運動会・浅間団・白根団・赤城団・榛名団
前置きはこのくらいにして、今から50年ぐらい前の話です。私が小学生の頃に、盛んに行われていたのが班活動というものです。
例えば授業中に6人ぐらいの班を作って共同で勉強する。先生が問題をだして、班の仲間で考えて答えを出す。また班で共同研究をする。共同で発表会を行う。 班ノートというものを作って、同じ班同士で順番で日記をつけたりする。このようにやたらと班活動によって何かをさせようとする。そういうことがかなり多かった気がします。特に授業参観で、そのような活動が多かった。
で、息子の授業参観に出かけてみたら、そういうことは行われていませんでした。
今の小学校では、 班活動というのは下火になっているのでしょうか?
この班活動というものに、疑問を抱いたのは、高校生になってからです。高校生以上になると、班活動がガクッと減ってきます。専門学校や大学生になると、ほぼ皆無になります。どうしてだろうと不思議に思っていたのですが、20年前に宿業を始めて、日本ユースホステル協会と契約し、北軽井沢ブルーベリーYGHというユースホステルになってから、班活動の謎について、分かるようになり、長年の疑問が氷解しました。
ユースホステル始めてから、 ユースホステルの歴史を調べてみたのですが、日本におけるユースホステルの歴史は、日本青年団と切っても切れない関係にありました。この日本青年団・日本青年館が、戦後の義務教育に大きな影響を及ぼしていたのです。
終戦当時、日本青年館に横山祐吉(日本ユースホステル協会を創設した人です)という人間がいたのですが、彼には、終戦直後に日本青年団を立て直そうとします。というのも日本青年団は、戦争末期に軍部によって解散させられていたからです。
で、横山がどうやって立て直そうとしたかと言うと、GHQ(占領軍)に、 アメリカへ日本の青年を派遣して、アメリカの教育システムを吸収したい。だから日本の青年を派遣したいと要請しました。そして、アメリカ式の教育を日本に導入しようとしたのです。
最初は日本青年館が、どうして日本の教育について、でしゃばったことをするんだろうと思っていましたが、よくよく調べてみると、戦前には、義務教育の小学校高等小学校以外、青年学校というものがあったんです。青年学校というのは、働きながら勉強する学校だったりします。そして、 青年学校の教師と、小学校の教師は行ったり来たりしていたわけです。その青年学校は、戦後に廃止されるわけですが、その結果青年学校の教師が、失業したわけではなくて、新制中学校の教師に移動したと言われています。
まあそんなことはどうでもいいとして、青年団の親玉である日本青年館は、青年学校の親玉でもありますから、勤労青年の社会教育問題を真剣に考えていたわけです。そして、日本が戦争に負けることによって、 戦前の教育システムが、アメリカの教育システムに劣っていたから戦争に負けたと言う風潮もあったので、アメリカから教育システムを学ぶ必要性があると考えたわけです。
日本青年館
GHQ(占領軍)の方は、最初の頃は、横山祐吉が再建しようとしてる青年団を危険視したのですが、よくよく調べてみると、元々は、かなりリベラルな団体であると見られていたことがわかり、しかも、横山祐吉ひきいる日本青年館そのものが、アメリカから積極的に学ぼうという意欲があったことが分かって、これを利用しようとしました。
その後押しをしたのが、ラッセル・L・ダーギンです。彼は、大正8年から昭和17年までYMCA主事として日本に滞在して青少年活動を指導した親日家でありながら、昭和20年にGHQ民間情報教育局青年部長となって再来日した人です。もちろん日本語がペラペラで、日本の事情を全て知ってます。日本青年館のことも、横山祐吉も知ってます。だから日本青年館の横山祐吉を後押しして、青年の社会教育のために動きました。このラッセル・L・ダーギンが横山祐吉を大いにバックアップした。
で、横山祐吉が手がけたのが『共同学習の手引き』と『公民館』です。
YMCAでも『グループワーク』というものを作りましたが、
最初に狼煙をげたのは、横山祐吉の『共同学習の手引き』です。
そして文部省は、これをもとに、共同学習と公民館行政をすすめていきます。
GHQ(占領軍)も、大いにバックアップしていきます。
そして国会の予算会議で公民館の予算を通すときに、
横山祐吉を参考人として証言させています。
GHQ(占領軍)は、神風特攻隊に代表される戦時中の行動を封建的な縦割り社会からきていると思ってました。この縦割り社会を撲滅して、日本人を骨抜きにして、民主主義を根付かせるためには、一方的に上から教えると言う教育を廃絶しなければいけないと考えたわけです。教師が一方的に生徒を教えるというのを嫌ったわけです。そこで推奨されたのが横山祐吉が制作した『共同学習の手引き』です。 勉強は先生から一方的に教わるのではなくて、仲間を誘って共同で勉強しなさいということを推奨しました。これを協同学習とか、グループワークと呼んだわけです。 そしてこの考え方を当時の文部省が推奨した。その具体的な方法として、学校教育における班活動だった。
そして、もう一つが公民館です。青年学校が廃止され、公民館ができた。上から教える学校というものをGHQ(占領軍)は危険視した。そうではなくて、共同学習するための場所を用意する。これが公民館です。そして、公民館側は、利用者のやることには介入できないとした。そして、この公民館の思想は、青年団活動の過去の歴史(つまり若連中・若者宿・郷中宿)とも一致してて、都合良かったわけです。もともと日本の伝統からして、若者に老人が上から下に教えるという制度は無かったし、あっても武士の世界だけで、主流では無かった。日本の伝統では、若者は若者が教える。そこには大人が介入しないというスタイルだった。だから公民館も共同学習も、すんなり日本社会に受け入れられた。
ところが、これか各県に一斉に伝わったかと言うと、どうもそういうわけではないらしいというのは、私が群馬県に引っ越してきてからわかったことです。
群馬県と新潟県では隣同士ですが、新潟県ではかなり積極的に班活動が行われたのにかかわらず、群馬県の同世代の人に聞いても、そういう話はあまりに耳にしません。どちらかと言うと、群馬県では班活動よりも団活動に力が入っていたような気がします。 班活動と団活動では、ベクトルの向きが全く違うので、この辺はすごく驚いています。私の個人的な感想をいうと、群馬県の団活動には、感心しています。行きすぎた班活動より良いと思う。上級生の下級生の思いやりが、良く伝わってくるし、下級生は上級生を尊敬している。空手教室にいくと、1年から4年生まで一緒になって仲良く鬼ごっこしている。私が子供の頃(新潟県)は、学年が違うと、ほぼ他人だった。
まあそんなことはどうでもいいとして、どうして群馬県で、これほどまでに団活動が活発なのか、ちょっと分かりませんでした。そして群馬県くらい GHQ の意向に反抗した県はないと思う。あるとすれば佐賀県ぐらいでしょうか。この GHQ に対する反抗心は、どこから来てるんだろうかというのが、ずっと分からなかったんですが、息子が小学校に入学して6ヶ月ぐらい経ったところに、なんとなくわかりかけてきた。 ヒントは、上毛かるたにありました。
ただ今回も、文章が長くなったので、ひとまずここで筆置きます。どうして上毛カルタによって、群馬県民が、GHQ(占領軍)の意向を退けるようになったのか? どうして群馬が保守王国なのか? それを書くと、話がとてつもなく長くなるので・・・・。機会があったら書きたいと思ってますが、私が書かなくても群馬県民は、皆知ってることなので、そこは野暮というものですよね。
つづく。
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