・・・ようですと言ったのは、そういう風に見えたというわけで、実際にそういう役割なのかどうかはよく分かりません。ただ授業参観に出た限りは、担任の先生の手の届かないところをサポートをしてるように見えます。息子のクラスは全部で29人なのですが、その29人を二人の先生が、見ている勘定になります。私の子供の頃に比べれば、至れり尽くせりです。
実は、嬬恋村の小学校には、転校生がいっぱいやってきます。理由は新型コロナウイルスのせいです。都会に働きに出て行ったお父さんお母さんが、新型コロナウイルスで仕事を失って、Uターンして戻ってくるために、それに付属して転校生がやってくるわけです。そういう転校生は、友人関係はもちろんのこと、勉強面でも運動面でも不安を抱えていますので、そういう転校生を陰ながらサポートできる補助教員の制度は、かなり良い制度のように思えます。これが昔だったら、そういうことができなかったですから。
では、50年以上前の私の子供の頃はどうだったかと言うと、とんでもない状態でした。一クラスが40人から45人ぐらいいて、それを一人の担任の先生が面倒を見ていたと思います。もちろん補助教員なんか存在しません。存在しないどころか、担任の先生が病気になっても、代わりの先生がいませんでした。
どういうことかと言うと、私が小学校一年生の6月頃に、担任の先生が肺の病気で入院したんですが、非常勤(正教員ではない)の先生が、臨時に雇われ担任の先生となりました。現在からすると、臨時の非常勤の先生が、担任を受け持つことも常識外れですが、それが二年も続いて、二年間に五人も担任の先生が代わったことも常識外れです。昭和四十年代の教員の給料は、とても安くて先生のなり手がいなかった時代です。デモシカ先生といわれた時代でした。
私が小学校一年から二年にかけて、二年間に五人も担任の先生が代わった。つまり代理の先生が臨時に就任するわけですが、臨時の担任教師が、四人もいたわけです。つまり、私が小学校入学後の二年間に五人も担任の先生が代わったことになります。平均して、一学期ごとに担任の先生が代わったわけですが、二年間に五回も担任の先生が変わるという体験をすると、先生が変わるとクラスが全く別物になることに気づきます。ある先生の時は乱暴な状態になるし、ある先生の時は静かなクラスになる。担任が替わるだけでクラスの雰囲気が全く違ってくる。
ある先生は、「人間に成績をつけるが嫌いなのでテストに点数をつけません」と言って○×だけの答案用紙を返したりしました。当然のことながら通知表にもそれが現れますので、教育熱心な家庭の子供たちは自分の通知表に青ざめます。成績の良い子ほど両親に怒られていたと思います。みんな同じような平均値の成績をつけられていましたから。
こういうことをしたら今なら大問題になるところでしょうが、昔は、こういう個性派教師がいても何の問題もなかったまでしょうか?ただし、この先生は、点数はつけなかったけれど、成績が良くなった子供に対しては、一人一人呼び出して、すごく褒めていました。点数はつけなかったけれど褒め上手。そして親にもわざわざ言っていた。ただし点数になってないので親の方は「?」と首をかしげていたと思います。
別の先生は、運動バカと言ってもいいくらいのスポーツウーマンで、体操ばかりやらせていました。この先生も変わり者で、生徒が「・・・をしたい」と言うと、本当にさせてしまう恐ろしい先生でした。例えば、「学芸会の出し物で何をやりたいですか?」と聞いてきた時に、よせばいいのにクラスの女の子が「バレエ」をやりたいと言う。バレーボールではなく、バレリーナのバレエです。当時、少女漫画でバレエがはやっていた。そんなもの佐渡島の田舎の小学校二年生ができるわけがない。しかし、その先生は
「じゃあ、やろう」
と言ったから大変です。授業をつぶしてバレエの特訓です。基礎もできてない小学校二年生ができるわけがないのに、勉強そっちのけでバレエの特訓。そして、アホらしいことに何とか「くるみ割り人形」のバレエを上演してしまう。
というわけで、教師が替わるとガラリと教室の雰囲気が変わることを体験したことは、非常に貴重な体験でした。そのうえ、どういうわけか校長先生は、全校集会で毎週、二ヶ月で入院してしまった元担任の先生の病状報告を詳しく教えてくれました。ひょっとしたら元担任の先生は、元ではなくて、正式な担任の先生であって、現在の担任の先生は、仮の担任なのかな?と思わせるような口ぶりでした。この報告が無かったら、二ヶ月しか習ってない私たちは、とっくに忘れてしまっているのに、何度もしつこく報告するので、記憶が消えることは全くなかった。
で、代わりに担任になった先生は、やはり仮だったのか、突然に辞めていきます。そして新しい担任の先生が就任する。そして忘れた頃にジャングルジムか何かが、辞めた担任の先生から寄贈されている。ジャングルジムは、当時も現在も決して安いものでは無いです。車が買えるくらいの値段です。それを寄付した安月給の元担任の先生は、隣村の小学校で正式な先生になったという。
で、手紙が送られてきて、「みんなと出会って本当に良かった。これから隣町で正式な先生になって頑張ります・・・・」みたいなことが書いてある。今から思えば、私たちが踏み台になっていたような気もしますが、その先生は、別れ際に涙を流しながら去って行ったわけですし、私も別れ際でギュッと抱きしめられたので、本当に去りがたかったのかなあと思います。もちろん小学校の低学年ですから、勘違いの記憶であった可能性もあります。
このように昔の小学校では、かなり大雑把な人事が行われていたようです。これは私が体験した佐渡島の小学校だけではなくて、他の小学校でも行われていたようです。それが証拠に昔に出版された本に書いてあったりします。
例えば朝日新聞記者だった秋吉茂氏が書いた『美女とネズミと神々の島々』では、トカラ列島の悪食島を取材するために、島で滞在させてもらう条件として小学校の補助教員を申し出て、それに採用されています。昭和36年の話ですが、新聞記者が一時的に小学校の教員をやっていたわけです。それが『美女とネズミと神々の島々』に書いてある。そしてこの本は、その当時大ベストセラーになっているけれど、その辺を突っ込んだ人は、当時、誰もいなかったことを考えてみても、昔は教員資格に対してかなりおおらかになっていたような気がします。
つづく。