まず最初に「軽井沢歴史民俗資料館」を紹介したいと思います。
軽井沢歴史民俗資料館は、昭和38年9月に、元大蔵大臣勝田主計氏の別荘を町が買い取り、旧中山道追分宿資料・古文書・茂沢南石堂遺跡出土品・各種民俗資料などを収蔵・展示する「軽井沢町資料館」として開設されました。その後、資料の追加や展示会を経て、昭和55年(1980年)に博物館法に準拠した施設として現行の施設として開館しました。
特に街道マニアは、入って損は無いです。注目すべきは旧軽井沢の写真で、明治時代の寂れた旧軽井沢の写真や、大正・昭和時代の外国ぽい旧軽井沢の写真もあります。ここにくれば、軽井沢の基本知識が頭にはいります。だから6館共通券で、一番最初に入るべき施設なのかもしれませんね。もちろん軽井沢の郷土資料も販売していますし、学芸員さんもおられて、いろいろ質問もできるかと思います。時々、文化講座も開催していますから、それにあわせて見学してもよいかと思います。また歴史体験講座もやっています。
第1展示室が「道の文化史と軽井沢」
第2展示室が「別荘と文化活動」
第3展示室が「高冷地のくらしと民具」
主な展示品は、「道の文化史と軽井沢」のコーナーでは、茂沢南石堂遺跡(縄文時代中後期)や入山峠祭祀遺跡の出土品に加え、軽井沢3宿(軽井沢宿、沓掛宿、追分宿)に関連する、参勤交代の諸大名の通行日記帳や、皇女和宮下向の記録などの古文書約5600点、街道を往来した馬具、碓氷峠のアプト式レールなどが展示されています。
街道の宿場町で義務化された伝馬(てんま)についても解説されています。
伝馬(てんま)というのは、幕府の公用をこなすために宿駅で馬を乗り継ぐ馬のことをいい、公用の書状や荷物を宿場ごとに人馬を交替して運びました。これを伝馬制といいます。つまり、各宿場では、伝馬朱印状を持つ公用の書状や荷物を次の宿場まで届けるために必要な人馬を用意しておかなければなりませんでした。こうした人馬を負担するのは宿場の役目でしたが、その代わりに、宿場の人々は屋敷地に課税される年貢が免除されたり、旅人の宿泊や荷物を運んで収入を得ることができるという特典がありました。
ちなみに、この地域(北軽井沢・嬬恋村付近)の方言では、公的ボランティアのことを「おてんま」と言いますが、伝馬(てんま)が語源であることは間違いないでしょう。伝馬(てんま)に「お」をつけて「おてんま」と言うわけですが、御上への無料奉仕を地域の人たちが「御伝馬」と言った名残だと思います。
観光客が違法に散らかした道路ゴミを定期的に拾って掃除するのは、われわれ観光協会の人間です。その構成員は、ペンションオーナーだったり、ホテルの社員だったり、私のようなユースホステルのオーナーが、ボランティアに出かけて道路清掃するのですが、その時に「何月何日に『おてんま』があるので出てください」と言われて作業に出て行くわけです。そして道路清掃したり、公園を整備したり、花壇に花を植えたりします。あれはみんな観光関係者のボランティアでなりたっています。江戸時代からの伝統です。
ちなみに嬬恋村役場と浅間高原観光協会は、長野原町役場と北軽井沢観光協会とともに、軽井沢の道路まで掃除しにいきます。他人の領土、他県の道路まで掃除に行きます。つふうなら町村という行政が関与する行事で、他県の道路掃除をするという事は、ありえないのですが、この地域では普通にありえます。他県の道路がゴミだらけだと、そこを通って嬬恋村と長野原町に来る観光の御客様の印象が悪くなるからです。だから軽井沢観光協会と共同で、軽井沢町の道路を掃除したりする。これが『おてんま』です。江戸時代から続いている伝統というわけです。
「別荘と文化活動」のコーナーでは、明治時代の別荘の模型や、軽井沢の文学地図が展示されており、当時の貴重な写真が見られます。軽井沢を世界に紹介したアレクサンダー・クロフト・ショーに関する資料もあります。戦前の軽井沢における外国人の人口は、2000人。当時の軽井沢総人口が、8000人くらいですから、人口の2割から3割が外国人という珍しい地域でした。なので外国人相手に商売する人たちも多く、八百屋はジャムを作り、飯屋はパンを焼くようになり、下駄屋は靴屋に転向したりしました。というわけで軽井沢ジャムの老舗『沢屋』さんは、もともと八百屋さんです。旧軽井沢の居酒屋の『なべやつるきち』は、古くからの豆腐屋で、激安の豆腐懐石を食べさせてくれます。もちろん手作り豆腐の創作料理がてんこもりです。
「高冷地のくらしと民具」のコーナーでは荻原豊次が発明した保温折衷苗代や、天然氷を作るための民具などが展示されています。
「保温折衷苗代たなに?」
「荻原豊次って誰よ?」
という人に解説すると、荻原豊次氏は、昭和17年に保温折衷苗代と呼ばれる革命的な技術を完成して当時の稲作に一大革命を起こした人です。
当時は軽井沢だけでなく東北地方などの寒冷地では特に苗の発育が悪く米の収穫量が大きく左右されていたのですが、荻原豊次氏が、長い歳月をかけて生み出した保温折衷苗代によって、劇的に改善され、東北の少年少女の身売りが激減したりしました。NHK朝ドラ『おしん』のような少女の苦労が大きく減った。荻原豊次氏は寒冷地農民の恩人で、保温折衷苗代は農民を救った革命的技術といえます。これを見るだけでも、この「軽井沢歴史民俗資料館」に来た価値があります。
荻原豊次氏は、昭和6年の冷温で被害を受けた。しかし、近所の農家は被害が少なかった。理由は早く田植えをした結果だった。早く田植えをするためには、早く種を播かなければならない。春の遅い高冷地では、早く播くと、腐敗病にかかったり、ころび苗になったりして、害をしばしば受ける。
昭和9年の春、たまたま野菜の苗を作っている温床の管理をしているうちに、藁囲いに付いていた籾が落ちて発芽した5,6本の稲の苗があった。試しにその苗を本田に植えてみたのである。その年には、冷温が襲ってきた。他の稲は冷温やいもち病の被害を受けた。しかし、野菜の温苗床からとって植えた稲だけは、平年作のできであった。過去3年間、早く種を播くには、どういう方法を採ったらよいかと頭の中から離れなかった問題が解決した。
しかし、油紙障子で保温すればよいことはわかっても、どう稲の苗代に使ってよいかという問題に直面した。そこで県の試験場で研究に従事していた岡村勝政氏と共同研究をはじめる。生産者と研究者の共同作業である。両者の努力は相補いつつ、ついに昭和17年、油紙保温折衷苗代の完成する。昭和6年から11年目の年のことであった。
油紙保温折衷苗代は、油紙で苗代を覆うものである。水田に苗床をつくり、芽出し種子を床面にすり込む。焼籾殻を厚めにかぶせ、その上を油紙で被覆し、周囲を泥でおさえる。播種直後は通気をよくするため、溝だけに潅水するが、苗が伸びたら床面まで水位を上げる。2週間ほどして、苗が紙を持ち上げるようになったら油紙を除く。 のちに、保温折衷苗代と名づけられた育苗法である。
戦後になると、油紙の代わりにビニールやポリエチレンが用いられ始めた。ビニールだと、平均して5度は苗代内部の温度を高めることができる。その結果、今までより1か月も早く播種、田植えができるようになった。この保温折衷苗代は、早期栽培を可能とする基幹技術なったのである。
実は、この軽井沢の民具に関して重要な話が、たくさんあるわけですが、それについては、次の市村記念館(旧近衛文麿別荘)の解説でお話しします。実は、歩いて2分くらいのところに、図書館や市村記念館(旧近衛文麿別荘)があったりします。そして雨宮敬二郎・市村きよじの墓があります。無料駐車場もあります。無料駐車場から離山への登山道があって、離山に登ることが出来ます。
けしからんのは、市村記念館を旧近衛文麿別荘と読んでることですね。市村記念館でしょう! 陸軍が猛反対しているのに日中戦争を煽った極悪人の近衛文麿の名前をつけてどうするんだ?と言いたい。それより軽井沢の恩人である雨宮敬二郎・市村きよじ御夫婦を讃えて、あえて私は『市村記念館(旧近衛文麿別荘)』と呼びたいと思います。
また、軽井沢歴史民俗資料館では、故吉沢三朗氏のコレクションによる中国陶磁器も展示しており、入口脇の館庭には中軽井沢の山荘あとから移築された杉浦翠子の歌碑があります。また、ここでは、文化講座・体験講座が時々ひらかれています。
◆歴史民俗資料館
軽井沢町大字長倉2112−101
0267−42−6334
9時〜17時(入館は16時30分まで)
月曜日休館(祝日の場合は開館)
7月15日〜10月31日は無休
11月16日から翌年3月31日まで冬期休館
つづく。
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