2021年01月06日

半世紀前に存在した、とんでも授業【1】話し方授業

半世紀前に存在した、とんでも授業【1】

 早いもので、息子の冬休みも残すところあと一日になりました。あっという間に三学期です。その三学期が終われば、小学三年生です。そして小学校三年生になると、英語の授業とプログラミングの授業があるらしい。そういえば、だいぶ前にダンスが学校の授業で行われるようになったという話でした。

 私の弟に、中学校の先生と高校の先生がいます。二人ともプログラミングの授業に賛成のようでしたが、私は、疑問に思っています。小学校で大切なのは、日本語であって、漢字の読み書きと、算数、体育が一番大切だと思っています。プログラミングなんかやらせるぐらいだったらそろばんをやらせた方がいいと思ってます。余計な授業を増やしてほしくないんですが、それについては、ここでは触れません。

 今回は、昭和三十六年生まれの私が、昔あって今はもうなくなってしまった、とんでも授業を紹介したいと思います。

 これは私が体験したことではないんですが、昔の佐渡島の中学校では、バイクに乗る授業があったそうです。昔は、技術・家庭という授業があって、男は技術を学び、女子は家庭科を学んだのですが、男子が学ぶ「技術」と言う授業で、バイク運転の授業があったらしい。

 これは私が中学生の時に、技術の先生が面白おかしく話してくれたんですが、昔はバイクに年齢制限もなければ、免許証もなかったらしい。届ければ誰でもバイクに乗れたらしくて、そういう時代に中学校でバイクに乗る授業を行ったらしいのです。

 とはいうものの、当時バイクは貴重品でしたから、どの家にもあるというものではなくて、見るのも触るのも初めてと言う生徒が多かったらしくて、そのためにバイクに乗る授業は、事故寸前で散々だったらしい。まあそうですよね。そのせいか、この授業はすぐに廃止になったとのこと。

 どうしてそんな授業とかあったかと言うと、終戦間もない当時の日本では、航空機とか車を生産することが制限されていて、自転車かバイクを生産して東南アジアあたりに輸出するしかないという危機感が日本に充満していたらしい。嬬恋村で行われた浅間火山レース(バイクの公道レース)は、そういう時代背景の中で行われた可能性が高いですわけですが、そういう雰囲気の中で、こういうトンデモ授業があったそうです。戦後間もない頃の学習指導要領には、GHQの影響で上から教わるのではなく、自ら体験して学ばせることを重視すべしと書いてあったらしく、その延長上で、バイク運転体験があったのかもしれません。戦後まもない頃は、上から教わるのは悪で、自分で体験するのが善だった時代でした。

 この話を、中学校の先生に伺った時に、昔は免許証を発行するのが緩かったんですねと言ったら、その先生は
「ゆるいも何も、免許証をそのものがなかった時代が長い間続いていたのだよ」
と言いました。車検証があれば免許証がいらなかった。排気量750 cc以下であれば、二輪、三輪、四輪を問わず免許証はいらなく、十四歳以上なら運転しても違法ではなかったらしい。十五歳から軍隊に入れるので、軍隊に入ったら車の運転がありえるので、その年齢まで引き下げられたらしいのです。それを聞いた私たちは驚いたのなんの。

 ただし、この話は、昔の恩師から聞いた話なので、私の記憶違いがあるかもしれないので、都市伝説ぐらいに思っていただいて結構です。ここから先は私が経験した「とんでも授業」です。



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https://global.yamaha-motor.com/jp/design_technology/technology/daysgoneby/003/より借用



 私の子供の頃には「話し方授業」というものがありました。これはどういう授業かと言うと、みんなの前で立って話をするという授業です。これは毎日順番に全員に強制されました。毎日行われて、朝の学活で二名と、夕方の学活で二名。一日に二回、合計四名がクラス全員の前で、何か話さなければならない。しかも必ず十日以内に自分の順番がまわって来る。

 十日に一回は、四十人ぐらいいるみんなの前で必ず何か喋らなければいけない。今思えばすごい授業だったと思います。この授業は、私が中学校に上がる時になくなってしまいましたが、中学生時代に、恩師の先生たちが、
「昔は話し方の授業というのがあったんだよ」
と言っていましたから、話し方の授業というのは、小学校だけでなくて中学校でもあったようです。

 それで面白かったのは、廃止になってしまった話し方授業が、中学校の先生たちには、とても良い授業であったという感触があったらしくて、いろんな先生たちが、時々それを自分の授業で復活させました。教育指導要領では廃止になってたと思うんですが、話し方授業は必ず生徒のためになると思っていた先生がいたわけです。そして国語の授業や、社会の授業や、ホームルームの授業などで、多くの先生たちが、話し方授業の続編をやらせました。

 この話し方授業は、私の最も得意だった授業で、私には楽しみな授業だった。ほとんどの同級生が、話すことがなくて、歌を歌ったり、特技のケン玉なんかを見せていた中で、私だけがみんなの前で歴史講談なんかを語っていた。

 特に得意としてたのが、川中島の決戦・ゼロ戦の話・航空エンジンの構造といった話で、それを面白おかしく解説するので、そのつど国語の先生が喜んでいました。そのせいか、何かと国語の先生に目をつけられて、感想文をみんなの前で読まされたり、私の文章を先生が笑いをこらえながら読んだりもしました。そして、それでクラスは爆笑の渦になり、国語の先生に、お前は文章の才能があるからそっち方面に進んだ方が良いと言われたものです。



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 ただし、その国語の先生の目利きは外れたようで、読書感想文のコンクールなんかには一度だって入選したことがありません。私の書く文章は、どっちかと言うとギャグありきの講談調で書いてありましたから、読む人が読んだら不真面目な感想文だと思われたに違いありません。

 こんな私ですから、よく演劇なんかにスカウトさせられて劇に出演させられました。三年生を送別する演劇で、志村けんばりのコントを行いました。当時、こういう馬鹿な子供たちは私だけでなく、他にも多かったのは、「話し方授業」の成果だったかもしれません。ある世代の人間は、大勢の前で演説をする事を苦手に思わないのは、「話し方授業」のせいだと思います。長くなったので今日はここの辺で筆を置きます。退屈で無ければ明日、トンデモ授業の続編を書きます。



つづく。

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posted by マネージャー at 19:30| Comment(0) | 教育問題を考えてみる | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする