2021年06月02日

旧近衛文麿別荘(市村記念館)

 市村記念館は、近衛文麿公、市村今朝蔵が別荘として利用したものですが、平成9年、長倉の雨宮御殿の中に移築され、市村家より町に寄付されました。

 近衛文麿は、泥沼の日中戦争をはじめた張本人です。陸軍が不拡大を叫び、戦場の現場でも必死に現地停戦協定を結ぼうとしており、派兵もできるかぎり我慢し、陸軍の中枢部にいた石原莞爾が、蒋介石あてに陸軍が戦争中止の電報までを送っているのに、近衛文麿は議会に臨時軍事特別会計法案を出して、ガンガン戦争を煽っていた。日中戦争をしたがっていたのは陸軍ではなかった。戦争を欲していたのは、近衛文麿であり、広田弘毅であり、海軍でした。それに対して陸軍の石原莞爾は、戦線の拡大をせぬように努力したが、近衛文麿と戦線拡大派によって失脚することになります。

 その後、兵力を増強した陸軍は、南京を攻略して勝利した。本当なら、戦争は、ここで終わるはずだった。陸軍参謀次長の多田駿は、ドイツ仲介による和平工作を展開していた。その和平案に、蒋介石側は驚いた。講和条件の寛大さに驚いて受託の方向で話し合っていた。和平は目の前だった。国民政府外交部亜州司長の高宗武の証言によれば、

「もし日本側の条件が本当にこれだけのものであるとすれば、中日両民族はいったい何のために戦争をしているのか」

と言ったほど、蒋介石側の会議の空気は受諾的であった。彼らは、もっと過酷な要求を覚悟していたから、拍子抜けしていた。蒋介石軍は、本気で「日本が中国を侵略しようとしている」と思い込んでいた。だから驚いた。逆に言うと日本政府は、もっと早く「侵略の意図は無い」というメッセージを送るべきだった。それほど両国は、お互いに誤解し合っていた。いつの時代でも戦争は、誤解が誤解を生んで始まってしまう。ようやくその誤解が解けようとしていたのである。


9784569791166.jpg


 つまり、トラウトマン和平工作によって、和平の一歩手前までいっていたのである。
 それを潰したのが、海軍と政府。
 つまり米内光政・近衛文麿・広田弘毅。
 近衛文麿は「国民政府を対手とせず」と声明を出すのである。

 交渉というものは粘り強く話し合うべきなのだ。実際に日露戦争の時に小村寿太郎が、それを行って和平を勝ち取っている。だから外務大臣の広田弘毅は、それをやるべきであって「国民政府を対手とせず」では話にならない。職務放棄もいいところである。それを一番分かっていたのは、陸軍だった。日露戦争を研究し尽くしていた陸軍は、交渉無しでは勝利できないことを一番よく知っていた。だからこそ杉山陸軍大臣は最後まで「どうして裏口(交渉のドア)を閉じてしまうんだ?」と不平不満だったが、誰も聞き入れてくれなかった。こうして米内光政・近衛文麿・広田弘毅が、陸軍を恫喝して押し切ってしまったのである。

 蒋介石の顧問を務めていたオーストラリア人のW・H・ドナルドは、一九四五年一月、『ニューヨク・タイムズ』のインタビューで、日本は一九三八年から一九四一年にかけて十二の和平提案を行っており、日本が提示した条件は中国側にとって有利なものだったと語った。そして、その多くの和平工作は日本陸軍が主導して行われていたという。和平を真剣に摸索していたのは、ほかならぬ日本陸軍であったのに、その陸軍の理性たる人たちを失脚させて、陸軍をガチガチの強硬派に育てたのは、近衛文麿だったりします。

 で、日独伊三国同盟を結んだのも近衛文麿(二次内閣)だし、
 仏印進駐を強行してアメリカを怒らせたのも近衛文麿(三次内閣)。
 仏印進駐は対米英戦争を引き起こすと予告して、
 進駐に強く反対した松岡外相をクビにするために総辞職して三次内閣まで作ったのが近衛文麿。
 近衛文麿が組閣するごとに最悪の舵取りをしている。

 その結果、アメリカから石油を止められて近衛文麿は、内閣を投げ出します。これが近衛文麿の無責任なところ。それの尻ぬぐいをさせられたのが東条英機。彼は、はそれまでの強硬姿勢を改め「和平だっ、和平だっ、聖慮は和平にあらせられるぞっ」と叫び、中国からの徹兵を段階的に行う譲歩案をひねり出すが、アメリカの解答はハルノート(最後通牒)だった。ルーズベルト大統領は、日本との戦争を決意していた。つまり東条英機に打てる手は無かった。全てが遅かった。戦争犯罪人がいるとしたら近衛文麿である。東条英機ではない。近衛文麿こそが日本の癌だったのだ。


nddfjk02.jpg


 まあ、そんなことはどうでもいいとして、ちょっと前までは、この市村記念館は、「市村記念館」だった。「近衛文麿別荘」とは、言ってなかったのですが、最近は「近衛文麿別荘」と軽井沢町は表記するようになりました。これに私は、少しばかり残念に思っています。「市村記念館」で良いではないですか。

 では、どうして昔は「市村記念館」だったかと言いますと、市村今朝蔵という人が、近衛文麿総理大臣から買って、ながいこと使っていた建物を町に寄付したから『市村記念館』なんです。市村さんの寄付だから、市村記念館なんですよ。で、市村今朝蔵って誰?ということになりますが、雨宮敬次郎の甥っ子(正確には妻の甥)なのです。

 雨宮敬次郎は、明治時代に一代で財閥を築いた人物で、多くの鉄道会社を経営しました。甲武鉄道(中央本線)、川越鉄道(西武国分寺線)、北海道炭礦鉄道、大師電気鉄道(京急大師線)、豆相人車鉄道、江ノ島電鉄など。軽便鉄道の規格を政府に認めさせて、全国に軽便鉄道ブームをおこしたのも雨宮敬次郎です。製鉄所や鉄道製作会社まで作っています。そんな彼が、
「貯金のすすめ」
を言いだし、自ら実行しました。彼の「貯金」とは、植林のことです。日本中の荒れ地に植林し、将来の子孫のために樹を育てる。その樹は、雨宮敬次郎が生きている間は現金化させることはないけれど、子孫たちへのプレゼントになる。つまり「貯金」であると。で、その候補地として、御殿場と軽井沢を選んでいた。両方とも日本一の荒れ地である。


0076_l.jpg


 最終的に軽井沢を選んだのは、東海道線より信越線の方が完成が速かったからで、もし東海道線が先に完成していたら、御殿場の自衛隊演習場は無くて、そのあたりは、軽井沢のように繁栄していたのかもしれない。でも、そういう歴史にはならず、雨宮敬次郎は軽井沢の広大な土地を買い取って、そこにカラマツの植林を行いました。カラマツは、鉄道の枕木として需要の多い樹でした。

 アレキサンダー・クロフト・ショーが「軽井沢の恩父」などと言われてますが、馬鹿言ってるんじゃ無いよ。雨宮敬次郎を忘れていませんか?と言いたいですね。雨宮敬次郎こそは、私財をなげうって軽井沢に尽くしてきた人間であり、軽井沢に多くの人を入植させた人間なのです。軽井沢を避暑地として紹介しただけの宣教師ショーとは格が、スケールが違います。

 アレキサンダー・クロフト・ショーが、軽井沢に訪れたとき、軽井沢は原野であり樹木が一切なかった。その原野に植林事業を始めました。当時、原野と言えば御殿場か軽井沢だった。どちらかで植林事業をやるつもりだった。結局軽井沢になったのは、東海道線よりも信越線の方が早く開通したからです。もし東海道線の方が早く開通していたら、今でも軽井沢は原野のままで、御殿場が大森林地帯になっていたかもしれない。

 もちろん原野から始める植林事業なので、雨宮敬次郎が生きている間に利益を上げることはありません。でもそれでいいと思った。彼は、子孫のための貯金だと言って、ただひたすらにカラマツの植林に励みました。しかもカラマツというのがすごい 。カラマツは、若いうちは何の役にも立たないけれど、樹齢何百年も経つと高値がつく。松ヤニが多くて油まみれのカラマツは、腐りにくく特に線路の枕木にうってつけだった。 大量のカラマツがあれば、日本全国に線路が引ける。雨宮敬次郎は、物流こそが人々を幸せにするという信念を持っていたので、カラマツの植林事業は、 将来はきっと日本の役に立つと信じました。彼こそは、 植福の達人だと言えましょう。 雨宮敬次郎は言います。

「日本人は未だに貯蓄心が足りない。金があればすぐ使ってしまう。私は一文もない時分から貯蓄というものに重きを置いていたが、今は開墾地への貯蓄の金をかけている。貯蓄をどういう方法でするかと言うと木を植える。金の貯蓄ではなく木の貯蓄をやっている。生前のための貯蓄ではなく、死後のために貯蓄をやっているのだ」

 こうして軽井沢に大量の落葉松林ができたのですが、残念ながら鉄道の時代は終わっています。しかし、雨宮敬次郎の苦労は無駄に終わっていません。この大量の落葉松林が、新型コロナウイルスが、世界中に蔓延する危機的状況下において、軽井沢の救世主になる可能性が出てきたからです。落葉松林が、住民の免疫力を上げている可能性があるからです。

 雨宮敬次郎は、農民の軽井沢入植も行っています。
 雨宮新田という地名が軽井沢にあるくらいです。

「私はその時分肺結核で血を吐いていたから、とても長くは生きられないと考えていた。“せめてこの地に自分の墓場を残しておきたい”という精神で開墾を始めた。決して金を儲けて栄華をしたいという考えからではなかった」。

 軽井沢の広大な土地にアメリカ式の大農園を計画。ワイン醸造を夢見ますが、気候風土・土壌が合わずにことごとく失敗。そこで開拓民の入植による耕作地造成事業を開始。自宅・馬1頭・農具を用意し、それを無償で貸す代わりに開墾することを委ねます。苦労に苦労を重ねて40戸ほどが定着。雨宮新田(現在の国道18号線「南軽井沢信号」付近)が形成されました。軽井沢の大恩人ですね。雨宮敬次郎はこんなことを言ってます。

「四十戸の人間を入植させることは木を植え付けるよりも難しかった。人間の植え付けは容易にできるものではない(略)。不毛の原野に住もうとする者は何かの欠点を持った人間である。少しでも財産をこしらえると、もうそんなところには辛抱できず、すぐ 帰る気になるから、それを居着かせるためには、酒を飲むものがあれば酒を飲まし、病人があれば薬を与えるなど我が子同様にしなければ、ついて来れない。それだから家内が行くと皆がお母さんのように思ってすっかりなついている。この状態であの村ができたのだった」

 雨宮敬次郎の奥さんが献身的に農民たちを支え、水害の時は婿らを引き連れて水の中を歩み、被害者を慰問しました。奥さんは明治36年に亡くなりますが、雨宮敬次郎は自宅(雨宮御殿)の裏庭に妻の銅像を建てます。上野公園の瓜生岩の銅像に続く、日本では2番目の女性の銅像でした。その数年後に雨宮敬次郎も死去。妻の銅像の隣に雨宮敬次郎の銅像がたてられました。


karu-shi-17.jpg


 市村記念館が建っているあたりの持ち主が、雨宮敬二郎の自宅でした。つまり、市村記念館のある、この広大な土地は元々雨宮敬次郎のもので、軽井沢でプランテーションを行なう中で開発し、最終的に町に寄贈されたものだったのですね。そこに市村さんが寄贈した市村記念館を移築してできたのが、『市村記念館』なのです。

nddfjk01.jpg
(雨宮敬次郎の自宅)

nddfjk07.jpg
(雨宮敬次郎の自宅)

nddfjk06.jpg
(雨宮敬次郎宅の庭)


 市村記念館。記念館の建物は、大正時代に洋風住宅建築会社「あめりか屋」によって建てられたもので、大正15年に近衛文麿が軽井沢第1号別荘として野沢源次郎から購入し、昭和7年に政治学者として近衛と親交があった市村今朝蔵が購入したのち、昭和8年に南原に移築されました。

 平成9年に現在の場所、雨宮池の東端に移築復元され、旧姓市村信江、令子姉妹が中心となり、母・きよじの逝去後、この地に移築して寄贈、歴史資料をちりばめた市村記念館としてオープンされたものです。南原の別荘地としての開発に尽力した市村今朝蔵とその夫人で名誉町民となった市村きよじの資料をはじめ、雨宮敬次郎、近衛文麿の資料が展示されています。ところで、移築に際し、建材の新調は無かったのだそうで、補修すべき個所を除いて、そのままなのだそうです。つまり築80年の貴重な建物。ですから、1階の居間に、近衛首相の残したゴルフ靴の跡がわずかながらも残っています。

 ところで近衛文麿とは、どんな人だったのか? 面白い逸話があります。「彼を理解できる奴はいない。近衛文麿は、自分が天皇より偉いと思っているんだから」と戦前に言った人がいます。天皇陛下(もちろん昭和天皇)の前で足を組んで気さくに話しかけることのできた人間は、戦前・戦後を通じて近衛文麿くらいだったと言う話です。それだけ高貴な血筋の人だったのでしょうね。


◆旧近衛文麿別荘(市村記念館)

 軽井沢町大字長倉2112−21
 0267−46−6103旧近衛文麿別荘(市村記念館)
 9時〜17時(入館は16時30分まで)

休館日
・月曜日(祝日の場合は開館)
・7月15日〜10月31日は無休
・11月16日から翌年3月31日まで冬期休館


雨宮敬次郎については、以前に、このブログに書いてます。
https://kaze3.seesaa.net/article/475353820.html
(例のウイルスで・・・ その3 小市民の親が行う植福)




つづく。

↓ブログ更新を読みたい方は投票を

人気blogランキング





posted by マネージャー at 00:53| Comment(0) | 総合観光案内 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする