2021年02月28日

大河ドラマについて【2】

 私は5歳ぐらいの頃から、親と一緒に大河ドラマを見続けていて、その影響で歴史が大好きになっています。5歳の人間に大河ドラマはハードルが高いのですが、偶然にも私が初めて見た大河ドラマは『源義経(1966年)』だった。

 私が子供の頃は、源義経は、牛若丸として絵本や紙芝居で何度も見ていたし、保育園で牛若丸の歌を歌っていた。なので『源義経(1966年)』は五歳児にも親しみがあり、毎週楽しみに見ていて、土曜日の再放送さえみていた。最終回の弁慶の立死のシーンは、夢に出てきてうなされるほどの衝撃で、60歳になる今でも脳裏に光景がきざまれています。

 ただし、次の年の『三姉妹(1967)』には全く興味が持てなかった。私の記憶には残ってない。次の年の『竜馬がゆく(1968)』は、面白がって見ていた記憶があるんですが、内容は思い出せません。当時、私は小学校1年生だった。一年生には、坂本龍馬は難しかったのかもしれない。

 私を大河ドラマにのめり込ませた決定打は、上杉謙信を主人公にした『天と地と(1969)』だったと思う。この作品は、NHKのドラマとして、当時の最高予算を使ったドラマだった。合戦シーンに大勢のエキストラを使っただけでなく、それをヘリコプターを使って空中撮影までしていた。





 私の育ったところは、上杉謙信の地元である新潟県なので、近所中が『天と地と(1969)』を見ていた。新潟県民で、この大河ドラマを見てない人はいなかったと思う。新潟中の人間が、『天と地と(1969)』に熱中した。当然のことながら子供たちも、巻き込まれて見るようになる。

 私も例外では無い。
 小学二年生だったけれど、この大河ドラマに熱中した。
 これは私だけではなく、同じ年齢の同級生たちも見ていた。
 ゲームがはびこる今では考えられないけれど、
 当時の子供の遊びはチャンバラだった。
 
 そもそも上杉謙信という奇跡的な人物を主人公にしているのだから、面白くないわけがない。上杉謙信くらい劇的な人生なら、誰がシナリオを書いても面白くなるのだが、脚本を書いたのが、新潟県出身の杉山義法だった。彼の脚本には、上杉謙信がのりうつっていた。新潟県民でないと書けないシナリオだった。

 そもそも原作が面白かった。司馬遼太郎の師匠筋にあたる海音寺潮五郎なので、面白くないわけがない。そのうえ海音寺潮五郎は、フィクションを控える。だから余計に海音寺潮五郎の上杉謙信が本物にみえる。そもそも海音寺潮五郎(薩摩隼人)には、上杉謙信的なところがある。だから面白さが増していたのかもしれない。

 で、私は親に「今まで一番面白かった大河ドラマは?」と聞いたことがある。『天と地と(1969)』という答えが返ってくるかと思いきや、大河ドラマの第一作である『花の生涯(1963)』という解答に驚いた記憶がある。幕末の時代劇では、悪役として登場する井伊直弼が主人公にした大河ドラマなので、非常に驚いた。

 以上、ここまでが前置きである。
 これ以降は、私が20歳になってからの話になる。

 二十歳になった私は、映像系統の学校に通っていた。そこで映画『キューポラのある街』の監督である浦山桐朗氏の講義を受けた。その浦山桐朗氏が、講義中にNHK大河ドラマについて強烈なダメだしをしていた。

 当時のNHK大河ドラマは、『おんな太閤記』を放映しており、平均視聴率31.8%という化け物番組の数字をだしており、多くの人々が熱中して見ていた。大河ドラマの時間は、銭湯が空っぽになっていた。だから浦山桐朗氏のNHK大河ドラマ批判に違和感を持ってしまった私は、
「あんなのは大河ドラマではない」
という浦山桐朗氏に
「どのへんが大河ドラマではないのでしょうか?」
と質問してしまった。すると浦山桐朗氏は
「テレビをよく見てみなさい。八割が人物のアップになっている。ほとんど顔しか写ってない。顔ばかり見せている。まるでホームドラマだ・・・。昔の大河ドラマはね、例えば『花の生涯(1963)』なんかは・・・」

 ここで『花の生涯(1963)』という固有名詞を聞いて、昔、親から聞いた一番面白かった大河ドラマが『花の生涯』という事を思い出し、いろいろ伝手をたどって『花の生涯』のビデオを見てみて驚いた。テレビだというのにモンタージュを多用しており、クローズアップまで使われている。そうえカットバックまで使っている。カットバックとは、異なる場所で同時に起きている複数シーンのショットを交互につなぐ演出のことで、テレビでは滅多に使われない手法です。つまり、この作品はテレビの手法で作られてなかった。あきらかに映画の手法で作られていた。特に井伊直弼を暗殺するするシーンは、リアルで凄かった。


 雪の中、水戸浪士が斬りかかる。
 護衛の者は、刀が抜けない。
 刀は、金ピカの刀袋に包まれており、
 その紐を解こうとするが、
 雪の寒さで指が思うように動かない。
 (江戸城に入る武士は刀を豪華な刀袋に入れていた)

 水戸浪士が、ジワジワと井伊直弼の駕籠を囲んでいく・・・・。
 そしてカットバック!





 まさに映画! 大河ドラマというより映画。しかし、この作りをみて感じたことは、私もこういう作品(大河ドラマ)を見たことがあるというデジャブー感でした。もちろん『花の生涯』の事では無い。そうではなくて倉本聰の大河ドラマ『勝海舟(1974)』を思い出してしまった。『勝海舟(1974)』も、すごい大河ドラマだった。倉本聰の最高傑作は、『北の国から』ではなくて『勝海舟(1974)』だと私は思っています。

 それはともかくとして、大河ドラマのスタートを切った『花の生涯(1963)』が、映画的な手法で作られていることに驚き、当時、最高視聴率をとっていた『おんな太閤記』が、非常にテレビ的に作られていることに妙に感心したものです。

 で、いつから大河ドラマが、映画的なものからテレビ的なものに変化していったかというと、『天と地と(1969)』が分水嶺だったかもしれない。『天と地と(1969)』までは映画的な香りがしていた。その後の『樅ノ木は残った(山本周五郎・1970)』あたりになるとテレビ的になっていて、『春の坂道(1971)』になると、今の大河ドラマと同じように完全無欠のテレビ番組になっていた。

 そして次の『新・平家物語(1972)』になると、平岩弓枝のシナリオということもあって、完全無欠なテレビであり、『おんな太閤記』のように役者のアップが目立つようになり、当然のことながらほとんどスタジオ撮影だった。だから絵巻物のような美しい画面が、これでもか!と出てきた。ロケが多いと、こうはいかない。

 若い人にはわかりにくいかもしれませんが、昔のテレビでは、ロケになると16mmフィルムで撮影していて、スタジオの場合はテレビカメラで撮影していたので、ロケシーンになると、画像が変わっていました。16ミリの画像は粗かったのです。なので、視聴者は、このシーンはロケで撮影しているか、スタジオで撮影しているかがはっきり分かったのです。ロケでもテレビカメラで撮影できるようになるのは、もう少し後のことです。

 それにしても、推理小説家であり、ライトノベルの元祖的存在でもある平岩弓枝を大河ドラマの脚本担当にしたNHKも大したものです。吉川英治の『新・平家物語』を、元祖ライトノベル作家の平岩弓枝に脚本を書かせるという組み合わせがすごい。おまけに新日本紀行のテーマ曲で有名な冨田勲が、『新・平家物語』の音楽担当だったので、作品全体が艶やかになっていました。

 平岩弓枝にしても、プロの脚本家でも無いのに、『肝っ玉かあさんシリーズ』と『ありがとうシリーズ』の人気ドラマをかかえながら、よく『新・平家物語』の脚本を引き受けたなあと感心します。パソコンもワープロも無い時代に、いったいどうやって、大ヒット作品を量産したのだろう?と不思議でなりません。



つづく。

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posted by マネージャー at 12:29| Comment(0) | 旅と思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月26日

大河ドラマについて【1】

 うちの嫁さんは、ここ2・3年、ようやく歴史に興味を持ったらしくて、毎週大河ドラマを見ています。きっかけは、何年か前にあった『真田丸』を見てはまったことから始まります。それ以前は、歴史に対してまったく無関心でした。というか、織田信長が何をした人なのかも知らないし、豊臣秀吉がいつの時代の人かも知りません。江戸時代と鎌倉時代が、どっちが古いとかも知らない。下手したら江戸時代の次に平安時代が来てその次に奈良時代が来るぐらいに思っていましたから、嫁さんの歴史の知識は、小学校1年生にも劣るレベルだったことは間違いありません。





 それが大河ドラマの真田丸を見てから、歴史好きになってそれ以降の大河ドラマを欠かさず観ています。とはいうものの、小学校1年生レベルの知識ですから、大河ドラマを見た後に、わざわざ私に、史実を確認してきます。私が何度も
『大河ドラマは史実と違うから、見ようとは思わない』
と言うから、大河ドラマを見終わった後に、本当の史実どうだったとか、大河ドラマを見ても色々分からない点を質問してきます。それがあまりにもうざったいので、適当にあしらっていると、自分でインターネットで検索して調べている。

 現代はありがたいもので、大河ドラマを色々と解説してくれるYouTube動画がいっぱいあって、タブレットを仕事場に落ち込んで、仕事をしながら大河ドラマを解説するYouTube動画を一生懸命見ています。

 その変わりように疑問を抱いた私は、あれほど嫌っていた歴史を、どうしてこんなに好きになったのか質問してみました。また、どうして昔は、日本の歴史が嫌いだったのかとも質問しました。すると驚くべき答えが返ってきました。嫁さんの日本史嫌いは、親譲りだったらしいのです。

 嫁さんの母親は、女系家族だったらしくて、姉妹ばかりだったらしい。そのためか、やたらとチャンバラを見せる時代劇が大嫌いだったらしい。なので嫁さんが物心ついてから時代劇や大河ドラマを見る機会は全くなかった。その影響を受けてか日本の歴史が嫌いになったらしい。

 これは嫁さんの母親が戦後の世代ということもあって、GHQ(占領軍)の影響で自虐史観を植え付けるれたということも考えられます。とにかく嫁さんの実家では、時代劇や日本の歴史に関するドラマがテレビから流れることはなかった。そういう影響を受けて育った嫁さんは、当然のことながら高校時代は世界史を専攻。日本史を学ぶ機会が全くなかった。

 もちろん私が毎回のようにブログに書いている歴史に関する文章も読んだことがない。私が持っている数千冊の歴史関係の本も、結婚して以降一度だって見たことがない。それが歴史好きになってしまった原因は、NHKの大河ドラマの『真田丸』です。真田丸が放映されると地元としてはお客さんから質問があってはマズいと思ったのか、毎週欠かさず見ていました。そして日本史が面白い事に気が付いて、それからは大河ドラマの熱狂的なファンになっていた。歴女になっていた。今では息子のために買い与えた『漫画日本歴史』を嫁さんも一緒に読んでいます。

 この事を考えると、親が子供に与える影響は想像以上に大きいです。

 私の場合は逆で、私の親が大河ドラマが大好きだったために、5歳ぐらいの頃から、親と一緒に大河ドラマを見続けて、その影響で歴史が大好きになって、歴史書を読みあさる子供時代だった。そうやって、あるていど歴史に詳しくなると、フィクションだらけの大河ドラマには、全く興味が持てなくなっている。まあ、そんなことはどうでもいいとして、親の影響で、歴史に対する好き嫌いは、大きく違ってくる。これは事実だと思います。

 あと私の場合、5歳の時に最初にみた大河ドラマが『源義経(1966年)』だったことが良かったかもしれない。本来なら5歳の人間に大河ドラマはハードルが高いのですが、5歳児でも源義経は、牛若丸として絵本や紙芝居で何度も見ていたし、保育園で牛若丸の歌を歌っていましたから、『源義経(1966年)』の大河ドラマは五歳の私にとっては難しくなかった。むしろ毎週楽しみに見ていた。毎週どころか土曜日の再放送さえみていた。保育園の年中組だったにもかかわらず、食い入るように見ていた。



(最終回の弁慶の立ち死にのシーン)


 特に最終回の弁慶(緒形拳)の立ち死にのシーンは、夢に出てくるほどの衝撃で、あのシーンは、60歳になる今でも脳裏にきざまれています。だから私には歴史好きになる素養があったけれど、嫁さんの場合は、そういう出会いが無かった。無かったので歴史音痴だったわけですが、今では立派な歴女になりつつあります。環境というものは、恐ろしいものです。子供の将来は、間接的には親が決めているのでは無いかと思えるくらいです。

 ちなみに嫁さんの母親は、チャンバラが大嫌いなうえに、沢田研二とミュージカルが大好きだったために、うちの嫁さんも芝居がすきになり、演劇系統の大学に進学しています。もし、私と出会ってなかったら歴史と一生縁が無かったでしょう。そして、うちの息子は歴史が大好きで、Eテレの高校日本史を見たり、Eテレの歴デリを好んで見ています。時々、歴史秘話なんかも見ていますが、大河ドラマには見向きもしてません。私が大河ドラマを見ないので、その影響も大きいと思われます。



つづく。

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posted by マネージャー at 23:18| Comment(0) | 旅と思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月25日

カニ族の青春

 このブログを読んでいる人だと思うんですが、ある人から『カニ族の青春』という本を送ってもらいました。ありがとうございました。

 カニ族と言っても、若い人たちには何のことかさっぱり分からないと思いますが、昔は旅をする時に、キスリングというリュックサックを背負って旅をしたのですが、このキスリングでさえ今では死語となっています。


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 キスリングというのは、横に長いリュックサックのことです。キスリングと現代のザックと、どこが違っているかと言うと、横幅が長い。現在のザックが縦に細長いのに対して、キスリングは横幅がある。どうしてかというと、フレームがないから、縦長にできない。饅頭のような形・巾着のような形にしかできない。で、両サイドに大きなポケットを作った。そのほうが、安定するからです。

 しかし、これは非常に担ぎにくかった。
 全部の重量が、肩に食い込むからです。
 だから昔の山岳会では、腕を組んで猫背になって山を登るように指導していた。

 ちなみに、このキスリングは、私が中学生だった1970年代の半ばまで、日本の登山家たちは、みんな担いでいました。1975年頃から日本にも現在のようなフレームザックがでてきます。

 ユースホステル運動・ワンダーフォーゲル運動の盛んなドイツでは、ザックの性能が著しく進化しました。その結果、ドイツでは、ザックにフレームを入れて縦長にして、肩ではなく腰で担ぐようにしました。それが現代のザックです。なのでキスリングは、もう滅びてしまって、どの店にも売っていません。

 理由は疲れるからです。逆に言うと縦長のザックの方は、疲れません。バランスも取りやすいし、腰で背負うので荷物も軽くなります。キスリングはそういうわけにはいきません。肩だけで背負うので、肩が痛くなるし、歩くとふらふらする。

 まあそんなことはどうでもいいんですが、昔の人たちは、キスリングを背負って旅行したわけですが、大きなキスリングから手足が出ていて、その姿が蟹のように見えたので『カニ族』と言われました。そしてカニ族が日本全国を席巻していたのが、1960年代末から1970年代のことです。そして彼らの大半は、鉄道旅行社でした。当時若者で、車やバイクを持ってる人は、よほど裕福でもない限り難しかったので、鉄道旅行をするしかなかったわけです。もちろん鉄道会社も積極的にカニ族を応援しました。

 カニ族を対象としたイメージソングまで作られていました。
 みんなも知っている有名な歌です。
 『遠くへ行きたい』
 『いい日旅立ち(山口百恵)』
 『思えば遠くへ来たもんだ(武田鉄矢)』
 『旅人よ(加山雄三)』
 などです。

 この他に『風来坊』『遠い世界』『岬めぐり』『風』なんてものもありましたけれど、やはり『遠くへ行きたい』『いい日旅立ち(山口百恵)』『思えば遠くへ来たもんだ(武田鉄矢)』『旅人よ(加山雄三)』の4曲が有名ですね。


 『遠くへ行きたい』は、1970年に国鉄が一社提供として作った番組で、そのテーマ曲になった曲です。当時、国鉄は大阪万博のために製造した車両の有効活用を考え「DISCOVERJAPAN」という旅行誘致キャンペーンを開始して、駅スタンプを各駅に設置し、周遊券を新設するなどして、若者に旅行ブームを煽り『遠くへ行きたい』のテレビ番組を作ってもりあげ、DiscoverJapanというCMをじゃんじゃん流していました。



 『遠くへ行きたい』


 『いい日旅立ち』も、国鉄による旅行誘致キャンペーンソングで、「DISCOVERJAPAN2」として1978年11月に山口百恵で歌われています。この曲も大ヒットして、多くの若者たちが、この曲を歌いながら旅に出ました。



『いい日旅立ち』


 『思えば遠くへ来たもんだ』は、武田鉄矢の曲で、国鉄による旅行誘致キャンペーンソングに採用されかかった曲で、山口百恵の『いい日旅立ち』と最後まで争った曲です。結局、国鉄は、山口百恵の『いい日旅立ち』を採用したわけですが、『思えば遠くへ来たもんだ』も素晴らしい曲なので、もし、これが選ばれていたら男の旅人が増えていたでしょうね。そして駅寝がもっと爆発していた可能性がある。なので山口百恵の『いい日旅立ち』だからこそ、女性一人旅が大勢現れて、ユースホステルに女性の旅人が多かったのだと思います。



 『思えば遠くへ来たもんだ』


 そして加山雄三の『 旅人よ』も同時期に大ヒットとなった歌ですね。


『 旅人よ』


 残念ながら、この後、国鉄はJRになって急行列車・夜行列車・周遊券を廃止します。
 そして、「DISCOVERJAPAN」のキャンペーンは無くなり、
 新幹線の宣伝ばかりになり、JR東海 X'masExpress みたいな宣伝ばかりになる。
 キスリング・カニ族の時代は終わりを告げるのです。





 この時代になると、鉄道は旅の道具と言うより、
 便利な交通機関という感じになって、哀愁が無くなってしました。


つづく。

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posted by マネージャー at 22:14| Comment(0) | 旅と思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月24日

【新型コロナ】今から来年冬の対策を立てて欲しい!

 昨日の天皇誕生日の時に、息子と嫁さんが鹿沢のスキー場にスキーに出かけたわけですが、その時の話お嫁さんから聞いたら、かなり上達していたということでした。去年の年末から今年の2月にかけて、息子のやつはスケートしかしていませんでしたから、スキーが上達するわけがないんですが、どういうわけかかなり上達していたらしい。

 練習もしてないのに上達してた理由が分かりませんが、思い当たることがあるとすれば、スケートの練習。スケートの練習が、どうしてスキーの上達に繋がるのかが謎ですが、バランスの取り方が良くなったためなのか、それともスケートの基本練習が、スキー上達のステップになったのか? その辺がさっぱり分かりません。その方面に詳しい方がいたら教えてもらいたいものです。

 ただ言えることは、2ヶ月間スケート練習することによって、うちの息子の足が速くなっていたこと。短距離はともかく、800メートル走は確実に速くなっている。30秒ぐらい早くなっている。それとスキーの上達に何らかの関連性があるのでしょうか?

 それはともかくとして、嫁さんの話ではスキー場が、そこそこ混んでいたらしい。それを聞いてほっとしました。駐車場は群馬ナンバーばかりだったらしいんですが、この際、何県からのお客様だろうが関係ないですよ。スキー場が潰れなければそれでいい。





 ところで、新型コロナウイルスのワクチンが、接種される時期が近づいているようですが、これで劇的に変わるということはないと思っています。ワクチンとは言ってますけれど、専門家の話によれば、あれはワクチンとゆうより新薬だという話も聞いています。

 この辺のことは医学に素人の私には分からないことですけれど、これで来年の冬に緊急事態宣言が起きないという保証はない。やはり今年と同じようなパンデミックが起きると思うんですよね。起きないことに越したことはないけれど、起きると思って対策を立てておいた方がいい。だから私は、来年の冬の営業は駄目だという想定のもとに計画を立ています。これはどの会社でも、同じだと思うんですけれど。

 そういう意味で小学校・中学校も今から対策を始めてほしい。例えば夏休みを一週間短くして、その代わりに、パンデミック対策として、冬に一週間の特別休みを設定する。その特別休みは、インフルエンザや新型コロナウイルスの流行を見極めて自由に決められるように決めておく。文部科学省は、そのくらいのことを各都道府県に通達しても良い。そういう対策を今から始めてもいいんではないでしょうか? 仮に、もしインフルエンザも新型コロナウイルスの流行もなければ、春休みを一週間早くするとか、色々な手段が取れると思います。文部科学省や各教育委員会には、今から準備してもらいたいです。


つづく。

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posted by マネージャー at 21:42| Comment(0) | グンマーで嫁が出産と育児 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月23日

ありがたみ

 今日も息子と嫁さんがスキーに行っています。私は家で留守番です。というものの新型コロナウイルスのせいで収入があるわけではないので、朝早くからお弁当を作ってのお出かけです。現地調達主義の私と違って、うちの嫁さんは、金を使わない節約家なので、飲み物・弁当・おやつは、全て自宅から持っていきます。これに息子はちょっと不満だったらしくて、スキー場に着くと、スキー場のレストランで楽しそうに食事をしている家族を羨ましそうに眺めていたそうです。





 とはいうものの、小学校の2年生にもなると我が家の経済状況を理解しているらしく、買って欲しいとか、レストランに入りたいとは言ってきません。あそこのレストランのカレーライスは美味しそうだねというだけです。何かを買ってくれとか、どこかで食べたいということは一切いません。もちろんうちの嫁さんも、そういうことに対しては厳しいので、1円も現金を使うようなことはしません。

 で、今日も朝8時ぐらいにスキー場に出発して言ったんですが、10時ぐらいに戻ってきました。
「どうしたの?」
と聞いたらスキー場のチケットを忘れたとのこと。

 これには私も呆れてしまいました。忘れたことには切れたのではなくて、往復1時間以上の距離を使って取りに帰ってきたことに呆れました。もし私ならガソリン代を考えたら現地で正規の料金を払ってスキーを滑り、忘れたスキー場のチケットは次回に使うのですが、うちの嫁さんは、徹底して節約するタイプなので、わざわざ取りに帰ってきた。

「時間がもったいない」

と私なら思うんですが、うちの嫁さんにとっては金の方がもったいないらしい。そういう性格なので息子とスキーに行っても絶対に現金を使わない。

 逆に私の方は、息子と一緒にスケート場に入った場合、現地でおやつを買ったり、ポタージュスープなんかを自販機で買ってきて飲ませたりしていたので、このギャップに息子は、がっかりしているもよう。そしてお金を使おうとしない母親に、息子のやつは半ば諦めに近い境地になっている。でもまあ宿屋の嫁さんとしては、1円でも節約したい気持ちはよくわかります。

 うちの嫁さんは決してケチというわけではない。

 そもそもケチだったら息子を連れてスキー場なんかには行かない。スキーをさせるとか、登山をさせるとか、そういうことには私も嫁さんも金を惜しまない。ただし余計な贅沢は絶対にしない。そのへんは厳しすぎるくらいにストイック。おやつも、飲み物も、弁当も、手作りして自宅から持って行く。現金は使わない。

 ただ、子供が無料のスキー場は、とても混雑していて、家族でご馳走を食べたり、アイスクリームを食べたりとか、そういう風景が見られる場所なので、さすがにうちの息子も羨ましくなるらしい。レストランの前を通り過ぎるたびにため息をついていたらしく、
「・・・を買って」
とは絶対に言わないのだが、それを羨ましそうに眺めてはいる。けれど決してお強請りははしない。家の経済状況を知っているためか、決して金のかかる要求はしない。しないけれど、羨ましそうに見ることは見ている。さすがに母親も、可哀想になったらしい。





 そこで嫁さんの奴は、アイスクリームの自動販売機があったので、
「アイスなら買っていいよ」
と言ったらしい。息子は大喜びでアイスの自動販売機に向かっていった。そして選択に悩んでいた。なかなか買うものが決まらなかったらしい。で、嫁さんのやつが、その自販機を見てみたら、みんな値段が高かった。高いものは250円。安いものでも170円だった。
「しまった」
と思ったうちの嫁さんは、どれにしようか悩んでいる息子に対して200円を渡して、
「これで好きな物を買いなさい」
と言った。腹黒い母親である。これで170円のアイスクリームしか買う選択肢がなくなった。しかしそんなことには気がつかない息子は、喜び勇んで170円のアイスクリームを買って、30円のおつりを返して
「お母さん、大事なことだから二回言うね」
と言い
「お母さんありがとう。お母さんありがとう」
と嬉しそうに言って、美味しそうにアイスを食べたらしい。腹黒いうちの嫁さんの思うつぼだった。

 私が息子をスケートに連れて行ってた時には、アイスを買ってあげても、そんなにうれしそうにはしてなかった。そう考えると、私からもらうおやつは、ありがたみがなくて、嫁さんからもらう、おやつは、とてもありがたみのあるものになる。ちょっと考えさせられてしまった。



つづく。

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posted by マネージャー at 13:12| Comment(0) | グンマーで嫁が出産と育児 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月22日

子供が無料のスキー場

 昨日は嫁さんと息子が、湯の丸スキー場でスキー三昧の一日を過ごしたのですが、 当人から話を聞いてみたら、スキー場は混雑していたらしい。新型コロナウイルスで ガラガラだと思っていたら、その反対だったらしい。 よくよく聞いてみたら、その日は子供が無料の日だったらしくて、地元民が子供を連れて大量にスキー場に集まっていたらしい。たくさんのお父さんお母さんが、ご自分の息子さん娘さん達にスキーを教えていたらしいのです。

 これはいいことですね。

 子供を無料にするというのは、スキー人口を増やす機会でとても良い試みですね。地元民のスキー人口も増えるし、新型コロナウイルスが、世界を席巻し続けたとしても、地元民ならスキー場に来てくれる可能性が高い。





 毎日のようにスキーを滑り続けている地元民が増えていけば、新型コロナウイルスに対抗できます。スキーは、野球やサッカーに比べたらマイナー競技なので、それらに比べれば比較的全国大会を目指しやすいですから、スキーをガンガン滑る子供達が増える可能性は大いにありえる。スキーを楽しんだ子供たちが、大人になれば、スキー場も昔のにぎわいを戻せるかも。特に嬬恋村にはたくさんのスキー場がありますので、そのスキー場を地元民がもっと活用できたら自然と観光客も戻ってくるかも。

 ちなみに湯の丸スキー場は、 第一第三日曜日が、子供が無料の日です。
 万座スキー場は、毎日が子供が無料の日です。
 (大人でも村民なら1000円らしい)
 軽井沢プリンススキー場も、毎日が子供が無料の日です。





 と言うわけで、息子と嫁さんは、今後は、万座スキー場でスキーざんまいになる予定です。私は、愛犬コロと一緒に冬山登山です。


つづく。

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2021年02月21日

新型コロナウイルス予防で、花粉症が和らいだ話

 今日は嫁さんと息子がスキーに出かけていて私は留守番です。ここ2ヶ月間は息子とスケート練習に付き合っていたので、ほとんど休みがありませんでしたが、これからは嫁さんに息子のスキー練習に付き合ってもらうので、久しぶりに一人でのんびりしています。



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 実は私は花粉症です。

 2月末から4月末までの間は、あまり外出したくないのです。特に標高を下げて外出するのが、嫌なんですよね。北軽井沢は、ほとんどスギ花粉が飛んでこない地域ではあるんですが、それでも多少は花粉があります。多少はあるんですが、 他の地域に比べたら無いようなもので、スギ花粉の時期に前橋あたりに出かけて行くと、地獄を見ますから、やはり少ないみたいです。

 けれど軽井沢でも大量の花粉があります。前橋や高崎に比べれば、ほとんどないに等しいんですけれど、 私にとっては地獄そのものです。ちなみにうちの宿には、 大量の空気清浄機が置いてありますが、これは新型コロナの為に設置したのではなくて、私が花粉症だったために、客室を全部と公共スペースのいたるところに空気清浄機が置いてある。 そうしないと生きていけない。

 どうして花粉の少ない北軽井沢の宿に、大量の空気清浄機が設置してあったかと言うと、御客さんが媒介になって東京辺りから花粉を運んでくるからです。お客さんが来ると宿中に花粉が舞い飛んで、私にとっては地獄そのものになる。なので、お客さんがいなくなったらウエットのクイックルワイパーで床に落ちてる花粉を全て拭き取った上に、空気清浄機をフル回転させ、全室の換気扇を動かして、 花粉を撲滅していました。毛布や布団には花粉除去のスプレーをかけ、掃除機で吸い取ったものです。もちろん掃除機の紙パックも花粉を漏らさない高価なやつを使っています。

 それだけ私にとっては花粉が恐怖だったんですが、今年はそういう心配がいらない。新型コロナウイルスによってお客さんが全く来ないから、ある意味助かっている。こんな楽な冬は、今まで経験して来なかったので、 来年からは、冬のお客さんがゼロでも生活ができるようなシステムに変えようかなと思っているくらいです。



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 それともう一つ。新型コロナウイルスによって、私の花粉症が和らいでいる事実があるので、全国の花粉症に悩める人たちに、ちょっとお知らせしときます。これは私だけの体験かもしれませんが、イソジンなどのうがい薬でうがいをすると花粉症が和らぎます。花粉が舞い飛ぶ瘴気の下界に行っても、以前ほど苦しくないのです。 うがい薬は大して高いものではありませんので、もし、花粉症に悩んでいる人たちがいたら、試してみても損はないと思います。最低でも、 風邪予防にはなりますから。


つづく。

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posted by マネージャー at 12:01| Comment(2) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月19日

スケートの練習をさせたら足が速くなった話

 新型コロナウイルスによって緊急事態制限がのびたために相変わらず暇な毎日を送っています。宿屋としては、緊急事態宣言が伸びることで生活が苦しくなっていくわけですが、これはもう仕方がないと思っています。むしろ変に緩和して外国人がドッと入国するようなことは避けてもらいたい。Gotoキャンペーンは昨年の7月からスタートしていますが、入国緩和をするまでは、たったの130人しか感染例はありませんでした。それを考えてもらいたいものです。宿屋の方も今は我慢の時だと思います。

 あと群馬県と長野県では明暗がハッキリしてきました。長野県はここ数日間、感染者ゼロが続いています。それに対して群馬県では、福祉施設を中心にしてクラスター感染が起きています。これだけ大量の福祉施設がクラスター感染起こすことは、どう考えてもおかしいです。観光施設がゼロなのに、福祉施設が20箇所近いクラスター感染を起こしているのは、どういうことなんでしょうか?

 それはともかくとして、去年の12月から今年の2月の中旬まで、暇を持て余していた私は、息子のスピードスケートの練習にじっくりと付き合ってきました。そして先週の土日に大会があったわけですが、残念ながら目標とするバッジテストに合格していません。練習で3秒ぐらい足りなかったんですが、本番で奇跡でも起きないかなあと思ったんですが、そんなものが起きるわけなく、やはり2秒から3秒足りなかった。練習と同じタイムしか出ませんでした。実力通りの力を発揮しただけでした。


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 スケート練習はとりあえずこれでおしまいです。明日からはスキー三昧にになります。つまりうちの嫁さんが息子のスキーに付き合うことになります。スケート練習は私が毎日付き合っていたので、今度は交代というわけです。ただしスキーは、週末しか出来ません。そこで金曜日にだけ、陸上練習をさせることにしました。

 実は、12月から2月にいたる2ヶ月間、スケートの練習をさせることによって、息子の体に変化がありました。意外な副作用があったようです。短距離と長距離の陸上運動が速くなったのです。今までは200メートル走るのに55秒ぐらいかかっていたんですが、48秒ぐらいになった。800メートルだともっと早くなって3分半で走れるようになっている。全力疾走すれば、もっと早く走れる可能性もある。けれど50メートル走は、12秒で、0.1秒も縮まってない。どういう理屈か分かりませんが、50メートル走は今までどうりで、200メートル走と800メートル走が早くなった。特に800メートル走の方のタイムがいい。30秒ほど短くなっている。

 思い当たることがあるとしたら、スケートでバッチテスト合格を狙ったためかもしれません。バッチテストで合格するには、500メートルで1分10秒、1000メートルで2分28秒の記録を出さなければいけないんですが、これがどうやら苦しいらしい。息子に話を聞いてみると、坂道を自転車でこぎ続けるようなものらしい。特に1000メートルは、地獄のように苦しいらしいので、途中で腿に手を当てて足を押していました。

 私はスケート滑れないので、スケートというのは氷の上をスキーで滑走するようにスイスイ滑るもんだと思っていたんですが、どうやらそうではないらしくて、氷をひたすら押しまくるわけで、坂道を自転車でこいで登るようなものらしい。それを2か月間やらせたわけなので、太ももに筋肉がついたみたいで、800メートル走の足が速くなったようです。


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 で、それを息子に知らせたら喜んだのなんの。何しろうちの息子は、幼稚園時代はクラスで一番足が遅くて、みんなにバカにされていたらしくて、空手教室でみんなと一緒に走るのを非常に嫌がっていた。それが、ここ2ヶ月間の間に足が速くなったのに大喜びです。これだけ喜んでくれると、スケート練習に付き合った甲斐があったというものです。

 今後は、スキーの特訓になりますが、スキーで鍛えられる筋肉は、どこなんだろう? スキーをやることによって体の何が変わるのだろうか? スキーざんまいによって、どういう副作用があるのか? ちょっと楽しみです。


つづく。

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2021年02月18日

昔、急行八甲田があった頃、北海道は夢のようなところだった【5】

 鉄道マニアではないのですが、私の北海道旅行は、ほとんど鉄道旅行でした。鉄道好んだ理由は単純明快で、とにかく移動手段が格安であることと、鉄道旅行中に地元民を含めていろんな人に知り合えることです。

 これはヨーロッパ旅行でもそうで、東ヨーロッパでは大勢の人と知り合いになりました。逆に西ヨーロッパでは、プライバシーが完璧に守られていて、知り合いになる機会はありませんでした。

 けれど1989年頃の東ヨーロッパでは、人々は皆フレンドリーで、列車の中ですぐ仲良くなりました。仲良くなったと言っても言葉が通じるわけではありません。当時の彼らは英語は喋れませんし、私よりも下手くそな片言の英語で会話をしてこようとしてきましたので、こっちは彼らの言葉を片言でしゃべりました。

 そしてよくワインを差し出されました。昔は、ペットボトルがなかったですから、水を買うにもワインを買うにも重たい瓶で買うしかなくて、しかも水の方が高かった。なので列車の中ではみんなワインを飲んでいました。ワインを回し飲みしていた。牛乳もあることはあったんですが、東ヨーロッパの牛乳はみんな酸っぱかった。と言うか、どう考えてもヨーグルトだったと思う。絞りたての頃は牛乳だったのでしょうけれど、店頭に並ぶ頃にはヨーグルトになっていた。

 列車が駅に到着すると、いかにも怪しそうな民宿の親父が営業にやってきます。もちろん言葉は通じませんが、彼らは『地球の歩き方』と、千羽鶴の折り紙と、日本の五円玉を手に持って、『1泊5ドル』と書かれた怪しい日本語の紙を見せて、民宿に泊まらないかと言ってきます。怪しさ満載なんですが、騙されたつもりでついていくと、十階建てぐらいのマンションに連れて行かれて、ここが民宿だよと連れて行かれるわけですが、民宿なわけがなくて、空き部屋を旅人に貸して生計を立てている貧乏人のオヤジでした。





 話を戻します。今回は鉄道の話ではなく、外国の話でもなく、バイクの話です。北海道旅行しているうちに気がついたことは、バイクで旅行してる人たちがやたらと多いことです。そして彼らはどういうわけか全員が、
『セーフティードライブ北海道』
という旗を持っていました。
私が
「その旗は何?」
と尋ねると
「ホクレンで給油するともらえるんだよ」
と言ってました。

 そして、とある旅先でライダーさんと仲良くなり、一緒に登山して、そして別れることになった時に、駅の更衣室と言うか待合室で着替える時、そのライダーさんが、仮面ライダーに変身したことがありました。

「え?どういうこと?」

と当時の私は驚きましたが、昔の北海道では、ありがちな話で、コスプレしながら旅をする人たちがたくさんいたのです。2021年の話ではありません。1985年から1990年頃の話です。

 ちなみに私がユースホステルの経営を始めて間もない2006年頃、全国でアニメブームが起きていて、秋葉原では、ハルヒダンスが流行っていた。それをみて、「歴史は繰り返すんだな」と当時は思っていました。





 これを見たときに、1980年代から1990年代に蔓延したユースホステルの歌と踊りを思い出していました。そしてコスプレライダーのことも思い出していました。昔の北海道には、コスプレライダーが、わんさかいたのです。仮面ライダーなどは可愛いほうで、バットマンとか、キカイダーとか、ちびまる子ちゃんライダーとか、エプロンライダーとかいました。

 私が知っている限り一番有名なのが、忍者ライダーです。忍者ライダーというのは、忍者の姿をしたライダーのことで、背中に刀を差しています。そして忍者ライダーに挨拶すると背中の刀を抜いてくれるのです。

 ちなみに当時の北海道のライダー達は、ライダー同士が道路で出会うたびにお互いに手を振りあったりしました。それがだんだん過激になっていって、ライダー同士が出会うたびにスペシウム光線の格好してみたりして、年度によっては全てのライダーが、スペシウム光線で挨拶をすることがあったりしました。忍者ライダーは、スペシウム光線ではなくて、背中に背負った日本刀を抜いて挨拶をしたわけです。

 しかし、日本刀をかっこよく抜ける忍者ライダーでも、それを再びかっこよく背中に刺すことは不可能だったらしくて、日本刀を抜いて挨拶した忍者ライダーは、わざわざバイクを停車して刀に入れなおしたと言われてます。残念ながら、私はこの忍者ライダーに出会ったことはありませんが、水戸黄門ライダーだったら目撃しました。それは3台のバイクが走っていて、バイクのヘルメットにちょんまげのようなものが、くっついており、一人は水戸黄門様で羽織を着ていて、後の二人は助さん格さんのようでした。私が手を振って挨拶をすると、角さんらしきライダーが、黄門様の印籠を差し出していました。





 話は変わりますが、 この時代に知り合った女性の旅人の一人で、 自宅から北軽井沢のうちの宿ので、忍者の姿で泊まりに来たことがあります。 もうその人は、大きな子供さんもおられるので、 ここに写真をアップするのはやめておきますが、忍者のコスプレで軽井沢の駅前を降りて、 その姿で草軽交通バスに乗り、うちの宿まで歩いてきたわけですから、その心臓たるや大したものです。

 翌日は、その忍者の姿で草津温泉に行って、観光客や群馬の地元民に囲まれ、みんなから写真を撮り捲くられて、大人気だったらしく、意気揚々と宿まで帰ってきたんですが、次の日に軽井沢を見学したら、みんなから哀れな者を見る目つきで、スルーされて、針のムシロにいるようだったようで、落ち込んでいました。で、こんな雄叫びが・・・・

「軽井沢なんて嫌いだ! 群馬は大好き!」

 いやいや、そこは分かってたでしょう。
 予想しなかったのかい!

 ちなみに彼女の部屋に掃除に入ったら、布団を使った形跡がない。思わず私は
「屋根裏で寝たのか?」
と聞いたら
「どうしてわかった?」
と手裏剣を出してきました。 そんな彼女も、今ではお母さんになって社会的な地位を確立していますので、このネタはこれ以上は封印しておきます。 ただし、このブログのどこかに過去の写真と記事が残っているかもしれません。



つづく。

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2021年02月16日

昔、急行八甲田があった頃、北海道は夢のようなところだった【4】

 私が二十歳ぐらいの頃の話です。
 飲み会になると妙な踊りを踊る奴がいました。
 彼は、こんな歌を歌いながら踊っていました。

かっこいいやつが、かっこいいやつが、
汽車でやってきた。
止める女を振り切って、
縋る女を振り切って・・・。


 飲み会になると、こんな変な歌を歌い踊り出すのです。彼からユースホステルとか、北海道とか、利尻島とかの単語を聞いたような気がするんですが、そもそもそんなものに興味がなかったので、そういう話は全く覚えていません。ただ、歌と踊りだけは非常に印象に残っていたので今でも覚えています。何しろ飲み会があるたびに変な歌と変な踊りを見せられるので、忘れろと言われても忘れることができるわけがない。



(復活された『かっこいいやつが』)


 そして仕事を始めて何年か経った後に、とある居酒屋で飲んでいると奥の座敷からどこかで聞いたことのあるような歌と踊りが聞こえてきました。あの歌です。

かっこいいやつが、かっこいいやつが、
船でやってきた。
止める女を振り切って、
縋る女を振り切って・・・。


 思わず私は、見ず知らずの団体に「その歌はどういう歌なの?」と聞いてしまいました。
 するとその団体は、それには答えず、
「お兄さんも一緒に踊りましょうよ」
と見ず知らずの私を輪の中に入れて呆然とする私を尻目に踊りだしたのです。

かっこいいやつが、かっこいいやつが、
飛行機でやってきた。
止める女を振り切って、
縋る女を振り切って・・・。


 気がついたら一緒に酒を飲んでいて東京池袋の街中で一緒に踊っていました。彼らは最後まで正体を明かすことをせずに、いつのまにか消えてしまっていました。それはともかくこの事件から歌と踊りを覚えてしまった私は、飲み会の席で無理やり宴会芸を披露をさせられそうになると、この歌と踊りで乗り切るようになりました。というのも、この歌で踊ると妙に盛り上がるからです。そして数年後、とある会社の飲み会で、この歌と踊りで押しつけられた宴会芸で踊っていると、見ず知らずの人間が乱入してきて一緒に歌って踊り始めました。

 この時初めて、北海道の利尻島にある鴛泊ユースホステルと言う宿の歌と踊りであることが判明し、長年の謎が解明され、北海道に行ってみようという気になったわけです。で、ユースホステルの会員になって北海道に向かったのですが、利尻島鴛泊ユースホステルという宿はもうなくなっていました。

 なくなっていましたが、それに代わって、隣の礼文島に桃岩ユースホステルと言う宿ができて、ギンギンギラギラ夕日が落ちる・・・という歌と踊りが有名になっていました。そのユースホステルは今でもあるんですが、北海道で一番どんちゃん騒ぎの激しいところとして有名です。私も目にして驚いたものですが、事情を知っているユースホステルのヘビーユーザーによれば、桃岩ユースなどは、鴛泊ユースホステルのパワーに比べたら、まだまだ恥を捨てきれてない坊やみたいなものだと言ってましたから、全盛期の鴛泊ユースホステルの破天荒ぶりがどんなものだったのか想像もできません。



(桃岩ユースホステルの踊り)


 1970年代から1990年にかけてのユースホステルでは、このような狂った歌と踊りが蔓延していました。摩周湖ユースホステルでは、『カブトムシ踊り』や『クワガタ踊り』と言う踊りを踊っていましたし、今は無き斜里ユースホステルでは、『円盤音頭』という踊りを踊りまくっていました。現在でも存在する積丹ユースホステルでは、北島三郎の『函館の女』を歌いながら踊っていました。

 実はこれらの踊りに、当時の学校の教員たちが一枚加わっていました。その昔、北海道は斜里町に存在したユースホステルで、三十周記念の行事があり、宿のスタッフ達が屋根に上って、例のごとく円盤音頭と言う踊りを踊ったわけですが、その時にその宿に泊まっていた高校生達が凍り付いていた。私は不思議に思って
「どうしたの?」
聞いてみたら、彼女たちは驚いた顔でこう答えました。
「この踊り、私たちの学校で体育でやっているんです」
「えええええええええ?」

 こういう話は、この一回限りではなくて、何度も何度も各地のユースホステルで、高校生から聞かされました。当時は高校生・中学生の一人旅が、ユースホステルにゴロゴロいた時代でした。携帯料金が無かった時代だったので、親も旅行代金を出せたと思うし、そもそも宿泊費が安かった。ユースホステルを使う限り、べらぼうに安かった。安い宿だと1990年でも二食付1400円くらいで泊まれた。高いなと思っても3000円くらいだった。

 話を戻します。ユースホステルでの歌と踊りのことです。これらの踊りに驚いたのは高校生だけでは無く、なりたての教師も驚いていました。私が「どうしたの?」と聞いてみたら、東京都の教員研修所で摩周湖ユースのカブトムシ踊りとか、クワガタ踊りとか、山梨県清里ユースホステルのゴキブリ踊りとか、レナウン娘とかを教員研修の場で教わったというのです。

 一体どういうことなんだろう?と当時は不思議に思っていたんですが、自分がユースホステルを経営して、その歴史を調べてみたら、ユースホステルの創設に各都道府県の教育委員会がかなり関わっていたことを知ってなるほどなと思った次第です。

 これは群馬県のユースホステル協会でも同じで、最初は県の教育委員会が音頭を取って設立しています。当時は、GHQ(占領軍)の民生局(ice)の影響が残っていて、それらの影響とユースホステルの創設に密接な関係があったのです。

 占領軍は、旧日本軍の強さを、封建主義的な教育制度にあると思い込んでいましたから、封建主義的な思想を消滅させるために、盛んにレクリエーションを普及させました。特にGHQ(占領軍)が力を入れたのがスクエアダンスです。スクエアダンスというのは、フォークダンスの御先祖様みたいなものですが、そういうレクリエーションを普及させて日本人を骨抜きにしようとした。ところが日本人は、これを過激に進化させていき、GHQ(占領軍)の意図とは真逆に、ユースホステル業界では超絶運動部系・体育会系に進化させていくのですが、それについては最後に述べます。

 とにかくGHQ(占領軍)によって、数々のレクリエーション団体が生まれ、日本レクリエーション協会ができ、その配下に社交ダンス協会とか、スクエアダンス協会とか、ハイキング協会とか、様々な協会が設立されたわけですが、群馬県も例外で無く、各種のレクリエーション団体が戦後に雨後の竹の子のように乱立し、群馬県リクレーション協会に加盟していきました。もちろん群馬県ユースホステル協会も例外ではありません。


 ちなみに群馬県のリクリエーション協会とユースホステル協会は、嬬恋村と縁のある団体です。今はもう無くなってしまいましたが、嬬恋村のバラギ湖に県立バラギキャンプ場というものがありましたが、このキャンプ場を作ったのが、群馬県ユースホステル協会のバックに存在していた、群馬県観光公社の河野さんです。群馬県ユースホステル協会を立ち上げた河野さんです。


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 今はもう存在してない群馬県観光公社は、GHQ(占領軍)が使っていた館林のゴルフ場を活用することによって大収益をあげ、バブル崩壊までは儲かって儲かって仕方がないくらいに急成長した群馬県の公社です。なので税務署が何度も査察に入っています。この群馬県観光公社が、収益を上げた資金で群馬県各地に、キャンプ場などの教育施設を大量に作っていました。

 その一つがバラギ湖にあった県立バラギキャンプ場です。
 昭和四十一年に作られました。

 完成したその年には、群馬県のスポーツ少年団が、650人も集めてイベントを開いています。このキャンプ場を作ったのは長年にわたり群馬県ユース協会のトップで活躍し続けた河野さんです。そして、バラギキャンプ場の歌『みどりの牧野』を製作してレコードにして販売し、フォークダンスの振り付けまでして、それを全国に宣伝しています。いわば嬬恋村の恩人でもあります。


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 ただ、残念なことに、私が嬬恋村でユースホステルを開業して間もない頃に、バラギキャンプ場が閉鎖されることになりました。その時に、私は群馬県ユースホステル協会の理事会で河野さんの前で他の理事さん(デパート経営者で、社交ダンス協会の理事)から
「嬬恋村は何をやってるんだ」
と責められたことを思い出します。

 その場には、群馬県リクリエーション協会の副会長でもあった飯塚ツヤ子さんがいましたが、この飯塚さんこそは、レコード化されたバラギキャンプ場の歌『みどりの牧野』のフォークダンスの振り付けを担当した人です。彼女は、『みどりの牧野』のレコード化された昭和四十二年当時、群馬県体育課で活躍されていた方でした。

 また『みどりの牧野』の作詞は、群馬県青少年室の小林富夫さん。作曲は、群馬県社会教育課の北爪幸作さんで、三人とも群馬県ユースホステル協会の理事として活躍された方で、私が嬬恋村の代表として叱責されていた時に、同じ理事として名前を連ねて会議に参加されていた方です。

 雑談が長くなりましたが、要するにユースホステル協会の創設には多くの県の教育機関が関わっていたし、群馬県も例外でなかったということが言いたかったわけです。もしバラギ高原の近くに、ユースホステル活動に熱心なマネージャーがいたとしたら、『みどりの牧野』でお客さんに『みどりの牧野』のダンスを踊らせて全国で有名になっていたはずです。北海道の桃岩ユースホステルのギンギンギラギラにも対抗できるほどの踊りになったと思いますし、利尻島の鴛泊ユースホステルの『かっこいいやつが』の踊りのように、知る人ぞ知る踊りになった可能性もないとも言えません。残念ながら、嬬恋村にはそういうユースホステルが存在していなかったということです。


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 話は変わりますが、私が北海道に行く時に、絶対に宿泊するつもりがなかったのが、鴛泊ユースホステルのようなどんちゃん騒ぎ系のユースホステルでした。怖いもの見たさで遠くから眺めようとは思っていましたが、泊まりたいとは思いませんでした。泊まるなら静かなところがいいと思っていました。ですから、たくさんのユースホステルに宿泊しているくせに、北海道で一番どんちゃん騒ぎをする宿として知られている桃岩ユースホステルには未だに泊まったことがありません。

 それはともかくとして、北海道に旅しようと思い、生まれて初めて急行八甲田に乗って北海道にやってきた時に、とにかく静かなユースホステルに泊まろうと思って、いろいろ情報を集めて静かな宿を中心に泊まれるように旅の計画を立てたわけですが、そんな計画は無意味だったようで、襟裳岬ユースホステルに泊まったさいに、とんでもないどんちゃん騒ぎに遭遇してしまいます。

 驚いたのはそこのマネージャーが女性だったことです。女性マネージャーが先頭切ってどんちゃん騒ぎを始め盆踊り状態。気がついたら私もどんちゃん騒ぎの中に入って踊っていました。どんな騒ぎにも巻き込まれないようにしようとしても無駄。
『みさきめぐり』
『リンダ、リンダ』
『ちびまる子ちゃん』
と踊りまくって、せっかくのお風呂上がりだというのに、みんな汗まみれになって、汗で雫がしたたり落ち、床がズブ濡れになりかねないほどに危険な状態になり、下着を替えなければ寝られないような状態になってしまっていました。誰かが
「入浴が無駄になったな」
「高校時代の部活動でもこんなに運動しなかったぞ」
と言い出すしまつ。GHQ(占領軍)も、一生懸命に普及させようとした、お上品なスクエアダンスのようなチャラチャラしたものが日本に普及せずに、こんな状態。つまり武骨な応援団のノリになってしまっているとは夢にも思ってなかったでしょう。





「森進一がレコード大賞を取った襟裳岬と言う歌があったけれど、あの歌に『襟裳の春は何もない・・・』というのは嘘だな」
「襟裳岬は、毎日が運動会だもんな!」
と、皆で文句を言い合ってました。あれも良い思い出です。


つづく。



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2021年02月15日

昔、急行八甲田があった頃、北海道は夢のようなところだった【3】

 今は何でもネットで予約できますが、昔は電話でないと宿泊所(ユースホステル)に予約できませんでした。もっと大昔になると往復はがきで予約しました。電話料金が異常に高かったからです。今でこそ全国どこに電話をかけてもたいした値段ではありませんが、1970年代に北海道に電話をかけたら、宿泊費代ぐらいの値段がとんでいきました。なのでどうしても予約したい場合は往復はがきを利用したわけですが、その往復はがきが面倒くさい人は、北海道に到着してから電話予約しました。

 ただし例外もあります。信じられないことですが、昔は宿泊費を浮かすために駅舎(駅の待合室)に寝る人たちが大勢いました。駅の方も鷹揚な感じで、駅の待合室で一晩明かす人たちを黙認していましたし、駅によってはトレインと言う五百円で泊まれる古い列車の車両を置いてあるところもありました。これを昭和時代には駅寝と言っていました。平成時代に入るとステーションビバーク(STB)と洒落た感じの横文字を使っていましたが、現代ではそういう駅舎はありません。時間になると大抵のところは閉鎖されてしまいます。





 その他にキャンパーという人たちもいて、キャンプ道具を背負って旅する人たちもいました。彼らはいろんなところにテントを張ってそこで生活していました。マイナス20度ぐらいになる真冬の旭川や美瑛でテントを張る猛者も少なからずいました。彼らはあまり移動しません。キャンプ場でもない美瑛にある神社なんかにテントを張って怒られないのかなーと質問したこともあるんですが、逆に北海道民から差し入れが入ってくると言っていました。そんなバカなと思った私も仲間に入ってテント生活をしたことがあるんですが、確かに地元民から差し入れが届いたりします。

 どうしてだろうと不思議に思いつつ、差し入れしてくれる人に疑問をぶつけたんですが、その人も元々キャンパーだったそうです。キャンプ生活をしながら冬景色を撮影しているうちに、農家の人たちから声がかかって、近くの農場でアルバイトしているうちに、そこの農家に婿に入ったと言う。そういう人たちは、その人以外にも多かったようで、ふらりとやって来るキャンパーたちは、人手不足で困っている農家の人たちの貴重な戦力だったようです。そういう人たちが今では外国人にとってかわってしまった。

 そうそう、外国人労働者で思い出したのか、沖縄の石垣島や西表島の話です。1980年代後半に、これらの八重山諸島で仕事をしたり旅行をしたりしていたんですが、これらの島々でもキャンパーたちが地元の労働に大いに貢献していました。キャンプ場でキャンプをしていると、夜になると「人買い」という求人募集の人たちがやってきて、日給一万円ぐらいで労働者を募集します。その労働は非常に厳しいものだったんですが、日給一万円の魅力には勝てず、キャンパーたちは次々と労働に応じていました。1980年代当時のを日給一万円は、かなりの高給です。





 労働場所は製糖工場であったりサトウキビ刈りであったりするんですが、一万円ももらえばキャンパーたちは一週間以上暮らしていけるので、大喜びで働きに行きました。私も働いたことがあるんですが、珍しいこともあって非常に面白かった記憶があります。そして、案の定と言うか、やっぱりと言うか、
「お前は働きもんだなあ」
と言われてしまい
「家に住み込み、一か月ぐらい働かないか」
と熱心に口説かれました。もちろん断りましたが、飯でも食って行けと言われて、ごちそう責めにあい、酒を次々と注がれて気が付いたら朝になっていて、もう一日働くことになってしまったいしました。その次もごちそう責めにあって、また一日働くことになり、その次の日も御馳走責めにあいそうになったんですが、さすがにこのままではやばいと思って辞退したのは良い思い出です。当時は、そのようにズルズルと言って、その家の娘の婿となって農家を継ぐ人たちが多かったようです。

 そんな見ず知らずの流れ者を婿さんにしていいのかと聞いたこともあるんですが、そもそも石垣島の住民の大半が流れ者の開拓者だったそうで、そういうものに対してのアレルギーはないと言っていました。石垣島や西表島は先祖代々沖縄に住んでる人が多いのかなという漠然としたイメージを持っていたんですが、そういう人はむしろ珍しくて、ほとんどが大阪あたりからの開拓民だそうです。どうりで沖縄なのに関西弁が話されていると思いました。

 面白かったことは、当時の島の人たちは、キャンパーたちはみんな働き者だと思っていたことです。私から見たらどう見ても働き者には見えなかったんですが、南国の島の基準でいうと働き者であるらしい。時間が止まった世界に生きているキャンパーたちが働き者に見えるということは、南国はもっと時間が止まっていたということになります。

 そういえば、キャンパーたちを雇う前は、八重山諸島に大量の台湾人が出稼ぎに来ていたそうですが、1980年当時でさえ、すでに台湾人はお金持ちになっていて出稼ぎに来る人はいなかったそうです。台湾人は、かなり昔から裕福だった。

 他にも面白い話があります。八重山諸島のキャンプ場に郵便物が届いたことです。石垣島◆◆キャンプ場・熊さんというはがきを書いて送っても郵便局の人がキャンプ場まで届けてくれた。こんなことは今では考えられないかもしれません。

 ちなみに、この「熊さん」というのはキャンパーネームのことで本名ではありません。本名でなくてもキャンプ場に郵便局は届いたというのはすごいことですが、それ以前にそのキャンプ場は、キャンプ場とは名ばかりの管理者も誰もいないいわゆる、単なる砂浜ですので、そういうところに郵便物が届いたことが昭和時代の凄いところです。ちなみに、そのキャンプ場にキャンプしてる人たちは決して定住してるわけではなくて、冬場だけ存在していて春になると本州を北上して北海道を目指します。そして夏は北海道で農家とか漁師のところで働く人たちでした。

 話が大きく逸れました。
 北海道の話でした。

 昔は長期北海道する人たちの大半はユースホステルなどの安い宿泊施設を使っていましたが、男性に限って言えば、テントで旅をしたり、駅寝で旅をしたり、寝台列車で宿泊しながら旅をしたりで、旅行費用を節約していました。それができたのは北海道だけで、北海道民は、そういう貧乏旅行をする人たちを生温かい目で見ていて何かしらサポートしていました。今では考えられない話ですが、そういうことが実際にあったのです。

 どうしてそういうことが可能だったかと言うと、北海道の歴史に関係あります。昭和三十年代に北海道には季節労働者が大量にいたらしい。彼らのことを北海道では芋掘りさんと言っていて、二・三週間おきに地域を転々とした人たちが少なからずいたらしいのです。

 別に芋ばっかり掘っていたわけではなくて、いろんな農場で転々と働いて季節移動した人たちがいて、そういう文化がしっかり根付いていたらしい。もちろんそういう人たちの子供たちも大量にいて、二・三週間ぐらいで転校して行く子供たちが大量に存在したらしく学校では、そういう子供たちのサポートも行っていたらしい。

 こう書くと彼らのことを底辺労働者のように現代人は思うかもしれませんが、そうでもなかったらしくて、そういう季節労働者は、衣食住を保障されて、かなりの高給をもらっていたらしく、来年も来てもらうために酒をじゃんじゃんふるまわれ、子供には絵本やお菓子を買い与えたと言われています。

 これは芋掘りさんを実際に雇っていた農家さんから聞いた話で、その人は子供の頃に、お菓子や絵本を買ってもらえる芋掘りさんの子供たちを羨ましがっていたらしい。ついでに言うと、私はその農家さんにヒッチハイクで拾われて、ご馳走責めにあって、気がついたら一週間ぐらい農家の手伝いをしていた口です。

 まあそんなことはどうでもいいとして、本題に戻します。駅で寝たり、夜行列車で寝たり、テントを張って寝たりしているうちに、さすがに体が汚れてきます。そろそろ体を綺麗にしなければいけないなと思っら、ユースホステルに予約を入れて宿泊しました。

 昔の北海道(特に道東)にはコインランドリーというものがありませんでしたので、洗濯をしようと思ったらユースホステルに泊まるしかなかった。インターネットがなかった昔は、コインランドリーを探す場合はタウンページしかなくて、道東のタウンページを開いてみても、コインランドリーがない。信じられないことですが、あの広大な関東平野にも匹敵する面積をもつ道東にコインランドリーが数えるほどしか無かった。だから洗濯しようと思った旅人はユースホステルに泊まるしかなかった。

 当時ユースホステルには必ずコインランドリーがありましたので、早めにチェックインをして衣類をどんどん洗濯しました。そのうちお客さんが次々とチェックインしてくるんですが、みんな女の子たちでした。男は駅で寝たりテントを張ったりできても女性には敷居が高かったのか、ユースホステルに泊まると女性ばっかりでした・今と違って昔のユースホステルは、女性が多くて、その女性たちの存在が眩しかった。





 私は久々に見る十代の女性の姿に目がクラクラし、何かいい匂いがしたなとか、目がまぶしすぎると顔を背けたことを思い出します。そして
「やっぱりユースホステルは私がくるべきところではないな」
と再認識して食堂のすみで気配を消していたわけですが、何日も山の中なんかに潜んでいてヒグマと絶叫を聞いて生きてきた人間が、都会から来たばかりの若い女性たちには、よほど目立っていたのか、どんなに気配を消しても彼女たちは近寄ってきます。そして
「どこから来たんですか」
と言われるので面倒くさそうに
「山の中」
などと答えると、彼女たちの好奇心に火をつけるらしくて次々と質問をしてきます。面倒くさいのと、姿が眩しいのと、女性独特な匂いが熊・鹿たちの匂いとあまりにも違いすぎるので、ぶっきらぼうに適当に答えているうちに、どんどん女性が寄ってくる。で、ますます嫌気がさして、石垣のキャンプ場に出す絵はがきを書いて無視したりするんですが、彼女たちは『石垣島』という文字を見逃さない。そのうちに沖縄諸島のキャンプ場の話や製糖工場の話なんかを話す羽目になって、気がついたら消灯時間になっているということがよくありました。
「明日も聞かせてください」
と言われるのですが、私は朝四時ぐらいに出発することが多かったので、
「それは無理だ」
と答えることが毎回のパターンで住所交換もせずに消えて行くことが多かったんですが、唯一朝四時に起きてきた十九歳の女の子がいました。それが今のうちの嫁さんです。


つづく。

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2021年02月13日

たった今東北で大きな地震が起きたようですね

たった今東北で大きな地震が起きたようですね。
東北の皆さん、大丈夫でしょうか?
どうか被害が大きくなりませんように。

https://earthquake.tenki.jp/bousai/earthquake/


2018-10-25.JPG



つづく。

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2021年02月12日

昔、急行八甲田があった頃、北海道は夢のようなところだった【2】

 今は無き周遊券という切符を使って北海道一周旅行をした時の事です。周遊券というのは、三万円から四万円ぐらいで、二十日間にわたって北海道中の鉄道に乗り放題と言う恐ろしく安いチケットのことです。二十代の頃に、このチケットを使って東京から北海道旅行に行ったんですが、そのためには、一日一本しかなかった急行八甲田に乗ることになります。それは、夜の八時に上野駅を出発する一本だけです。昔津軽海峡冬景色という演歌がありましたが、その歌詞に
「上野発の夜行列車乗った時から」
というくだりがありますが、それです。その上野発の夜行列車が急行八甲田です。一日に一本しか存在しない急行八甲田。

 ということは、周遊券を使って旅する人達は、ほぼ全員がその列車に乗るわけですから、ずっと同じ時刻の中に入るということになります。どういうことかと言うと、北海道に上陸してから最初の宿泊先が同じになる可能性が高い。

 二十日もかけて北海道一周するとなると、そんなに高い宿には泊まれません。値段が安いユースホステルに泊まるしかないわけです。男性ならば、駅寝という手段をとって一泊の宿泊費を抑えることもできます。ただし駅でなんか屁でもないわと思っている猛者であっても、初日だけはユースホステルに泊まります。夜行列車である急行八甲田で体力を使い切っているからです。そうなると、北海道南部のユースホステルが宿泊の選択肢になるわけですが、函館に泊まるか、大沼に泊まるか、登別に泊まるか、頑張って札幌まで行って札幌で泊まるかという選択肢になります。

 そんなことを全く知らなかった私は、札幌に向かう特急列車の中で、ホステリングガイドを開いて「どの宿に泊まろうか?」と思案していると、大きなザックを背負った女の子がやってきて「会員ですか?」と聞いてきました。生まれて初めての逆ナンパに出会った私はしどろもどろになりますが、この「会員ですか?」という言葉は、「ユースホステルの会員ですよね?」という意味で、「YES」と答えると、十年ぶりに出会った親友のようにすぐに仲良くになってしまいます。そして「今日はどこに泊まるんですか?」と聞いてきます。

「今それを考えているところなんです。何しろ北海道は初めてなんで・・・」

と私が答えると、その女性は笑って、

「それなら登別のあかしや荘がいいです。私はそこの常連なんです。絶対に面白い宿ですから一緒に行きましょう」

とずるずると引っ張られて結局、一緒に泊まりに行くことになりました。当時はこういう特定のユースホステルを贔屓にしていて、そのユースホステルのために営業活動している人がたくさんいて、北海道の初心者である私はそれに引っかかったというわけです。





 こうして私は登別のあかしや荘というユースホステルに泊まりました。そのユースホステルには、どういうわけか温泉があって、長旅の疲れを癒すことができて感動しました。料理も北海道名物ジンギスカンが美味しかった。それよりも驚いたことは、ヘルパーと言う二十五歳ぐらいのボランティアの女の子がいて、見知らぬ人同士を顔見しにするように、色々気遣いをしてくれたことです。

 新型コロナが発生してからは考えられないことですが、当時のユースホステルでは、宿泊する人たちは全員が一人旅で、知らない人同士が同じテーブルで一緒にジンギスカン鍋をつついていました。最初はみんなもじもじしていたんですが、みんな一緒に鍋をつついているうちに、少しずつ打ち解けてきて、楽しい旅の話題で盛り上がります。つい数分前までは、見ず知らずの他人だったにも関わらず、十年来の親友のように楽しい旅の話題で盛り上がるのです。

「ユースホステルって何て素晴らしいとこなんだろう」

と思ったものです。そういう私は、その二十年後に北軽井沢でユースホステルを経営するわけですが、当時はそんなことになるとは夢にも思っていません。とにかく何もかもが新鮮で驚いてばかりです。知らない人間と一緒にジンギスカン鍋を食べるということ自体がびっくりですし、食べた後に一緒に食器を洗うというのも楽しかった。そして、その後にお茶会が開かれ、皆で夜のナイトハイクに出かけ、星空をみんなで眺めました。楽しかった。なので、うちの宿でも星空観察会だけは行っています。

 ちなみに今でこそ、食器をお客さんに洗わせるという行為は保健所の指導でNGになっていますが、当時のユースホステルでは普通に行われていました。その代わり安く泊まれたわけですが、この食器洗いによって、ますます他人と仲良くなれるシステムでした。ユースホステルによっては、お客さんに館内の掃除をさせるところもありましたが、これも嫌ではなかったです。それによって宿泊者同士の連帯感が生まれたからです。逆に言うと、そういう作業を嫌がる人たちはユースホステルに二度と泊まりませんでした。それによって、人間が選別されて言ったことは確かです。

 見知らぬ他人と仲良くなりたい人達はユースホステルに泊まり、プライベートが欲しい人達は多少高くてもペンションに宿泊しました。こういう選別の結果、ユースホステルには、妙に人懐っこい人たちが集まるようになり、電車の中でホステリングガイドをチラチラさせるだけで
「あの人は、ユースホステルの会員だな。じゃあ話しかけてやろう」
ということになってしまうわけです。

 その結果ユースホステルには、ますます人懐っこい人達が集まって、みんなどんどん社交的になっていって、旅先の一期一会の出会いに魂を燃やし、瞬間に一瞬にして大親友のようになり、翌日には何事もなく赤の他人としてバラバラに去っていく。それを体験した私は

「昨日一晩であんなに盛り上がって、あんなに仲良くになったのにも、もう他人になってしまうのか。本当に一期一会だな」

と思ったのですが、一期一会だからいいのかもしれないと思いました。もう出会うことがないからこそ、思いっきり楽しめるんだろうと思いました。しかしその考えは大きな間違いでした。確かに一期一会なんですが、またすぐどこかで再開するとは夢にも思っていませんでしたから。

 どういうことかと言うと、この後みんなとりあえず札幌まで行きます。札幌で泊まる人もいれば、札幌から時計回りに北海道一周する人もいれば、反時計回りで北海道一周する人もいます。ここで別れ別れになるわけですが、北海道一周する人たちにしてみたら、ある程度パターンが決められているのです。

 大抵の人たちは、反時計回りに北海道を一周します。つまり札幌から襟裳岬の方に向かって、それから帯広・釧路根室に向かって知床半島に行きます。その後に網走や旭川に行って、そして宗谷岬に行き利尻島礼文島にわたって、その後に南下して、札幌を経由して小樽に向かい、積丹半島を見学した後に、奥尻島あたりにわたって、最後に函館を経由して帰るというパターンが一般的です。つまり登別で別れたとしても、そのパターンに従って鉄道旅行をしている限り、いつかどこかのユースホステルで再会する可能性が高いのです。

 また、旅先で知り合った人が増えるにつれて、その人の友人関係が、私の知ってる友人関係と重なっていることに気づき、知らず知らずのうちに巨大ギルドの所属しているような感じになり、そのうちに初対面の人から
「あなたが佐藤さんですね、噂は聞いてました」
と言われるようになります。私の知らないところで私の噂が流れている。そのうちに私の偽物が出現したりする。私そっくりな人間が私を語っていたりする。こうなると訳が分からない。ひょっとして巨大な陰謀に巻き込まれているのか?と錯覚したくなりますが、そんなわけはなく、インターネットが無かった当時のユースホステルにおける口コミ力が凄かったということになります。

 要するに1970年代から1992年頃までは、ユースホステル業界そのものが、疑似インターネットであったわけで、逆に言うと、本物のインターネットが出現するとともに、インターネット的であったユースホステル業界が、徐々に廃れていったとも言えます。





 話をもどします。北海道で鉄道旅行をしていると、地元民から色々と話しかけられて、色々なハプニングに出会います。地元民どころかJRの車掌さんにも話しかけられ、鉄道マニアか何かと勘違いされたのか、昔の切符をいらないかと話しかけられます。別に欲しいわけではなかったですけれど、せっかくだから記念に一枚買ってみると、車掌さんと仲良くなって談笑していると、それまで赤の他人だった鉄道マニアの人たちが私のところによってきて、色々話しかけてきたりもします。当時は彼らのことを「鉄ちゃん」と言ってました。その当時は、鉄道オタクという言葉がなくて、鉄道マニアを鉄ちゃんと言い、そうではないけれどJRを使って旅行する人たちのことを「JRらー(JRer)」と言ってました。

 このように北海道旅行者にはいろんな種類の旅人の人たちがいて「チャリダー」もいれば「サイクリスト」もいる。「徒歩だー」もいれば、「歩き」もいる。

 「チャリダー」は、あくまでも自転車を移動の手段として使って旅する人たちのことで、「サイクリスト」は自転車移動が目的そのものの人です。要するに「JRらー(JRer)」と「鉄ちゃん」の違いみたいなものです。だから「サイクリスト」に、うっかり「チャリダーですか?」と聞いたら彼らは激怒します。彼らは誇り高きサイクリストで、チャリダーなんかと一緒にされてはたまらないと思っていますが、そんな違いは、素人に分かるわけが無い。

 「徒歩だー(徒歩だer)」も「JRらー(JRer)」みたいなもので、疲れたら電車に乗りますが、「歩き」の人は歩き専門で歩いて日本一周する人たちです。「歩き」の人に「徒歩だーですか?」と言わないように気をつけていました。この「歩き」の人にも、色々な種類があって、下駄とか、唐傘とか、リアカーとか、自転車とか、千差万別でした。自転車というのは、あくまでも自転車を担いで歩いている人で、決して自転車に乗らない人です。こういうおもしろい人が当時はいて、自転車に乗らずに担いで歩くだけでも大変珍しいのに、その自転車を担いで北海道中の山を登山していたから驚きます。ちなみに担いでいる自転車にはゴムタイヤはついていません。その人が生きていれば、七十歳近いと思うんですが、若い頃の写真をSNSにアップしてないかと、調べてはみたんですが、未だに見つけていません。当時は、ギネスブックに載せるという発想も無くて、ただ好きでバカなことをやっていたので、今後もSNSにアップしないかもしれません。

 こういう馬鹿なことをしている人は、実は私の身近にもいて、余命十年と言われ、一週間に二回とか三回入院しなければ死んでしまうくせに、三百名山を登り切って上毛新聞にデカデカと報道され、群馬テレビで特集された人もいます。その人は、時々フルマラソンしていて国体選手並みの記録ももっていたりする。医者が聞いたら呆れ返るような人間が私の友人にいます。


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 その人は今、群馬県のとある高等学校で教師をしていますが、こういう人間を雇った学校も大したもんだと思いますが、ある意味先見の明があったかもしれません。というのも彼はその学校の陸上部の部員のトレーナーをしているわけですが、陸上部員のメンタル指導に大活躍すること間違いないと思いますから。そういう彼も、私が北海道で出会った一人で、一期一会の出会いのもとに一緒に摩周岳に登った仲です。もちろん再び再会することになるとは当時は夢にも思っていません。


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 ユースホステルで一期一会の出会いの瞬間に魂を燃やして翌日は赤の他人として去っていく。そしてもう二度と出会うことはないんだろうなあと思いつつ、次のユースホステルで新しい一期一会の出会いに魂を燃やす。そういう旅に私は感激しながら北海道旅行を続けるわけですが、結局のところ、一期一会ではなかったです。またすぐに再会して、 そしてなんだかんだと20年30年の友人付き合いになるから、これだからユースホステルの旅はやめられません。 結局私は、北軽井沢でユースホステルを経営する立場になるわけですが、残念ながら現在ではそういうことはありえません。 ユースホステルとペンションの違いは全くなくなりました。うちの宿もペンションと何ら変わりがありません。

 で、北軽井沢で営業してから何十年もペンション客を迎入れてるわけですが、ある日何気なく昔の写真を眺めていたら、どこかで見たことのある顔が大量にある。 昔の写真というのは、北海道のユースホステルの玄関前で 撮影した集合写真のことですが、当時二十代だった人たちの顔に見覚えがある。変だなあと思ってよくよく考えてみたら、北軽井沢ブルーベリーYGHに家族連れで泊まりに来るペンション客の常連さんでした。





 このことをご本人に話してみたら、向こうも驚いていました。確かに大昔に◇◇ユースホステルで集合写真の写真撮影をしたことがある。その時は赤の他人だったけれど、巡り巡って北軽井沢ブルーベリーYGHに泊まって家族連れでペンション客の常連さんになっていたわけですから、これこそ巡る因果の糸車です。 だからこそ 一期一会の出会いに魂を燃やすことは素晴らしいことであったと言えます。時代劇の三匹の侍のような出会いと別れが、八犬伝のような出会いと別れが昔のユースホステルにはあったわけです。



つづく。

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posted by マネージャー at 09:02| Comment(0) | 旅と思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月11日

昔、急行八甲田があった頃、北海道は夢のようなところだった【1】

 新型コロナウイルスによって、JRなどの交通機関が致命的な打撃を受けています。それについて思い出すのは、若い頃によく旅行に出かけた北海道のことです。はじめに言っときますが、私は鉄道オタクでも何でもありません。そもそも鉄道のない佐渡島に生まれ育った人間ですから、鉄道とは縁もゆかりもありません。その私が、鉄道旅行にはまったことがありました。

 今は無き周遊券という切符を使って北海道一周旅行をした時の事です。周遊券というのは、三万円から四万円ぐらいで、二十日間にわたって北海道中の鉄道に乗り放題と言う恐ろしく安いチケットのことです。二十代の頃に、このチケットを使って東京から北海道旅行に行ったんですが、その時にものすごい衝撃を受けました。





 まず見知らぬ地元民が話しかけてきます。
「お兄ちゃんはどっから来たんだい?」
「東京からです」
「東京のどちらから」
「池袋というところです」
それと遠く離れた座席から
「池袋かい、息子が池袋に住んでるんだよ」
という話をしながら私の座席の方に行ってきます。
見知らぬ人間同士三人がいきなり会話を始めたりします。

 下手したらそこにまた二人行ってきて
「池袋か、昔、建設工事の出稼ぎによく言ったな」
と、これまた全く別方向からよってきます。
その時に車内販売なんかが通り過ぎると、
「お姉ちゃん、コーヒーとジュースを六本頼むわ」
と注文して、みんなに配ったりする。

 すると、中の一人が鞄の中からせんべいか何かを取り出してみんなに配り出す。別の人はみかんか何かお困りだして、さっきまで全く見ず知らずの人間たちが、池袋の話でどんどん盛り上がったりする。そのうち
「お兄ちゃんのお国(出身地)はどこなんだい」
と聞いてくるので
「佐渡島です」
と答えると、遠くの座席の方から、家族連れと思われる人間たちがぞろぞろやってきて
「佐渡島かい? 家の近所に佐渡島からきて開拓した人たちがいるんだよ」
とかと行ってきます。

 佐渡島から引っ越して来る人たちが今頃いるんだなぁと思っていたら、そうではなくて明治時代の初期に集団で佐渡島から開拓に移住した人たちがいるということらしい。北海道にはそういう人たちが多くて、例えば釧路なんかだと、鳥取県から開拓に行ってきた人たちがあまりにも多いために、鳥取の地名がたくさんあったりしますし、鳥取ドームと言う野球場と言うか体育館があったりもします。とにかく全国各地からたくさんの移民が行ってきて出来上がったところが北海道なので、やたらとよそ者に馴れ馴れしいと言うか優しいわけです。特に旅人に優しくて、一人で旅なんかしてると、こっちが黙っていても、電車の中であるにも関わらず、あちこちから差し入れが行ってきます。これで鉄道旅行が嫌いになるわけがありません。

 こういう体験は私だけではなくて、当時多くの北海道を旅する旅人たちが経験していました。何しろ三万円か四万円で二十日間も北海道の鉄道が乗り放題なので、わんさかわんさかと若い人たちが北海道旅行をエンジョイしていました。そして北海道の列車で衝撃的な体験を受けて、何度も何度もリピートして北海道に行ってくる人たちが続出したのです。

 その中には自動車旅行やバイクのツーリング旅行の人たちもいたけれど、圧倒的に鉄道旅行が多かった。そして北海道が好きになって、そういう人たちは就職先を郵便局とか薬剤師とか看護師など長期旅行ができる職業を選んだり、いくらでも再就職が可能な手に職をつけた職業を選びました。人によっては北海道に移住した人たちもいます。

 鉄道マニアも多かったような気がします。それも中学生や高校生でした。当時は格安だったユースホステルに泊まりながら、鉄道旅行をしていました。人によっては、わざわざ夜行列車に乗ってそこで宿泊して宿泊費を浮かせる人たちも多かった。私もそれをした一人で、札幌を見学した。後に翌日に釧路で遊び、次の日にまた札幌で遊ぶだってことをよくやりました。

 当然のことながら列車の中で大勢の人たちと出会います。友人がたくさんできるわけです。こんなことを二十日間続けていると、百人とか二百人の友人ができて、東京に帰った後にその人たちと手紙のやり取りをします。場合によっては、東京で再会するために飲み会を開いたりします。こういうことを昔は普通に行われていたのですね。

 それほど周遊券というのがお得だったわけですが、唯一の欠点が、北海道に入るまでは急行列車を使わなければいけないと言うルールでした。北海道に入ってしまえば特急列車が使えるんですが、それまでは急行列車しか乗ることができなかった。それで急行列車というのが急行八甲田という列車で、一日一本しかなかったわけです。夜の八時に上野駅を出発する一本だけです。昔津軽海峡冬景色という演歌がありましたが、その歌詞に
「上野発の夜行列車乗った時から」
というくだりがありますが、それです。その上野発の夜行列車が急行八甲田です。一日に一本しか存在しない急行八甲田です。





 つまり急行八甲田のある上野の十三番線ホームに行けば、必ず知り合いが急行八甲田を待っているということになる。何しろ北海道で二百人も三百人も友人ができていますから、急行八甲田には誰かしら知り合いが載っていることが多い。知り合いでなくても、知り合いの知り合いである可能性は高い。だからザックを背負ってユースホステルのホステリングガイドを持っていれば、必ず声をかけるようになる。

 私の自宅は池袋でしたから、仕事が遅くなって神田から池袋に帰るような時に、もし夜の七時ぐらいになっていたら、ついつい途中下車して上野駅の十三番線ホームに降りてみて、誰か知り合いが急行八甲田に乗ってないかなあと、キョロキョロしたものです。

 そういえば生まれて初めて女の子から逆ナンパされたの北海道の列車の中でした。今日はどこに泊まろうかなあと考えながらユースホステルのホステリングガイドのページをチラチラと見ていたら、いきなり一人旅の女の子がやってきて、
「会員さんですね?」
と声をかけてきます。こっちがびっくりしていると、
「どこに行くんですか」とか
「どこに泊まるんですか?」
と聞いてきて、行き先が同じだと
「それじゃあ今日は一緒に行動しましょう」
と言ってきます。

 さすがにこれには驚きましたが、昔の北海道では普通にあった光景でした。バスや電車の中でホステリングガイドをチラチラさせれば、声をかけても良いと言うシグナルだったということを後で知りましたが、それを知らなかった私には、かなりドキドキしてしまいました。

 逆にそういうもんだということが分かってしまうと、これはこれで非常に便利な合図だと思いましたし、旅の途中で一緒に行動するイコール恋愛感情と全く関係ないということが分かると、これもまた便利であることが分かりました。二人以上いるとレストランに入りやすいからです。

 まあそんなことはどうでもいいとして、この周遊券の制度が、JRで廃止されてしまうと、北海道旅行をする人たちが激減しました。周遊券によって、何度も北海道をリピートしていた人たちが、そのまま消えてしまったからです。格安のチケットがなくなってしまえば、人はみんな飛行機に乗ります。飛行機を使えばレンタカーを借りるのも当たり前と言えば当たり前で、北海道のJRを使う人たちは激減してしまいました。もちろんレンタカーでも北海道の雄大な自然は望めますが、人と人とのコミュニケーションは、列車を使う場合に比べて極端になくなってしまいます。何時間も何時間も列車という狭い空間で、会話で盛り上がるということがなくなるわけですから、旅そのものが薄くなってきますので、私が体験した衝撃的な人と人とのふれあいがなくなってしまいます。






 例えばこんなことがありました。根室でヒッチハイクで車に乗せていただいた人たちに、礼状を書いたら、「礼状を書くなんて珍しい」と、カニが贈られてきたことがありました。慌てた私は、池袋の名物である鮎の天ぷら最中をお礼に送ったわけですが、すると鮭が送られてきました。これじゃ堂々巡りになるので、もう何も送らないで下さいと書いて、また池袋の名物であるフクロウのクッキーを送ったんですが、そこまで言うならもう送らないけれど、北海道に来たら必ず連絡しろ。連絡しないと鮭を送り続けるぞと脅されたりしました。で、毎年、北海道に行くたびに、その人の家にお世話になり、農家仕事なんかを手伝いつつ、御馳走責めにあったりしました。そして、いろんな人を紹介され、それがきかけで根室に近い釧路でユースホステルのヘルパーをするようになったわけですが、昔の北海道旅行には、こういう魅力があったわけです。これが周遊券の廃止とともに、全て消えてしまったわけですから全くもってもったいないことです。

 そんなJR北海道も、新型コロナウイルスによって危機的な状況に陥っていますが、北海道からJRの路線が次々となくなっていくのは、非常に残念です。周遊券を廃止したことによって、 若者鉄道離れが確実に加速したと思います。 と同時に、 北海道の持つ本来の魅力が、旅行者に伝わりにくくなったとも言えますし、 北海道と内地の人間の繋がりが徐々に薄れていったような気もします。周遊券を使うたびの文化というのは、一度失われてしまうと二度と手に入れることができない文化だったために、それだけに非常に残念でなりません。もし周遊券文化が残っていたら、jr北海道を救おうとする人たちが、全国各地に持っといたのにと思うとそれも残念な気もします。


つづく。



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posted by マネージャー at 10:08| Comment(0) | 旅と思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月10日

群馬県内の感染事例を考察してみた

 ここのところ学校を中心にクラスター感染が広まっていましたが、ようやく吾妻郡でも新型コロナウイルスの感染が止まりつつある様です。今回いくつかの学校でクラスター感染があったわけですが、感染者が現れた学校は全て休校になっていました。どうしてなんだろうと不思議に思って調べてみたら、一人でも感染者が現れたら、その学校の生徒は14日間にわたって自宅待機になるようです。詳しくは下記サイトを参照して欲しいのですが、

https://www.pref.gunma.jp/07/z87g_00048.html
https://www.pref.gunma.jp/07/z87g_00049.html

 感染者の通っていた学校の生徒は、濃厚接触者として新型コロナウイルスに感染している可能性があることから、14日間は自宅待機しなければいけないようです。これは家族も同じようで、もし家族の中に感染者が出たら、例えPCR検査で陰性になったとしても14日間は自宅待機するようです。

 感染症の場合は、ホテルで待機か自宅待機を選べるらしいのですが。自宅待機の場合は、風呂もトイレも二つないといけないらしいので、大抵の家では一つしかありませんから、結局のところ宿泊施設で待機することになりそうです。つまり一人でも感染者が出たら、その家族と学校は全て待機になってしまうので、学校側が神経質にならざる得ないのも無理ないみたいです。

 ただし、濃厚接触者だから濃厚接触者全てが感染してるかと言うと、そういうわけでもないようです。前橋市内の高等学校で起きたクラスター感染の場合は、5人の陽性、28人の陰性が判明しています。濃厚接触者のうち28名が陰性ということは、相当近距離で飛沫感染を浴びるか、スプーンとか箸を共有するとかしない限り感染しないということが考えられます。

https://www.city.maebashi.gunma.jp/kurashi_tetsuzuki/covid19_info/4/1/27118.html

 これはとあるサイトで紹介された事例でも同じような事が書かれてあります。そのサイトの事例だと、お子さんが一人感染し、家族4人のうち一人が陽性。二人が陰性だったわけですが、同じ濃厚感染者でも、感染した家族と感染しなかった家族の間にははっきりとした違いがありました。陽性になった家族は、感染者と同じスプーンを使っていたのに対し、陰性になった家族はそういうことをしてなかった。

 ここから引き出される教訓として、家族間で同じスプーンを使わない。家族間でもマスクをして生活するということも大切なのかもしれません。自分の家族が感染している可能性があるということを考えながら生活をしなければ行けなくなったことは、本当にめんどくさい世の中になったものだなあと思ってしまいます。


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 もう一つの事例として、吾妻郡にある専門学校のクラスター感染についてですが、このケースは情報が少なくてよく分かりません。

 群馬県の発表した情報によると、2月3日までに陽性者5名を除く学生101名、学校職員11名、計112名の検体採取を実施予定とありますが、現在までに28名の陽性者が判明しているということですが、陰性者が何名なのか詳しい報告がありませんので、どういう状況で28名もののクラスター感染が起きてしまったのかが、いまひとつよくわからないところがあります。食事はそれぞれ寮の自室で自炊していたとありますから、生徒全員が寮生活を行っていて、その関連で28名ものの大量のプラスター感染が起きてしまったのか? その辺が、情報として出てないので分からないところが多いです。

 もし全員が寮生活をしていたとしたら、112名中28名が陽性というのは、ある意味少ないとも言えますし、そうでなかったと仮定した場合は、あまりにも感染者が多すぎる。それに、どういう専門学校かも分からないので、どうして28名の感染者が出たのかもわかりません。この辺の情報が公開されていたらなあと思うんですが、世間からのバッシング等を考えると難しいんでしょうね。せめてどういう形でクラスター感染が起きたのか情報公開があるとこっちも心構えができていいんですけれどね。最低でも陰性者が何人いたのか、全員が寮生活者だったのか、そうでなかったらどちらで感染が爆発したのか公開して欲しいものです。情報公開が難しいのは分かりますが、最低でも何が危険なのか事例を匿名でアップしていただけると助かるんですけれどね。


 つづく。

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posted by マネージャー at 06:29| Comment(0) | 日記 2013以降 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月08日

閑古鳥だけれど親子の時間が増えて良かった!

 新型コロナによる非常事態宣言で、宿の方は閑古鳥が鳴いてる状態ですけれど、ひとつだけいいことがありました。息子といられる時間が、たっぷりと取れたことです。新型コロナによる閑古鳥は、去年の三月から始まっていますが、そのおかげでうちの嫁さんと息子はスキー三昧の日々を送りました。毎日のように親子でスキーを行っていました。

 もちろんお金がかかりますが、そこは世の中うまくできたもので、新型コロナでスキーを控えたお客さんが、Yahooオークション・メルカリなどでリフト券を投げ売りしていましたから、それをガンガン買い漁って、息子と嫁さんはスキー三昧の日々を過ごしたわけです。

 私はスキーができないので、恨めしそうに見ているだけ。

 ところが、嫁さんがスキー場で倒れてむち打ち症のような状態になってしまい、しばらくスキーをできなくなってしまった。当然のことながらネットで買い漁ったスキーリフト券が使えなくなったわけで、今度はそれを投げ売りすることになってしまった。人様の足元を見たのでバチが当たったよかもしれません。まあそれでも、買った時の値段で売れたようで、なんだかんだ言っても格安で親子スキーを楽しんだようです。

 もちろん収入が途絶えてしまっているので、お客さんに出すはずだった食材で、せっせとお弁当を作って、それを持って出かけています。うちの宿には冷凍庫がたくさんあるんですが、夏に買い漁ったトウモロコシやトマトなんかをスープにしたものを冷凍保存しているわけですが、それらの食材をお客さんに出せる見込みがなくなったので、それが自分たちの食事になってしまいます。おかげで冷凍庫がすっからかんにだって綺麗に空っぽになってしまうことによって、賞味期限をリセットすることができたことは本当に良かったです。


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 嫁さんがスキーで怪我をした後は、スノーシューで登山の毎日です。雪が溶けてからは普通のハイキングや登山をしました。何しろ二月末から六月初旬まで小学校が休みですから、息子と毎日、山に登っていました。もちろんお客さんもいませんので、遠慮なしに登山の日々です。こんなに親子で一緒にいられたのは、赤ちゃんの時以来だったので、非常に楽しかった。宿の経営は苦しかったけれど、楽しい毎日だった。

 そう考えているのは、私の家だけではなかったようで、軽井沢の離山とか、小浅間山で、大勢の親子とで合っていますが、みんな楽しそうでした。個人事業主は、こういう事態になって、一番苦しいはずなんですけれど、実は一番楽しそうだったと言ったら世間からバッシングを受けますかね?

 もちろん台所は火の車なんですが、こういう何もできない時にしかできないことができるわけで、それが登山だったわけです。体育館を使う運動はできない。プールに入ることもできない。スポーツジムも使えない。いわゆる施設を使う運動は全くできないわけですから、登山と陸上運動以外にやることがないわけです。

 読書しようにも図書館は開いてない。勉強させようにもチャレンジタッチなどのタブレットの教材に人が集中しすぎてインターネットに繋がらない。仕方がないので、問題集か何かを楽天ブックスで取り寄せてやらせたわけですが、何しろ時間がたっぷりあるので、あっという間に終わってしまう。どうしてこんなに早く終わってしまうんだろうと不思議に思ったんですが、よく考えてみたら通学時間がなかったからでした。


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 息子は、スクールバスを使う関係上、通学に往復二時間半も時間を取られています。学校に行く準備時間を考えたら三時間以上は取られているわけですが、これが全くなくなるわけですから時間が余るのも無理はない。あと学校で友達と遊ぶ時間もなくなってしまうので、その部分の時間も余ってしまう。あと近所の同級生と遊ぶ時間もなくなってしまった。新型コロナでよその家に遊びに行くことも憚られたからです。その時間も余ってしまった。つまり時間だけはたっぷりあったわけです。これを親子で有効に使えたのが大きかった。

 子供にしてみたら夏休みが二回あったようなものです。
 と言うか、学校に登校してなかった期間を考えてみたら、
 夏休みが四回あったようなものかもしれません。

 ただ、六月から学校が始まると、ものすごく忙しくなりました。夏休み縮小されて学校からの課題も今まで以上に増えた気がします。運動会も開会式とか、家庭訪問とか、PTAの諸々の作業とか、余計なことがなくなったので、親にとってはありがたかったと思います。

 そうそう、運動会をやってくれたことと、遠足をやってくれたことは、ありがたかった。子供達の楽しみを学校が中止しなかったことには、感謝してもしきれません。六年生のお子さん達も修学旅行に行けて良かった。それも東北地方と言う今までとは違った地域に修学旅行に行けて本当に良かった。


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 誤算だったの去年の十一月以降の感染拡大です。十一月に菅内閣が外国人の入国をフリーパスで認めるようになってしまったために感染大爆発して、それに伴い群馬県の非常事態レベルが四になってしまいクラブ活動ができなくなったことです。おまけに空手教室もキックボクシング教室も中止。冬は雪で陸上運動もできないし、かといって他にできるスポーツも無いのにスケート部も活動中止。

 うちの息子は、去年一年生だった時に小学校のスケート部に入って、それが本当に楽しかったようなので、今年から本格的にやりたいと言い出したために、高価なスケート靴とその付属品を買ったのですが、それが全部無駄になってしまった。

 群馬県の非常事態レベルが四になると、県立の高等学校のクラブ活動禁止になります。つまり嬬恋高校のスケートリンクは使用不可能になってしまう。それに伴って嬬恋村のスケート部の活動も中止になってしまったわけです。

 普通ならここであきらめるところなんでしょうが、ご存知の通り宿屋は閑古鳥で、毎日が暇でやることのない宿屋は、息子に接する時間だけは山のようにある。息子を軽井沢のスケートリンクに連れて行って自主練習させてあげることは、わけないことです。

 まあこんな親は、ウチくらいのもんだろうなーと思っていたら、とんでもなかった。軽井沢のスケートリンクに行ってみたら、親子でスケートの特訓をしているグループが、うじゃうじゃいる。みんな嬬恋村西部小学校と書いてあるワンピ(レース用スーツ)を着ている。その子供たちを親がマンツーマンで指導している。

 嬬恋村には、西部小学校と東部小学校の二つがあるのですが、西部小学校はスケートに熱心な小学校らしくて、息子が通っている東部小学校とは大違いな学校らしい。

 それにしても、こんな時間に親子でスケートリンクに来れる人間なんて、閑古鳥が鳴いている観光業者ぐらいしか考えられないのですが、全員見たことがない人たちばかり。つまり観光業者ではない。じゃあ一体どういう人たちなんだろう?と、不思議に思っていたんですが、偶然そこで知っている嬬恋村の学校の先生がいたので、聞いてみたら

「嬬恋村とは、そういうところなんです」
「西部小学校は、昔からスケート熱のあついところなんです」

ということらしい。親が国体の選手だったりするらしい。メダリストの黒岩彰選手によれば、スケート部と野球部で野球の試合をするとスケート部が勝ったりするらしい。つまり運動神経の良い子供たちは、みんなスケート部に入る風土の地域ということらしい。


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 それにしても、彼らは、いったい何の仕事をしてるんだろう? 昼間の四時頃から軽井沢で子供と一緒にスケートできる職業と言ったら、新型コロナウイルスで閑古鳥の鳴いてる宿屋くらいしか無いはずなんですけれど・・・・。農家の人たちなのか? 農家なら冬は仕事が無いから可能なのかな?

 恐ろしいのは、どうみても四歳児くらいの幼児にスピードスケート靴を履かせて滑らせている子供もいることで、スピードスケート靴というのは、他のスケート靴と違って立つのも難しいのに、どうやって立てるんだろう?と不思議でなりません。それ以前に、四歳児くらいの幼児が履ける靴のサイズがあることに驚きですし、靴だって安いわけでは無い。どうして、そういうものに金を出せるのか? 不思議で不思議でしょうが無い。

 息子が通う東部小学校との温度差が、あまりにも違いすぎるので、どうしてなんだろう?と疑問に思っているのですが、閑古鳥の鳴いてる宿屋のオヤジには、どうにも理解できない。

 ちなみに、今回の非常事態宣言によって、一月から二月まで、空手教室もキックボクシング教室も中止になってしまいました。もちろん雪で陸上運動もできないし、かといって他にできるスポーツも無く、たのみの綱のスケート部も活動中止。スノーシュー登山とスキーは、仕事と学校の関係で日曜日しかできないので、もうやれることは、軽井沢のリンクでスケートをさせるしかない状態です。

 で、毎日のように軽井沢に通っているわけですが、非常事態宣言によって、群馬県のスケートの大会すべてが廃止になってしまった。つまり目標が無くなってしまったのですが、バッチテストというものがあるらしいので、今年は、これが息子の目標になっています。おかげで息子の体力が落ちずにすみそうです。逆に私は、雪が解けて、スケートリンクの雪かきの趣味が無くなって、ちょっと淋しい日々を送っています。


つづく。

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posted by マネージャー at 05:07| Comment(0) | スケート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月06日

草津熱帯圏さん、軽井沢おもちゃ王国さん、大丈夫だろうか?

 嬬恋村は、群馬県の端っこの方にあります。なので生活圏は長野県をベースにしている人が多いです。例えば北軽井沢では、買い物のほとんどを軽井沢で行います。そうでない地域でも、上田の方に買い物に行く人が多くて、前橋・高崎・渋川あたりに買い物に行く人はほとんどいません。つまり群馬県でありながら、長野県のお世話になっている場所なんです。こういう地域に住んでいると、どうしても疑問が湧いてきます。新型コロナウイルスに関する疑問です。

 緊急事態宣言が起きたとき、長野県でも群馬県でも感染者が拡大していました。その結果どうなったかと言うと、長野県ではほぼ収束しつつありますが、群馬県では、収束する気配を見せません。原因はクラスター感染です。群馬県のクラスター感染の大半は、福祉施設です。吾妻郡でも専門学校でクラスター感染が起きました。吾妻郡は、しばらくの間、感染者がゼロだったので、この調子でいけば収束するかなと思ったんですが、クラスター感染が発生して、感染者が増大してしまいました。他の地域でも、クラスターは発生していています。現在調査中ですが、感染拡大が起きる見込みになっています。

 どうしてこういう事態になっているのか?
 群馬県と長野県の違いは何なのか?
 観光に関して言えば長野の方が圧倒的に観光客は多い。
 だから観光が問題というわけではない。
 じゃあ何が原因かと言うと、
 クラスター感染の有無と、東京が通勤圏にあるかどうかです。
 ではどうすればクラスター感染が防げるのか?
 そこが問題です。

 群馬県のクラスター感染は、福祉施設が17箇所と圧倒的な数を占めます。次に多いのが飲食店で10箇所。 その次に多いのが病院の4箇所。その次に多いのが保育施設を2箇所。学校という括りでみたら学校で5ヶ所のクラスター。あとはバラバラ。そして観光施設でのクラスター感染は今のところゼロです。

 それにしても福祉施設が17箇所というのは多すぎる。
 どうして、こんなに多いのか?
 この原因を究明すべきです。

 また、飲食店の10箇所も多い。
 まあ、これはしかたないのかなあ?
 でも、この統計で気をつけるべきは、ホテルより飲食であるということが、はっきりしました。
 なので、来年度は、どこを重点的に感染予防すべきがみえてきたと思います。
 つまり福祉施設・飲食・病院・学校(保育園を含む)です。


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 とにかく来年の冬についてです。
 来年の冬に、再びこういう事態にさせないように、
 今から対策をたてないといけません。
 こういう話は、去年の夏頃にも宿屋仲間たちが言っていたんですけれどね。

 これからの宿屋は、安売りでお客さんを入れるのではなくて、少しでも安全を確保する施設でないと生きていけないし、宿以外の収益も考えなければならないのかもしれません。経営の縮小も考えてもいいかも。例えば、思い切って冬期は完全閉館してしまうとかです。

 ただ、それをすると、リピーターさんが困っちゃうから、できないのも確かです。今日もスノーシューの団体のリピーターさんと、親子スキー教室のリピーターさんが泊まりに来ているわけで、やはり、こういう人たちの居場所は残しておきたい。雪山シーズンでないとダメだという御客さんも少なからずいるんですよね。

 あと、公共交通機関とか、病院とか、飲食店とか、理髪店とか、色んな店が苦労されています。宿泊施設の存在によって収益を上げてきた、クリーニング店とか、 灯油・ガスなどのライフラインを提供していた業者さんも大変な事態になっています。だから灯油屋さんが、米のセールスなんかにやってきたりしています。みんな生きるのに大変みたいですね。


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 それにしても草津熱帯圏さん、軽井沢おもちゃ王国さん、大丈夫だろうか?
 この二つには、ぜひとも頑張ってほしいんですが。
 なにか自分に手伝えることがあるといいんですが。



つづく。

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posted by マネージャー at 22:13| Comment(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月05日

子供は理科が大好き!

 最近息子のやつがはまっているのが、電気とか、天体についてです。どういうことかと言うと、小学校の理科を解説したDVDがヤフーオークションで安く売られていたので、それを買って見せたら大ハマりしてしまいました。7歳ぐらいの男の子にとっては、理科という学問は、甘い蜜の味がするらしくて、楽しくて楽しくてたまらないらしい。

 気持ちは分かります 。

 私も子供の頃に学研の『科学と学習』というやつを毎月楽しみにしていましたから。特に『科学』の付録が楽しかった。電池のいらないゲルマニウムラジオを作ったり、写真機を作ったり、顕微鏡・レコードプレイヤー・電磁石・アリのアパート・カブトエビの養殖・水質検査セットなど、楽しいったらありゃしなかった。


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 最盛期には670万部という驚異的な発行部数を記録した学研の『科学と学習』が、廃刊になってしまったのは本当に残念でした。あのワクワク感を息子が味わえないなんて、本当に可哀想だと思います。だからヤフーオークションで理科のDVDを見つけた時に、思わず買ってしまいました。で息子に見させたらはまるのなんの。夢中になって見ています。


 こうなることはあらかじめ分かっていました。
 Eテレにベーシックサイエンスと言う高校生向きの科学番組があるんですが、
 この番組を息子が一番好きだからです。

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 ドラえもんと同じぐらい大好きなんです。
 そうそう、息子はドラえもんも大好きです。

 で、思い出したんですが、ドラえもんが大好きなことと、
 Eテレのベーシックサイエンスが大好きなことと、
 小学校の理科のDVDにハマっていることは無関係でない気がします。
 ドラえもんを好きになると、科学番組や理科が大好きになると、私は密かに考えています。





 どうしてかと言うと、私も覚えがあるからです。
 私が3歳ぐらいの時に鉄腕アトムが流行っていました。
 私は鉄腕アトムを見て育った世代なんですが、
 私と同年代の人間のほとんどが科学少年になっているからです。





 ちなみにドラえもんは、私が小学校2年生の時に小学館の雑誌でスタートしています。だからドラえもんも、私は大好きでした。鉄腕アトムとドラえもんによって子供時代を過ごした人間で、科学に興味のない人はいないんではないでしょうか? そういえばアポロが月に着陸したのも私が小学校1年生の時でした。いいか悪いかは別にして、あの頃は科学に対するネガティブなイメージはなかったですね。



つづく。

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posted by マネージャー at 23:08| Comment(0) | グンマーで嫁が出産と育児 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月04日

節分・豆まき

 なんだかんだと忙しくて昨日になって、やっと豆まき行いました。

 息子のやつも、嬉しそうに豆まきを行いましたが、7歳にもなると非常にずる賢くなっています。豆まきといえば、大豆の煎ったものをまくのが相場なんですが、どういうわけか息子のやつは、南京豆を撒こうといいます。私にしてみればどっちでもいいので、南京豆を買ったわけですが、皆さんのご家庭では、節分で蒔く豆は、昔ながらの大豆でしょうか? それとも、拾い集めやすい南京豆でしょうか? 私は、鬼の面つきの大豆を買おうとしたら、息子がマッタをかけてきました。鬼の面のついてない南京豆がいいというのです。昔は、鬼の面がついてる方がいいと言ってたのに。

 しかし、南京豆を
「鬼は外」
と巻いた後に拾って、食べる段になって、ようやく南京豆をまきたかったかが分かりました。息子のやつも、まいた豆は、年齢の数だけ食べられることはわかっていて、 7歳という年齢なので南京豆を7個食べたわけですが、よくよく見たら14個食べている。南京豆はひとつの殻に二粒のピーナッツが入っているので、14個食べられるわけです。どおりで、鬼の面がついた大豆の豆よりも、何のおまけもついてない南京豆を欲しがったわけです。

「そんなに食べたかったのか」

と思った私は、

「節分で食べる豆は、数え年と言って、普通でも1歳年齢が上になっている数の豆が食べられるんだ。満7歳なら、数え年で8歳なので、7つではなくて8つ食べられるんだよ」

と教えたら嬉しそうに もう一個の南京豆を食べ始めました。別に10個でも20個でも食べてもかまわないと思うんですが、歳の数だけ食べると言うルールだけは守りたいと思ってるようなので、 こういう入れ知恵をしたわけです。


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 ちなみに私も、ボリボリと南京豆を食べていたら、息子のやつが恨めしそうに見ていて、なんとなく食べづらくなったので、 食べるのを止めて、全て息子に譲ってやりました。息子は、嬉しそうに
「明日になったら何個でも食べられるんだよね」
と言ってきました。もちろん、 どうぞどうぞです。

 一昔前なら、ピーナッツは太る原因として子供に食べさせたくない食材だったかもしれませんが、現在では、ピーナッツに含まれるオイルが健康に良い事が証明されてしまったので、 食べるのを拒む理由はありません。それに殻付きの南京豆は、子供の指を鍛えることもできるので、そういう意味でも、どを超えなければ、よいでしょう。



つづく。

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posted by マネージャー at 14:01| Comment(0) | グンマーで嫁が出産と育児 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月02日

思い出の写真が、危険にさらされている?

 息子は小学校の二年生なんですが、実は小学校の二年生までは、社会と理科という科目がありません。その代わり生活科という科目があります。その生活科の授業で、生まれてから小学校二年生までの写真が必要だというのです。どうやら写真を使って自分の歴史を作る授業らしいのですが、こういう授業は、私の子供の頃にはなかったので、驚きました。

 慌てて、あちこちのハードディスクに入っている息子の写真を探しまくり、なんとか二十枚ぐらいを用意したんですが、どこに保存されているのか探し出すのに苦労しました。そしてそれを持って、北軽井沢にあるコンビニのローソンに行ってプリントアウトしたんですが、そのプリントアウトの仕方がよく分からなくて戸惑いました。

 なんとか作業終了させると、いつまでたっても写真が出てこない。変だなあ変だなあと思いつつどうしても出てこないので店員さんに聞いてみたら、写真が出てくる場所が違っていた。私はコピー機のところから出てくるものだと、ずっとコピー機をにらめっこしていたんですが、そうではなくて別のところから写真が出てきていた。訳分からん。

 で、出てきた写真を見てみたら、これが非常にきれいに印刷されているんで驚きました。一昔前のフィルムを現像した写真と何ら遜色がない。というわけで、それらの写真をしげしげとみたわけですが、パソコンで見る写真と違ってプリントアウトされた写真も捨てたものじゃないなと感心したものです。



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 話は変わりますが、私の一族は、やたら学校の先生が多い。私の弟たちも学校の教師ですし、その嫁さんも教師だったりする。うちの嫁さんの姉妹も教師だったりするし、その旦那さんも教師だったりする。だから教員の内情というのは、ある程度聞かされて知っています。

 弟が教師になりたての時(今から三十五年前)に、
「夏休みの登校日がどうして設定されてるか知ってる?」
と聞かされて
「先生が、子供たちの顔を見るためでしょ」
と答えたら、弟のやつはニヤリと笑って
「あれは教師の給料日とボーナス日なので、学校に行かなければならないので、ついでに生徒も集めちゃうっていうことなんだよ」
と聞いて驚いたことがあります。

 もちろん今ではそういうことはありません。今は給料は振り込み制ですし、夏休みだから教師が学校に行ってないということもありません。新型コロナで学校が休校の時だって、先生たちは学校に行って仕事をしています。今から三十五年前の状況であって、今の学校ではもっと厳しくなっています。

 じゃあ昔は、ひどかったかというとそういうわけではなくて、そういう緩い体制のおかげで、夏休みの間に郷土史を研究して業績を上げる教師や、地質や植物を研究してとんでもない学者になった教師がジャンジャンいました。ある日本史の先生は、高校の教師から筑波大学の教授になったりしていますし、ある生物の先生は、植物学者の大家となって、よくNHKに出演されていました。昔は学校の先生によって、地方の文化が支えられていたという側面があったのです。まあそんなことはいいとして、もう一つ教師あるあるについて述べてみます。

 これは人によって違うと思いますが、学校の先生は、スーパーのレジなんかで父兄と一緒に並ぶのが気まずいらしくて、わざわざ遠くのスーパーに買い物に行くらしいです。まあ人によっては、かごの中身を見られるの嫌に思うかもしれませんね。逆に父兄にしてみても、これに当てはまる人がいるかもしれません。学校の先生と一緒に並ぶのが嫌だという父兄もいれば、子供の同級生の父兄と一緒のレジに並ぶのを嫌がる人もいるかもしれません。

 この逆が観光協会です。観光関係者は、同業者を見つけるとそばに寄ってきます。そして、にこやかに挨拶をして
「お客さん入ってる?」
と聞いて、相手の情報や景気の状態を探ったりします。話すことは山ほどある。お客さんの傾向とか、食材の値上がり状態とか、嬬恋村の野菜の出来不出来のお話とか、とにかく親しげにガンガン話しまくる。実際親しいわけではない人でも、とにかく顔を見たら楽しそうに話す。腹の中はともかくとして、情報交換だけはしっかりやる。

 学校の先生や父兄との出会いとは真逆の反応になる。

 それゆえに息子が生まれて子供関連の人たちとの対応に最初は面食らったものです。なので、今では学校関係者とある程度距離を取りながら、観光関係者とは親密な状態です。とはいうものの、あくまでも個人差のある話で、誰もがそうだというわけではありません。

 元々私は、無愛想で必要最小限の接触しかしませんので、これが一般的なのかどうかは分かりません。私は、視力が極端に悪いうえに、難聴で耳が聞こえにくいために、子供の頃から人付き合いが苦手だった。ただそのために、文章を書くことを苦にしない人間になっていた。人間誰にも長所もあれば短所もあります。

 最後にもう一つ、教師あるあるについて。
 実はこれからが本題です。
 ここから長い伏線の回収に入ります。

 息子は小学校の二年生なんですが、その授業で、生まれてから小学校二年生までの写真が必要なことは前に述べました。写真を使って自分の歴史を作る授業らしいのですが、昔なら考えられなかった。写真が貴重だったし、現像料金もバカ高かったからです。そもそもカメラを持っている人が少なくて、写真と言えば、町の写真館に撮りに行ったくらいですから。スマホやデジカメでジャンジャン撮影できる現代人には、想像もつかないのが、昭和三十年代だった。

 それでも、当時の親たちは必死になって我が子の写真を撮影し、それを大きなアルバムに貼って大切にしまっていた。写真が安く現像できるようになったのは、昭和五十年代にはいってからで、それまでは写真は貴重だった。貴重だったけれど、昔の人は、たくさんの写真をアナログデーターとしてい子供に残してくれていた。それらは、タンスの奥にホコリをかぶって死蔵されているかもしれないけれど、貴重な画像データーとして残してくれていた。

 そして令和時代。誰もがスマホで写真を撮りまくる時代に、自分の写真が一枚も無い子供がいるという信じられない事態がおきているらしい。

 「まさか?」と思うかもしれないけれど、そういう子供に出会った教師が現に存在する。
 これこそ「まさか?」の「あるある」なのです。
 昭和時代にはありえなかった「あるある」です。

 原因として、撮りためたデジタルデーターをパソコンの故障などで大量紛失したり、ハードディスクの故障で大量紛失してしまう可能性が考えられます。しかし、それだって復旧できないわけではない。

 一番、やばいのが、USBメモリや、SDカードです。

 最近は大容量のものがあるので、四千円くらいの128ギガのSDカードで五年くらい撮り続けることができる。しかし、USBメモリや、SDカードくらい保存に向いてないものはない。これは、その筋では常識なので、絶対に憶えておいた方がいい。ある日、突然、消えてしまうことがありえる。中国製だからそうだということではなく、そもそも構造上の問題で、長期保存ができないうえに、一回壊れたら、救出が出来ない存在です。だから、絶対に、こまめにバックアップする必要があるのですが、下記サイトのアンケートによると

https://www.iodata.jp/ssp/magazine/112/index.htm

 家族の思い出(写真や動画)をバックアップしているのは全体の六割しかなくて、約三割の人が家族の思い出(写真や動画)を無くした経験があり、その主な原因は機器の故障によるものであるという。だからこそ、長期保存できるバックアップが絶対に必要なのですが、これが難しい。ハードディスクにも寿命があるし、ブルーレイはもっと危険。SDカードなんかはもっての他。そうなると、ある程度は、プリントアウトして、アナログデーターとして残しておくのもよいかもしれない。その方が後世まで残り続ける可能性が高い。


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 もし、あなたの祖父母が死んだとして、祖父母の写真アルバムを捨てることはないと思うけれど、これが古いハードディスクだったり、ノートパソコンだったどうだろう? ウインドウズ95くらいに古いノートパソコンの中身を、捨てる前に、すみからすみまで、わざわざ検証するだろうか? ITに詳しい人ならともかくとして、あなたがIT音痴だったら検証するだろうか?

 そう考えると、思い出の写真は、後世のためにもアナログデーターとして残しておくのもよいかもしれません。



つづく。

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posted by マネージャー at 10:02| Comment(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年02月01日

小学校から書道セットのカタログが届いた

 息子がもうすぐ三年生になるということで、リコーダーと書道セットの注文の用紙が届きました。三年生になると習字があるんですね。私はてっきり習字の授業はないものと思っていました。それで驚いたのは、書道セットのカタログです。すごくおしゃれな書道セットがずらりと並んでいる。アディダス(Adidas)の書道セットなんかもある。


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 嫁さん(昭和47年生)は、このアディダス(Adidas)のブランドにいたく感動していた。嫁さんの実家館林では、アディダス(Adidas)が高くて買えなかったために、みんなオディダスというバッタもんを使っていたらしく、そういうバッタもんが、館林中に大流通していたらしい。

 逆に私(昭和36年生)が生まれた佐渡島には、そういうバッタもんは無くて、猫も杓子もアディダス(Adidas)ばっかり持っていて、私にとってアディダス(Adidas)は、いまで言うユニクロみたいな存在で誰も欲しがりはしなかった。そもそも書道セットに、なぜアディダス(Adidas)なのか、さっぱり分からない。なので、息子には
「好きな書道セットを選びな」
と言い、息子もアディダス(Adidas)でない書道セットを選んでいる。


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 ちなみに私が子供の頃は、筆も硯も別個に買って持って行った気がします。墨も硯ですっていた。そもそも書道セットなんてものが、あったかどうかも記憶にない。というのも私が子供の頃は、物心がついた頃に習字を始めてる子供たちが多かったからです。昭和30年代から40年代にかけては、塾といえば、そろばん塾か習字の塾でした。

 私が生まれた佐渡島の金井町というところは、人口が五千人ぐらいしかないくせに、私が知ってるだけで書道家が四人ぐらいいて、そのお弟子さんが何人かいて、それぞれが塾を開いて盛況でした。小学校の三年生ぐらいで草書体や篆書体をかく子供たちもいて、優秀な作品は巻物にして展示されたりしたものです。小学校でも、毎月のように書道の発表会があって、廊下にずらりと展示されていました。

 当時は、習字がうまいということは、勉強や運動ができることと同じくらいのステータスだったと思います。ただし私には興味が無かった。無かったけれど、友達が全て習字の塾に行くというので、私も一緒に行くことにした。遊び相手が塾に吸収されて消えてしまうからです。というわけで、私は小学校三年生の頃に、短期間習字の塾に通いました。で、いきなり頭角を現したんですが、すぐに駄目になってしまった。

 まず、入塾して先生に目をつけられてしまった。
「うますぎる」
というのです。そして個人的に特訓をうけるようになってしまい、それが原因で私は習字が嫌いになってしまった。

 みんなはすぐに帰ってもいいよと言われるのに私だけ帰ることを許されなかったからです。友達と一緒に遊ぶために塾に行ったのに、その友達はすぐに解放されて、私だけが居残りになってしまうのに無性に腹が立ってしまった。

 ちなみに、どうして先生に「うますぎる」と褒められたかと言うと、これには原因があって、子供の頃からなんでもトレースしてしまう癖があったからです。

 トレースというのは、手本を見て、そっくりコピーしてしまうことです。何をトレースしていたかと言うと日本地図・世界地図・鉄道線路とかです。特に日本地図は毎日のようにトレースしていたために、本物そっくりに書く技術がどんどん上達していたのです。

 そういう状況下で、習字の塾に入ったわけですから、トレースの要領で習字を始めたわけで、手本そっくりに書くのが普通にうまかったらしい。それを先生が誤解して、私のことお習字の天才だと思ったらしく、友達は一時間ぐらいで解散していいのに、私だけ三時間ぐらい残されて嫌になってしまった。なので、私はわざと下手くそに書いて
「今日はもう帰りなさい」
と言われるようになり、最終的には習字の塾そのものに行かなくなってしまった。

 ちなみに書道の技術と、トレースの技術は全く違います。手本と同じ文字を復元する能力と、習字が上手くなる能力は全く違う。習字というのはあくまでも字を上手く書くことであって、「とめ・はね・はらい」に気をつける。けれどトレースする人間は、そんなものより空間構成を見ている。だから書道とトレースは別物で、手本をコピーすることと、字を上手に書くことは、必ずしも一致してない。これは、少しでも美術をやった人なら理解できると思う。

 私が習った習字の先生には、これがわからなかったんだと思う。私は、日本地図やウルトラマンに出てくる怪獣コピーするのが好きだったわけで、そういう技術があって、その延長線上に習字を書いていただけで、決して字が上手く書けたわけではなかった。そもそも字をうまく書こうと言う気持ちがなかったので上達するわけがない。

 しかし、書道の先生には、そんなこと分かるわけがなく、
「うわー上手だなあ。惜しいなあ。墨が薄くなかったら師匠に提出するんだけれどなあ。墨が薄いんだよね。もっと濃く墨をすって、もう一度書き直しなさい。墨が濃かったら一発で昇級するから頑張ってね」
と、赤字で二重丸をつけて
「これは上手いから、部屋に飾っておきなさい」
と言います。そんなもの飾るわけがない。いつもクシャクシャにして捨てていた。飾ったのは1回だけだった。それよりも子供の頃の私は、どうして皆と一緒に遊べないんだという鬱憤がたまっていった。

 ちなみに私が習っていた先生は、某書道家の高弟の方だったらしく、教え子に対する昇級・昇段の権限が無かったので教え子を昇級させるためには、作品の提出が必要だったらしい。だから少しでも良い作品を生徒に書かせることに熱中していた。で、見込みがあると判断した私だけを居残り練習させていたので、それが嫌で辞めてしまった。





 その後、親がやっていた日本習字という通信教育で、何年か習字を勉強して四段くらいにはなったんですが、中学校に入る前にやめてしまった。やはり字を上手に書こうと言う気がなかったんだと思います。

 私がやっていたのはあくまでもトレースで習字ではなかった。それが証拠に手本がないと下手くそだった。ちなみに当時の日本習字という通信教育は、トレースぎみの教育システムで、「とめはね」よりも「空間設定」を重視していたので、トレース好きな人間には、もってこいの書道だった気がします。もっとも今の日本習字が、どういう教え方をしているのかは分かりませんが。

つづく。

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posted by マネージャー at 04:43| Comment(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする