今は無き周遊券という切符を使って北海道一周旅行をした時の事です。周遊券というのは、三万円から四万円ぐらいで、二十日間にわたって北海道中の鉄道に乗り放題と言う恐ろしく安いチケットのことです。二十代の頃に、このチケットを使って東京から北海道旅行に行ったんですが、そのためには、一日一本しかなかった急行八甲田に乗ることになります。それは、夜の八時に上野駅を出発する一本だけです。昔津軽海峡冬景色という演歌がありましたが、その歌詞に
「上野発の夜行列車乗った時から」
というくだりがありますが、それです。その上野発の夜行列車が急行八甲田です。一日に一本しか存在しない急行八甲田。
ということは、周遊券を使って旅する人達は、ほぼ全員がその列車に乗るわけですから、ずっと同じ時刻の中に入るということになります。どういうことかと言うと、北海道に上陸してから最初の宿泊先が同じになる可能性が高い。
二十日もかけて北海道一周するとなると、そんなに高い宿には泊まれません。値段が安いユースホステルに泊まるしかないわけです。男性ならば、駅寝という手段をとって一泊の宿泊費を抑えることもできます。ただし駅でなんか屁でもないわと思っている猛者であっても、初日だけはユースホステルに泊まります。夜行列車である急行八甲田で体力を使い切っているからです。そうなると、北海道南部のユースホステルが宿泊の選択肢になるわけですが、函館に泊まるか、大沼に泊まるか、登別に泊まるか、頑張って札幌まで行って札幌で泊まるかという選択肢になります。
そんなことを全く知らなかった私は、札幌に向かう特急列車の中で、ホステリングガイドを開いて「どの宿に泊まろうか?」と思案していると、大きなザックを背負った女の子がやってきて「会員ですか?」と聞いてきました。生まれて初めての逆ナンパに出会った私はしどろもどろになりますが、この「会員ですか?」という言葉は、「ユースホステルの会員ですよね?」という意味で、「YES」と答えると、十年ぶりに出会った親友のようにすぐに仲良くになってしまいます。そして「今日はどこに泊まるんですか?」と聞いてきます。
「今それを考えているところなんです。何しろ北海道は初めてなんで・・・」
と私が答えると、その女性は笑って、
「それなら登別のあかしや荘がいいです。私はそこの常連なんです。絶対に面白い宿ですから一緒に行きましょう」
とずるずると引っ張られて結局、一緒に泊まりに行くことになりました。当時はこういう特定のユースホステルを贔屓にしていて、そのユースホステルのために営業活動している人がたくさんいて、北海道の初心者である私はそれに引っかかったというわけです。
こうして私は登別のあかしや荘というユースホステルに泊まりました。そのユースホステルには、どういうわけか温泉があって、長旅の疲れを癒すことができて感動しました。料理も北海道名物ジンギスカンが美味しかった。それよりも驚いたことは、ヘルパーと言う二十五歳ぐらいのボランティアの女の子がいて、見知らぬ人同士を顔見しにするように、色々気遣いをしてくれたことです。
新型コロナが発生してからは考えられないことですが、当時のユースホステルでは、宿泊する人たちは全員が一人旅で、知らない人同士が同じテーブルで一緒にジンギスカン鍋をつついていました。最初はみんなもじもじしていたんですが、みんな一緒に鍋をつついているうちに、少しずつ打ち解けてきて、楽しい旅の話題で盛り上がります。つい数分前までは、見ず知らずの他人だったにも関わらず、十年来の親友のように楽しい旅の話題で盛り上がるのです。
「ユースホステルって何て素晴らしいとこなんだろう」
と思ったものです。そういう私は、その二十年後に北軽井沢でユースホステルを経営するわけですが、当時はそんなことになるとは夢にも思っていません。とにかく何もかもが新鮮で驚いてばかりです。知らない人間と一緒にジンギスカン鍋を食べるということ自体がびっくりですし、食べた後に一緒に食器を洗うというのも楽しかった。そして、その後にお茶会が開かれ、皆で夜のナイトハイクに出かけ、星空をみんなで眺めました。楽しかった。なので、うちの宿でも星空観察会だけは行っています。
ちなみに今でこそ、食器をお客さんに洗わせるという行為は保健所の指導でNGになっていますが、当時のユースホステルでは普通に行われていました。その代わり安く泊まれたわけですが、この食器洗いによって、ますます他人と仲良くなれるシステムでした。ユースホステルによっては、お客さんに館内の掃除をさせるところもありましたが、これも嫌ではなかったです。それによって宿泊者同士の連帯感が生まれたからです。逆に言うと、そういう作業を嫌がる人たちはユースホステルに二度と泊まりませんでした。それによって、人間が選別されて言ったことは確かです。
見知らぬ他人と仲良くなりたい人達はユースホステルに泊まり、プライベートが欲しい人達は多少高くてもペンションに宿泊しました。こういう選別の結果、ユースホステルには、妙に人懐っこい人たちが集まるようになり、電車の中でホステリングガイドをチラチラさせるだけで
「あの人は、ユースホステルの会員だな。じゃあ話しかけてやろう」
ということになってしまうわけです。
その結果ユースホステルには、ますます人懐っこい人達が集まって、みんなどんどん社交的になっていって、旅先の一期一会の出会いに魂を燃やし、瞬間に一瞬にして大親友のようになり、翌日には何事もなく赤の他人としてバラバラに去っていく。それを体験した私は
「昨日一晩であんなに盛り上がって、あんなに仲良くになったのにも、もう他人になってしまうのか。本当に一期一会だな」
と思ったのですが、一期一会だからいいのかもしれないと思いました。もう出会うことがないからこそ、思いっきり楽しめるんだろうと思いました。しかしその考えは大きな間違いでした。確かに一期一会なんですが、またすぐどこかで再開するとは夢にも思っていませんでしたから。
どういうことかと言うと、この後みんなとりあえず札幌まで行きます。札幌で泊まる人もいれば、札幌から時計回りに北海道一周する人もいれば、反時計回りで北海道一周する人もいます。ここで別れ別れになるわけですが、北海道一周する人たちにしてみたら、ある程度パターンが決められているのです。
大抵の人たちは、反時計回りに北海道を一周します。つまり札幌から襟裳岬の方に向かって、それから帯広・釧路根室に向かって知床半島に行きます。その後に網走や旭川に行って、そして宗谷岬に行き利尻島礼文島にわたって、その後に南下して、札幌を経由して小樽に向かい、積丹半島を見学した後に、奥尻島あたりにわたって、最後に函館を経由して帰るというパターンが一般的です。つまり登別で別れたとしても、そのパターンに従って鉄道旅行をしている限り、いつかどこかのユースホステルで再会する可能性が高いのです。
また、旅先で知り合った人が増えるにつれて、その人の友人関係が、私の知ってる友人関係と重なっていることに気づき、知らず知らずのうちに巨大ギルドの所属しているような感じになり、そのうちに初対面の人から
「あなたが佐藤さんですね、噂は聞いてました」
と言われるようになります。私の知らないところで私の噂が流れている。そのうちに私の偽物が出現したりする。私そっくりな人間が私を語っていたりする。こうなると訳が分からない。ひょっとして巨大な陰謀に巻き込まれているのか?と錯覚したくなりますが、そんなわけはなく、インターネットが無かった当時のユースホステルにおける口コミ力が凄かったということになります。
要するに1970年代から1992年頃までは、ユースホステル業界そのものが、疑似インターネットであったわけで、逆に言うと、本物のインターネットが出現するとともに、インターネット的であったユースホステル業界が、徐々に廃れていったとも言えます。
話をもどします。北海道で鉄道旅行をしていると、地元民から色々と話しかけられて、色々なハプニングに出会います。地元民どころかJRの車掌さんにも話しかけられ、鉄道マニアか何かと勘違いされたのか、昔の切符をいらないかと話しかけられます。別に欲しいわけではなかったですけれど、せっかくだから記念に一枚買ってみると、車掌さんと仲良くなって談笑していると、それまで赤の他人だった鉄道マニアの人たちが私のところによってきて、色々話しかけてきたりもします。当時は彼らのことを「鉄ちゃん」と言ってました。その当時は、鉄道オタクという言葉がなくて、鉄道マニアを鉄ちゃんと言い、そうではないけれどJRを使って旅行する人たちのことを「JRらー(JRer)」と言ってました。
このように北海道旅行者にはいろんな種類の旅人の人たちがいて「チャリダー」もいれば「サイクリスト」もいる。「徒歩だー」もいれば、「歩き」もいる。
「チャリダー」は、あくまでも自転車を移動の手段として使って旅する人たちのことで、「サイクリスト」は自転車移動が目的そのものの人です。要するに「JRらー(JRer)」と「鉄ちゃん」の違いみたいなものです。だから「サイクリスト」に、うっかり「チャリダーですか?」と聞いたら彼らは激怒します。彼らは誇り高きサイクリストで、チャリダーなんかと一緒にされてはたまらないと思っていますが、そんな違いは、素人に分かるわけが無い。
「徒歩だー(徒歩だer)」も「JRらー(JRer)」みたいなもので、疲れたら電車に乗りますが、「歩き」の人は歩き専門で歩いて日本一周する人たちです。「歩き」の人に「徒歩だーですか?」と言わないように気をつけていました。この「歩き」の人にも、色々な種類があって、下駄とか、唐傘とか、リアカーとか、自転車とか、千差万別でした。自転車というのは、あくまでも自転車を担いで歩いている人で、決して自転車に乗らない人です。こういうおもしろい人が当時はいて、自転車に乗らずに担いで歩くだけでも大変珍しいのに、その自転車を担いで北海道中の山を登山していたから驚きます。ちなみに担いでいる自転車にはゴムタイヤはついていません。その人が生きていれば、七十歳近いと思うんですが、若い頃の写真をSNSにアップしてないかと、調べてはみたんですが、未だに見つけていません。当時は、ギネスブックに載せるという発想も無くて、ただ好きでバカなことをやっていたので、今後もSNSにアップしないかもしれません。
こういう馬鹿なことをしている人は、実は私の身近にもいて、余命十年と言われ、一週間に二回とか三回入院しなければ死んでしまうくせに、三百名山を登り切って上毛新聞にデカデカと報道され、群馬テレビで特集された人もいます。その人は、時々フルマラソンしていて国体選手並みの記録ももっていたりする。医者が聞いたら呆れ返るような人間が私の友人にいます。
その人は今、群馬県のとある高等学校で教師をしていますが、こういう人間を雇った学校も大したもんだと思いますが、ある意味先見の明があったかもしれません。というのも彼はその学校の陸上部の部員のトレーナーをしているわけですが、陸上部員のメンタル指導に大活躍すること間違いないと思いますから。そういう彼も、私が北海道で出会った一人で、一期一会の出会いのもとに一緒に摩周岳に登った仲です。もちろん再び再会することになるとは当時は夢にも思っていません。
ユースホステルで一期一会の出会いの瞬間に魂を燃やして翌日は赤の他人として去っていく。そしてもう二度と出会うことはないんだろうなあと思いつつ、次のユースホステルで新しい一期一会の出会いに魂を燃やす。そういう旅に私は感激しながら北海道旅行を続けるわけですが、結局のところ、一期一会ではなかったです。またすぐに再会して、 そしてなんだかんだと20年30年の友人付き合いになるから、これだからユースホステルの旅はやめられません。 結局私は、北軽井沢でユースホステルを経営する立場になるわけですが、残念ながら現在ではそういうことはありえません。 ユースホステルとペンションの違いは全くなくなりました。うちの宿もペンションと何ら変わりがありません。
で、北軽井沢で営業してから何十年もペンション客を迎入れてるわけですが、ある日何気なく昔の写真を眺めていたら、どこかで見たことのある顔が大量にある。 昔の写真というのは、北海道のユースホステルの玄関前で 撮影した集合写真のことですが、当時二十代だった人たちの顔に見覚えがある。変だなあと思ってよくよく考えてみたら、北軽井沢ブルーベリーYGHに家族連れで泊まりに来るペンション客の常連さんでした。
このことをご本人に話してみたら、向こうも驚いていました。確かに大昔に◇◇ユースホステルで集合写真の写真撮影をしたことがある。その時は赤の他人だったけれど、巡り巡って北軽井沢ブルーベリーYGHに泊まって家族連れでペンション客の常連さんになっていたわけですから、これこそ巡る因果の糸車です。 だからこそ 一期一会の出会いに魂を燃やすことは素晴らしいことであったと言えます。時代劇の三匹の侍のような出会いと別れが、八犬伝のような出会いと別れが昔のユースホステルにはあったわけです。
つづく。
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