今は何でもネットで予約できますが、昔は電話でないと宿泊所(ユースホステル)に予約できませんでした。もっと大昔になると往復はがきで予約しました。電話料金が異常に高かったからです。今でこそ全国どこに電話をかけてもたいした値段ではありませんが、1970年代に北海道に電話をかけたら、宿泊費代ぐらいの値段がとんでいきました。なのでどうしても予約したい場合は往復はがきを利用したわけですが、その往復はがきが面倒くさい人は、北海道に到着してから電話予約しました。
ただし例外もあります。信じられないことですが、昔は宿泊費を浮かすために駅舎(駅の待合室)に寝る人たちが大勢いました。駅の方も鷹揚な感じで、駅の待合室で一晩明かす人たちを黙認していましたし、駅によってはトレインと言う五百円で泊まれる古い列車の車両を置いてあるところもありました。これを昭和時代には駅寝と言っていました。平成時代に入るとステーションビバーク(STB)と洒落た感じの横文字を使っていましたが、現代ではそういう駅舎はありません。時間になると大抵のところは閉鎖されてしまいます。
その他にキャンパーという人たちもいて、キャンプ道具を背負って旅する人たちもいました。彼らはいろんなところにテントを張ってそこで生活していました。マイナス20度ぐらいになる真冬の旭川や美瑛でテントを張る猛者も少なからずいました。彼らはあまり移動しません。キャンプ場でもない美瑛にある神社なんかにテントを張って怒られないのかなーと質問したこともあるんですが、逆に北海道民から差し入れが入ってくると言っていました。そんなバカなと思った私も仲間に入ってテント生活をしたことがあるんですが、確かに地元民から差し入れが届いたりします。
どうしてだろうと不思議に思いつつ、差し入れしてくれる人に疑問をぶつけたんですが、その人も元々キャンパーだったそうです。キャンプ生活をしながら冬景色を撮影しているうちに、農家の人たちから声がかかって、近くの農場でアルバイトしているうちに、そこの農家に婿に入ったと言う。そういう人たちは、その人以外にも多かったようで、ふらりとやって来るキャンパーたちは、人手不足で困っている農家の人たちの貴重な戦力だったようです。そういう人たちが今では外国人にとってかわってしまった。
そうそう、外国人労働者で思い出したのか、沖縄の石垣島や西表島の話です。1980年代後半に、これらの八重山諸島で仕事をしたり旅行をしたりしていたんですが、これらの島々でもキャンパーたちが地元の労働に大いに貢献していました。キャンプ場でキャンプをしていると、夜になると「人買い」という求人募集の人たちがやってきて、日給一万円ぐらいで労働者を募集します。その労働は非常に厳しいものだったんですが、日給一万円の魅力には勝てず、キャンパーたちは次々と労働に応じていました。1980年代当時のを日給一万円は、かなりの高給です。
労働場所は製糖工場であったりサトウキビ刈りであったりするんですが、一万円ももらえばキャンパーたちは一週間以上暮らしていけるので、大喜びで働きに行きました。私も働いたことがあるんですが、珍しいこともあって非常に面白かった記憶があります。そして、案の定と言うか、やっぱりと言うか、
「お前は働きもんだなあ」
と言われてしまい
「家に住み込み、一か月ぐらい働かないか」
と熱心に口説かれました。もちろん断りましたが、飯でも食って行けと言われて、ごちそう責めにあい、酒を次々と注がれて気が付いたら朝になっていて、もう一日働くことになってしまったいしました。その次もごちそう責めにあって、また一日働くことになり、その次の日も御馳走責めにあいそうになったんですが、さすがにこのままではやばいと思って辞退したのは良い思い出です。当時は、そのようにズルズルと言って、その家の娘の婿となって農家を継ぐ人たちが多かったようです。
そんな見ず知らずの流れ者を婿さんにしていいのかと聞いたこともあるんですが、そもそも石垣島の住民の大半が流れ者の開拓者だったそうで、そういうものに対してのアレルギーはないと言っていました。石垣島や西表島は先祖代々沖縄に住んでる人が多いのかなという漠然としたイメージを持っていたんですが、そういう人はむしろ珍しくて、ほとんどが大阪あたりからの開拓民だそうです。どうりで沖縄なのに関西弁が話されていると思いました。
面白かったことは、当時の島の人たちは、キャンパーたちはみんな働き者だと思っていたことです。私から見たらどう見ても働き者には見えなかったんですが、南国の島の基準でいうと働き者であるらしい。時間が止まった世界に生きているキャンパーたちが働き者に見えるということは、南国はもっと時間が止まっていたということになります。
そういえば、キャンパーたちを雇う前は、八重山諸島に大量の台湾人が出稼ぎに来ていたそうですが、1980年当時でさえ、すでに台湾人はお金持ちになっていて出稼ぎに来る人はいなかったそうです。台湾人は、かなり昔から裕福だった。
他にも面白い話があります。八重山諸島のキャンプ場に郵便物が届いたことです。石垣島◆◆キャンプ場・熊さんというはがきを書いて送っても郵便局の人がキャンプ場まで届けてくれた。こんなことは今では考えられないかもしれません。
ちなみに、この「熊さん」というのはキャンパーネームのことで本名ではありません。本名でなくてもキャンプ場に郵便局は届いたというのはすごいことですが、それ以前にそのキャンプ場は、キャンプ場とは名ばかりの管理者も誰もいないいわゆる、単なる砂浜ですので、そういうところに郵便物が届いたことが昭和時代の凄いところです。ちなみに、そのキャンプ場にキャンプしてる人たちは決して定住してるわけではなくて、冬場だけ存在していて春になると本州を北上して北海道を目指します。そして夏は北海道で農家とか漁師のところで働く人たちでした。
話が大きく逸れました。
北海道の話でした。
昔は長期北海道する人たちの大半はユースホステルなどの安い宿泊施設を使っていましたが、男性に限って言えば、テントで旅をしたり、駅寝で旅をしたり、寝台列車で宿泊しながら旅をしたりで、旅行費用を節約していました。それができたのは北海道だけで、北海道民は、そういう貧乏旅行をする人たちを生温かい目で見ていて何かしらサポートしていました。今では考えられない話ですが、そういうことが実際にあったのです。
どうしてそういうことが可能だったかと言うと、北海道の歴史に関係あります。昭和三十年代に北海道には季節労働者が大量にいたらしい。彼らのことを北海道では芋掘りさんと言っていて、二・三週間おきに地域を転々とした人たちが少なからずいたらしいのです。
別に芋ばっかり掘っていたわけではなくて、いろんな農場で転々と働いて季節移動した人たちがいて、そういう文化がしっかり根付いていたらしい。もちろんそういう人たちの子供たちも大量にいて、二・三週間ぐらいで転校して行く子供たちが大量に存在したらしく学校では、そういう子供たちのサポートも行っていたらしい。
こう書くと彼らのことを底辺労働者のように現代人は思うかもしれませんが、そうでもなかったらしくて、そういう季節労働者は、衣食住を保障されて、かなりの高給をもらっていたらしく、来年も来てもらうために酒をじゃんじゃんふるまわれ、子供には絵本やお菓子を買い与えたと言われています。
これは芋掘りさんを実際に雇っていた農家さんから聞いた話で、その人は子供の頃に、お菓子や絵本を買ってもらえる芋掘りさんの子供たちを羨ましがっていたらしい。ついでに言うと、私はその農家さんにヒッチハイクで拾われて、ご馳走責めにあって、気がついたら一週間ぐらい農家の手伝いをしていた口です。
まあそんなことはどうでもいいとして、本題に戻します。駅で寝たり、夜行列車で寝たり、テントを張って寝たりしているうちに、さすがに体が汚れてきます。そろそろ体を綺麗にしなければいけないなと思っら、ユースホステルに予約を入れて宿泊しました。
昔の北海道(特に道東)にはコインランドリーというものがありませんでしたので、洗濯をしようと思ったらユースホステルに泊まるしかなかった。インターネットがなかった昔は、コインランドリーを探す場合はタウンページしかなくて、道東のタウンページを開いてみても、コインランドリーがない。信じられないことですが、あの広大な関東平野にも匹敵する面積をもつ道東にコインランドリーが数えるほどしか無かった。だから洗濯しようと思った旅人はユースホステルに泊まるしかなかった。
当時ユースホステルには必ずコインランドリーがありましたので、早めにチェックインをして衣類をどんどん洗濯しました。そのうちお客さんが次々とチェックインしてくるんですが、みんな女の子たちでした。男は駅で寝たりテントを張ったりできても女性には敷居が高かったのか、ユースホステルに泊まると女性ばっかりでした・今と違って昔のユースホステルは、女性が多くて、その女性たちの存在が眩しかった。
私は久々に見る十代の女性の姿に目がクラクラし、何かいい匂いがしたなとか、目がまぶしすぎると顔を背けたことを思い出します。そして
「やっぱりユースホステルは私がくるべきところではないな」
と再認識して食堂のすみで気配を消していたわけですが、何日も山の中なんかに潜んでいてヒグマと絶叫を聞いて生きてきた人間が、都会から来たばかりの若い女性たちには、よほど目立っていたのか、どんなに気配を消しても彼女たちは近寄ってきます。そして
「どこから来たんですか」
と言われるので面倒くさそうに
「山の中」
などと答えると、彼女たちの好奇心に火をつけるらしくて次々と質問をしてきます。面倒くさいのと、姿が眩しいのと、女性独特な匂いが熊・鹿たちの匂いとあまりにも違いすぎるので、ぶっきらぼうに適当に答えているうちに、どんどん女性が寄ってくる。で、ますます嫌気がさして、石垣のキャンプ場に出す絵はがきを書いて無視したりするんですが、彼女たちは『石垣島』という文字を見逃さない。そのうちに沖縄諸島のキャンプ場の話や製糖工場の話なんかを話す羽目になって、気がついたら消灯時間になっているということがよくありました。
「明日も聞かせてください」
と言われるのですが、私は朝四時ぐらいに出発することが多かったので、
「それは無理だ」
と答えることが毎回のパターンで住所交換もせずに消えて行くことが多かったんですが、唯一朝四時に起きてきた十九歳の女の子がいました。それが今のうちの嫁さんです。
つづく。
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