代生まれの子供達にとっては非常に馴染みのある絵だった。
 どこにもでも、いわさきちひろがあった。
 小学館のマンガ雑誌にもあった。
 その昭和30年代生まれの子供達が大人になるにつれて、
 いわさきちひろの絵がどんどんと人気になっていた気がします。
 そして、いわさきちひろを安易に見かけることがなくなっていった。


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 いま、いわさきちひろを見るには、美術館に行かなければならない。


つづく。

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posted by マネージャー at 10:10| Comment(0) | 長野県&長野市 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする