それは給食の時間にわかりました。私が通っていた中学校には、一学年に三クラスあったんですが、他クラスへの留学制度というか、生徒の他クラスへの一時的なトレード制度がありました。例えば、A組から三人・B組から三人・C組から三人。各クラスから三人ずつを給食の時間だけ他のクラスにトレードする制度です。給食を通して三クラスで交流を持とうと言うことをやっていました。
例えば、A組から三人・B組から三人・C組から三人。各クラスから三人ずつを給食の時間だけ他のクラスにトレードする制度です。給食を通して三クラスで交流を持とうと言うことをやっていました。外部の人間を一時的に入れるという、この制度によって集団イジメなどの抑止力が働いていたので、これはこれで素晴らしい制度だったと思います。
私はC組だったんですが、A組に行って彼らと一緒に昼食を食べてみたら、私のいたクラスと、あまりにも違っていて驚いた。そのクラスでは、みんなでじゃんけんをして、負けた一人が、全員の分の食器を片付けることになっていました。
「それはひどい」
と抗議したんですが、「負けるのが怖いのか」と言ってきたので、カーッとなって勝負を受けて勝っています。そして勝利した上で、負けて一人で全員のぶんの食器を片付けているの手伝ったのですが、手伝うのは私一人で、誰一人手伝おうとしない。負けた人に対する同情が全くない。それに義憤を感じた私ですが、気が付いたら私が悪者になっていた。シャレのわかんないやつだと周りから非難されていた。これに衝撃を受けた私は、クラスが変わるとこんなにも雰囲気が変わるんだと驚きました。
私がいたクラスは、誰もがみんながお互いに助け合う雰囲気を持っていたので、じゃんけんで勝負して、負けたら食器を全部片付けるとか、負けたら一人で全部掃除するという文化がどうしてもわからなかった。そういう文化の違いが、給食時間におけるトレード制度で否応なく体験できたのは、今から考えたらすごく良かったと思います。
あと、こういうじゃんけん勝負を許していたのも昭和時代の特色かもしれません。今だったらちょっと考えにくいですよね。
このようなトレード制度は、いわゆる昭和時代の文化だと思います。クラスによってあまりにも雰囲気が違いすぎるので、その雰囲気の違いを体験しようというトレード制度ができたんだと思います。けれど平成時代になってからこういう文化があったと言う話を聞いたことがありません。つまりどのクラスに言っても大して違わないようになっていたんだと思います。どのクラスも均一化されていったんだと思います。
あと、このようなトレード制度は、学校の先生が考えたものではなくて、生徒会か何かが企画立案したものだと記憶しています。そういう生徒の意見が学校の先生に通用したのが昭和時代だった気がします。これは生徒の意見を取り入れた先生も偉いと思いますが、こういう意見を先生に申し出る発想が生徒にあったということも 今から考えたらすごいことなのかもしれません。
また、毎日ではありませんが、給食の時間に、担任の先生でない先生と一緒に給食を食べていました。これは生徒会の意見でこうなったのか、教職員の考え方で、そのような制度ができたのか、よく分かりません。ちょっと覚えてないです。
それはともかく他の先生と一緒に食事をすると、その先生の色々な部分が見えてきて非常に楽しかったことを思い出します。
授業では分からなかった先生の過去とか、先生の家族構成とか、先生の出身地なんかが聞けるからです。授業中にそういう脱線を嫌う先生も、給食の時間に限っては、無礼講だった気がします。
特に、国体で現役でバリバリ走っていた陸上を専門とする体育の先生なんかと一緒に食事をした時が面白かったです。まだ24歳ぐらいだったかと思いますが、自分のことをおじいちゃんとか、年寄りと言っていました。当時は「年寄りじゃないじゃん」と思っていましたが、陸上の競技会の選手の中では、老人扱いされていたのかもしれません。
その先生は、陸上部の顧問の先生だったんですが、放課後になるとガンガン走っていました。特に大会が近づいている時には、日が暮れるまでグランドを一人黙々と走っていて、それを見て部活動に身が入らなかった生徒はいなかったと思います。そういう先生と、一緒に給食を食べる機会は、今思えば非常に貴重な時間だったと思います。
給食と言えば思い出すのが、脱脂粉乳です。私が小学校二年生の時まで、給食に脱脂粉乳が出ていました。大きなやかんに脱脂粉乳を沸かして、それを六年生のお兄さんが各児童のアルミか何かのコップに入れて配ったものです。そして昼食を食べる時間が始まると、脱脂粉乳の入ったアルミのコップに湯葉がってきていて、それを先割れスプーンで食べてから脱脂粉乳をのみました。温められた脱脂粉乳は、時間が経つと表面に湯葉のような薄い膜ができていましたから、これをスプーンで最初にすくって食べないと、薄い膜が唇から垂れ下がることになります。
この脱脂粉乳の話をすると、体験者のほとんどの人たちが
「まずかった」
と言いますが、みんな肝心なことを忘れている気がします。どんなに不味くても脱脂粉乳を残していた児童はいなかったという事実です。
私が小学校三年生の時から、脱脂粉乳が廃止されて牛乳になったわけですが、これを残す子供たちが続出しました。特に冬になると冷たくて牛乳が飲めないと言う子供たちが多かった。私は牛乳が大好きだったので、そういう子どもたちからたくさんもらって、一日に五本も六本も飲んだ記憶があります。そして、瓶牛乳の早飲み男として有名でした。キャップをあけるところからスタートして3秒で飲み干し、5本を15秒で飲みきっていました。紙キャップをどうやって開けたかというと、前歯であけて飲んでいます。
そんなことは、どうでもいいとして、どうして脱脂粉乳を残さなかった子供たちが牛乳を残したかと言うと、冷たかったからです。あと、当時の食文化のためか、胃袋が牛乳やチーズを受け付けない子供たちがいて、温かい脱脂粉乳を飲めても冷たい牛乳は飲めないと言う子供が少なからずいたのです。なので給食の時間になると、私は牛乳やチーズをいろんな友達からもらっていました。多い時には牛乳五個とチーズ十個くらいもらったこともあります。
ちなみに牛乳が給食に出始めた頃、牛乳瓶ではなくて三角の容器に入っていました。その三角容器の牛乳の飲み方を先生から教わった記憶があります。その三角容器も、いつのまにかなくなって、牛乳瓶に変わっていきました。そうすると、牛乳を残す子供たちが少しずつ減ってきました。
理由は、単純明快で、学校のストーブの上に置いてあるお湯の入った大きなタライに牛乳を入れて温める人が出てきたからです。真冬に冷たい牛乳が飲めなかった子供も、牛乳瓶を温めることによって飲めるようになったわけです。けれど、ここで事故が続発します。長時間牛乳を温めすぎると瓶の底が割れてしまうのです。なので学校のストーブの上のタライは、午後になるといつも真っ白になっていました。そして教室中に授乳の香りが漂っていたのです。
話は令和時代に戻ります。息子が入学した時に驚いたのは、一年生なのに給食当番があるということです。私が子供の頃は、給食当番は三年生になるまでありませんでした。一年生の給食の配膳は六年生が行っていましたし、二年生の給食の配膳も五年生が行っていました。なので、五・六年生はお昼になると下級生の給食の配膳のために非常に忙しかった。
なぜなら、下級生の配膳の後には片付けが待っていたからです。ところが、どの時代にも食べるのが遅い下級生がいました。食べられないおかずがあったりすると、さらに遅くなります。そういう低学年の子供たちがいると、片付けをしなければいけない上級生のの昼休みがなくなってしまうので、イライラしながら待ったものです。ひどいやつになると、
「食べられないんなら残しちゃえ」
と悪魔のささやきをつぶやくやからも少なからずいました。早く片付けてお昼休みに遊びたいからです。特に気の小さな女の子をそそのかして、こっそり残飯を捨てさせたりしたのですが、それが女の子の担任の先生に見つかって、女の子だけが怒られるということがよくありました。
つづく。
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