私は5歳ぐらいの頃から、親と一緒に大河ドラマを見続けていて、その影響で歴史が大好きになっています。5歳の人間に大河ドラマはハードルが高いのですが、偶然にも私が初めて見た大河ドラマは『源義経(1966年)』だった。
私が子供の頃は、源義経は、牛若丸として絵本や紙芝居で何度も見ていたし、保育園で牛若丸の歌を歌っていた。なので『源義経(1966年)』は五歳児にも親しみがあり、毎週楽しみに見ていて、土曜日の再放送さえみていた。最終回の弁慶の立死のシーンは、夢に出てきてうなされるほどの衝撃で、60歳になる今でも脳裏に光景がきざまれています。
ただし、次の年の『三姉妹(1967)』には全く興味が持てなかった。私の記憶には残ってない。次の年の『竜馬がゆく(1968)』は、面白がって見ていた記憶があるんですが、内容は思い出せません。当時、私は小学校1年生だった。一年生には、坂本龍馬は難しかったのかもしれない。
私を大河ドラマにのめり込ませた決定打は、上杉謙信を主人公にした『天と地と(1969)』だったと思う。この作品は、NHKのドラマとして、当時の最高予算を使ったドラマだった。合戦シーンに大勢のエキストラを使っただけでなく、それをヘリコプターを使って空中撮影までしていた。
私の育ったところは、上杉謙信の地元である新潟県なので、近所中が『天と地と(1969)』を見ていた。新潟県民で、この大河ドラマを見てない人はいなかったと思う。新潟中の人間が、『天と地と(1969)』に熱中した。当然のことながら子供たちも、巻き込まれて見るようになる。
私も例外では無い。
小学二年生だったけれど、この大河ドラマに熱中した。
これは私だけではなく、同じ年齢の同級生たちも見ていた。
ゲームがはびこる今では考えられないけれど、
当時の子供の遊びはチャンバラだった。
そもそも上杉謙信という奇跡的な人物を主人公にしているのだから、面白くないわけがない。上杉謙信くらい劇的な人生なら、誰がシナリオを書いても面白くなるのだが、脚本を書いたのが、新潟県出身の杉山義法だった。彼の脚本には、上杉謙信がのりうつっていた。新潟県民でないと書けないシナリオだった。
そもそも原作が面白かった。司馬遼太郎の師匠筋にあたる海音寺潮五郎なので、面白くないわけがない。そのうえ海音寺潮五郎は、フィクションを控える。だから余計に海音寺潮五郎の上杉謙信が本物にみえる。そもそも海音寺潮五郎(薩摩隼人)には、上杉謙信的なところがある。だから面白さが増していたのかもしれない。
で、私は親に「今まで一番面白かった大河ドラマは?」と聞いたことがある。『天と地と(1969)』という答えが返ってくるかと思いきや、大河ドラマの第一作である『花の生涯(1963)』という解答に驚いた記憶がある。幕末の時代劇では、悪役として登場する井伊直弼が主人公にした大河ドラマなので、非常に驚いた。
以上、ここまでが前置きである。
これ以降は、私が20歳になってからの話になる。
二十歳になった私は、映像系統の学校に通っていた。そこで映画『キューポラのある街』の監督である浦山桐朗氏の講義を受けた。その浦山桐朗氏が、講義中にNHK大河ドラマについて強烈なダメだしをしていた。
当時のNHK大河ドラマは、『おんな太閤記』を放映しており、平均視聴率31.8%という化け物番組の数字をだしており、多くの人々が熱中して見ていた。大河ドラマの時間は、銭湯が空っぽになっていた。だから浦山桐朗氏のNHK大河ドラマ批判に違和感を持ってしまった私は、
「あんなのは大河ドラマではない」
という浦山桐朗氏に
「どのへんが大河ドラマではないのでしょうか?」
と質問してしまった。すると浦山桐朗氏は
「テレビをよく見てみなさい。八割が人物のアップになっている。ほとんど顔しか写ってない。顔ばかり見せている。まるでホームドラマだ・・・。昔の大河ドラマはね、例えば『花の生涯(1963)』なんかは・・・」
ここで『花の生涯(1963)』という固有名詞を聞いて、昔、親から聞いた一番面白かった大河ドラマが『花の生涯』という事を思い出し、いろいろ伝手をたどって『花の生涯』のビデオを見てみて驚いた。テレビだというのにモンタージュを多用しており、クローズアップまで使われている。そうえカットバックまで使っている。カットバックとは、異なる場所で同時に起きている複数シーンのショットを交互につなぐ演出のことで、テレビでは滅多に使われない手法です。つまり、この作品はテレビの手法で作られてなかった。あきらかに映画の手法で作られていた。特に井伊直弼を暗殺するするシーンは、リアルで凄かった。
雪の中、水戸浪士が斬りかかる。
護衛の者は、刀が抜けない。
刀は、金ピカの刀袋に包まれており、
その紐を解こうとするが、
雪の寒さで指が思うように動かない。
(江戸城に入る武士は刀を豪華な刀袋に入れていた)
水戸浪士が、ジワジワと井伊直弼の駕籠を囲んでいく・・・・。
そしてカットバック!
まさに映画! 大河ドラマというより映画。しかし、この作りをみて感じたことは、私もこういう作品(大河ドラマ)を見たことがあるというデジャブー感でした。もちろん『花の生涯』の事では無い。そうではなくて倉本聰の大河ドラマ『勝海舟(1974)』を思い出してしまった。『勝海舟(1974)』も、すごい大河ドラマだった。倉本聰の最高傑作は、『北の国から』ではなくて『勝海舟(1974)』だと私は思っています。
それはともかくとして、大河ドラマのスタートを切った『花の生涯(1963)』が、映画的な手法で作られていることに驚き、当時、最高視聴率をとっていた『おんな太閤記』が、非常にテレビ的に作られていることに妙に感心したものです。
で、いつから大河ドラマが、映画的なものからテレビ的なものに変化していったかというと、『天と地と(1969)』が分水嶺だったかもしれない。『天と地と(1969)』までは映画的な香りがしていた。その後の『樅ノ木は残った(山本周五郎・1970)』あたりになるとテレビ的になっていて、『春の坂道(1971)』になると、今の大河ドラマと同じように完全無欠のテレビ番組になっていた。
そして次の『新・平家物語(1972)』になると、平岩弓枝のシナリオということもあって、完全無欠なテレビであり、『おんな太閤記』のように役者のアップが目立つようになり、当然のことながらほとんどスタジオ撮影だった。だから絵巻物のような美しい画面が、これでもか!と出てきた。ロケが多いと、こうはいかない。
若い人にはわかりにくいかもしれませんが、昔のテレビでは、ロケになると16mmフィルムで撮影していて、スタジオの場合はテレビカメラで撮影していたので、ロケシーンになると、画像が変わっていました。16ミリの画像は粗かったのです。なので、視聴者は、このシーンはロケで撮影しているか、スタジオで撮影しているかがはっきり分かったのです。ロケでもテレビカメラで撮影できるようになるのは、もう少し後のことです。
それにしても、推理小説家であり、ライトノベルの元祖的存在でもある平岩弓枝を大河ドラマの脚本担当にしたNHKも大したものです。吉川英治の『新・平家物語』を、元祖ライトノベル作家の平岩弓枝に脚本を書かせるという組み合わせがすごい。おまけに新日本紀行のテーマ曲で有名な冨田勲が、『新・平家物語』の音楽担当だったので、作品全体が艶やかになっていました。
平岩弓枝にしても、プロの脚本家でも無いのに、『肝っ玉かあさんシリーズ』と『ありがとうシリーズ』の人気ドラマをかかえながら、よく『新・平家物語』の脚本を引き受けたなあと感心します。パソコンもワープロも無い時代に、いったいどうやって、大ヒット作品を量産したのだろう?と不思議でなりません。
つづく。
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