息子が生まれてから小学校に入るまで、毎日のように親子で小浅間山に登っていたのは、浩宮様(令和天皇)が、5歳で小浅間山に登って登山にはまってしまい、6歳で浅間山に登ったことを知っていたからです。浩宮様(令和天皇)が5歳なら、我が家は0歳じゃ・・・と、息子をおぶって小浅間山にのぼり続けました。時には、マイナス10の冬の小浅間山に登ったこともあります。
それはともかくとして、当時5歳の浩宮様(令和天皇)と、平成天皇が、小浅間山を登ったルートは、小浅間山の東峰ですが、直登せずにぐるりと右の方に回っています。そして途中の岩場で休憩し、記念撮影をしています。私も、よく使うコースです。
翌年、浩宮様(令和天皇)が小学校1年生になった時、小浅間山登山口から浅間山に登っています。その時の写真が、毎小ニュース
(https://mainichi.jp/maisho/articles/20190501/kei/00s/00s/010000c より借用)
にありますが、お父さん(平成天皇)の前を元気に歩いています。私は、このルートをよく知ってるだけに、すごい体力だなあと思います。さらに凄いと思ったのは、昭和天皇。浅間山でも富士山でもガンガン登っている。皇室の人たちは、運動神経がよいのでしょうか?
まあ、そんなことは、どうでも良いとして、どうして、皇室が御用邸のない軽井沢と関係あるかと言いますと、理由があります。戦争中に昭和天皇の奥さんが、極秘に軽井沢に疎開していたからです。で、どうして軽井沢だったかというと、当時の軽井沢は、外国人の疎開地だったので、爆弾が落ちてくる可能性が低かったことと、軽井沢には皇室関係の物件が無かったので、米軍から狙われにくかったというのもあります。とにかく昭和天皇の奥さんが軽井沢に疎開してて、その奥さんから軽井沢のすばらしさを聞いて、昭和21年の秋から冬にかけて滞在し、雪の浅間山の登ったのが昭和天皇です。
そのルート場に大日向開墾地があった。千ヶ滝の奥地にある開墾場で、満州からの引き上げ者たちが開墾していたらしい。粗末な掘っ立て小屋にボロボロの服をまとって農作業していた。小さな子供たちは、うろうろしないように犬のようなロープで繋がれていて、そのロープが樹にくくりつけられていたという。子供たちの全身には蟻たちが張り付いていて目に余るじょうたいだったらしい。それはともかくとして、昭和天皇は、この開拓民たちと何か会話されたらしい。で、毎年、軽井沢の大日向の近くに滞在するようになったらしい。
開拓民の家族は、子供が亡くなったり、片親だったりで、まるで鎌原観音堂の生き残りのような状態巣でした。彼らは冬はマイナス20℃にもなるこの地で一生懸命働いた。その現状に心を痛めたカトリックの神父さんたちは、旧軽井沢にある聖パウロ教会のコンラッド神父を派遣し、開拓団と一緒に入植して親たちが働いている間子供たちを引き取り、食事を食べさせ、勉強を教え面倒を見ました。
終戦当時の物のない中でカトリックの組織をあげて食料や文房具などなど、を集め一緒に苦労をともにし生活しました。バチカンは、世界でもっとも早く満州国を承認した数少ない国でもありましたから、満州移民に理解があったのもと思います。それもあってカトリックの神父たちは、当時の日本人たちに同情的だったのかもしれません。
それはともかく年老いた大日向の人々はみんなコンラッド神父が親代わりだったらしい。その神父が建てた教会が「聖ヨゼフ教会」で、始めた託児所が聖ヨゼフ保育園。その聖ヨゼフ保育園に、令和天皇・秋篠宮殿下と妹さんが、夏の間に入園して開拓民の子供たちと一緒に過ごされました。だから令和天皇・秋篠宮殿下たちは、大日向村のことはよく知っているはずです。ファミリー対象の小さな宿屋をやってる身分としては、聖ヨゼフ保育園のコンラッド神父の爪の垢を煎じて飲みたい気分です。
つづく。
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