堀辰雄文学記念館は、軽井沢ではなく、信濃追分にあります。どうして信濃追分にあるかというと、そこで文学活動をしたからで、追分の油屋で缶詰になって執筆活動をし、最終的に信濃追分に住んだからです。これを疑問に思っていいる御客さんから質問がありました。
「どうして軽井沢でなかったのでしょうか?」
「・・・」
「親子のようなつきあいをしていた室生犀星は、軽井沢で文学活動をしてたのに」
「・・・」
「堀辰雄だって、最初は軽井沢で活動してましたよね」
「・・・」
「そもそも堀辰雄の作品じたいが、軽井沢を舞台としていますよね」
堀辰雄と室生犀星は、実の親子のように深い親交がありました。きっかけは、大正12年。当時18歳だった堀辰雄に、中学時代の校長先生から室生犀星を紹介されたことから始まります。このとき室生犀星は34歳でした。室生犀星は、前の年に息子を失くしたこともあり、堀辰雄に父親のように接しました。堀辰雄は室生犀星とともに軽井沢を訪れます。そして室生犀星から芥川龍之介を紹介されます。そして翌年の夏には室生犀星と芥川龍之介のいる軽井沢を訪れ、みんなでドライブなどして楽しい時間を過ごしています。芥川龍之介は堀辰雄を弟のように可愛がりました。
そして昭和2年に堀辰雄は『ルウベンスの偽画』を発表。2年前の夏に3か月間軽井沢に滞在した体験をもとに小説にしています。ヒロインはそのとき一緒に過ごしていた芥川龍之介の恋人の娘・片山総子がモデルです。しかし、その直後に兄のように慕っていた芥川龍之介が自殺。堀辰雄はショックを受けました。その体験をもとに翌年、『聖家族』を出版します。これが小説家・堀辰雄の出世作となりますが、あまりにもリアルだったので、登場人物のモデルであり、芥川の恋人であった片山廣子とその娘・総子から罵倒され、
「堀辰雄との噂のせいで縁談がことごとくダメになる」
「堀はひどい人間だ」
と訴え、文芸春秋社に押しかけたり、母・廣子も
「ゴシップを言いふらさないでほしい」
と文学関係者のもとをまわったりしています。堀辰雄は沈黙を守って耐えましたが、体を壊し、それから以降は、軽井沢へ療養に訪れるようになりました。
そして昭和8年の6月から9月にかけて、堀辰雄は軽井沢の「つるや旅館」に滞在。そのときに『風立ちぬ』のヒロイン・節子のモデルとなった矢野綾子と出会います。矢野綾子は、結核の療養のために軽井沢に滞在していましたが、なかなか回復しませんでした。堀辰雄と矢野綾子は、一緒にサナトリウム入所しますが、綾子は回復せず24歳の若さで亡くなります。
その後、堀辰雄は「風立ちぬ」を書き始めます。信濃追分の「旅館・油屋」で作品を書き上げます。どうして信濃追分の「旅館・油屋」だったのか? どうして軽井沢の「旅館・つるや」でなかったのか?
確かに、このへんのことは、地元民しか知り得ないかもしれませんね。それも地元の宿屋しか、分かりえないかもしれない。ようするに軽井沢の「旅館・つるや」から追い出されたんです。昔の由緒ある旅館は、文人を何ヶ月も泊めて、宿代を催促しなかった。宣伝代わりに何か文章を書いてもらって、その原稿料がはいるまで催促しなかった。だから堀辰雄は、初期の頃は、軽井沢や旅館つるやを舞台とした小説を書いていた。
でも軽井沢と言うところは、夏になるとガンガン御客さんの予約が入る。最初は、いい部屋に泊まっていた堀辰雄も、だんだん悪い部屋荷なり、大部屋にうつされ、そこも追い出されて布団部屋に。だけど、最後には布団部屋さえも追い出される。
上のYouTube動画でわかるとおり「軽井沢旅館・つるや」では、さかんに堀辰雄で宣伝しているけれど、当時の「つるや」は、それほど堀辰雄にやさしくなかった。堀辰雄は、旅館を追い出されてしまうのである。
で、夏でも満室にならない信濃追分の旅館・油屋にやってきた。そして、堀辰雄は、信濃追分を舞台に執筆する。「風立ちぬ」も信濃追分が舞台じゃ無いけれど、信濃追分の旅館・油屋で執筆している。
信濃追分の旅館・油屋の御主人は、商売根性まるだしの軽井沢の旅館と違って、江戸時代の素封家の気質が残っていたから、宿代を催促しない。なので堀辰雄は、宿代を払うためにヒーヒー言いながら文章を書かない。自分の書きたいものしか書かない。そういう背景のもとに「風立ちぬ」は完成したわけです。
ちなみに信濃追分の旅館・油屋で、加藤多恵と出会ってます。「風立ちぬ」のヒロインである矢野綾子は亡くなる前に、自分の父に「辰っちゃんは本当にいい人だから、どうか奥さんを見つけてあげてね」と言い残してました。その遺言どおり矢野綾子の父は堀辰雄と加藤多恵の仲をとりもったわけです。そして、堀辰雄と加藤多恵は、室生犀星夫妻の媒酌によって結婚式を挙げました。
第二次世界大戦の最中である1944年、堀夫妻も疎開の必要を感じて信濃追分に家を見つけたのですが、引っ越しの準備をしているときに辰雄は血を吐いてしまい、1953年5月28日、堀辰雄は信濃追分の自宅で亡くなりました。6月3日には東京・増上寺で告別式が執り行われ、川端康成が葬儀委員長を務めました。また、妻の多恵は「堀多恵子」という筆名で辰雄に関する随筆を多く残しています。
ジブリの宮崎アニメの『風立ちぬ』は、堀辰雄の『風立ちぬ』のオマージュです。ここでもやってしまってるのか宮崎アニメよという感じです。堀辰雄は、19歳で結核患者になっています。結核は、当時は死の病気。だから『風立ちぬ』の体験が入っています。女子を泣かす文学の先輩としては、室生犀星もこれにあたりますが、室生犀星の場合は、不幸な生い立ちにおけるリアルさがありますけれど、堀辰雄の文学は、少々ロマンチックというか、ライトノベルや携帯小説ぽいところがあります。両方ともライトノベルぽいので、似ていると言えば似てるのですが、微妙に違っています。両者を比較して読んでみると面白いですね。もちろん読みやすいのは、堀辰雄ですけれど、室生犀星もかなり読みやすい。
ちなみに『風立ちぬ』は、主人公のヒロインが結核で死ぬ話なのですが、昔は結核になると、死を宣告されるような重い病気でした。しかし、軽井沢に療養に来ると、不思議と結核が治るケースが多かったのです。そのために全国の結核患者が、次々と軽井沢にやってきました。そして色々なドラマが生まれたりしたのですが、それを小説にしたのが堀辰雄です。
今では、どうして軽井沢に来ると病気が治るのかが、医学的に証明されつつあります。森の中に三日間滞在すると、体内のnk細胞が増加して、体の免疫機能が増えるのです。そのために、人によっては、自分の持ってる免疫力で病気を退治したりしました。おまけに軽井沢には、カラマツという針葉樹林がたくさんあります。針葉樹林は、広葉樹林よりも免疫力を増すと言われているらしい。
つづく。
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2021年07月31日
2021年07月30日
北軽井沢で避暑するコツ
今年は涼しいですね。これからのことは分かりませんが、いまのところ北軽井沢は、例年より涼しいです。そのせいか、新型コロナウイルスのせいかはわかりませんが、県外ナンバーの車が、例年より少ない気がします。とりあえず、今のところは涼しい。涼しいと言っても日中は、暑い。ようするに寒暖差が激しい。問題は、夜中から朝にかけて涼しいことです。朝方はTシャツ1枚では寒いので注意してください。御客様の中には、Tシャツしか持ってこない人がいますが、いくらなんでも無謀です。

北軽井沢の8月の平均気温は、 20度ちょっとぐらいと言われています。これだけ聞けば、ずいぶん涼しい所のように思えるかもしれませんが、そういう訳ではありません。日中は、30度ぐらいまで上がることもあります。逆に言うと朝晩は寒いのです。要するに寒暖差が激しいのです。夜は冷えますし、お盆の時期であっても羽毛布団にくるまってないと風邪をひいてしまいます。万が一のために予備の毛布も置いてあります。何年か前に、ひどい冷夏だった時がありましたが、その時はストーブを焚いたこともありました。
あと日焼止めと、帽子も必要です。昼間の日差しが強いからです。気温が低くても、日差しが強いのが北軽井沢です。標高がたかいために直射日光が強い。その逆に林の中が涼しい。日中の暑さが1番ピークの時でも恐ろしいほど涼しい。実際の気温よりも涼しく感じるのです。これは森の緑が、光合成を行うことによって水分を蒸発して打ち水効果の役割を果たしているからだと思われます。
つづく。
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北軽井沢の8月の平均気温は、 20度ちょっとぐらいと言われています。これだけ聞けば、ずいぶん涼しい所のように思えるかもしれませんが、そういう訳ではありません。日中は、30度ぐらいまで上がることもあります。逆に言うと朝晩は寒いのです。要するに寒暖差が激しいのです。夜は冷えますし、お盆の時期であっても羽毛布団にくるまってないと風邪をひいてしまいます。万が一のために予備の毛布も置いてあります。何年か前に、ひどい冷夏だった時がありましたが、その時はストーブを焚いたこともありました。
あと日焼止めと、帽子も必要です。昼間の日差しが強いからです。気温が低くても、日差しが強いのが北軽井沢です。標高がたかいために直射日光が強い。その逆に林の中が涼しい。日中の暑さが1番ピークの時でも恐ろしいほど涼しい。実際の気温よりも涼しく感じるのです。これは森の緑が、光合成を行うことによって水分を蒸発して打ち水効果の役割を果たしているからだと思われます。
つづく。
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2021年07月29日
息子からもらった誕生プレゼント
昨日は、私の誕生日だったのですが、どういうわけか御客様が満室に近いくらいに多くて、忙しい一日で、息子を放置していたのですが、今日は御客様がゼロだったので、御客様が帰ったあとに休憩をしていると、息子が自分のお小遣いで買った誕生日プレゼントを私にさしだしてきました。
こいつは嬉しかったですね。そう言えば、去年の今頃も、誕生日プレゼントをもらったっけ。去年は、コンビニで売っていたちっちゃな羊羹だったけれど、今年はちゃんとした水ようかんだった。どちらも私の大好物です。漢字検定合格でもらった御褒美のお金で買ったようです。我が家では、おこづかいは渡してません。家の手伝いや、何かの試験に合格して、はじめてお金をもらえます。
そうそう、投資も教えていますし、実際に息子は稼いでいます。具体的に言うと、息子が自分の小遣いで、プランターでミニトマトを育てていて、それが実ると100グラム100円で私が買っています。つまり農家のまねごとをやっている。そのお金で両親の誕生プレゼントを買っている。学校教育で習えない総合学習をしているのですが、きっと息子の将来に役立つと思っています。
つづく。
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こいつは嬉しかったですね。そう言えば、去年の今頃も、誕生日プレゼントをもらったっけ。去年は、コンビニで売っていたちっちゃな羊羹だったけれど、今年はちゃんとした水ようかんだった。どちらも私の大好物です。漢字検定合格でもらった御褒美のお金で買ったようです。我が家では、おこづかいは渡してません。家の手伝いや、何かの試験に合格して、はじめてお金をもらえます。
そうそう、投資も教えていますし、実際に息子は稼いでいます。具体的に言うと、息子が自分の小遣いで、プランターでミニトマトを育てていて、それが実ると100グラム100円で私が買っています。つまり農家のまねごとをやっている。そのお金で両親の誕生プレゼントを買っている。学校教育で習えない総合学習をしているのですが、きっと息子の将来に役立つと思っています。
つづく。
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2021年07月28日
漢検と採点基準
息子が漢字検定8級を受けたいと言ってきたので、Amazonで一番ページ数の少ない問題集を注文してやらせたのですが、これが大失敗でした。小学校3年生に入ったばかりでは難しすぎたのです。難しいのは熟語です。『夜』という字も、『光』という字も、『虫』という字も難しくはありませんが、この3つの漢字の組み合わせである『夜光虫』は、子供には難しすぎる。市販されている漢字検定の問題集には、たいてい難しい熟語が入ってましたが、そのために勉強が少しも進まなかった。漢字の前に難しい語彙を5倍くらい教える必要があったからです。
「そんなバカな?」
と思った私は、漢字検定の過去問題を
https://kanken.crayonsite.com/
からダウンロードしてみたら、そういう難しい熟語は出題されてないことに気が付きました。けれど、どういうわけか、市販されている漢字検定の問題集には、『夜光虫』のような難しい熟語がドッサリはいっている。つまり必要の無い勉強をやらされることになり、能率が悪いのです。
「こりゃダメだ」
と思った私は、大きな本屋に行って、かたっぱしから漢字検定の過去問題を探したのですが、どれもこれも似たようなものばかりで使えるものは無かった。
仕方が無いので、過去問題を10枚ばかりコピーして、それを徹底的にやらせ、間違えたところだけを、5回書かせて、もう一回テストする。これを、たったの2週間やるだけで8割の正解率になり、3週間目に9割になり、4週間目に、ほぼ満点をとるようになりました。これが5月末の頃です。試験まで、あと1ヶ月あるので余裕で合格だなと思いつつ、念のために
『2021年度版 頻出度順 漢字検定7・8級 合格!問題集』
に採点基準が書いてあると聞いたので、それを買って読んでみたら、確かに書いてあって、読んだ私は青ざめました。
それによると、乱暴な書き方や、きちんと消しゴムで消してない場合は、×になると書いてある。字が小さいだけでも×になるとある。かすれ字も×になるとある。これが、もし本当だとしたら息子の字の汚さを考えたら、0点になってもおかしくない。息子の書く平仮名は字がとても汚いので、得点源であるはずの漢字の読みからして0点になってしまう。漢字だって下手くそ以前に消しゴムの使い方が雑で、採点基準からしたら、消しゴムを使った息子の解答は全て0点ということになる。
特に困ったのは字が小さいと×になる。かすれ字も×になるという採点基準。これだと息子は1点もとれないことになる。仕方が無いので私は、息子に平仮名の練習をさせることになった。漢字検定なのに、平仮名の練習をさせたり、消しゴムの使い方を練習することになるとは、思いもしなかった。おまけに試験で使用できる鉛筆が2本だけということもあって、我が家にある100円ショップで買った数ダースの鉛筆が、折れやすいこともあって全て使えないことにも気づき、慌てて公文の鉛筆を注文し直しました。

というわけで、漢字の練習に1ヶ月しかかかってないのに、正しい解答を書く練習に1ヶ月かかってしまい、合計2ヶ月の準備が必要だったことになる。ということは、最初から綺麗な字で漢字を書く癖がついていたら、あるいは美しい平仮名を書くことができていれば、試験準備は1ヶ月ですんだことになります。そのうえ息子は変な問題集に1ヶ月も無駄にしていたので、それがなければ、もっと楽に勉強できたはずなのに、ちょっと悪いことをしてしまった。最初から過去問題集を徹底的にやるか、『2021年度版 頻出度順 漢字検定7・8級 合格!問題集』をやらせていれば、もっと簡単に合格できたのに。
とにかく、これから漢字検定8級を受けようとする人は、変な問題集を買わないことです。過去問題集か、頻出度順の問題集で充分です。難しい熟語は出てきませんし、問題も教科書レベルより簡単です。だから市販の問題集だと余計な勉強をしてしまうことになる。あと漢字検定には、一種の傾向というか癖があるので、過去問題で慣れておくことは絶対に必要。採点基準も知っておくべきです。
つづく。
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「そんなバカな?」
と思った私は、漢字検定の過去問題を
https://kanken.crayonsite.com/
からダウンロードしてみたら、そういう難しい熟語は出題されてないことに気が付きました。けれど、どういうわけか、市販されている漢字検定の問題集には、『夜光虫』のような難しい熟語がドッサリはいっている。つまり必要の無い勉強をやらされることになり、能率が悪いのです。
「こりゃダメだ」
と思った私は、大きな本屋に行って、かたっぱしから漢字検定の過去問題を探したのですが、どれもこれも似たようなものばかりで使えるものは無かった。
仕方が無いので、過去問題を10枚ばかりコピーして、それを徹底的にやらせ、間違えたところだけを、5回書かせて、もう一回テストする。これを、たったの2週間やるだけで8割の正解率になり、3週間目に9割になり、4週間目に、ほぼ満点をとるようになりました。これが5月末の頃です。試験まで、あと1ヶ月あるので余裕で合格だなと思いつつ、念のために
『2021年度版 頻出度順 漢字検定7・8級 合格!問題集』
に採点基準が書いてあると聞いたので、それを買って読んでみたら、確かに書いてあって、読んだ私は青ざめました。
それによると、乱暴な書き方や、きちんと消しゴムで消してない場合は、×になると書いてある。字が小さいだけでも×になるとある。かすれ字も×になるとある。これが、もし本当だとしたら息子の字の汚さを考えたら、0点になってもおかしくない。息子の書く平仮名は字がとても汚いので、得点源であるはずの漢字の読みからして0点になってしまう。漢字だって下手くそ以前に消しゴムの使い方が雑で、採点基準からしたら、消しゴムを使った息子の解答は全て0点ということになる。
特に困ったのは字が小さいと×になる。かすれ字も×になるという採点基準。これだと息子は1点もとれないことになる。仕方が無いので私は、息子に平仮名の練習をさせることになった。漢字検定なのに、平仮名の練習をさせたり、消しゴムの使い方を練習することになるとは、思いもしなかった。おまけに試験で使用できる鉛筆が2本だけということもあって、我が家にある100円ショップで買った数ダースの鉛筆が、折れやすいこともあって全て使えないことにも気づき、慌てて公文の鉛筆を注文し直しました。
というわけで、漢字の練習に1ヶ月しかかかってないのに、正しい解答を書く練習に1ヶ月かかってしまい、合計2ヶ月の準備が必要だったことになる。ということは、最初から綺麗な字で漢字を書く癖がついていたら、あるいは美しい平仮名を書くことができていれば、試験準備は1ヶ月ですんだことになります。そのうえ息子は変な問題集に1ヶ月も無駄にしていたので、それがなければ、もっと楽に勉強できたはずなのに、ちょっと悪いことをしてしまった。最初から過去問題集を徹底的にやるか、『2021年度版 頻出度順 漢字検定7・8級 合格!問題集』をやらせていれば、もっと簡単に合格できたのに。
とにかく、これから漢字検定8級を受けようとする人は、変な問題集を買わないことです。過去問題集か、頻出度順の問題集で充分です。難しい熟語は出てきませんし、問題も教科書レベルより簡単です。だから市販の問題集だと余計な勉強をしてしまうことになる。あと漢字検定には、一種の傾向というか癖があるので、過去問題で慣れておくことは絶対に必要。採点基準も知っておくべきです。
つづく。
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2021年07月27日
漢字検定合格証の凄さ
息子に漢字検定の合格証が届きました。それをみてみてびっくり。合格証が凄いのです。全国平均点から、正解解答。そして間違えた問題に対する指摘。そして各種のチャート。今後の勉強方法などなど・・・・。いたれりつくせりなので、びっくりしました。そのうえ漢字検定のメリットまで書いてあった。高校・大学入試で加点される学校が何校有るとか、入学選考の基準になる学校が何校有るとか、いろいろ書いてある。英検とはえらいちがいである。それとも、昔と違って、今の英検も漢字検定と同じように、いたれりつくせりになっているのだろうか?

それはともかく、息子は150点満点で147点。かなり高得点だと思うのだが、自分が満点だと信じて疑ってなかった息子は、少々怒り気味だった。私は、130点とれればいいほうだと思っていた。もちろん満点とる実力はあるのだが、字が汚いので、そこで20点は減点されると思っていた。漢字検定の採点基準によると、乱暴な書き方や、きちんと消しゴムで消してない場合は、✕になると書いてある。字が小さいだけでも✕になるとある。かすれ字も✕になるとある。だから息子の字の汚さに満点は無理だと思っていたのだが、147点とれたということは、採点者は、かなり甘く点数をつけてくれたのかもしれない。

それはともかくとして、5月から6月まで8級の漢字検定の勉強(小学3年生の漢字)をしたおかげで、息子には大きなメリットがありました。6月までに3年生の漢字を全てマスターしたために、その後の勉強がかなりはかどったからです。あと漢字を先取りすることで、読書量が増えましたし、試験を面白いと感じるようになったみたいです。
そして、いたれりつくせりの合格証にも感動して、今から7級の勉強をするとはりきっています。英語検定も受けたがっていますが、さすがにそれだけは止めました。英語なんぞは、中学に入ってからで充分。そんなものより漢字を覚えた方がいいし、それでものたりないなら論語の素読をした方がいい。意味が分からなくても、読んでるうちに、なんとなく人格がそなわってくるし、漢文の調子には、品がありますから。
つづく。
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それはともかく、息子は150点満点で147点。かなり高得点だと思うのだが、自分が満点だと信じて疑ってなかった息子は、少々怒り気味だった。私は、130点とれればいいほうだと思っていた。もちろん満点とる実力はあるのだが、字が汚いので、そこで20点は減点されると思っていた。漢字検定の採点基準によると、乱暴な書き方や、きちんと消しゴムで消してない場合は、✕になると書いてある。字が小さいだけでも✕になるとある。かすれ字も✕になるとある。だから息子の字の汚さに満点は無理だと思っていたのだが、147点とれたということは、採点者は、かなり甘く点数をつけてくれたのかもしれない。
それはともかくとして、5月から6月まで8級の漢字検定の勉強(小学3年生の漢字)をしたおかげで、息子には大きなメリットがありました。6月までに3年生の漢字を全てマスターしたために、その後の勉強がかなりはかどったからです。あと漢字を先取りすることで、読書量が増えましたし、試験を面白いと感じるようになったみたいです。
そして、いたれりつくせりの合格証にも感動して、今から7級の勉強をするとはりきっています。英語検定も受けたがっていますが、さすがにそれだけは止めました。英語なんぞは、中学に入ってからで充分。そんなものより漢字を覚えた方がいいし、それでものたりないなら論語の素読をした方がいい。意味が分からなくても、読んでるうちに、なんとなく人格がそなわってくるし、漢文の調子には、品がありますから。
つづく。
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2021年07月26日
通知表と教科書
夏休みに入って4連休も終わって一息ついたとき、息子が怒り気味で「通知表は見ないの?」と言ってきたので「ああ、忘れてた、すまん、すまん」と通知表を見せてもらいました。息子にしてみたら、テストは見せないと怒るくせに、通知表は全く見ようとしないので不思議におもってたようです。
「あのな、テストと違って通知表には、間違えた所が書いてないだろ? テストには間違えたところが書いてある。だから100点をとってないテストは宝物なんだよ」
と、何度も言うのですが、どうも息子は理解できないでいる。100点をとると100円のこづかいをあげるためかもしれないけれど、80点のテストの方が、宝物であることが、どうしても分からないでいる。もちろん80点をとってきたら、間違えたところを徹底的に学習させるので、それを嫌がる息子は、できるだけ間違わないように勉強するわけだが、そのために80点より、100点の方が良いと信じ込んでいる。しかし、その100点は、たまたま知ってる問題が出ただけで、本当の実力は60点かもしれないのだ。
これは、6月に漢字検定8級の試験を受けさせてみて気が付いた。漢字検定8級というのは、小学3年生の漢字全部が試験対象なのですが、試験1ヶ月前(5月)の模擬試験で、ほぼ満点をとれるようになり安心していたら、2週間後にやった模擬試験で正解率8割の不合格レベルまで落ちてしまっていた。やはり試験は水物。ヤマが当たったり、外れたりするし、継続した勉強をしてなければ、すぐに漢字を忘れてしまう。
これは算数にしても同じ事で、息子は小学1年生の時に100マス計算を3分くらいでやってのけ、指を使わずに足し算・引き算ができたのだが、小学3年になって、100マス計算をやらせてみたら10分もかかっていた。指を使わないと計算できなくなっていた。
「あれ? 変だな?」
と思って息子の教科書をじっくりと見てみたら、私が子供の頃の算数の教科書と違っていた。練習問題が、ほとんど無い。言っておくが、教科書のレベルは、私が子供の頃(昭和40年代)より難しくなっている。今の方が難しい。4年生で式の計算をさせるぐらいだから、今の方が圧倒的に難しい。難しいけれど、練習問題が教科書から激減している。そのせいか、うっかりしていると、計算力がガックリと落ちてしまう。いくら難しいことを覚えても、肝心な計算能力がダメになっては意味が無い。
だから3年生にもなって、もう一回、100マス計算をさせました。で、毎日1回づつ100マス計算をさせて、30日くらいすると、やっと3分を切るようになり、小学校1年当時の計算能力に戻ったわけですが、昭和時代の算数のつもりで息子の勉強をみていたら、とんでもない失敗をやらかしてしまいました。令和時代の算数は、昭和のスタイルとちょっと違うようです。
「昔より難しいことは教えるけれど、計算は各自でやってね」
というわけです。
話がそれました。
通知表のことです。
群馬県の通知表は、3段階評定で、そのうえ絶対評価になっている。偏差値(相対評価)で通知表をつけなくなっている。それなら、わざわざ通知表を見なくても、親の私が一番息子の学力は分かっている。偏差値(相対評価)で評価されてないなら、見る意味もすくないと思っていた。少なくとも3段階評価よりは、息子の学力を把握しているつもりだったので、通知表のことは、すっかり忘れていたのだが、息子が怒り気味で「通知表は見ないの?」と言ってきたので、あらためて見てみたら、ちょっと面白かった。
息子は、社会が好きなようで、授業中に興味をもって勉強しているのは、社会だけだった。他の科目は全て、勉強はできるが、「興味をもって取り組んでいる」というところが、〇になっている。他は、ぜんぶ◎なのだが、これって授業態度が悪いということなのだろうか? きっと真面目に授業をうけてないのだと思う。まあ、△がないだけマシなのだが、今の通知表は昔と違って相対評価(偏差値)では無く、絶対評価(得点)なので油断できない。嬬恋村の子供たちは学力が高いからだ。
8年前に息子が生まれたとき、今まで私とろくに会話しなかった観光協会メンバーが、とつぜん近寄ってきた。みんなお子さんのいる観光関係者で、子供が生まれたということで、急に近づいてきて仲良くなり、子供の教育に関する会話をするようになった。そういう話はありがたいので、いろいろ教えてもらったりするうちに、とんでもないことに気が付いた。みんなお子さんが、とんでもない超有校に入学しているのである。
寮に入っている子もいれば、前橋にアパートを借りて、兄弟姉妹で越境入学している人もいた。で、奥さんは前橋に住んでいて子供たちの世話をやき、ペンションが忙しい週末だけ嬬恋村に帰ってくるという人もいた。車で1時間かかる佐久まで毎日送迎している親御さんもいた。長野県で一番偏差値の高い中高一貫の私立学校に毎日送迎しているのだ。たかだか40人しかいないのに、そのうち二人が長野県でもっとも偏差値の高い高校に入学したこともあったし、そのうちの一人はトップ合格だった。
残念ながら、うちには、そんなことしてやれるゆとりは無い。親としては、自転車で通える距離の、一番近くにある嬬恋高校に入ってもらいたいので、それまで嬬恋高校が廃校にならずに存続していることを祈るばかりです。
その嬬恋高校だが、情報発信がすごい。YouTube・Facebookなどで、どんどん情報発信いている。みんな顔出しで、生徒自らガンガン画像を拡散している。素晴らしい試みだと思うし、学校側のやる気も伝わってくる。だから積極的に『いいねボタン』を押している。

話は変わりますが、今日は親子3人で軽井沢に行って離山に登山してきました。私は、夏の離山が大好きで軽井沢に買い物にいくときは、たいてい離山に登っています。今日は、頂上で子供たちの遠足の下見をしにきた先生たちとバッタリ会って、熊やカモシカについて情報交換しました。きっと近いうちに軽井沢の子供たちが離山で遊ぶ姿が見えることでしょう。
話を戻します。
嬬恋村から離山に行く途中に軽井沢中学があります。子供たちの多い軽井沢らしい豪華な建物の中学校です。グランドも豪華で、その充実した施設が羨ましいかぎりなのですが、その前を通るたびに見かけるのは、いくつもある「撮影禁止」の巨大看板です。建物さえも撮影禁止している、あの看板をみるたびに思い出すのが、生徒数が少ない嬬恋高校の赤裸々な情報発信。浅間山の北側と南側で、こんなにも違うところが何とも面白い。軽井沢には少子化の問題はないんだろうな。

そして、嬬恋村と長野原町。やんば天明泥流ミュージアムとか、丸岩とか、八ッ場ふるさと公園なんかを見学して思ったことは、『金かかってるなあ』という感想。長野原町は裕福だなあと思ってしまう。ダムの固定資産税のおかげか、いろいろ余裕を感じます。町の一部を水没させたわけですから、その代償として得たものも少なくなかったと思いました。町に余裕を感じてしまう。

逆に嬬恋村は、ちょっと必死な感じがする。観光資源に恵まれているし、農地にも恵まれていることは確かなんだけれど、それを100パーセント生かし切ろうと、観光資源を骨の髄までしゃぶり尽くそうとしている必死さを感じてしまう。新型コロナウイルスで、みんな余裕が無くなっていている気がする。みんな生き残りに必死なんでしょうね。軽井沢・嬬恋村・長野原町。みんなそれぞれ違う道をすすんでますね。
つづく。
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「あのな、テストと違って通知表には、間違えた所が書いてないだろ? テストには間違えたところが書いてある。だから100点をとってないテストは宝物なんだよ」
と、何度も言うのですが、どうも息子は理解できないでいる。100点をとると100円のこづかいをあげるためかもしれないけれど、80点のテストの方が、宝物であることが、どうしても分からないでいる。もちろん80点をとってきたら、間違えたところを徹底的に学習させるので、それを嫌がる息子は、できるだけ間違わないように勉強するわけだが、そのために80点より、100点の方が良いと信じ込んでいる。しかし、その100点は、たまたま知ってる問題が出ただけで、本当の実力は60点かもしれないのだ。
これは、6月に漢字検定8級の試験を受けさせてみて気が付いた。漢字検定8級というのは、小学3年生の漢字全部が試験対象なのですが、試験1ヶ月前(5月)の模擬試験で、ほぼ満点をとれるようになり安心していたら、2週間後にやった模擬試験で正解率8割の不合格レベルまで落ちてしまっていた。やはり試験は水物。ヤマが当たったり、外れたりするし、継続した勉強をしてなければ、すぐに漢字を忘れてしまう。
これは算数にしても同じ事で、息子は小学1年生の時に100マス計算を3分くらいでやってのけ、指を使わずに足し算・引き算ができたのだが、小学3年になって、100マス計算をやらせてみたら10分もかかっていた。指を使わないと計算できなくなっていた。
「あれ? 変だな?」
と思って息子の教科書をじっくりと見てみたら、私が子供の頃の算数の教科書と違っていた。練習問題が、ほとんど無い。言っておくが、教科書のレベルは、私が子供の頃(昭和40年代)より難しくなっている。今の方が難しい。4年生で式の計算をさせるぐらいだから、今の方が圧倒的に難しい。難しいけれど、練習問題が教科書から激減している。そのせいか、うっかりしていると、計算力がガックリと落ちてしまう。いくら難しいことを覚えても、肝心な計算能力がダメになっては意味が無い。
だから3年生にもなって、もう一回、100マス計算をさせました。で、毎日1回づつ100マス計算をさせて、30日くらいすると、やっと3分を切るようになり、小学校1年当時の計算能力に戻ったわけですが、昭和時代の算数のつもりで息子の勉強をみていたら、とんでもない失敗をやらかしてしまいました。令和時代の算数は、昭和のスタイルとちょっと違うようです。
「昔より難しいことは教えるけれど、計算は各自でやってね」
というわけです。
話がそれました。
通知表のことです。
群馬県の通知表は、3段階評定で、そのうえ絶対評価になっている。偏差値(相対評価)で通知表をつけなくなっている。それなら、わざわざ通知表を見なくても、親の私が一番息子の学力は分かっている。偏差値(相対評価)で評価されてないなら、見る意味もすくないと思っていた。少なくとも3段階評価よりは、息子の学力を把握しているつもりだったので、通知表のことは、すっかり忘れていたのだが、息子が怒り気味で「通知表は見ないの?」と言ってきたので、あらためて見てみたら、ちょっと面白かった。
息子は、社会が好きなようで、授業中に興味をもって勉強しているのは、社会だけだった。他の科目は全て、勉強はできるが、「興味をもって取り組んでいる」というところが、〇になっている。他は、ぜんぶ◎なのだが、これって授業態度が悪いということなのだろうか? きっと真面目に授業をうけてないのだと思う。まあ、△がないだけマシなのだが、今の通知表は昔と違って相対評価(偏差値)では無く、絶対評価(得点)なので油断できない。嬬恋村の子供たちは学力が高いからだ。
8年前に息子が生まれたとき、今まで私とろくに会話しなかった観光協会メンバーが、とつぜん近寄ってきた。みんなお子さんのいる観光関係者で、子供が生まれたということで、急に近づいてきて仲良くなり、子供の教育に関する会話をするようになった。そういう話はありがたいので、いろいろ教えてもらったりするうちに、とんでもないことに気が付いた。みんなお子さんが、とんでもない超有校に入学しているのである。
寮に入っている子もいれば、前橋にアパートを借りて、兄弟姉妹で越境入学している人もいた。で、奥さんは前橋に住んでいて子供たちの世話をやき、ペンションが忙しい週末だけ嬬恋村に帰ってくるという人もいた。車で1時間かかる佐久まで毎日送迎している親御さんもいた。長野県で一番偏差値の高い中高一貫の私立学校に毎日送迎しているのだ。たかだか40人しかいないのに、そのうち二人が長野県でもっとも偏差値の高い高校に入学したこともあったし、そのうちの一人はトップ合格だった。
残念ながら、うちには、そんなことしてやれるゆとりは無い。親としては、自転車で通える距離の、一番近くにある嬬恋高校に入ってもらいたいので、それまで嬬恋高校が廃校にならずに存続していることを祈るばかりです。
その嬬恋高校だが、情報発信がすごい。YouTube・Facebookなどで、どんどん情報発信いている。みんな顔出しで、生徒自らガンガン画像を拡散している。素晴らしい試みだと思うし、学校側のやる気も伝わってくる。だから積極的に『いいねボタン』を押している。
話は変わりますが、今日は親子3人で軽井沢に行って離山に登山してきました。私は、夏の離山が大好きで軽井沢に買い物にいくときは、たいてい離山に登っています。今日は、頂上で子供たちの遠足の下見をしにきた先生たちとバッタリ会って、熊やカモシカについて情報交換しました。きっと近いうちに軽井沢の子供たちが離山で遊ぶ姿が見えることでしょう。
話を戻します。
嬬恋村から離山に行く途中に軽井沢中学があります。子供たちの多い軽井沢らしい豪華な建物の中学校です。グランドも豪華で、その充実した施設が羨ましいかぎりなのですが、その前を通るたびに見かけるのは、いくつもある「撮影禁止」の巨大看板です。建物さえも撮影禁止している、あの看板をみるたびに思い出すのが、生徒数が少ない嬬恋高校の赤裸々な情報発信。浅間山の北側と南側で、こんなにも違うところが何とも面白い。軽井沢には少子化の問題はないんだろうな。
そして、嬬恋村と長野原町。やんば天明泥流ミュージアムとか、丸岩とか、八ッ場ふるさと公園なんかを見学して思ったことは、『金かかってるなあ』という感想。長野原町は裕福だなあと思ってしまう。ダムの固定資産税のおかげか、いろいろ余裕を感じます。町の一部を水没させたわけですから、その代償として得たものも少なくなかったと思いました。町に余裕を感じてしまう。
逆に嬬恋村は、ちょっと必死な感じがする。観光資源に恵まれているし、農地にも恵まれていることは確かなんだけれど、それを100パーセント生かし切ろうと、観光資源を骨の髄までしゃぶり尽くそうとしている必死さを感じてしまう。新型コロナウイルスで、みんな余裕が無くなっていている気がする。みんな生き残りに必死なんでしょうね。軽井沢・嬬恋村・長野原町。みんなそれぞれ違う道をすすんでますね。
つづく。
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2021年07月25日
地獄の4連休が終わって
地獄の4連休が終わって、4連休中の睡眠不足を補うために、さっきまで昼寝してました。昼寝のつもりが夜になってたので、子供会から帰ってきた息子に、御飯をたべさせ、風呂に入れて、ついさっき寝かしつけたばかりです。息子は、子供会の肝試し大会が楽しかったらしく
「夏休みで一番楽しいのは子供会」
と言ってて、目頭が熱くなりました。他の家庭では、夏休み中に、旅行に出かけたり、家族で遊んだりするのでしょうが、うちは避暑地の宿屋なので、そういう家族行事はできません。なので唯一、息子が楽しみにしているのが子供会のお化け屋敷で、恐がりのくせに「ぎゃー」と絶叫しながら楽しんでました。怖いけれど好奇心に勝てない。それが夏休みの唯一の娯楽というわけです。
可愛そうだなあ・・・と思っていたら、4連休の最終日に関西から息子と同じくらいのお子さんがいるファミリーの6人組がやってきて、そこの兄妹と息子が意気投合して庭で遊んでました。一般的に関西人は、ひとなつっこくて、陽気なので素朴な北関東の人間と相性がよく、楽しそうでした。庭の遊具で仲良く遊んでいる姿をみて、トランポリンや、ミニハウスなど、たくさんの大型遊具を買っておいて良かったと、つくづく思いましたね。
話は変わりますが、関西の人が御客さんに多いと、雰囲気が変わりますね。御客さんどうしが、すぐに仲良くなる。新型コロナウイルス以後、そういう事が無くなりつつあり、御客さんどうしの会話も減りつつあるのですが、フレンドリーな関西の人がいると、雰囲気ががらりとかわる。
あと、独身時代にユースホステル会員だった御客さんが、結婚して子連れで泊まりに来てくれた人もいましたが、そういう人たちも、いろんな御客さんとフレンドリーになって、住所交換?またはライン交換をしてました。うちのようなユースホステルでは、こういうことは珍しくなく、昔は一期一会の見知らぬ人が、住所交換して写真を送りあったものです。そうこうするうちに御客さんどうしが結婚することもおおく、現に、うちの宿で知り合った御客さんが何組も結婚してますし、うちの宿で働いていた人間が御客さんと結婚したパターンもけっこうあります。
もっとも新型コロナウイルス以降は、そういうことは無くなって、御客さんどうしの会話も無くなっていたのですが、最初にそれを破壊したのが北関東の人間。南関東からの予約が減ったこともあり、北関東の人たちが泊まりやすくなったのかもしれません。あと、いつもなら東京にいくはずの北関東の人が、東京を控えたために北軽井沢に流れてきたのかもしれません。群馬・栃木・茨城の人たち。この三県からくるファミリーは、素朴で素で面白い人が多く、天然なのかどうかわかりませんが、かなりフレンドリーですね。あと関西の人たちもフレンドリーです。北関東の人間と関西の人間は、相性が良いのかもしれません。
まあ、そんなことは、どうでもいいとして、4連休のあいだ、つまんなそうにしていた息子が、関西から来た御客さんのお子さん仲良く遊ぶことが出来、子供会で楽しめたことにホッとしました。本来なら夏休み中も学校は空いていて、スクールバスも運行されており、プールで遊んだり、校庭で遊んだりできたんですが、新型コロナウイルスで全て廃止になっています。つまり宿屋の息子は、夏休み中は、引きこもりになってしまったわけで、それだけに、どんな夏休みを息子に提供すべきか悩みはおおきいです。
つづく。
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2021年07月24日
ブルーインパルスが57年ぶりに五輪マーク
ブルーインパルスが57年ぶりに、青、黄、黒、緑、赤のカラースモークを使って五輪マークを描いたみたいですね。動画をみて感動しました。8月24日のパラリンピック開会式当日も、成功するように祈っています。50年くらいの昔、私が浜松にいたころ、さかんに浜松上空を ブルーインパルスが飛んでました。確か、F86だった。朝鮮戦争で活躍した博物館行きの戦闘機でした。ということは、57年前の東京オリンピックでも、F86だった可能性が高い。というか、F86でしょう。
それにしても、F86で、よくあんな曲芸飛行ができたものだと感心します。私が子供の頃に毎日見ていたブルーインパルスの曲芸飛行は、本当に凄かった。まるで空中サーカス。よく墜落しないなあと感心してみていましたし、いくら見てても飽きなかった。けれど、浜松の子供たちにとっては日常だったらしくて、「そんなもの見て、どこが面白いんだ?」と不思議がられました。
当時、子供たちの人気アニメが「科学忍者隊ガッチャマン」で、主人公が絶体絶命のピンチになると、どこからともなく突然、レットインパルスという戦闘機隊が、あらわれて、ガッチャマンを助けるのですが、昭和の子供たちは、レットインパルスという戦闘機隊をすごくかっこいいと思っていました。当然のことながら、そのモデルと思われるブルーインパルスに憧れないものはなく、1964年の東京オリンピックの五輪飛行の伝説を知らぬ者はいなかった。1964年の五輪マークの時は、何度やっても失敗し、本番の1回だけ、偶然にも成功したという奇跡の技。それが今年、再現されるとは・・・・。(創設者である)源田実も、あの世で喜んでいることでしょう。
つづく。
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それにしても、F86で、よくあんな曲芸飛行ができたものだと感心します。私が子供の頃に毎日見ていたブルーインパルスの曲芸飛行は、本当に凄かった。まるで空中サーカス。よく墜落しないなあと感心してみていましたし、いくら見てても飽きなかった。けれど、浜松の子供たちにとっては日常だったらしくて、「そんなもの見て、どこが面白いんだ?」と不思議がられました。
当時、子供たちの人気アニメが「科学忍者隊ガッチャマン」で、主人公が絶体絶命のピンチになると、どこからともなく突然、レットインパルスという戦闘機隊が、あらわれて、ガッチャマンを助けるのですが、昭和の子供たちは、レットインパルスという戦闘機隊をすごくかっこいいと思っていました。当然のことながら、そのモデルと思われるブルーインパルスに憧れないものはなく、1964年の東京オリンピックの五輪飛行の伝説を知らぬ者はいなかった。1964年の五輪マークの時は、何度やっても失敗し、本番の1回だけ、偶然にも成功したという奇跡の技。それが今年、再現されるとは・・・・。(創設者である)源田実も、あの世で喜んでいることでしょう。
つづく。
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繁忙期の北軽井沢における外食事情
この連休は、どの店でも混雑していますので、外食される御客様は、前もって御予約をすることをお勧めしています。すこし早いですが17時頃だとたいていの店は空いていますので、その時間帯がチャンスです。近辺で外食ができるお店を紹介しておきます。電話番号を書いておきますので参考にしてください。

◆北軽井沢
アタゴオル 0279-84-3663(夜は予約制)
珈琲ポプラ 0279-84-2004(古い店)
広瀬 027-984-6822(高級割烹・高額)
ハコニワ食堂 090-9328-5476
ゆきのや 090-6301-9928
ママーズガーデン 027-984-3130(混雑する)
星の子(お好み焼き)027-984-1138(評判は悪くない)
パンカーラ 027-984-3848
こづまや(蕎麦・定食)0279-84-5208(比較的空いている)

◆比較的の近所の店
ソニアン(パスタ)0279-84-6565
寿寿(じゅじゅ) 0279-84-4324
清徳(本格中華) 0279-86-4501
イタリアン『ピノ・コリーナ』0279-82-1386(徒歩15分)
居酒屋『たっちゃん』090-8098-5149(徒歩3分)
古瀧庵(蕎麦)0279-84-2887(徒歩5分)

◆車で10分から25分
あやめ亭(和食)0279-82-1020
嬬恋高原ブルワリー(ビヤホール)0279-96-1403(超人気店!)
中居屋(和食)0279-97-2643
太甲(たいこう・和食) 0279-97-2221
つつじの湯(レストラン)0279-98-0930
北軽井沢倶楽部(洋食)0279-82-1980
あさぎり(蕎麦) 0279-96-2705

なお、どのお店もラストオーダーが早いので気をつけてください。私のすすめは、パンカーラ・ソニアンです。小さなお子さんがいる方は、多少は遠くてもよいなら広い座敷のあるつつじの湯・あやめ亭・太甲・仲居屋がよいかもしれません。うちの宿が夕食を作ってない時は、コンビニ弁当を買ってきて当宿の食堂で食事をするのもアリです。自由に使ってください。お湯も電子レンジもあります。お茶・珈琲も自由に飲んでください。
つづく。
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◆北軽井沢
アタゴオル 0279-84-3663(夜は予約制)
珈琲ポプラ 0279-84-2004(古い店)
広瀬 027-984-6822(高級割烹・高額)
ハコニワ食堂 090-9328-5476
ゆきのや 090-6301-9928
ママーズガーデン 027-984-3130(混雑する)
星の子(お好み焼き)027-984-1138(評判は悪くない)
パンカーラ 027-984-3848
こづまや(蕎麦・定食)0279-84-5208(比較的空いている)

◆比較的の近所の店
ソニアン(パスタ)0279-84-6565
寿寿(じゅじゅ) 0279-84-4324
清徳(本格中華) 0279-86-4501
イタリアン『ピノ・コリーナ』0279-82-1386(徒歩15分)
居酒屋『たっちゃん』090-8098-5149(徒歩3分)
古瀧庵(蕎麦)0279-84-2887(徒歩5分)
◆車で10分から25分
あやめ亭(和食)0279-82-1020
嬬恋高原ブルワリー(ビヤホール)0279-96-1403(超人気店!)
中居屋(和食)0279-97-2643
太甲(たいこう・和食) 0279-97-2221
つつじの湯(レストラン)0279-98-0930
北軽井沢倶楽部(洋食)0279-82-1980
あさぎり(蕎麦) 0279-96-2705

なお、どのお店もラストオーダーが早いので気をつけてください。私のすすめは、パンカーラ・ソニアンです。小さなお子さんがいる方は、多少は遠くてもよいなら広い座敷のあるつつじの湯・あやめ亭・太甲・仲居屋がよいかもしれません。うちの宿が夕食を作ってない時は、コンビニ弁当を買ってきて当宿の食堂で食事をするのもアリです。自由に使ってください。お湯も電子レンジもあります。お茶・珈琲も自由に飲んでください。
つづく。
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2021年07月22日
最新の外来温泉情報(北軽井沢)
連休2日目。やはり軽井沢は大渋滞でした。これから北軽井沢に来られる御客様は、軽井沢をスルーして来た方がよさそうです。特にアウトレットが大渋滞しています。18号バイパスも時間によっては渋滞していますし、軽井沢インターから軽井沢駅方面も渋滞していると、今日の御客様から聞いています。はやめはやめの行動をし、早い時間にチェックインすることをおすすめします。
ちなみに北軽井沢ですが、夏場は、ときどきゲリラ的な豪雨が降ることがあります。晴天だからといって油断しないでください。それから小諸から車坂峠経由で、嬬恋村には下りることが出来ません。途中から通行止めになっています。また、一部の道路が台風19号の影響で迂回が必要になっている場合もあります。
以下、最新の外来温泉情報です。
新型コロナウイルスの感染状況によっては、営業形態が変わっている可能性がありますので、かならず電話で確認して出かけてください。
◆ホテルグリーンプラザ(軽井沢おもちゃ王国併設のホテルです)
北軽井沢ブルーベリーYGHよりお車で約7分
営業時間 午後3時〜23時
割引券利用で大人1100円、子供(3歳〜小学生)550円
〒377-1512 群馬県吾妻郡嬬恋村大前細原2277
TEL:0279-86-4111
◆地蔵川温泉
北軽井沢ブルーベリーYGHよりお車で約5分
営業時間 午前10時半〜18時
大人料金800円(税込) ⁄ GW・8月は 1,000円(税込)
子供料金500円(税込) ⁄ GW・8月は 600円(税込)
〒377-1412 群馬県吾妻郡長野原町北軽井沢1988
TEL:0279-84-2311
◆つつじの湯(おすすめ!)
車で約20分。道路通行止め箇所がありますので、
スタッフまでお問合せください。
営業時間 午前10時半〜21時
畳敷きの休憩室あり。レストラン併設。
大人600円(岩盤浴込み)
小人300円(3歳から中学生)
〒377-1614 群馬県吾妻郡嬬恋村田代930
TEL:0279-98-0930
◆ホテル1130
車で約4分。ただし、オムツのとれていないお子さんはご利用いただけません
営業時間 午後14時〜17時
前売り券を販売しております。
通常料金大人1150円が600円になります。
お子さんの分は現地でご購入ください。
〒377-1402 群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原1453-2
TEL:0279-86-6111
◆新鹿沢温泉「とべの湯」
11:00〜20:30(※季節により変動あり) 600円
〒377-1614 群馬県吾妻郡嬬恋村 乙682
電話: 0279-98-0280
つづく。
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ちなみに北軽井沢ですが、夏場は、ときどきゲリラ的な豪雨が降ることがあります。晴天だからといって油断しないでください。それから小諸から車坂峠経由で、嬬恋村には下りることが出来ません。途中から通行止めになっています。また、一部の道路が台風19号の影響で迂回が必要になっている場合もあります。
以下、最新の外来温泉情報です。
新型コロナウイルスの感染状況によっては、営業形態が変わっている可能性がありますので、かならず電話で確認して出かけてください。
◆ホテルグリーンプラザ(軽井沢おもちゃ王国併設のホテルです)
北軽井沢ブルーベリーYGHよりお車で約7分
営業時間 午後3時〜23時
割引券利用で大人1100円、子供(3歳〜小学生)550円
〒377-1512 群馬県吾妻郡嬬恋村大前細原2277
TEL:0279-86-4111
◆地蔵川温泉
北軽井沢ブルーベリーYGHよりお車で約5分
営業時間 午前10時半〜18時
大人料金800円(税込) ⁄ GW・8月は 1,000円(税込)
子供料金500円(税込) ⁄ GW・8月は 600円(税込)
〒377-1412 群馬県吾妻郡長野原町北軽井沢1988
TEL:0279-84-2311
◆つつじの湯(おすすめ!)
車で約20分。道路通行止め箇所がありますので、
スタッフまでお問合せください。
営業時間 午前10時半〜21時
畳敷きの休憩室あり。レストラン併設。
大人600円(岩盤浴込み)
小人300円(3歳から中学生)
〒377-1614 群馬県吾妻郡嬬恋村田代930
TEL:0279-98-0930
◆ホテル1130
車で約4分。ただし、オムツのとれていないお子さんはご利用いただけません
営業時間 午後14時〜17時
前売り券を販売しております。
通常料金大人1150円が600円になります。
お子さんの分は現地でご購入ください。
〒377-1402 群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原1453-2
TEL:0279-86-6111
◆新鹿沢温泉「とべの湯」
11:00〜20:30(※季節により変動あり) 600円
〒377-1614 群馬県吾妻郡嬬恋村 乙682
電話: 0279-98-0280
つづく。
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2021年07月21日
軽井沢は大渋滞が予想されます。
いよいよ4連休ですが、軽井沢は大渋滞が予想されます。特に10時から12時頃と、15時から18時にかけては、例年大渋滞します。これは、宿にチェックインする御客様や、宿からチェックアウトする御客様が、一斉に車を走らせるからです。逆に言うと、朝8時頃はガラガラですし、12時から15時までは、比較的にすいています。だから、15時前に北軽井沢に着くようにしていけば、大渋滞にまきこまれるおそれはありません。食事をとられている御客様は、早め早めの移動を心がけ、予定より早いくらいのチェックインをおすすめしています。
特に用がなければは、軽井沢経由で北軽井沢に来るのは避けた方が良さそうです。おすすめのルートは、前橋インターで下りて国道406号を経由して、二度上峠を通過するルートが一番早いです。渋川伊香保インターで下りて、国道145号経由でくるのもありです。関西方面から来られる場合は、軽井沢インターではなく、東部湯の丸インターで降りて、地蔵峠・鹿沢温泉経由で来るか、上田インターで下りて、鳥居峠から来た方がよさそうです。
それと、もう一つ気をつけなければいけないことがあります。北軽井沢は、夏でも朝は寒いことです。もちろん日中は暑いです。暑くて日差しが強いので、帽子や日焼止めクリームが必要ですが、寒暖差がはげしいので、早朝は寒かったりするので注意してください。
つづく。
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特に用がなければは、軽井沢経由で北軽井沢に来るのは避けた方が良さそうです。おすすめのルートは、前橋インターで下りて国道406号を経由して、二度上峠を通過するルートが一番早いです。渋川伊香保インターで下りて、国道145号経由でくるのもありです。関西方面から来られる場合は、軽井沢インターではなく、東部湯の丸インターで降りて、地蔵峠・鹿沢温泉経由で来るか、上田インターで下りて、鳥居峠から来た方がよさそうです。
それと、もう一つ気をつけなければいけないことがあります。北軽井沢は、夏でも朝は寒いことです。もちろん日中は暑いです。暑くて日差しが強いので、帽子や日焼止めクリームが必要ですが、寒暖差がはげしいので、早朝は寒かったりするので注意してください。
つづく。
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2021年07月20日
同級生の転校にショックをうけた息子
はやいもので、1学期が終わって、明日から息子は夏休みです。今日は、大量の宿題をかかえて帰ってきました。明日から夏休みなので、さぞかし嬉しいだろうと思ったら少しばかり元気が無い。そういえば、昨日から息子の奴が元気ないなあと思っていたら、小さい頃から仲良しだった同級生の女の子が、転校することが決定してしまったらしい。
その子とは、小さい頃から仲良しで、空手教室、スケート部、マラソンと、いろいろ面倒をみてもらっていた。特に6歳くらいまでは、息子の成長が遅くて、会話能力が乏しかったこともあって、保護者のように、なにかと面倒をみてもらっていた女の子が、いきなり転校することに決まって、明日には引っ越しするという。息子にしてみたら、さぞかしショックだったことでしょう。
引っ込み思案の息子を、休み時間にマラソンにさそってくれたり、ドッチボールにさそってくれたり、楽しく遊んでもらったりで、そういうサポートを毎日してくれたおかげで、息子は運動も出来るようになったし、みんなと一緒に遊べるようになった。息子には、そういう面倒見の良い女の子が、同級生にいたことで、対人スキルをしっかり学べた。そういう幸運が息子にあった。本当に友人に恵まれていたと思います。
そういえば、群馬県のチベットたる嬬恋村には、転校生がおおいですね。入学以来3人が転校してきて、1人が転校でいなくなるというのは、多くないですかね? それにしても観光関係(ホテル関係)の転校生とか、新型コロナウイルスからの避難する意味で転校してきた子とか、いろんなタイプの転校・転勤がありました。こんな僻地に転校なんかあるのか?と思いましたが、けっこうあるんですね。
関係ないですけれど、嬬恋村には双子が、やたら多いですね。各学年に1組はいる。私が子供の頃は、まず双子にお目にかかれなかった。
宿屋をやっていると双子の兄弟姉妹が泊まりに来ることがよくあります。現代では圧倒的に多い双子さんも、昔は少なかった。それでも何年も宿屋をやっていると、昭和1桁生まれの双子の兄弟姉妹が、泊まりにくることがあります。実は、戦前において双子は非常に珍しい存在でした。ましてや昭和1桁生まれの双子は特別天然記念物といっても間違いないぐらい珍しい存在です。
どうして珍しいかというと、昔は畜生腹と言って、双子が生まれると1人を殺してしまうことがあったそうです。それが可能なのは、子供を取り上げるのが、昔は産婆さんだったからです。産婆さんにいくらか包むと事故死に来てもらえたそうです。双子が生まれるときは、 1人だけ大きく生まれ、 1人だけ小さく生まれます。小さく生まれた方が事故死になったらしい。誤解のないように付け加えておきますが、これは江戸時代の話ではありません。昭和の話です。もちろん珍しい出来事だったでしょうが、ありえない話ではなかったようです。そうでなくても、 1人を養子に出す事はよくあったそうです。
どうしてこんなことを知っているかというと、双子の兄弟姉妹のお客さんと、何度も何度もお話をしているからです。そのお客さんが、非常に嬉しかったと言っていたのは、双子の歌手であるザ・ピーナツが登場した時だったそうです。ザ・ピーナツが出てくるまでは、双子にとっては非常に肩身が狭かったらしい。特に昭和1桁の双子の兄弟にとっては、言葉で言い表せないぐらいに、いろいろなことがあっただけに、ザ・ピーナツのレコードが売れて人気が爆発することが嬉しかったようです。今じゃ双子は少しも珍しくありません。うちのお客さんには三つ子の兄弟もいました。三つ子の兄弟にアニメ『タッチ』から名前を取っていたケースもありました。
つづく。
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その子とは、小さい頃から仲良しで、空手教室、スケート部、マラソンと、いろいろ面倒をみてもらっていた。特に6歳くらいまでは、息子の成長が遅くて、会話能力が乏しかったこともあって、保護者のように、なにかと面倒をみてもらっていた女の子が、いきなり転校することに決まって、明日には引っ越しするという。息子にしてみたら、さぞかしショックだったことでしょう。
引っ込み思案の息子を、休み時間にマラソンにさそってくれたり、ドッチボールにさそってくれたり、楽しく遊んでもらったりで、そういうサポートを毎日してくれたおかげで、息子は運動も出来るようになったし、みんなと一緒に遊べるようになった。息子には、そういう面倒見の良い女の子が、同級生にいたことで、対人スキルをしっかり学べた。そういう幸運が息子にあった。本当に友人に恵まれていたと思います。
そういえば、群馬県のチベットたる嬬恋村には、転校生がおおいですね。入学以来3人が転校してきて、1人が転校でいなくなるというのは、多くないですかね? それにしても観光関係(ホテル関係)の転校生とか、新型コロナウイルスからの避難する意味で転校してきた子とか、いろんなタイプの転校・転勤がありました。こんな僻地に転校なんかあるのか?と思いましたが、けっこうあるんですね。
関係ないですけれど、嬬恋村には双子が、やたら多いですね。各学年に1組はいる。私が子供の頃は、まず双子にお目にかかれなかった。
宿屋をやっていると双子の兄弟姉妹が泊まりに来ることがよくあります。現代では圧倒的に多い双子さんも、昔は少なかった。それでも何年も宿屋をやっていると、昭和1桁生まれの双子の兄弟姉妹が、泊まりにくることがあります。実は、戦前において双子は非常に珍しい存在でした。ましてや昭和1桁生まれの双子は特別天然記念物といっても間違いないぐらい珍しい存在です。
どうして珍しいかというと、昔は畜生腹と言って、双子が生まれると1人を殺してしまうことがあったそうです。それが可能なのは、子供を取り上げるのが、昔は産婆さんだったからです。産婆さんにいくらか包むと事故死に来てもらえたそうです。双子が生まれるときは、 1人だけ大きく生まれ、 1人だけ小さく生まれます。小さく生まれた方が事故死になったらしい。誤解のないように付け加えておきますが、これは江戸時代の話ではありません。昭和の話です。もちろん珍しい出来事だったでしょうが、ありえない話ではなかったようです。そうでなくても、 1人を養子に出す事はよくあったそうです。
どうしてこんなことを知っているかというと、双子の兄弟姉妹のお客さんと、何度も何度もお話をしているからです。そのお客さんが、非常に嬉しかったと言っていたのは、双子の歌手であるザ・ピーナツが登場した時だったそうです。ザ・ピーナツが出てくるまでは、双子にとっては非常に肩身が狭かったらしい。特に昭和1桁の双子の兄弟にとっては、言葉で言い表せないぐらいに、いろいろなことがあっただけに、ザ・ピーナツのレコードが売れて人気が爆発することが嬉しかったようです。今じゃ双子は少しも珍しくありません。うちのお客さんには三つ子の兄弟もいました。三つ子の兄弟にアニメ『タッチ』から名前を取っていたケースもありました。
つづく。
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2021年07月18日
日差しが強いときにおすすめする登山(離山)
今日は、すごく暑かったので離山に行ってきました。この山は真夏日の晴天時に最も相応しい山です。行程の95パーセントが森の中だからです。そういう山は、北軽井沢にもあって、鷹繋山とか、鼻曲山とか、浅間隠山とかが、登山道の9割が森の中であるために、涼しく登れます。間違っても、浅間山・根古岳・湯ノ丸山に登ってはいけません。地獄をみますから。
一番良いのは、鷹繋山なんですが、台風19号で浅間大滝の登山口の橋が無くなってしまい、事実上、廃道になってしまっています。鼻曲山も最近は登山道が荒れてきています。唯一、浅間隠山の登山道だけが立派に整備されていますが、ボランティアで整備している方も、高齢で最近はみえなくなっています。その方は、倉渕村の方で、榛名山の登山道の整備もしているので、そっちが忙しくて浅間隠山まで手が回らないのかもしれません。それでも浅間隠山の登山道は荒れていません。登山者が多いからかもしれませんね。
でも、暑いときに一番気持ちの良い登山が出来るのは、やはり離山ですね。この山の森を歩くのは、何回おとずれても楽しい。特に、木道部分の空中散歩がいい。


母親は手ぶら。
息子が荷物をかついでいる。
もちろん親より体力がある。


木道が高い位置にあるので樹木を見下ろせる。
樹幹が観れるのです。
その新緑が美しい。

ふつう、こういう山は、95パーセント森の山は、頂上に行っても展望がよくないのですが、離山の頂上の展望は、最高にいい。


浅間山が、一番かっこよく見える。
軽井沢の町が俯瞰できる。
で、ここで皆さんにとっておきの話をすると、ここから眺める軽井沢の夜景が美しいのです。
ちなみに今日の軽井沢の気温は30度ですが、下の画像を見てください。息子の奴は、暑苦しい長袖で登山していますが、全く汗をかいていません。森の中を散策しているせいか、こんなかっこうでも、汗をかかずに登れる。もっとも息子の奴は、8歳なので、親よりも早く登れる体力をもっているせいでもあります。途中で母親の荷物を担いでましたし。


つづく。
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一番良いのは、鷹繋山なんですが、台風19号で浅間大滝の登山口の橋が無くなってしまい、事実上、廃道になってしまっています。鼻曲山も最近は登山道が荒れてきています。唯一、浅間隠山の登山道だけが立派に整備されていますが、ボランティアで整備している方も、高齢で最近はみえなくなっています。その方は、倉渕村の方で、榛名山の登山道の整備もしているので、そっちが忙しくて浅間隠山まで手が回らないのかもしれません。それでも浅間隠山の登山道は荒れていません。登山者が多いからかもしれませんね。
でも、暑いときに一番気持ちの良い登山が出来るのは、やはり離山ですね。この山の森を歩くのは、何回おとずれても楽しい。特に、木道部分の空中散歩がいい。
母親は手ぶら。
息子が荷物をかついでいる。
もちろん親より体力がある。
木道が高い位置にあるので樹木を見下ろせる。
樹幹が観れるのです。
その新緑が美しい。
ふつう、こういう山は、95パーセント森の山は、頂上に行っても展望がよくないのですが、離山の頂上の展望は、最高にいい。
浅間山が、一番かっこよく見える。
軽井沢の町が俯瞰できる。
で、ここで皆さんにとっておきの話をすると、ここから眺める軽井沢の夜景が美しいのです。
ちなみに今日の軽井沢の気温は30度ですが、下の画像を見てください。息子の奴は、暑苦しい長袖で登山していますが、全く汗をかいていません。森の中を散策しているせいか、こんなかっこうでも、汗をかかずに登れる。もっとも息子の奴は、8歳なので、親よりも早く登れる体力をもっているせいでもあります。途中で母親の荷物を担いでましたし。
つづく。
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2021年07月17日
今日、最強の空気清浄機が6台届きました
北軽井沢にも本格的な夏がきたようです。道路は混雑し、小浅間山にも大勢の登山客がやってきました。私たち家族は、朝の8時に出かけたのですが、小浅間山の駐車場には、車がぎっしり駐まっていました。野菜の直売所にも、嬬恋村のキャベツやトウモロコシがならぶようになり、試しに買って食べてみたら、甘みがあって美味しかったです。雨ばかりだったのに、これだけの味がでるとなると、梅雨明けの高原野菜の糖度に期待できるかもしれません。
ちなみに今日、最強の空気清浄機が6台届きました。
空気だけで無く、壁や布団のウイルスまでやつけてくれるやつです。

とりあえず3台を公共スペース。あとの3台を4人部屋においてます。まだ4台注文していますから、いずれ全室に最強の空気清浄機が設置されるはずです。かかった費用は20万以上ですが、半額の補助金がでるので、買うことが出来たわけです。夏が終わったら抗ウイルスペンキを壁紙に塗り、換気栓も強力なやつに交換工事する予定です。せっかく補助金が出るので、使い倒して、少しでも景気をよくしていきたいですね。
つづく。
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ちなみに今日、最強の空気清浄機が6台届きました。
空気だけで無く、壁や布団のウイルスまでやつけてくれるやつです。

とりあえず3台を公共スペース。あとの3台を4人部屋においてます。まだ4台注文していますから、いずれ全室に最強の空気清浄機が設置されるはずです。かかった費用は20万以上ですが、半額の補助金がでるので、買うことが出来たわけです。夏が終わったら抗ウイルスペンキを壁紙に塗り、換気栓も強力なやつに交換工事する予定です。せっかく補助金が出るので、使い倒して、少しでも景気をよくしていきたいですね。
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2021年07月16日
やんば天明泥流ミュージアムに行ってきた【7】
この博物館の凄いところは、全館写真撮影ができることにありますが、その撮影を間近でできるところが、また凄い。縄文土器・石器をほぼ目の前で見れて撮影できる。下の写真でもわかるように引き出しを引くと、石器がでてくる。



縄文土器も、近距離でみれるし、接近して写真もとれる。



これほど見学者に親切な博物館はありません。
埋蔵文化センターで発掘物を丁寧に説明してくれた埋文の発掘の先生たちを思い出しました。工事用プレハブハウスにずらりとならんだ発掘資料を、私のような見学者に対して親切丁寧に解説してくださった諸先生たちの思いやりを思い出しました。埋文の先生たちも、この博物館も、心根に見学者への親切があるようにおもいます。
さて、7回にわたる解説で、少しでもやんば天明泥流ミュージアムに興味を持たれた方に朗報があります。毎週土日・祝日には10:30〜と13:30〜の2回、学芸員さんによる展示解説をおこなっています。解説をきけば、感動すること間違いないです。
実は私は、その解説の内容を、このブログで公開してません。なので、このブログを読んでも学芸員さんによる展示解説と重複するところはありませんので、やんば天明泥流ミュージアムに行くなら、学芸員さんによる展示解説を聞くべきです。
毎週土日・祝日の10:30〜と13:30〜の2回です。
群馬県吾妻郡長野原町大字林1464-3
0279-82-5150
museum@town.naganohara.gunma.jp
https://www.town.naganohara.gunma.jp/www/yamba-museum/index.html
つづく。
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縄文土器も、近距離でみれるし、接近して写真もとれる。
これほど見学者に親切な博物館はありません。
埋蔵文化センターで発掘物を丁寧に説明してくれた埋文の発掘の先生たちを思い出しました。工事用プレハブハウスにずらりとならんだ発掘資料を、私のような見学者に対して親切丁寧に解説してくださった諸先生たちの思いやりを思い出しました。埋文の先生たちも、この博物館も、心根に見学者への親切があるようにおもいます。
さて、7回にわたる解説で、少しでもやんば天明泥流ミュージアムに興味を持たれた方に朗報があります。毎週土日・祝日には10:30〜と13:30〜の2回、学芸員さんによる展示解説をおこなっています。解説をきけば、感動すること間違いないです。
実は私は、その解説の内容を、このブログで公開してません。なので、このブログを読んでも学芸員さんによる展示解説と重複するところはありませんので、やんば天明泥流ミュージアムに行くなら、学芸員さんによる展示解説を聞くべきです。
毎週土日・祝日の10:30〜と13:30〜の2回です。
群馬県吾妻郡長野原町大字林1464-3
0279-82-5150
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2021年07月15日
やんば天明泥流ミュージアムに行ってきた【6】
どうして天明の噴火で大量の泥流が吾妻川に流れたか? その原因は鬼押出し園にあると言われています。実は天明の噴火の前には、鬼押出し園の辺りに柳井という大きな湖がありました。その湖の近くには「仏の岩屋」という名所もあって、江戸時代の観光地でもあったようです。
どうしてそんなところに大きな湖があったかと言うと、火口から鬼押出し園に至る一帯にわたって 不透水層があった。そのたびに大量の水を蓄える装置があって、鬼押出し園から浅間園に至る一体に大きな湖を作っていました。これが何らかの理由で、おそらく大量の溶岩が水蒸気爆殺か何かが起こって湖が決壊したものと思われます。
問題は、その湖が単なる湖で無かったことです。浅間山山麓に(火砕流でできたと思われる)不透水層。つまり水を透過させない地層があり、その結果、大量の水が鬼押出し園の位置にあった柳井湖に注ぎ込んでいた。



それが噴火とともに決壊し、大量の土石雪崩がおき、軽井沢おもちゃ王国付近から浅間サンランド方面にわたって流れ、それが吾妻川になだれこんだと推測されます。
ちなみにこれを発見したのは、群馬大学の早川由紀夫教授で、20年ちかく前の2004年に助教授時代の早川先生に『あかるく楽しい火山教室』を誘致して教えてもらって学習させてもらいました。そして早川先生によって浅間山ミュージアムが設立されて、嬬恋郷土資料館の松島先生・唐沢先生などを迎えて、鹿沢休暇村の協力のもとで、長野原町の住民(大学村の人たち)も一緒に火山学習・地域学習をさせてもらいました。長野原町の住民(大学村の人たち)が加わるきっかけになったのは、土屋文明記念館で北軽井沢をテーマに企画展が開催され、それを私たちが協力したときに知り合った大学村の人たちに興味をもたれたからです。ジオパークができる、はるか以前のことです。不透水層に関することは、東京大学の荒牧重雄名誉教授に嬬恋村の水道局見学で教えて頂きました。
早川先生も、荒牧先生も、松島先生も、唐沢先生も、大昔から嬬恋村に多大な貢献をしています。
話がそれました。
何らかの理由で土石なだれが発生し、空っぽになってしまった柳井湖に、鬼押出し溶岩が次々とはいりこみ、湖を埋め尽くしてしまったわけです。その残骸が浅間園の吊り橋のところでみられますが、目視するだけでも柳井湖は、かなり深い湖だったことがわかります。相当な量の水を蓄えていたようです。これを『沼』と表現するのは適切ではないでしょう。あきらかに『湖』であり柳井湖が正解だと思います。
また、鬼押出し園の先端部は、いまでも大量のわき水のでるところで、それを利用して鎌原用水。そして嬬恋村の水道水として利用されています。それでも使い切れない水が、スズラン坂交差点から大笹にいたる県道235号線一帯を湿地にしていて、ちょっとした雨で道路が水浸しになります。
嬬恋村の土木事務所が、それを改善しようとして、何度も暗渠工事を行いましたが、絶望的なようで、A地点を工事すれば、B地点がダメになり、B地点を工事するとA地点がダメになるという堂々めぐりになるのだそうです。現代の土木技術をもってしても、道路の改善はみこめないくらいの湿地になっている。湿地といっても地盤が悪いというわけでなく、不透水層のために水がわきおこるというものらしい。
どうして、こんなことになっているのか? これは単なる推測になりますが、浅間山麓に広範囲の不透水層があって、それが鬼押出し園付近に集中して流し込むような地下構造になっていることが推測できます。それが証拠に嬬恋村の水道の水源が、各地の鬼押出し園の溶岩の先端部からとっているからです。溶岩の先端部から水がどんどん流れている。こういう土地に住んでいるということを私たち地元民は、認識すべきですね。
伊豆山の災害も、人ごとではないわけです。




以上、解説したことは、嬬恋郷土資料館でも、やんば天明泥流ミュージアムでも、ほとんどふれられていません。だからあえて、ここに書いたわけですが、仮にも博物館と名がついたら、確定されてない、いわゆる「仮説」を解説するわには、いかないので、ふれるわけにはいかないのだと思います。それだけに古い無難な学説で解説されてしまうので、そのあたりを割り引いて見学されるとよいと思います。
できれば、「嬬恋郷土資料館」と「やんば天明泥流ミュージアム」をセットで見学されるとよいかと思います。泥流に飲み込まれた八ッ場地区と、乾いた土砂に沈没してしまった鎌原。両者の違いも面白いし、出土品の比較も面白い。嬬恋郷土資料館は、1980年頃の解説がかかれてあるし、やんば天明泥流ミュージアムでは、比較的新しい学説で解説されてあります。2つを見比べると面白いです。そのあとに、浅間園と鬼押出し園を歩けば言うこと無しです。
鬼押出し園については、神成志保・神成澪・大坂志郎の物語。そして、寛永寺についてと、堤康次郎の物語を知った上で見学されると面白いです。NHK『おしん』のモデル疑惑も囁かれている神成志保・神成澪・大坂志郎の物語については、後日、もっと詳しいエピソード紹介したいと思います。
つづく。
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どうしてそんなところに大きな湖があったかと言うと、火口から鬼押出し園に至る一帯にわたって 不透水層があった。そのたびに大量の水を蓄える装置があって、鬼押出し園から浅間園に至る一体に大きな湖を作っていました。これが何らかの理由で、おそらく大量の溶岩が水蒸気爆殺か何かが起こって湖が決壊したものと思われます。
問題は、その湖が単なる湖で無かったことです。浅間山山麓に(火砕流でできたと思われる)不透水層。つまり水を透過させない地層があり、その結果、大量の水が鬼押出し園の位置にあった柳井湖に注ぎ込んでいた。
それが噴火とともに決壊し、大量の土石雪崩がおき、軽井沢おもちゃ王国付近から浅間サンランド方面にわたって流れ、それが吾妻川になだれこんだと推測されます。
ちなみにこれを発見したのは、群馬大学の早川由紀夫教授で、20年ちかく前の2004年に助教授時代の早川先生に『あかるく楽しい火山教室』を誘致して教えてもらって学習させてもらいました。そして早川先生によって浅間山ミュージアムが設立されて、嬬恋郷土資料館の松島先生・唐沢先生などを迎えて、鹿沢休暇村の協力のもとで、長野原町の住民(大学村の人たち)も一緒に火山学習・地域学習をさせてもらいました。長野原町の住民(大学村の人たち)が加わるきっかけになったのは、土屋文明記念館で北軽井沢をテーマに企画展が開催され、それを私たちが協力したときに知り合った大学村の人たちに興味をもたれたからです。ジオパークができる、はるか以前のことです。不透水層に関することは、東京大学の荒牧重雄名誉教授に嬬恋村の水道局見学で教えて頂きました。
早川先生も、荒牧先生も、松島先生も、唐沢先生も、大昔から嬬恋村に多大な貢献をしています。
話がそれました。
何らかの理由で土石なだれが発生し、空っぽになってしまった柳井湖に、鬼押出し溶岩が次々とはいりこみ、湖を埋め尽くしてしまったわけです。その残骸が浅間園の吊り橋のところでみられますが、目視するだけでも柳井湖は、かなり深い湖だったことがわかります。相当な量の水を蓄えていたようです。これを『沼』と表現するのは適切ではないでしょう。あきらかに『湖』であり柳井湖が正解だと思います。
また、鬼押出し園の先端部は、いまでも大量のわき水のでるところで、それを利用して鎌原用水。そして嬬恋村の水道水として利用されています。それでも使い切れない水が、スズラン坂交差点から大笹にいたる県道235号線一帯を湿地にしていて、ちょっとした雨で道路が水浸しになります。
嬬恋村の土木事務所が、それを改善しようとして、何度も暗渠工事を行いましたが、絶望的なようで、A地点を工事すれば、B地点がダメになり、B地点を工事するとA地点がダメになるという堂々めぐりになるのだそうです。現代の土木技術をもってしても、道路の改善はみこめないくらいの湿地になっている。湿地といっても地盤が悪いというわけでなく、不透水層のために水がわきおこるというものらしい。
どうして、こんなことになっているのか? これは単なる推測になりますが、浅間山麓に広範囲の不透水層があって、それが鬼押出し園付近に集中して流し込むような地下構造になっていることが推測できます。それが証拠に嬬恋村の水道の水源が、各地の鬼押出し園の溶岩の先端部からとっているからです。溶岩の先端部から水がどんどん流れている。こういう土地に住んでいるということを私たち地元民は、認識すべきですね。
伊豆山の災害も、人ごとではないわけです。
以上、解説したことは、嬬恋郷土資料館でも、やんば天明泥流ミュージアムでも、ほとんどふれられていません。だからあえて、ここに書いたわけですが、仮にも博物館と名がついたら、確定されてない、いわゆる「仮説」を解説するわには、いかないので、ふれるわけにはいかないのだと思います。それだけに古い無難な学説で解説されてしまうので、そのあたりを割り引いて見学されるとよいと思います。
できれば、「嬬恋郷土資料館」と「やんば天明泥流ミュージアム」をセットで見学されるとよいかと思います。泥流に飲み込まれた八ッ場地区と、乾いた土砂に沈没してしまった鎌原。両者の違いも面白いし、出土品の比較も面白い。嬬恋郷土資料館は、1980年頃の解説がかかれてあるし、やんば天明泥流ミュージアムでは、比較的新しい学説で解説されてあります。2つを見比べると面白いです。そのあとに、浅間園と鬼押出し園を歩けば言うこと無しです。
鬼押出し園については、神成志保・神成澪・大坂志郎の物語。そして、寛永寺についてと、堤康次郎の物語を知った上で見学されると面白いです。NHK『おしん』のモデル疑惑も囁かれている神成志保・神成澪・大坂志郎の物語については、後日、もっと詳しいエピソード紹介したいと思います。
つづく。
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2021年07月14日
やんば天明泥流ミュージアムに行ってきた【5】
この博物館が、どうして「天明泥流ミュージアム」かというと、天明の浅間山噴火によって、おびただしい泥流が流れ、村を埋め尽くしてしまった。その泥流が天明時代の生活住居を「遺跡として封印してしてしまった」ことにあります。しかも泥流であったために、当時の生活そのままに封印し、遺跡がタイムカプセルのように保存されてしまった。泥流が、江戸時代をそのまま保存し、それを発掘することによって、分からなかったことが分かってきた。だから「やんば天明泥流ミュージアム」というわけです。


これは鎌原観音堂のある鎌原にしても同じなのですが、少し違っているのは、鎌原には泥流はきてない。発掘をした松島先生によると鎌原には乾いた土石雪崩がおしよせているそうで、そこが泥流ミュージアムの調査結果と違っている。これには松島先生も不思議におもっていたらしく、どの古文書にも「あちこちから水や湯が流れてきた」とあるのに鎌原を発掘する限り、そういう跡はみえなかったとおっしゃっていました。そのせいか、発掘物に鎌原と八ッ場に多少の違いがあります。
その違いのことはおいといて、まず共通点から。
当時の農民たちは、いがいに裕福だった。
その証拠が、続々とでてきている。
下の画像のように白磁なんかが大量にでてきている。


もちろん鎌原でも、これを上回る高級品がでてきてます。ビードロ鏡・伊万里焼など、八ッ場よりも豪華な出土品がでている。しかも発掘場所は、鎌原でも場末の場所であるにもかかわらず、かなり裕福で無いと所持できなかったビードロ鏡が出てきたことは、当時としては衝撃だったと言います。八ッ場は、そこまでいかないにしても、やはり裕福であったことにはまちがいない。
ただ、八ッ場が鎌原と違うところは、生活そのものがタイムカプセルとして保存されてきたところ。下の写真は、梅干しと、梅干しをつけた樽が発掘されたもの。この発掘によって当時の梅干しの製造過程と成分が解明されている。

通常であれば地中に埋まった有機物は分解されてしまいます。ふつう有機物は腐って残りません。ところが、この梅干しが残る桶が見つかった遺跡は湧き水が豊富な場所に位置しており、そのうえ厚い泥流が積もっていたので、200年以上たった今でも奇跡的に残っていました。
次の画像は茶釜。茶葉が入っている茶釜も八ッ場の奇跡です。
この発掘によって、当時の人たちは、お茶を袋に入れて沸かしていたということが、わかった。

次の画像は、鉄鍋。この鉄鍋は大きく割れており、それを銅にスズを混ぜた合金で溶接してありました。

これは割れた陶器をウルシで接着してありました。
当時の人たちは、鉄鍋でも陶器でも丁寧に修復して使っていました。
こういうことが発掘によってわかっています。

そして途中まで燃えていた香炉まで発掘されています。

あと火がついたまま埋まってしまったキセルも発掘されています。

人々が、あわてて逃げた様子が、やんば天明泥流ミュージアムの展示物でよくわかります。

ある屋敷では、多くの下駄が発掘されています。下駄には屋号が書いてあって、それぞれ違う屋号だったので、なんらかの集会が開かれている時に泥流が襲ってきたので、裸足で逃げた結果、下駄だけが埋まってしまったということが推測されます。下駄では逃げ切れないとおもったからこその裸足だったのでしょう。
つづく。
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これは鎌原観音堂のある鎌原にしても同じなのですが、少し違っているのは、鎌原には泥流はきてない。発掘をした松島先生によると鎌原には乾いた土石雪崩がおしよせているそうで、そこが泥流ミュージアムの調査結果と違っている。これには松島先生も不思議におもっていたらしく、どの古文書にも「あちこちから水や湯が流れてきた」とあるのに鎌原を発掘する限り、そういう跡はみえなかったとおっしゃっていました。そのせいか、発掘物に鎌原と八ッ場に多少の違いがあります。
その違いのことはおいといて、まず共通点から。
当時の農民たちは、いがいに裕福だった。
その証拠が、続々とでてきている。
下の画像のように白磁なんかが大量にでてきている。
もちろん鎌原でも、これを上回る高級品がでてきてます。ビードロ鏡・伊万里焼など、八ッ場よりも豪華な出土品がでている。しかも発掘場所は、鎌原でも場末の場所であるにもかかわらず、かなり裕福で無いと所持できなかったビードロ鏡が出てきたことは、当時としては衝撃だったと言います。八ッ場は、そこまでいかないにしても、やはり裕福であったことにはまちがいない。
ただ、八ッ場が鎌原と違うところは、生活そのものがタイムカプセルとして保存されてきたところ。下の写真は、梅干しと、梅干しをつけた樽が発掘されたもの。この発掘によって当時の梅干しの製造過程と成分が解明されている。
通常であれば地中に埋まった有機物は分解されてしまいます。ふつう有機物は腐って残りません。ところが、この梅干しが残る桶が見つかった遺跡は湧き水が豊富な場所に位置しており、そのうえ厚い泥流が積もっていたので、200年以上たった今でも奇跡的に残っていました。
次の画像は茶釜。茶葉が入っている茶釜も八ッ場の奇跡です。
この発掘によって、当時の人たちは、お茶を袋に入れて沸かしていたということが、わかった。
次の画像は、鉄鍋。この鉄鍋は大きく割れており、それを銅にスズを混ぜた合金で溶接してありました。
これは割れた陶器をウルシで接着してありました。
当時の人たちは、鉄鍋でも陶器でも丁寧に修復して使っていました。
こういうことが発掘によってわかっています。
そして途中まで燃えていた香炉まで発掘されています。
あと火がついたまま埋まってしまったキセルも発掘されています。
人々が、あわてて逃げた様子が、やんば天明泥流ミュージアムの展示物でよくわかります。
ある屋敷では、多くの下駄が発掘されています。下駄には屋号が書いてあって、それぞれ違う屋号だったので、なんらかの集会が開かれている時に泥流が襲ってきたので、裸足で逃げた結果、下駄だけが埋まってしまったということが推測されます。下駄では逃げ切れないとおもったからこその裸足だったのでしょう。
つづく。
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2021年07月13日
1回目のファイザーワクチン打ってきました。
1回目のファイザーワクチン打ってきました。まず感想をいうと、
「ワクチンの注射器、小さい!」
「細くて小さい!」
です。インフルエンザのものと比べて小さい。
接種の方法は、まず受付します。
問診票のチェックをうけます。
そして医師の診断。
そして注射。
注射の後は、タイマーをもたされ、アナフラキーショックがおきないかどうか、15分くらい待機します。待機の間はビデオ映像で今後のことを解説する映像をみさせられます。それが終わると次回の用紙をもらって解散。
前評判だと、腕が痛くなるとか、だるくなるとか、心筋炎になるとか、いろいろ言われていて、それなりの覚悟して出かけたんですが、痛くないし、打つ前と何も変化が無い。
「え? こんなものなの?」
と驚いてます。で、よくよく考えてみたら、登山をやってる人間は、みんな私と同じだったという。これは偶然か? それともたまたまなのか?それとも年齢と関係あるのか、詳しくは分かりませんけど、山関係者の8割くらいは、なにも変化無かったといって言っていた。
ただし、1回目のワクチン接種だからね。2回目に痛みや関節痛があるというから、2回目の接種でどうなるかですよね。
話を変えます。
変異株のことです。
変異株を恐ろしがる報道が多いですが、上の動画にもあるようにイギリス政府が発表した統計によると、変異株の方が重症化率が低いというか、生存率はあがっているんですね。これって、弱毒化にむかっていませんか? もうすこし様子をみて、さらにインド・アメリカの統計をみないと本当のところはわかりませんけど・・・・・。
つづく。
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です。インフルエンザのものと比べて小さい。
接種の方法は、まず受付します。
問診票のチェックをうけます。
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そして注射。
注射の後は、タイマーをもたされ、アナフラキーショックがおきないかどうか、15分くらい待機します。待機の間はビデオ映像で今後のことを解説する映像をみさせられます。それが終わると次回の用紙をもらって解散。
前評判だと、腕が痛くなるとか、だるくなるとか、心筋炎になるとか、いろいろ言われていて、それなりの覚悟して出かけたんですが、痛くないし、打つ前と何も変化が無い。
「え? こんなものなの?」
と驚いてます。で、よくよく考えてみたら、登山をやってる人間は、みんな私と同じだったという。これは偶然か? それともたまたまなのか?それとも年齢と関係あるのか、詳しくは分かりませんけど、山関係者の8割くらいは、なにも変化無かったといって言っていた。
ただし、1回目のワクチン接種だからね。2回目に痛みや関節痛があるというから、2回目の接種でどうなるかですよね。
話を変えます。
変異株のことです。
変異株を恐ろしがる報道が多いですが、上の動画にもあるようにイギリス政府が発表した統計によると、変異株の方が重症化率が低いというか、生存率はあがっているんですね。これって、弱毒化にむかっていませんか? もうすこし様子をみて、さらにインド・アメリカの統計をみないと本当のところはわかりませんけど・・・・・。
つづく。
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2021年07月12日
やんば天明泥流ミュージアムに行ってきた【4】
やんば天明泥流ミュージアムを見学してみて第一に思った感想は、大昔の嬬恋郷土資料館みたいだという感想で、なんだか懐かしい気分になりました。やんば天明泥流ミュージアムは、20年前の嬬恋郷土資料館の雰囲気に似ていたからです。
やんば天明泥流ミュージアムの売りは、最初に見させられるビデオ上映会です。この上映が、その後に見学する展示物に対する伏線になります。これは、昔の嬬恋郷土資料館でも同じで、まずビデオ上映をみてから展示物をみることで感動が数倍になる仕組みがありましたので、この感じが懐かしいなあ・・・と思った次第です。




私が嬬恋村に引っ越してきたのは、 今から20年前ですが、その頃乗っ嬬恋郷土資料館には、鎌原観音堂をはじめとする鎌原地区を嬬恋高校の生徒さんと一緒に発掘した、元嬬恋高校の教師である松島先生が館長でした。 鎌原を発掘した本人が館長だった 。
その上嬬恋郷土資料館は、農林省の補助金によって作られていました。 だから嬬恋郷土資料館には、キャベツに関する展示と、キャベツ料理のレシピを説明する『ラビットさんのキャベツ料理劇場』と言うロボット人形が展示されていました。とはいうものの、別に関する展示は、ほんの少しで、資料館の展示の9割は鎌原村の発掘による出土品でした。 農林省の補助金で、埋蔵文化遺産の資料館を作ってしまったわけです。
だから当時の嬬恋村の担当者は、ビクビクしながら農林省の役人の人たちの反応を見ていたと言います。幸いなことに農林省のお役人さん達は
「立派なものを作ってくれてありがとうございます」
と、嬬恋郷土資料館を絶賛したといいます。
ちなみに、嬬恋郷土資料館は、やんば天明泥流ミュージアムのように「博物館」をうたっていません。あくまでも郷土資料館です。一応名目上は、農産物であるキャベツに関する展示をするための資料館であったわけです。本来なら博物館といってもいいはずなのに、内容的には博物館のレベルだったのに、誕生の仕方が特殊だったために郷土資料館でないといけなかった。とはいうものの、レベルは高かったと思います。何しろ発掘した張本人が郷土資料館の館長だったわけですから、これほど強い話はありません。
それはともかくとして、昔の嬬恋郷土資料館には、素晴らしいビデオフィルムがありました。現在でも上映していると思いますが、10年ぐらい前から上映ビデオは、半分に短縮されています。では半分に短縮される前の作品は、どういう作品だったかと言うと、フーテンの寅さんで有名な 柴又帝釈天の画像から始まります。天明時代に隅田川に大量の死体が流れ着いた。 それを柴又帝釈天の住職が丁重に葬ったことかからビデオは始まります。
ここで嬬恋村と柴又帝釈天に一体何の関係があるんだろうか?と視聴者は驚いてしまうわけです。その謎解きを天明3年の浅間山の爆発を解説することによって教えてくれるわけですが、そのさいに信じがたい大自然の驚異を説明してくれます
溶岩が増水された我妻川の水流と一緒にプカプカ浮いて遠くは渋川の方まで流されてしまうことを解説してくれるわけですが、それらの溶岩の塊の痕跡を吾妻川沿岸に大量に残されていることをビデオで説明してくれました。これでもか、これでもか、という数を紹介してくれたのです。当時の私は
「重い巨大な溶岩が、川にプカプカ浮かんで流される?」
「そんなバカな?」
と驚き衝撃をうけました。これは凄いと思った私は、興奮しながら御客さんに嬬恋郷土資料館の見学をすすめ、私の予想通り、御客さんの反応は良かった。当時は写真撮影が自由だったので、それも含めて観光客による評判がよかった。
で、館長の松島先生と面識をえて、いろいろ教えて頂くようになると、さらに凄いことがいろいろわかってくる。当時の発掘の様子や、発掘の結果わかったことや、噴火の謎なんかも教えてもらいました。その中でも印象的だったのは、
「天明の噴火の古文書を見る限り、火口からマグマが出てくる記録がひとつもない。けれど溶岩は確実に存在する。この謎が現在までわかっていない」
という松山先生のお話です。 この謎は、 現在では解明されていて、浅間山の溶岩は火成溶岩。つまり空から降ってきた溶岩。だから鬼押出し園の溶岩は、天に向いているという説が主流になっています。つまり火口からマグマは流れてない。
まあ、そんな話はどうでもいいんですが、この松島先生は、非常に博学な方で、嬬恋村の隅から隅まで調査されていて、色々おしえて頂くことが多かった。鬼押出し園から大笹村へのパイプラインとか、キャベツ畑から縄文土器をひろうとか、古文書の読書会もやった。この先生は、鎌原村を散歩しながら、驚くような村の遺産を見つけている。そして鎌原村風土博物館構想を企画し、村全体を風土博物館として保存すべきと言っていた。とにかく凄い先生だった。
私は、浅間山ミュージアムの企画として、松島先生を招いて鹿沢休暇村で縄文土器を作ったりしましたが、その体験が本当に面白かったので、いつか嬬恋村の小学生を集めて縄文土器製作プロジェクトを始めようかという話があったんですが、村の方針で郷土資料館を辞任することになってしまい、縄文土器製作プロジェクトも立ち消えになってしまいました。
嬬恋村から松島先生がいなくなったのは、私にとっては非常に残念なことでした。仕方がないので、土屋文明記念館で北軽井沢をテーマとする展示があったときに、その関係者の一人として、 松島先生に講演をお願いしたりしました。その時残念ながら私は、土屋文明記念館のイベントとして草軽鉄道の廃線跡を案内するために 参加できませんでしたが、松島先生の講演は非常に好評だったと聞いています。あれから十年以上経っていますが、先生はお元気にされているのでしょうか?
現在の嬬恋郷土資料館は、発掘に携わった人もいないし、 ビデオも短縮されてしまったし、館内は撮影禁止になっているし、キャベツレシピ劇場も機械が動かないみたいなので、以前とはだだいぶちがっています。つくづく残念に思っていたのですが、やんば天明泥流ミュージアムを見学してみて、昔の嬬恋郷土資料館のような熱気を感じて、少しばかり嬉しくなってきました。
つづく。
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やんば天明泥流ミュージアムの売りは、最初に見させられるビデオ上映会です。この上映が、その後に見学する展示物に対する伏線になります。これは、昔の嬬恋郷土資料館でも同じで、まずビデオ上映をみてから展示物をみることで感動が数倍になる仕組みがありましたので、この感じが懐かしいなあ・・・と思った次第です。
私が嬬恋村に引っ越してきたのは、 今から20年前ですが、その頃乗っ嬬恋郷土資料館には、鎌原観音堂をはじめとする鎌原地区を嬬恋高校の生徒さんと一緒に発掘した、元嬬恋高校の教師である松島先生が館長でした。 鎌原を発掘した本人が館長だった 。
その上嬬恋郷土資料館は、農林省の補助金によって作られていました。 だから嬬恋郷土資料館には、キャベツに関する展示と、キャベツ料理のレシピを説明する『ラビットさんのキャベツ料理劇場』と言うロボット人形が展示されていました。とはいうものの、別に関する展示は、ほんの少しで、資料館の展示の9割は鎌原村の発掘による出土品でした。 農林省の補助金で、埋蔵文化遺産の資料館を作ってしまったわけです。
だから当時の嬬恋村の担当者は、ビクビクしながら農林省の役人の人たちの反応を見ていたと言います。幸いなことに農林省のお役人さん達は
「立派なものを作ってくれてありがとうございます」
と、嬬恋郷土資料館を絶賛したといいます。
ちなみに、嬬恋郷土資料館は、やんば天明泥流ミュージアムのように「博物館」をうたっていません。あくまでも郷土資料館です。一応名目上は、農産物であるキャベツに関する展示をするための資料館であったわけです。本来なら博物館といってもいいはずなのに、内容的には博物館のレベルだったのに、誕生の仕方が特殊だったために郷土資料館でないといけなかった。とはいうものの、レベルは高かったと思います。何しろ発掘した張本人が郷土資料館の館長だったわけですから、これほど強い話はありません。
それはともかくとして、昔の嬬恋郷土資料館には、素晴らしいビデオフィルムがありました。現在でも上映していると思いますが、10年ぐらい前から上映ビデオは、半分に短縮されています。では半分に短縮される前の作品は、どういう作品だったかと言うと、フーテンの寅さんで有名な 柴又帝釈天の画像から始まります。天明時代に隅田川に大量の死体が流れ着いた。 それを柴又帝釈天の住職が丁重に葬ったことかからビデオは始まります。
ここで嬬恋村と柴又帝釈天に一体何の関係があるんだろうか?と視聴者は驚いてしまうわけです。その謎解きを天明3年の浅間山の爆発を解説することによって教えてくれるわけですが、そのさいに信じがたい大自然の驚異を説明してくれます
溶岩が増水された我妻川の水流と一緒にプカプカ浮いて遠くは渋川の方まで流されてしまうことを解説してくれるわけですが、それらの溶岩の塊の痕跡を吾妻川沿岸に大量に残されていることをビデオで説明してくれました。これでもか、これでもか、という数を紹介してくれたのです。当時の私は
「重い巨大な溶岩が、川にプカプカ浮かんで流される?」
「そんなバカな?」
と驚き衝撃をうけました。これは凄いと思った私は、興奮しながら御客さんに嬬恋郷土資料館の見学をすすめ、私の予想通り、御客さんの反応は良かった。当時は写真撮影が自由だったので、それも含めて観光客による評判がよかった。
で、館長の松島先生と面識をえて、いろいろ教えて頂くようになると、さらに凄いことがいろいろわかってくる。当時の発掘の様子や、発掘の結果わかったことや、噴火の謎なんかも教えてもらいました。その中でも印象的だったのは、
「天明の噴火の古文書を見る限り、火口からマグマが出てくる記録がひとつもない。けれど溶岩は確実に存在する。この謎が現在までわかっていない」
という松山先生のお話です。 この謎は、 現在では解明されていて、浅間山の溶岩は火成溶岩。つまり空から降ってきた溶岩。だから鬼押出し園の溶岩は、天に向いているという説が主流になっています。つまり火口からマグマは流れてない。
まあ、そんな話はどうでもいいんですが、この松島先生は、非常に博学な方で、嬬恋村の隅から隅まで調査されていて、色々おしえて頂くことが多かった。鬼押出し園から大笹村へのパイプラインとか、キャベツ畑から縄文土器をひろうとか、古文書の読書会もやった。この先生は、鎌原村を散歩しながら、驚くような村の遺産を見つけている。そして鎌原村風土博物館構想を企画し、村全体を風土博物館として保存すべきと言っていた。とにかく凄い先生だった。
私は、浅間山ミュージアムの企画として、松島先生を招いて鹿沢休暇村で縄文土器を作ったりしましたが、その体験が本当に面白かったので、いつか嬬恋村の小学生を集めて縄文土器製作プロジェクトを始めようかという話があったんですが、村の方針で郷土資料館を辞任することになってしまい、縄文土器製作プロジェクトも立ち消えになってしまいました。
嬬恋村から松島先生がいなくなったのは、私にとっては非常に残念なことでした。仕方がないので、土屋文明記念館で北軽井沢をテーマとする展示があったときに、その関係者の一人として、 松島先生に講演をお願いしたりしました。その時残念ながら私は、土屋文明記念館のイベントとして草軽鉄道の廃線跡を案内するために 参加できませんでしたが、松島先生の講演は非常に好評だったと聞いています。あれから十年以上経っていますが、先生はお元気にされているのでしょうか?
現在の嬬恋郷土資料館は、発掘に携わった人もいないし、 ビデオも短縮されてしまったし、館内は撮影禁止になっているし、キャベツレシピ劇場も機械が動かないみたいなので、以前とはだだいぶちがっています。つくづく残念に思っていたのですが、やんば天明泥流ミュージアムを見学してみて、昔の嬬恋郷土資料館のような熱気を感じて、少しばかり嬉しくなってきました。
つづく。
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2021年07月11日
やんば天明泥流ミュージアムに行ってきた【3】
やんば天明泥流ミュージアムが完成するずいぶん前から、ダムが完成する前から、第一小学校旧校舎は移転されていました。今回、そこに初めてお邪魔したのですが、玄関に入ってすぐ目についたのが下駄箱です。今でこそ誰も下駄を履かなくなりましたが、昭和40年頃まで下駄は健在で、中村雅俊のドラマなんかでも昭和50年頃までは、よく見かけました。あしたのジョーとか、昭和のアニメをみると、当時の子供たちはみんな下駄を履いています。

下駄屋さんもありました。靴屋でなく下駄屋です。下駄屋でないと下駄の歯を取り替えられないからです。下駄は長いこと使っていると、短くなってきますから、歯を交換する必要があります。下駄屋にもっていくと交換してくれます。つまり靴より長持ちしました。昔の靴は、いまの靴より耐久性がないためにすぐにダメになってしまいますが、下駄なら長持ちした。おまけにフリーサイズなので、小学1年から6年までつかえる。雨の日の水たまりでも平気で歩ける。そして時として武器にもなった。
けれど、さすがに学校に下駄を履いていくと、先生に注意されましたけれど。で、「下駄なんか履いてきてはだめじゃないか!」と言われると、「じゃあ、先生、どうして下駄箱っていうのさ!」と口答えしたものです。
でも、昭和50年頃から下駄は、どんどん廃れていきました。気が付いたら誰も履かなくなっていた。私も履かなくなっていた。必ず靴下を履くようになったからです。いつのまにか裸足でいることが、マナー違反のような空気ができてきていた。下駄で友人の家に遊びに行けなくなった。靴下を履いてないと、よその家にあがりにくくなった。こうして下駄と下駄屋が無くなっていった。下駄屋の息子の友人がいたけれど、そこの親父さんが急に出稼ぎするようになったりした。そして下駄屋は無くなってしまった。
代わりに昭和50年頃から流行りだしたのが「ソックタッチ」というスティック糊みたいなもの。みんなが靴下を履くようになると、靴下がずれ落ちるのが気になってきた。当時の靴下は、良くずれ落ちたので、「ソックタッチ」というスティック糊みたいなもので、靴下のズレオチを防ぐ女の子が増えてきた。

下駄箱のある玄関から入ると、大きな広間があります。天井板が無く柱がむき出しになっている。で、よくみるとトラス構造でできている。トラス構造というのは三角形を単位とした構造骨組の一種で、変形しにくい構造で大空間や橋の架構に用いられています。だから昔の小学校は、たいていトラス構造でできていました。これだと雪にも風にも強い。そのうえ柱も少なくてすむ。

で、昔の在校生が作った学校史の年表が貼ってありました。

興味深いのは、この部分です。
昭和28年電話が入る。
昭和29年放送設備が出来る。
かなり遅いですね。室戸台風以来、多くの小学校が戦前から電話や放送設備をもっていたことを考えるとかなり遅い。それだけ災害と縁が無かったのか? 学校の規模が小さすぎて必要なかったのか? それとも別の理由があったのか?

昔の教務室の写真ですね。
壁に緊急時連絡網が張ってある。
今と違って、昔は緊急時連絡がたいへんで、
災害のときなんか、すごく苦労されたと思います。
ちなみに佐渡島で電話が普及したのが昭和40年頃で、一斉に自衛隊に勤める人の家から電話が設置されました。伊勢湾台風(死者5,098人・負傷者3万8,921人)による自衛隊の緊急出動と関係があると思われます。
友人宅でも農家の家に電話は設置されてなかった。最初は、父親が自衛隊の家だけに普及した。私が育った町には自衛隊の基地があった。だから、いざというときに出動命令が出せるから、自衛隊員の家に電話が一斉に普及したのだと思います。で、それをみた近所の人たちが、電話が便利だということに気が付くと、いろんな家庭で電話が設置されていった。
すると、子供の遊び場だった電話局の広場に、巨大なボビンのようなものが、ズラリと並んだ。おそらく電話ケーブルが巻いてあったんだと思う。一斉に電話が普及することによって、電話局の広場に、巨大ボビンが大量に出現したのだと思います。その巨大ボビンを玉乗りするように遊ぶのが子供たちの間で流行しました。こうして電話普及の結果、緊急時連絡が電話でできるようになり、災害時における死者が激減していったのだと推測できます。だから伊勢湾台風が、電話普及の起爆剤になったのだと思います。

廊下に欄間とは珍しい。そもそも欄間のある家屋敷は、武家かそれに準じる家屋敷くらいのもので、昔の農家には欄間はなかった。なのに欄間があるということは、よほど採光に熱心な地域だったのだろうか? ちなみに武家屋敷には、多数の欄間があって部屋をいくらでも区切れるようにしてあった。三十畳の大広間でも六畳六室に区切れた。そして欄間で採光していた。その理由には、刀を上段に振れなくするというものがありました。
あと木造校舎の廊下には、いろんなところに穴があいていた。節のある木材を使っていたために、節の処から穴が空いたからです。掃除の時に子供たちは、その穴にゴミをよく捨てていたので、廊下の下はゴミだらけだったと思う。あと廊下を雑巾がけをしたわけだけれど、あれは足腰の訓練になったと思う。ワックスがけはやってない。だから昔の木造校舎の廊下は、木の年輪がよくみえた。

石油ストーブですね。石油ストーブは、かならず廊下近くにあって、そこから長く煙突が窓に向かって伸びていた。断熱効果をたかめるためだったのでしょう。で、思い出すのが、ストーブのそばの席の子供たちは、すごく暑がって服を脱いで、下敷きを内輪代わりにあおいでいたけれど、窓側で、しかも後ろの席の子たちは、寒さでガタガタ震えていた。

懐かしい机。むかしは、こんな机で、板をめくって机から教科書を出したものです。これだとカンニングが絶対に出来ないし、机の板を交換するだけで、机が新しくなった。昔の子供たちは、机に落書きしたり、彫刻刀で机を彫ったりしたので、こういう机にすると、机の板を交換するだけで新品になる。すぐれものの机でした。いつのまにか無くなってしまいましたけれど。

給食の器具ですね。こういうものは全国共通なんですかね? 佐渡島でも似たようなものを使っていました。ちなみに50年以上も昔は、給食センターなるものがなくて、各学校で給食を作っていました。だから、けっこう熱々のものが食べられました。4時間目になると授業なんかきいてなくて、ガリ版で書かれた給食メニュー表をながめていました。

なつかしい。こういうもので勉強しました。昔あって、今の学校で滅びたのが石綿。アスベスト(石綿)に発がん性があることが問題となって、使用が禁止されました。写真に写っている器具で勉強をしたものです。

石炭ストーブがあった。群馬では石油ストーブになる前は、石炭ストーブだったんですね。佐渡島では薪ストーブでした。薪ストーブだから薪当番というものがあって、毎朝、用務員室に行って薪を受け取ってこなければならなかった。で、薪ストーブだから、都会からやってきた新米の先生には、火をつけることができなくて、小学校の1年生が、かわりに着火してたりしてた。今思うと凄いことなんだけれど、昭和40年頃の小学生の3割くらいは、火をおこせた。薪で風呂を沸かす家が多かったから。あと不思議なことに薪ストーブなのに火吹き棒が、学校に無かった。火吹き棒が無いのに、どうやって火をおこしたのか不思議でならない。
で、学校には用務員さんが住んでいた。用務員さんの仕事の半分は、冬に使う薪のための薪割りだった。そのうち石油ストーブになるわけですが、石油ストーブになると、いつのまにか用務員さんがいなくなっていた。私は、その後、佐渡島を出て、新潟の高校にいくわけですが、新潟の学校では、ガスストーブだったのに驚愕した。新潟では、石油もでるし、天然ガスもでると聞いて、さらに驚いたものです。
で、そこに北海道から来た生徒がいて、別の意味でガスストーブに驚いていた。当時、北海道は石炭ストーブだったらしくて、石炭ストーブは火力が強くて暖かいらしく、ガスストーブの火力の弱さに衝撃をうけていた。私にしてみたら「ガスストーブは火力弱くないぞ」と思っていたけれど、石炭ストーブ体験者にとっては違うらしい。

柱時計。若い人には想像もつかないでしょうけれど、昔の小学校には、黒板係・保険係・生き物係・給食係などの他に『時計係』というものがあった。これは柱時計のゼンマイのネジを巻く係で、毎日ゼンマイのネジを巻かないと時計が止まってしまうのです。でもゼンマイ式の柱時計は、いつのまにか無くなっていた。

これは1964年の東京オリンピックの聖火トーチらしいです。
初めて見ました。
このあたりを聖火が走ったんですね。
佐渡島は、今も昔も走ってなかったと思う。
他にも、いろいろ懐かしいものがたくさんありましたが、きりがないので、このくらいでやめときます。
話は、変わりますが、息子がスタディサプリの算数で、式の計算をやってて驚きました。いまの小学校では、4年生ぐらいで式の計算をやるんですね。私の頃は、中学1年生で習っていますから、すごく難しくなっている。ローマ字は、小学3年の1学期の最初の頃に習っているけど、これも早くないですか? ゆとり教育の反動でしょうけれど、みんな、ついていけるのかなあ? 嬬恋村の子供たちは、みんな頭がよいので大丈夫だと思うけれど、他の地域では大丈夫なんだろうか?
少子化で、いくつもの学校が統合されて、スクールバスに乗っている時間が多くなって、子供を拘束時間が長くなっている。空手などの習いごとをしたら、それこそ宿題する時間もなくなる。朝6時に起きて準備しないと学校に間に合わないので、夜9時には寝かせないといけない。少子化で学校が統合され、スクールバスで長距離移動すると言うことは、そういうことになる。つまり、団塊時代の昭和の学校とは、全く違う子供たちの生活様式になっいる。
ただし、昭和の子供たちと違うところは週休2日制度がある。土日が休みであることが、本当にありがたい。土日が休みであるために、なんとか息子に遊びと勉強を提供できる。つまり少子化には、土日が休みが絶対に必要だったわけで、ゆとり教育を止めても、土日が休みの制度を続けたのは英断だったと思います。
つづく。
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下駄屋さんもありました。靴屋でなく下駄屋です。下駄屋でないと下駄の歯を取り替えられないからです。下駄は長いこと使っていると、短くなってきますから、歯を交換する必要があります。下駄屋にもっていくと交換してくれます。つまり靴より長持ちしました。昔の靴は、いまの靴より耐久性がないためにすぐにダメになってしまいますが、下駄なら長持ちした。おまけにフリーサイズなので、小学1年から6年までつかえる。雨の日の水たまりでも平気で歩ける。そして時として武器にもなった。
けれど、さすがに学校に下駄を履いていくと、先生に注意されましたけれど。で、「下駄なんか履いてきてはだめじゃないか!」と言われると、「じゃあ、先生、どうして下駄箱っていうのさ!」と口答えしたものです。
でも、昭和50年頃から下駄は、どんどん廃れていきました。気が付いたら誰も履かなくなっていた。私も履かなくなっていた。必ず靴下を履くようになったからです。いつのまにか裸足でいることが、マナー違反のような空気ができてきていた。下駄で友人の家に遊びに行けなくなった。靴下を履いてないと、よその家にあがりにくくなった。こうして下駄と下駄屋が無くなっていった。下駄屋の息子の友人がいたけれど、そこの親父さんが急に出稼ぎするようになったりした。そして下駄屋は無くなってしまった。
代わりに昭和50年頃から流行りだしたのが「ソックタッチ」というスティック糊みたいなもの。みんなが靴下を履くようになると、靴下がずれ落ちるのが気になってきた。当時の靴下は、良くずれ落ちたので、「ソックタッチ」というスティック糊みたいなもので、靴下のズレオチを防ぐ女の子が増えてきた。
下駄箱のある玄関から入ると、大きな広間があります。天井板が無く柱がむき出しになっている。で、よくみるとトラス構造でできている。トラス構造というのは三角形を単位とした構造骨組の一種で、変形しにくい構造で大空間や橋の架構に用いられています。だから昔の小学校は、たいていトラス構造でできていました。これだと雪にも風にも強い。そのうえ柱も少なくてすむ。
で、昔の在校生が作った学校史の年表が貼ってありました。
興味深いのは、この部分です。
昭和28年電話が入る。
昭和29年放送設備が出来る。
かなり遅いですね。室戸台風以来、多くの小学校が戦前から電話や放送設備をもっていたことを考えるとかなり遅い。それだけ災害と縁が無かったのか? 学校の規模が小さすぎて必要なかったのか? それとも別の理由があったのか?
昔の教務室の写真ですね。
壁に緊急時連絡網が張ってある。
今と違って、昔は緊急時連絡がたいへんで、
災害のときなんか、すごく苦労されたと思います。
ちなみに佐渡島で電話が普及したのが昭和40年頃で、一斉に自衛隊に勤める人の家から電話が設置されました。伊勢湾台風(死者5,098人・負傷者3万8,921人)による自衛隊の緊急出動と関係があると思われます。
友人宅でも農家の家に電話は設置されてなかった。最初は、父親が自衛隊の家だけに普及した。私が育った町には自衛隊の基地があった。だから、いざというときに出動命令が出せるから、自衛隊員の家に電話が一斉に普及したのだと思います。で、それをみた近所の人たちが、電話が便利だということに気が付くと、いろんな家庭で電話が設置されていった。
すると、子供の遊び場だった電話局の広場に、巨大なボビンのようなものが、ズラリと並んだ。おそらく電話ケーブルが巻いてあったんだと思う。一斉に電話が普及することによって、電話局の広場に、巨大ボビンが大量に出現したのだと思います。その巨大ボビンを玉乗りするように遊ぶのが子供たちの間で流行しました。こうして電話普及の結果、緊急時連絡が電話でできるようになり、災害時における死者が激減していったのだと推測できます。だから伊勢湾台風が、電話普及の起爆剤になったのだと思います。
廊下に欄間とは珍しい。そもそも欄間のある家屋敷は、武家かそれに準じる家屋敷くらいのもので、昔の農家には欄間はなかった。なのに欄間があるということは、よほど採光に熱心な地域だったのだろうか? ちなみに武家屋敷には、多数の欄間があって部屋をいくらでも区切れるようにしてあった。三十畳の大広間でも六畳六室に区切れた。そして欄間で採光していた。その理由には、刀を上段に振れなくするというものがありました。
あと木造校舎の廊下には、いろんなところに穴があいていた。節のある木材を使っていたために、節の処から穴が空いたからです。掃除の時に子供たちは、その穴にゴミをよく捨てていたので、廊下の下はゴミだらけだったと思う。あと廊下を雑巾がけをしたわけだけれど、あれは足腰の訓練になったと思う。ワックスがけはやってない。だから昔の木造校舎の廊下は、木の年輪がよくみえた。
石油ストーブですね。石油ストーブは、かならず廊下近くにあって、そこから長く煙突が窓に向かって伸びていた。断熱効果をたかめるためだったのでしょう。で、思い出すのが、ストーブのそばの席の子供たちは、すごく暑がって服を脱いで、下敷きを内輪代わりにあおいでいたけれど、窓側で、しかも後ろの席の子たちは、寒さでガタガタ震えていた。
懐かしい机。むかしは、こんな机で、板をめくって机から教科書を出したものです。これだとカンニングが絶対に出来ないし、机の板を交換するだけで、机が新しくなった。昔の子供たちは、机に落書きしたり、彫刻刀で机を彫ったりしたので、こういう机にすると、机の板を交換するだけで新品になる。すぐれものの机でした。いつのまにか無くなってしまいましたけれど。
給食の器具ですね。こういうものは全国共通なんですかね? 佐渡島でも似たようなものを使っていました。ちなみに50年以上も昔は、給食センターなるものがなくて、各学校で給食を作っていました。だから、けっこう熱々のものが食べられました。4時間目になると授業なんかきいてなくて、ガリ版で書かれた給食メニュー表をながめていました。
なつかしい。こういうもので勉強しました。昔あって、今の学校で滅びたのが石綿。アスベスト(石綿)に発がん性があることが問題となって、使用が禁止されました。写真に写っている器具で勉強をしたものです。
石炭ストーブがあった。群馬では石油ストーブになる前は、石炭ストーブだったんですね。佐渡島では薪ストーブでした。薪ストーブだから薪当番というものがあって、毎朝、用務員室に行って薪を受け取ってこなければならなかった。で、薪ストーブだから、都会からやってきた新米の先生には、火をつけることができなくて、小学校の1年生が、かわりに着火してたりしてた。今思うと凄いことなんだけれど、昭和40年頃の小学生の3割くらいは、火をおこせた。薪で風呂を沸かす家が多かったから。あと不思議なことに薪ストーブなのに火吹き棒が、学校に無かった。火吹き棒が無いのに、どうやって火をおこしたのか不思議でならない。
で、学校には用務員さんが住んでいた。用務員さんの仕事の半分は、冬に使う薪のための薪割りだった。そのうち石油ストーブになるわけですが、石油ストーブになると、いつのまにか用務員さんがいなくなっていた。私は、その後、佐渡島を出て、新潟の高校にいくわけですが、新潟の学校では、ガスストーブだったのに驚愕した。新潟では、石油もでるし、天然ガスもでると聞いて、さらに驚いたものです。
で、そこに北海道から来た生徒がいて、別の意味でガスストーブに驚いていた。当時、北海道は石炭ストーブだったらしくて、石炭ストーブは火力が強くて暖かいらしく、ガスストーブの火力の弱さに衝撃をうけていた。私にしてみたら「ガスストーブは火力弱くないぞ」と思っていたけれど、石炭ストーブ体験者にとっては違うらしい。
柱時計。若い人には想像もつかないでしょうけれど、昔の小学校には、黒板係・保険係・生き物係・給食係などの他に『時計係』というものがあった。これは柱時計のゼンマイのネジを巻く係で、毎日ゼンマイのネジを巻かないと時計が止まってしまうのです。でもゼンマイ式の柱時計は、いつのまにか無くなっていた。
これは1964年の東京オリンピックの聖火トーチらしいです。
初めて見ました。
このあたりを聖火が走ったんですね。
佐渡島は、今も昔も走ってなかったと思う。
他にも、いろいろ懐かしいものがたくさんありましたが、きりがないので、このくらいでやめときます。
話は、変わりますが、息子がスタディサプリの算数で、式の計算をやってて驚きました。いまの小学校では、4年生ぐらいで式の計算をやるんですね。私の頃は、中学1年生で習っていますから、すごく難しくなっている。ローマ字は、小学3年の1学期の最初の頃に習っているけど、これも早くないですか? ゆとり教育の反動でしょうけれど、みんな、ついていけるのかなあ? 嬬恋村の子供たちは、みんな頭がよいので大丈夫だと思うけれど、他の地域では大丈夫なんだろうか?
少子化で、いくつもの学校が統合されて、スクールバスに乗っている時間が多くなって、子供を拘束時間が長くなっている。空手などの習いごとをしたら、それこそ宿題する時間もなくなる。朝6時に起きて準備しないと学校に間に合わないので、夜9時には寝かせないといけない。少子化で学校が統合され、スクールバスで長距離移動すると言うことは、そういうことになる。つまり、団塊時代の昭和の学校とは、全く違う子供たちの生活様式になっいる。
ただし、昭和の子供たちと違うところは週休2日制度がある。土日が休みであることが、本当にありがたい。土日が休みであるために、なんとか息子に遊びと勉強を提供できる。つまり少子化には、土日が休みが絶対に必要だったわけで、ゆとり教育を止めても、土日が休みの制度を続けたのは英断だったと思います。
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2021年07月10日
やんば天明泥流ミュージアムに行ってきた【2】上毛カルタ
やんば天明泥流ミュージアムに入る前に、第一小学校旧校舎に入ってみました。
ここだけは入園料なしで入れます。

最初は、どうして第一小学校旧校舎が、やんば天明泥流ミュージアムにあるのか分かりませんでしたが、第一小学校旧校舎に入ってみてわかりました。長野原町民にとって、この第一小学校旧校舎は、いわゆるシンボルみたいなものなんですね。というか、やんば天明泥流ミュージアムが、長野原の林地区のある理由がわかったし、ここに道の駅をつくった理由もわかった。やんば故郷公園が、ここにあるのもわかりました。ここに長野原の、いや、群馬県民のアイデンティティがあったということです。
つまり上毛カルタの生みの親である浦野匡彦(まさひこ)氏の生家が、やんば天明泥流ミュージアムに隣接してあった。しかも、浦野匡彦氏の父親は、王城山神社の神主で、上毛かるたファンにとって王城山神社は、聖地だった。
と、ここまで書くと、他県の人にとって「上毛カルタって何?」ということになりますが、群馬県民のアイデンティティが上毛カルタになります。私は新潟県出身なので、群馬県民の上毛カルタ熱には、冷ややかにみていますが、群馬人の上毛カルタ熱といったら凄いもので、群馬生まれで上毛カルタを知らない奴がいたら絶対にモグリです。
これは銀座のバーやキャバレーで言われている都市伝説なのですが、
「群馬県出身の女を落とすには、上毛カルタの話題が一番」
という話があって、群馬生まれのうちの嫁さんに「それは本当か?」と聞いたら「おそらく本当だと思う」と言ったくらいですから、あながち都市伝説とも言いがたいところです。
とにかく群馬県民の上毛カルタ熱は凄いのです。その上毛カルタを作った浦野匡彦氏は、上毛カルタの神様ということになり、浦野一族が、代々、王城山神社の神主をつとめてきたことも含めて、やはり神様と言っていいかもしれません。
さて、この上毛カルタが誕生したきっかけです。
戦後、GHQによって学校教育での
地理・歴史・道徳の授業は停止されていました。
子供たちは、地理も歴史も道徳も学べなかった。
GHQによって教育の機会を奪われていた。
それに対して、密かに
「地理と歴史を学ばせたい」
という男が現れた。
浦野匡彦という王城山神社の神主さんのせがれだった。

浦野匡彦氏は、明治43年、長野原町林地区に十二人兄弟の六男として生まれました。旧制前橋中学から二松学舎専門学校に進み、卒業後は外務省の給費留学生として北京で学び、満州国官吏として北京大使館一等書記官などを務めました。昭和21年、家族とともに北京から群馬に引き揚げた。その後は、恩賜財団同胞援護会県支部を取り仕切り、戦争犠牲者の支援に取り組んでいました。
敗戦後の世情は混乱し、戦争孤児・寡婦などの境遇は悲惨なものでした。そのうえGHQの指令により、学校教育での地理・歴史の授業は停止されていました。それを残念に思っていた浦野匡彦氏は、子供たちには愛すべき故郷の歴史、文化を伝えたい、という思いを募らせました。そんな中、昭和21年7月15日に前橋市で開かれた引揚者大会で、安中出身のキリスト教伝道者の須田清基と出会い、かるたを通じて群馬の歴史、文化を伝えることを提案され、これだと思います。
誰もが食べることに精いっぱいの時代。郷土の子供たちに誇るべき群馬の文化と歴史を伝えたい、と同じ思いの人たちとかるた作りに取り組みました。復員軍人や東京から疎開してきた人たちなど、いろいろな人が家族的な雰囲気の中でかるたを作っていました。
ある日、浦野匡彦氏は農家の軒先に積み上げられた残り物のサツマイモの利用方法からヒントを得てイモ飴を作り、同胞飴(はらからあめ)として売り出しました。それがヒットし、サツマイモ生産農家や運搬・加工・販売する人たちの生活資金になり、その資金の一部が上毛かるた制作のために使われます。はらからは、同胞(同じ国民、仲間)を意味する言葉です。
昭和22年1月11日の上毛新聞紙上で構想を発表し、県内各方面から題材を募ります。郷土史家や文化人ら18人からなる編纂委員会によってカルタの句が選ばれますが、GHQの検閲にあって何度もダメだしをうけますが、浦野匡彦氏も頑強に抵抗します。
そのうち論争相手のGHQ側も、
「これは浦野匡彦氏が正しい」
と思い始めますが、組織としてのGHQは、徹底的に弾圧の手をゆるめない。
あくまでも検閲を行い弾圧するわけですが、弾圧する側にも自分たちが間違っていることはわかっているから、組織としてはダメだしするけれど、現場の人たちは浦野匡彦氏個人に対しては尊敬し、GHQの占領期間が終わってからもずっと、浦野匡彦氏の著書などを読み続けたりする。戦後何十年たっても、浦野匡彦氏の本がでるとアメリカから注文が来たりする。そういう関係になるくらい浦野匡彦氏は敵側に尊敬されていた。
結局、上毛カルタは、検閲に屈して発表されるわけですが、浦野匡彦氏はカードの一部に暗号を入れた。
当時の日本では歴史・地理・道徳教育が禁止されていました。国定忠治や小栗上野介をどうしても入れたかったが、GHQの検閲により国定忠治は任侠者、小栗上野介は武士との理由で拒否されてしまいました。読むことが許されなかったこれらの人物を「義理人情」という群馬県民の気質を表す言葉に託し、いつかこの人たちを読んだ札を入れるんだという思いを、力強い雷神様の絵に込めたとされています。つまりGHQにはわからないように、カードに暗号を入れて「GHQに抵抗した」という証拠を残した。
そして、上毛カルタが完成すると、さっそく子供たちを集めて上毛カルタ大会を開いた。GHQによって学校教育での地理・歴史・道徳の授業は停止されていましたから、子供たちが上毛カルタ大会をして、それに熱中すればするほど、GHQに抵抗することになる。
しかも、その上毛カルタを作る資金は、『はらから飴』によって作られていた。地理も歴史も道徳も学べなかった子供たちは、上毛カルタに熱中することによって、GHQに抵抗していた。上州人の子供たちが、上毛カルタに熱砂注すればするほど、GHQの鼻をあかしたことになる。
まったく浦野匡彦という男は、凄いことを考えたものだと他県民ながら感心しますが、同時に当時の上州人たちの心意気というか、上州の教育関係者と上毛新聞社の恐るべき慧眼にも心底感心する。そして「群馬県出身の女を落とすには、上毛カルタの話題が一番」という都市伝説が生まれるほどに上毛カルタは、上州人の心に入っていくわけです。
そして、かかあ天下の上州女が、上毛カルタに心をよせ、息子や娘に上毛カルタを仕込んで孫や曾孫の世代まで上毛カルタを普及していった。これは凄いことです。
そのうえ占領期間が終わった時、検閲・弾圧された上毛カルタを浦野匡彦氏は、改訂しなかった。検閲・弾圧された上毛カルタをそのまま使い続け、県民の人口を変えるだけにとどめました。これによって群馬県が保守王国になったとしても言い過ぎではないと思う。上毛カルタには、浦野匡彦氏のサブリミナル効果となって群馬県民の深層に深く入り込んでいると思います。上毛カルタに浦野匡彦と当時の教育関係者の怨念をみますが、これは、他県から移住してきたものにしか、分かりにくいと思う。普通に群馬に生まれた人には、ピンと来ないと思う。
ちなみに戦後の社会や教育の復興の中で、現在に至るまで、全国 47 都道府県すべてに「郷土かるた」ができていますが、都道府県のレベルから各区市町村や「上毛かるた」と社会科教育・各地域、学校のものまで合わせると、その数は、市販されているものや主なものだけでも、530 点以上あります。
その内、圧倒的に多いのが、群馬県の 107 点、
(終戦直後の群馬には196の市町村があった)
次いで埼玉県 63 点、
新潟県 27 点となります。
群馬県の両隣にある県である新潟と埼玉に郷土かるたが多いのは、単なる偶然ではないでしょう。
上毛カルタの影響をうけているに違いありません。
なにしろ「上毛かるた」こそ郷土かるたの発祥地なのですから。

ちなみに吾妻郡では、どの市町村にも郷土カルタがある。
このような郷土カルタで遊ぶことによって、
禁止された地理・歴史・道徳の授業を行っていた。
GHQに抵抗していた。
それは、GHQ側の担当者も知っていたと思うが、
浦野匡彦氏の正論に、郷土カルタを禁止できなかった。
こうして群馬の子供たちは、遊びながら地理・歴史・道徳を学んでいった。
「雷と空風 義理人情」
このカードに仕込まれた暗号を学びながら・・・。
こうして上州人たちによって、
いや、上州の子供と、父ちゃん母ちゃんたちによって
GHQの弾圧は叩きつぶされたのだった。





つづく。
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ここだけは入園料なしで入れます。
最初は、どうして第一小学校旧校舎が、やんば天明泥流ミュージアムにあるのか分かりませんでしたが、第一小学校旧校舎に入ってみてわかりました。長野原町民にとって、この第一小学校旧校舎は、いわゆるシンボルみたいなものなんですね。というか、やんば天明泥流ミュージアムが、長野原の林地区のある理由がわかったし、ここに道の駅をつくった理由もわかった。やんば故郷公園が、ここにあるのもわかりました。ここに長野原の、いや、群馬県民のアイデンティティがあったということです。
つまり上毛カルタの生みの親である浦野匡彦(まさひこ)氏の生家が、やんば天明泥流ミュージアムに隣接してあった。しかも、浦野匡彦氏の父親は、王城山神社の神主で、上毛かるたファンにとって王城山神社は、聖地だった。
と、ここまで書くと、他県の人にとって「上毛カルタって何?」ということになりますが、群馬県民のアイデンティティが上毛カルタになります。私は新潟県出身なので、群馬県民の上毛カルタ熱には、冷ややかにみていますが、群馬人の上毛カルタ熱といったら凄いもので、群馬生まれで上毛カルタを知らない奴がいたら絶対にモグリです。
これは銀座のバーやキャバレーで言われている都市伝説なのですが、
「群馬県出身の女を落とすには、上毛カルタの話題が一番」
という話があって、群馬生まれのうちの嫁さんに「それは本当か?」と聞いたら「おそらく本当だと思う」と言ったくらいですから、あながち都市伝説とも言いがたいところです。
とにかく群馬県民の上毛カルタ熱は凄いのです。その上毛カルタを作った浦野匡彦氏は、上毛カルタの神様ということになり、浦野一族が、代々、王城山神社の神主をつとめてきたことも含めて、やはり神様と言っていいかもしれません。
さて、この上毛カルタが誕生したきっかけです。
戦後、GHQによって学校教育での
地理・歴史・道徳の授業は停止されていました。
子供たちは、地理も歴史も道徳も学べなかった。
GHQによって教育の機会を奪われていた。
それに対して、密かに
「地理と歴史を学ばせたい」
という男が現れた。
浦野匡彦という王城山神社の神主さんのせがれだった。
浦野匡彦氏は、明治43年、長野原町林地区に十二人兄弟の六男として生まれました。旧制前橋中学から二松学舎専門学校に進み、卒業後は外務省の給費留学生として北京で学び、満州国官吏として北京大使館一等書記官などを務めました。昭和21年、家族とともに北京から群馬に引き揚げた。その後は、恩賜財団同胞援護会県支部を取り仕切り、戦争犠牲者の支援に取り組んでいました。
敗戦後の世情は混乱し、戦争孤児・寡婦などの境遇は悲惨なものでした。そのうえGHQの指令により、学校教育での地理・歴史の授業は停止されていました。それを残念に思っていた浦野匡彦氏は、子供たちには愛すべき故郷の歴史、文化を伝えたい、という思いを募らせました。そんな中、昭和21年7月15日に前橋市で開かれた引揚者大会で、安中出身のキリスト教伝道者の須田清基と出会い、かるたを通じて群馬の歴史、文化を伝えることを提案され、これだと思います。
誰もが食べることに精いっぱいの時代。郷土の子供たちに誇るべき群馬の文化と歴史を伝えたい、と同じ思いの人たちとかるた作りに取り組みました。復員軍人や東京から疎開してきた人たちなど、いろいろな人が家族的な雰囲気の中でかるたを作っていました。
ある日、浦野匡彦氏は農家の軒先に積み上げられた残り物のサツマイモの利用方法からヒントを得てイモ飴を作り、同胞飴(はらからあめ)として売り出しました。それがヒットし、サツマイモ生産農家や運搬・加工・販売する人たちの生活資金になり、その資金の一部が上毛かるた制作のために使われます。はらからは、同胞(同じ国民、仲間)を意味する言葉です。
昭和22年1月11日の上毛新聞紙上で構想を発表し、県内各方面から題材を募ります。郷土史家や文化人ら18人からなる編纂委員会によってカルタの句が選ばれますが、GHQの検閲にあって何度もダメだしをうけますが、浦野匡彦氏も頑強に抵抗します。
そのうち論争相手のGHQ側も、
「これは浦野匡彦氏が正しい」
と思い始めますが、組織としてのGHQは、徹底的に弾圧の手をゆるめない。
あくまでも検閲を行い弾圧するわけですが、弾圧する側にも自分たちが間違っていることはわかっているから、組織としてはダメだしするけれど、現場の人たちは浦野匡彦氏個人に対しては尊敬し、GHQの占領期間が終わってからもずっと、浦野匡彦氏の著書などを読み続けたりする。戦後何十年たっても、浦野匡彦氏の本がでるとアメリカから注文が来たりする。そういう関係になるくらい浦野匡彦氏は敵側に尊敬されていた。
結局、上毛カルタは、検閲に屈して発表されるわけですが、浦野匡彦氏はカードの一部に暗号を入れた。
当時の日本では歴史・地理・道徳教育が禁止されていました。国定忠治や小栗上野介をどうしても入れたかったが、GHQの検閲により国定忠治は任侠者、小栗上野介は武士との理由で拒否されてしまいました。読むことが許されなかったこれらの人物を「義理人情」という群馬県民の気質を表す言葉に託し、いつかこの人たちを読んだ札を入れるんだという思いを、力強い雷神様の絵に込めたとされています。つまりGHQにはわからないように、カードに暗号を入れて「GHQに抵抗した」という証拠を残した。
そして、上毛カルタが完成すると、さっそく子供たちを集めて上毛カルタ大会を開いた。GHQによって学校教育での地理・歴史・道徳の授業は停止されていましたから、子供たちが上毛カルタ大会をして、それに熱中すればするほど、GHQに抵抗することになる。
しかも、その上毛カルタを作る資金は、『はらから飴』によって作られていた。地理も歴史も道徳も学べなかった子供たちは、上毛カルタに熱中することによって、GHQに抵抗していた。上州人の子供たちが、上毛カルタに熱砂注すればするほど、GHQの鼻をあかしたことになる。
まったく浦野匡彦という男は、凄いことを考えたものだと他県民ながら感心しますが、同時に当時の上州人たちの心意気というか、上州の教育関係者と上毛新聞社の恐るべき慧眼にも心底感心する。そして「群馬県出身の女を落とすには、上毛カルタの話題が一番」という都市伝説が生まれるほどに上毛カルタは、上州人の心に入っていくわけです。
そして、かかあ天下の上州女が、上毛カルタに心をよせ、息子や娘に上毛カルタを仕込んで孫や曾孫の世代まで上毛カルタを普及していった。これは凄いことです。
そのうえ占領期間が終わった時、検閲・弾圧された上毛カルタを浦野匡彦氏は、改訂しなかった。検閲・弾圧された上毛カルタをそのまま使い続け、県民の人口を変えるだけにとどめました。これによって群馬県が保守王国になったとしても言い過ぎではないと思う。上毛カルタには、浦野匡彦氏のサブリミナル効果となって群馬県民の深層に深く入り込んでいると思います。上毛カルタに浦野匡彦と当時の教育関係者の怨念をみますが、これは、他県から移住してきたものにしか、分かりにくいと思う。普通に群馬に生まれた人には、ピンと来ないと思う。
ちなみに戦後の社会や教育の復興の中で、現在に至るまで、全国 47 都道府県すべてに「郷土かるた」ができていますが、都道府県のレベルから各区市町村や「上毛かるた」と社会科教育・各地域、学校のものまで合わせると、その数は、市販されているものや主なものだけでも、530 点以上あります。
その内、圧倒的に多いのが、群馬県の 107 点、
(終戦直後の群馬には196の市町村があった)
次いで埼玉県 63 点、
新潟県 27 点となります。
群馬県の両隣にある県である新潟と埼玉に郷土かるたが多いのは、単なる偶然ではないでしょう。
上毛カルタの影響をうけているに違いありません。
なにしろ「上毛かるた」こそ郷土かるたの発祥地なのですから。
ちなみに吾妻郡では、どの市町村にも郷土カルタがある。
このような郷土カルタで遊ぶことによって、
禁止された地理・歴史・道徳の授業を行っていた。
GHQに抵抗していた。
それは、GHQ側の担当者も知っていたと思うが、
浦野匡彦氏の正論に、郷土カルタを禁止できなかった。
こうして群馬の子供たちは、遊びながら地理・歴史・道徳を学んでいった。
「雷と空風 義理人情」
このカードに仕込まれた暗号を学びながら・・・。
こうして上州人たちによって、
いや、上州の子供と、父ちゃん母ちゃんたちによって
GHQの弾圧は叩きつぶされたのだった。
つづく。
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2021年07月09日
やんば天明泥流ミュージアムに行ってきた【1】
やんば天明泥流ミュージアムに行ってきました。
感想を一言でいうと、長野原町らしい博物館を作ったなという感想です。
以前は、浅間園に火山博物館を作っていたのですが、長野原町は、これを閉鎖してしまいました。あの施設は、バブル時代の遺産で、何十台という観光バスをあてにした、パックツアー目当ての施設でしたが、やんば天明泥流ミュージアムの方は、身の丈にあったこじんまりとした施設です。ただし、お金はかかっています。ダムと引き替えに、国交省の潤沢な予算による超豪華な博物館を作ってしまった。
浅間園の火山博物館は、火山博物館とは名ばかりで、きちんとした学芸員の配備も火山に関する研究活動もありませんでしたが、やんば天明泥流ミュージアムには、数十年にわたる埋蔵文化センターが、コツコツと調査して積み上げてきたものを土台に作り上げているために、かなり出来の良い博物館になっています。みる価値のある博物館です。嬬恋村にも嬬恋郷土資料館がありますが、レベルからしたら、こっちの方が上です。

とはいうももの嬬恋郷土資料館が、悪いというわけでは無く、嬬恋郷土資料館が完成した時期において、全国屈指の素晴らしい博物館だったのですが、上映されているビデオが短縮されたり、ラビットさんのキャベツ料理コーナーがいつのまにか無くなってしまったり、名物館長がいなくなったり、途中から館内の写真撮影が禁止されるなど、改悪が続いて先細りしてきています。
それに対して、やんば天明泥流ミュージアムの凄さといったらないです。
まず、全館写真撮影が出来ます。
ビデオ上映も、すごく予算をかけて作っている。
展示物は、嬬恋郷土資料館とそれほど大差はないですが、それをきちんと解説できる学芸員がいることが強みになっている。なにしろ何十年にわたる埋蔵文化センターの調査の積み重ねが凄い。
私は、その埋蔵文化センターに二十年も前から何度もお邪魔した者ですが、発掘で忙しい中、時間をさいて解説してくれた研究者の皆さんには、いくら感謝してもしきれません。特に関先生には、何度も解説でお世話になりました。他の諸先生方にも、忙しいなか、親切に解説していただきました。それらの先生方は、中学校の先生に戻ってしまったりして、いろいろ移動でバラバラになってしまい、今は、どこにおられるのかさっぱり分かりませんが、きっと色々な場所で、活躍されていることと思います。
それはともかく、八ッ場ダムによって、吾妻側流域に大量の予算がおりて、何十年にわたる埋蔵文化センターの発掘が行われてきました。そして、今まで分からなかった天明噴火の謎と、当時の農民たちの裕福な暮らしがわかってきています。これは嬬恋村の鎌原発掘のときの埋蔵文化資料とあわせても整合性がとれてきています。つまり嬬恋郷土資料館とやんば天明泥流ミュージアムの両方の埋蔵文化資料が繋がったわけです。で、江戸時代の平民たちが、ことのほか裕福な暮らしをしていたことがわかってきました。
それについては、何回かにわけて詳しく解説してみたいと思います。
つづく。
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感想を一言でいうと、長野原町らしい博物館を作ったなという感想です。
以前は、浅間園に火山博物館を作っていたのですが、長野原町は、これを閉鎖してしまいました。あの施設は、バブル時代の遺産で、何十台という観光バスをあてにした、パックツアー目当ての施設でしたが、やんば天明泥流ミュージアムの方は、身の丈にあったこじんまりとした施設です。ただし、お金はかかっています。ダムと引き替えに、国交省の潤沢な予算による超豪華な博物館を作ってしまった。
浅間園の火山博物館は、火山博物館とは名ばかりで、きちんとした学芸員の配備も火山に関する研究活動もありませんでしたが、やんば天明泥流ミュージアムには、数十年にわたる埋蔵文化センターが、コツコツと調査して積み上げてきたものを土台に作り上げているために、かなり出来の良い博物館になっています。みる価値のある博物館です。嬬恋村にも嬬恋郷土資料館がありますが、レベルからしたら、こっちの方が上です。
とはいうももの嬬恋郷土資料館が、悪いというわけでは無く、嬬恋郷土資料館が完成した時期において、全国屈指の素晴らしい博物館だったのですが、上映されているビデオが短縮されたり、ラビットさんのキャベツ料理コーナーがいつのまにか無くなってしまったり、名物館長がいなくなったり、途中から館内の写真撮影が禁止されるなど、改悪が続いて先細りしてきています。
それに対して、やんば天明泥流ミュージアムの凄さといったらないです。
まず、全館写真撮影が出来ます。
ビデオ上映も、すごく予算をかけて作っている。
展示物は、嬬恋郷土資料館とそれほど大差はないですが、それをきちんと解説できる学芸員がいることが強みになっている。なにしろ何十年にわたる埋蔵文化センターの調査の積み重ねが凄い。
私は、その埋蔵文化センターに二十年も前から何度もお邪魔した者ですが、発掘で忙しい中、時間をさいて解説してくれた研究者の皆さんには、いくら感謝してもしきれません。特に関先生には、何度も解説でお世話になりました。他の諸先生方にも、忙しいなか、親切に解説していただきました。それらの先生方は、中学校の先生に戻ってしまったりして、いろいろ移動でバラバラになってしまい、今は、どこにおられるのかさっぱり分かりませんが、きっと色々な場所で、活躍されていることと思います。
それはともかく、八ッ場ダムによって、吾妻側流域に大量の予算がおりて、何十年にわたる埋蔵文化センターの発掘が行われてきました。そして、今まで分からなかった天明噴火の謎と、当時の農民たちの裕福な暮らしがわかってきています。これは嬬恋村の鎌原発掘のときの埋蔵文化資料とあわせても整合性がとれてきています。つまり嬬恋郷土資料館とやんば天明泥流ミュージアムの両方の埋蔵文化資料が繋がったわけです。で、江戸時代の平民たちが、ことのほか裕福な暮らしをしていたことがわかってきました。
それについては、何回かにわけて詳しく解説してみたいと思います。
つづく。
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2021年07月08日
かない亭(長野原町)
長野原町の『かない亭』に行ってきました。フードファイター御用達の店で、大津の『かない亭』か、長野原高校前にある『ぽぷら』かというくらいのガッツリ系の店です。『かない亭』と『ぽぷら』が長野原の飛車・角というくらいの店です。特に『かない亭』は地元民が予約して入店 するくらいの店で、土・日曜だと17時くらいから満席になるくらいです。

店内は、昭和ただよう雰囲気で、おしゃれとは程遠く、田舎の大衆食堂そのもの。嬬恋村には、こういう店は無いですね。北軽井沢にもありません。しいて言うならば、北軽井沢の『ポプラ』が近いと言えば近いけれど、北軽井沢の『ポプラ』の方が、圧倒的にしゃれています。で、ややっこしいのが北軽井沢の『ポプラ』と長野原高校前にある『ぽぷら』は全く別の店だと言うこと。


ここは限定20食の大盛りのカツ丼で有名な店。
もちろん注文してみました。

で、やはり超分厚いカツ(3センチの厚さ)が、
ダブル。つまり二重に乗っている。

量的にいうと『かつや』のカツ丼の松の大盛りのレベルだろうか?

もちろん肉は軟らかくてジューシー。うっかり大盛りをたのんだらラーメン用のドンブリ(笑)に出てくるから注意したいですね。味は群馬県民のガテン系にあわせて濃いので、他県民の人は、薄味にしてもらうか、たれ少なめで注文した方が無難です。
それ以外のメニューも何でもジャンボサイズ。
Instagram映えすること間違いなし。
焼肉の特上カルビを注文すると、ステーキみたいなのが出てくるらしい。
ちなみに嫁さんが注文した豚丼が、これ!
ラーメンどんぶりクラスの豚丼が出てきました!

嫁さんの顔は引きつっていましたが、
意外に美味しかったらしくバクバク食べていた。
下の写真をみてほしい。
息子のラーメン丼と、豚丼の容器が同じサイズです!

村上家釜めし・ぽぷらでもそうなのだが、軽井沢・草津あたりの観光地料理とは全く違う世界が、ここにあります。嬬恋高校のそばに、こんな店が有ったら繁盛したと思うけれど、嬬恋村には、こういう系統の店は少ないですね。
長野原町大字大津458
電話0279-82-2227
11:00〜14:30 17:00〜20:30 木曜定休
つづく。
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店内は、昭和ただよう雰囲気で、おしゃれとは程遠く、田舎の大衆食堂そのもの。嬬恋村には、こういう店は無いですね。北軽井沢にもありません。しいて言うならば、北軽井沢の『ポプラ』が近いと言えば近いけれど、北軽井沢の『ポプラ』の方が、圧倒的にしゃれています。で、ややっこしいのが北軽井沢の『ポプラ』と長野原高校前にある『ぽぷら』は全く別の店だと言うこと。
ここは限定20食の大盛りのカツ丼で有名な店。
もちろん注文してみました。
で、やはり超分厚いカツ(3センチの厚さ)が、
ダブル。つまり二重に乗っている。
量的にいうと『かつや』のカツ丼の松の大盛りのレベルだろうか?
もちろん肉は軟らかくてジューシー。うっかり大盛りをたのんだらラーメン用のドンブリ(笑)に出てくるから注意したいですね。味は群馬県民のガテン系にあわせて濃いので、他県民の人は、薄味にしてもらうか、たれ少なめで注文した方が無難です。
それ以外のメニューも何でもジャンボサイズ。
Instagram映えすること間違いなし。
焼肉の特上カルビを注文すると、ステーキみたいなのが出てくるらしい。
ちなみに嫁さんが注文した豚丼が、これ!
ラーメンどんぶりクラスの豚丼が出てきました!
嫁さんの顔は引きつっていましたが、
意外に美味しかったらしくバクバク食べていた。
下の写真をみてほしい。
息子のラーメン丼と、豚丼の容器が同じサイズです!
村上家釜めし・ぽぷらでもそうなのだが、軽井沢・草津あたりの観光地料理とは全く違う世界が、ここにあります。嬬恋高校のそばに、こんな店が有ったら繁盛したと思うけれど、嬬恋村には、こういう系統の店は少ないですね。
長野原町大字大津458
電話0279-82-2227
11:00〜14:30 17:00〜20:30 木曜定休
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2021年07月07日
八ッ場ふるさと公園
地元では、かなり大きな噂になっている八ッ場ふるさと公園に行ってきました。やんば天明泥流ミュージアム脇の道から入っていくとたどりつけます。八ッ場道の駅ふるさと館からの遊歩道をつかっても行けます。
すごいなと思ったのがフリーフォールすべり台。
バンジージャンプなみの滑り台です。



あと世界最大クラスの幅広すべりだいも凄かった。
これは段ボールなどをお尻に敷く方がよさそうです。



野外ステージもあります。
いろんなイベントができそうです。
樹木版もあります
幼児用の遊具も、ターザンロープもあります。


お子さん連れの方は、八ッ場ダム見学のついでに立ち寄ってもいいですね。
もちろんダンボール箱も持って行きましょう。
株式会社 八ッ場ふるさと館
〒377-1309 群馬県吾妻郡長野原町大字林1567-4
TEL:0279-83-8088 FAX:0279-83-8089
つづく。
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すごいなと思ったのがフリーフォールすべり台。
バンジージャンプなみの滑り台です。
あと世界最大クラスの幅広すべりだいも凄かった。
これは段ボールなどをお尻に敷く方がよさそうです。
野外ステージもあります。
いろんなイベントができそうです。
樹木版もあります
幼児用の遊具も、ターザンロープもあります。
お子さん連れの方は、八ッ場ダム見学のついでに立ち寄ってもいいですね。
もちろんダンボール箱も持って行きましょう。
株式会社 八ッ場ふるさと館
〒377-1309 群馬県吾妻郡長野原町大字林1567-4
TEL:0279-83-8088 FAX:0279-83-8089
つづく。
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2021年07月06日
鬼押出し園開園70周年に行ってきました【6】カレーパンうどん!
しばらく難しい話が続いたので、今回は楽しい話をします。
鬼押出し園については、今日で最終回です。
最初に気になった画像をアップします。
これです。

小さなレールを二つ溶接にしておもりにしているわけですが、サイズ的にみて軽便鉄道のレールみたいです。定規を持ってなかったので、正確に計測できてなかったのですが、もし軽便鉄道のレールだとしたら草軽鉄道のレールを切断して、溶接して作った重りではないでしょうか? だとしたら、こいつは貴重なものだと思いますが、いかがでしょうか?
次の画像は岩窟ホール。

この岩窟ホールを見学に多くの建築家が訪れています。これを設計したのは、池原義郎(1928年 - 2017)という日本を代表する建築家で、早稲田大学名誉教授でもあり、その岩窟ホールは、入り口・バス停・岩窟ホールと、自然の景観を壊さないように訪れる人の視線が変化するように作られています。
地元民なら気づいた人も多いと思いますが、バス停からスロープを上がって入り口に入る瞬間までに、鬼押出し園と浅間山の雄大な姿に感動すると思いますが、これは池原義郎氏の綿密な設計によって作られたスロープならではです。池原氏は御客さんの視線というものに徹底的にこだわって設計する人で、岩窟ホールに入っても360度、どこに視線を移しても絶景が楽しめるという緻密な作りをみもせています。
この岩窟ホールで食事をしたわけですが、メニューをみてびっくり!

か、カレーパンうどん?
なんじゃ? それ?
食べてみたい。
でも、どうしようかな?
好奇心と三分ほど葛藤した結果、ぶなんなスタミナ丼を注文してしまった。

ちなみに嫁さんは、カレーパンを注文。

食堂には、御客さんらしき人影は無く、ジオガイトの人たちと、さきほどまで大法要をやってた寛永寺のお坊さんたちだけが食事をしていました。ちなみにお坊さんたちは、カレーパンを食べていました。嫁さんも「カレーパン美味しい!」と言ってたので、しまった!カレーパンうどんを注文すればよかった!と残念がりましたが、スタミナ丼も美味しかったので、それはそれでよしとします。

次に鬼押出し園にくるのは、いつになるかわかりませんが、また来てみたいと思いましたね。その時には、このブログに、『西武鉄道VS東急鉄道』の血みどろの戦いと、それによっておこされた『鬼押出し園VS浅間園』の戦いについて述べるとしましょうかね? これが凄く面白い話なんですが、堤康次郎VS五島慶太の話は、また後日ということで。強盗慶太、ピストル堤と異名をとる二人の池袋・渋谷戦争の話。『鬼押出し園VS浅間園』『草軽バスVS西武バス』は、いつか映画化してもらいたいものですよ。
事実は小説より奇なり。
半沢直樹より絶対に面白くなると思うんだけれど・・・。
つづく。
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鬼押出し園については、今日で最終回です。
最初に気になった画像をアップします。
これです。
小さなレールを二つ溶接にしておもりにしているわけですが、サイズ的にみて軽便鉄道のレールみたいです。定規を持ってなかったので、正確に計測できてなかったのですが、もし軽便鉄道のレールだとしたら草軽鉄道のレールを切断して、溶接して作った重りではないでしょうか? だとしたら、こいつは貴重なものだと思いますが、いかがでしょうか?
次の画像は岩窟ホール。
この岩窟ホールを見学に多くの建築家が訪れています。これを設計したのは、池原義郎(1928年 - 2017)という日本を代表する建築家で、早稲田大学名誉教授でもあり、その岩窟ホールは、入り口・バス停・岩窟ホールと、自然の景観を壊さないように訪れる人の視線が変化するように作られています。
地元民なら気づいた人も多いと思いますが、バス停からスロープを上がって入り口に入る瞬間までに、鬼押出し園と浅間山の雄大な姿に感動すると思いますが、これは池原義郎氏の綿密な設計によって作られたスロープならではです。池原氏は御客さんの視線というものに徹底的にこだわって設計する人で、岩窟ホールに入っても360度、どこに視線を移しても絶景が楽しめるという緻密な作りをみもせています。
この岩窟ホールで食事をしたわけですが、メニューをみてびっくり!
か、カレーパンうどん?
なんじゃ? それ?
食べてみたい。
でも、どうしようかな?
好奇心と三分ほど葛藤した結果、ぶなんなスタミナ丼を注文してしまった。
ちなみに嫁さんは、カレーパンを注文。
食堂には、御客さんらしき人影は無く、ジオガイトの人たちと、さきほどまで大法要をやってた寛永寺のお坊さんたちだけが食事をしていました。ちなみにお坊さんたちは、カレーパンを食べていました。嫁さんも「カレーパン美味しい!」と言ってたので、しまった!カレーパンうどんを注文すればよかった!と残念がりましたが、スタミナ丼も美味しかったので、それはそれでよしとします。
次に鬼押出し園にくるのは、いつになるかわかりませんが、また来てみたいと思いましたね。その時には、このブログに、『西武鉄道VS東急鉄道』の血みどろの戦いと、それによっておこされた『鬼押出し園VS浅間園』の戦いについて述べるとしましょうかね? これが凄く面白い話なんですが、堤康次郎VS五島慶太の話は、また後日ということで。強盗慶太、ピストル堤と異名をとる二人の池袋・渋谷戦争の話。『鬼押出し園VS浅間園』『草軽バスVS西武バス』は、いつか映画化してもらいたいものですよ。
事実は小説より奇なり。
半沢直樹より絶対に面白くなると思うんだけれど・・・。
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2021年07月05日
鬼押出し園開園70周年に行ってきました【5】
大坂志郎という人を知っているだろうか?
若い人には馴染みのない名前かもしれません。けれど昭和時代にお茶の間でテレビにかじりついていた世代にとっては、 大坂志郎さんは、森繁久弥さん・竹脇無我さん・石橋哲也さんらと、よく共演し、ホームドラマで日常的に見かける俳優さんでした。ホームドラマといえば、大坂志郎さんでした。
「大岡越前」の村上源次郎。
「だいこんの花」の相馬京太郎。
「パパと呼ばないで」の井上精太郎。
「雑居時代」の栗山信。
「玉ねぎ横丁の花嫁さん」の源太郎。
「どてかぼちゃ」の猪股。
「おひかえあそばせ」の池西猪太郎。
「おふくろさん」の八兵衛。
「七色とんがらし」のヤス。



この大坂志郎さんは秋田県能代市に生まれます。と言っても本人には、秋田県能代市の記憶があったかどうか? 幼い頃(昭和2年・当時6歳)に母親と、年子の妹さんと上京しているからです。
お母さんの名前は神成志保さん。秋田県の北にある鷹巣町の素封家に生まれ、19歳で能代の大きな米問屋に嫁ぎ、二人の子供を産みますが、夫は放蕩息子で女遊びで家をかえりみない日々。舅と姑がほぼ同時期に亡くなったことを契機に、「東京見物に行く」と着の身着のまま二人の幼子を連れ、東京に出てきます。そして保険の外交員などをしながら、幼子二人を女手ひとつで育て上げ、苦労に苦労を重ねて、新宿に居酒屋「秋田」を開店しました。
家(裕福な米問屋)を捨て東京で暮らすという母の一大決心を七歳の志郎は、毎朝新聞配達をして家計を支え、母志保子、妹の澪(みお)とともに、親子三人肩を寄せ合って暮らしました。志郎は(旧制)中学受験に合格していたにもかかわらず、学費がないために就職を決意。
その後に経済的余裕のできた母が学校に通わせようとしても、妹の学校を優先すべしと、絶対に耳を貸そうとしません。あの俳優大坂志郎はこうした境遇から脱出して、天下の名優になったのです。名監督・小津安二郎に罵倒され不遇な時期もありましたが、誰に対しても心優しく、家族思いの彼をほっておく人は無く、やがてテレビドラマの名脇役として大成します。
それはともかく「妹の学校を優先すべし」と言われて明治大学女子部法学科を卒業した妹の澪(みお)さんは、人形劇団プーク美術部で創作活動を開始。人形作家としてデビューし、陶芸やステンドグラスなどの工芸作品、また人形写真芝居の脚本、本の装丁などの創作活動を行い、陶芸では陶壁など大規模な作品も手がけ、昭和40年代には香川県内海町立星城小学校(S41)、高松市・ホテル川六(S43)、福島県立大原総合病院(S47)、など公共建築物の陶壁などを製作。日展に9回入選するなど工芸の道を歩み、その後陶芸やステンドグラス作家としても数々の作品を発表しています。

(居酒屋「秋田」・東京における郷土料理屋のはしりだった)
ちなみにお母さんの神成志保さんは、昭和53年まで居酒屋「秋田」を経営し、店には太宰治、井上靖、木下恵介、中野重治、伊藤整、高見順、梅崎春生、坂口安吾、亀井勝一郎、浅見淵、丸山定夫、藤原釜足、千田是也、清水将夫、川島雄三、中平康、小杉勇、金子信雄、フランキー堺、西河克己、阿木翁助、田中澄江、有吉佐和子、田村泰次郎、丹羽文雄、清川虹子、安井昌二、花柳章太郎、山田五十鈴、桂小金治、井伏鱒二、三好達治などなど、文士・画家・編集者・演劇人・映画人・学者らが出入りする居酒屋となり、神成志保さんは、その世界で知らぬ者はいなかったと言います。
ちなみに神成志保さんは、非常に神仏に対して信心深い人でした。その彼女が昭和42年8月に鬼押出し園に観光に来たとき、その風景と歴史に感銘をうけ、さらに鬼押出し園の観音堂に参拝したときに心を動かされました。しかも夢枕に観世音菩薩が出現して、
「この霊地に観音菩薩を建立しなさい」
との仰せをうけ、鬼押出し園に炎観音を建立することを思い立ったわけです。
ここで妹の澪(みお)さんが大活躍します。大坂志郎さんが、「妹の学校を優先すべし」と母親に強く言い聞かせ、妹を進学させたことに対して、澪(みお)さんなりの恩返しができたわけです。澪(みお)さんは、発憤し、三ヶ年にもわたって母の志保さんと一緒に製作し、鬼押出し園の奥の院に炎観世音菩薩像を作り上げました。
そして昭和47年10月に鬼押出し園に炎観世音菩薩が登場します。
すると翌年から、パタッと浅間山の噴火が無くなってしまった。
200年近く噴火を続け、東京まで火山灰を降らせ続けた浅間山の噴火が、バッタリと無くなったのです。


鬼押出し園の奥の院いくと、炎観世音菩薩がありますが、この観音様には、こういういわれがあるわけですが、このことを知ってる地元民は誰もいません。奥の院の掲示板には、いわれが書かれてありますが、そこに澪子とありますが、これは「澪(みお)」ではないでしょうか?
つづく。
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若い人には馴染みのない名前かもしれません。けれど昭和時代にお茶の間でテレビにかじりついていた世代にとっては、 大坂志郎さんは、森繁久弥さん・竹脇無我さん・石橋哲也さんらと、よく共演し、ホームドラマで日常的に見かける俳優さんでした。ホームドラマといえば、大坂志郎さんでした。
「大岡越前」の村上源次郎。
「だいこんの花」の相馬京太郎。
「パパと呼ばないで」の井上精太郎。
「雑居時代」の栗山信。
「玉ねぎ横丁の花嫁さん」の源太郎。
「どてかぼちゃ」の猪股。
「おひかえあそばせ」の池西猪太郎。
「おふくろさん」の八兵衛。
「七色とんがらし」のヤス。



この大坂志郎さんは秋田県能代市に生まれます。と言っても本人には、秋田県能代市の記憶があったかどうか? 幼い頃(昭和2年・当時6歳)に母親と、年子の妹さんと上京しているからです。
お母さんの名前は神成志保さん。秋田県の北にある鷹巣町の素封家に生まれ、19歳で能代の大きな米問屋に嫁ぎ、二人の子供を産みますが、夫は放蕩息子で女遊びで家をかえりみない日々。舅と姑がほぼ同時期に亡くなったことを契機に、「東京見物に行く」と着の身着のまま二人の幼子を連れ、東京に出てきます。そして保険の外交員などをしながら、幼子二人を女手ひとつで育て上げ、苦労に苦労を重ねて、新宿に居酒屋「秋田」を開店しました。
家(裕福な米問屋)を捨て東京で暮らすという母の一大決心を七歳の志郎は、毎朝新聞配達をして家計を支え、母志保子、妹の澪(みお)とともに、親子三人肩を寄せ合って暮らしました。志郎は(旧制)中学受験に合格していたにもかかわらず、学費がないために就職を決意。
その後に経済的余裕のできた母が学校に通わせようとしても、妹の学校を優先すべしと、絶対に耳を貸そうとしません。あの俳優大坂志郎はこうした境遇から脱出して、天下の名優になったのです。名監督・小津安二郎に罵倒され不遇な時期もありましたが、誰に対しても心優しく、家族思いの彼をほっておく人は無く、やがてテレビドラマの名脇役として大成します。
それはともかく「妹の学校を優先すべし」と言われて明治大学女子部法学科を卒業した妹の澪(みお)さんは、人形劇団プーク美術部で創作活動を開始。人形作家としてデビューし、陶芸やステンドグラスなどの工芸作品、また人形写真芝居の脚本、本の装丁などの創作活動を行い、陶芸では陶壁など大規模な作品も手がけ、昭和40年代には香川県内海町立星城小学校(S41)、高松市・ホテル川六(S43)、福島県立大原総合病院(S47)、など公共建築物の陶壁などを製作。日展に9回入選するなど工芸の道を歩み、その後陶芸やステンドグラス作家としても数々の作品を発表しています。

(居酒屋「秋田」・東京における郷土料理屋のはしりだった)
ちなみにお母さんの神成志保さんは、昭和53年まで居酒屋「秋田」を経営し、店には太宰治、井上靖、木下恵介、中野重治、伊藤整、高見順、梅崎春生、坂口安吾、亀井勝一郎、浅見淵、丸山定夫、藤原釜足、千田是也、清水将夫、川島雄三、中平康、小杉勇、金子信雄、フランキー堺、西河克己、阿木翁助、田中澄江、有吉佐和子、田村泰次郎、丹羽文雄、清川虹子、安井昌二、花柳章太郎、山田五十鈴、桂小金治、井伏鱒二、三好達治などなど、文士・画家・編集者・演劇人・映画人・学者らが出入りする居酒屋となり、神成志保さんは、その世界で知らぬ者はいなかったと言います。
ちなみに神成志保さんは、非常に神仏に対して信心深い人でした。その彼女が昭和42年8月に鬼押出し園に観光に来たとき、その風景と歴史に感銘をうけ、さらに鬼押出し園の観音堂に参拝したときに心を動かされました。しかも夢枕に観世音菩薩が出現して、
「この霊地に観音菩薩を建立しなさい」
との仰せをうけ、鬼押出し園に炎観音を建立することを思い立ったわけです。
ここで妹の澪(みお)さんが大活躍します。大坂志郎さんが、「妹の学校を優先すべし」と母親に強く言い聞かせ、妹を進学させたことに対して、澪(みお)さんなりの恩返しができたわけです。澪(みお)さんは、発憤し、三ヶ年にもわたって母の志保さんと一緒に製作し、鬼押出し園の奥の院に炎観世音菩薩像を作り上げました。
そして昭和47年10月に鬼押出し園に炎観世音菩薩が登場します。
すると翌年から、パタッと浅間山の噴火が無くなってしまった。
200年近く噴火を続け、東京まで火山灰を降らせ続けた浅間山の噴火が、バッタリと無くなったのです。
鬼押出し園の奥の院いくと、炎観世音菩薩がありますが、この観音様には、こういういわれがあるわけですが、このことを知ってる地元民は誰もいません。奥の院の掲示板には、いわれが書かれてありますが、そこに澪子とありますが、これは「澪(みお)」ではないでしょうか?
つづく。
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2021年07月04日
鬼押出し園開園70周年に行ってきました【4】
寛永寺は天台宗です。1625年に徳川幕府の安泰を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる上野に、天海大僧正によって建立されました。後には第四代将軍・コ川家綱公の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになりました。

ちなみに寛永寺のトップは、天海でしたが、天海が没した後は、弟子の公海が引き継ぎ、その後を継いだのは、後水尾天皇第3皇子の守澄法親王です。法親王は日光山主を兼ね、その後に比叡山の天台座主を兼ねることになりました。以後、幕末の北白川宮能久親王に至るまで、皇子または天皇の子供が寛永寺の貫主を務めています。そしてトップ(貫主)は「輪王寺宮」と尊称され、水戸・尾張・紀州の徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威をもっていました。
これは余談になりますが、幕末最後の寛永寺トップは、北白川宮能久親王ですが、北白川宮能久親王は、北軽井沢開拓の祖であり、北軽井沢の大恩人です。彼は、明治15年に、現在の浅間牧場を含む広大な牧場開発に着手し、荒地を農場に変え、北軽井沢の発展の基礎を築きあげました。北軽井沢の牧宮神社はこの北白川親王を祭った神社です。

北白川宮は、陸軍軍人として多大な功績のあった方で、日清戦争の時に台湾に出兵し、現地で病気にかかり薨去されました。その武勲を讃え、現地台北には宮を祭った台湾神社(台湾神宮)、終焉の地には台南神社が創建されました。敗戦後、台湾にあったこれらの神社はすべて廃社となりました。当時の氏子総代と神官が協議の上、北軽井沢の地に御霊をお迎えし、北白川宮の遺徳を永く偲ぼうとしたものです。

話をもどします。
なぜ鬼押出し園に寛永寺の別院があるのか?
という疑問に答えたいと思います。
天明三年(1783年)の浅間山噴火によって総計1100名以上の犠牲者がでましたが、特に鎌原村の被害が大きかったわけですが、鎌原にあった延命寺の観音堂に集会で集まっていた92名の人たちだけが生き残っていました。(92名が慌てて避難したという説もあるが、鎌原村から浅間山は見えないので、観音堂で集会があったために偶然にも集会に集まった人が生き残ったという説が、最近では有力になりつつある)
観音堂で生き残った村人たちの代表が、延命寺の総本山たる上野寛永寺のトップである輪王寺宮公延法親王(つまり皇室&寛永寺トップ)に哀訴し、輪王寺の宮様より住居のお世話を頂きました。そして輪王寺宮公延法親王は、現地を視察され犠牲になられた方々への追悼法会を営まれ、被災者への救援・復興の手助けを行いました。
このような宮様(つまり皇室&寛永寺トップ)の行いは、当時としては異例中の異例であり、村人の心に刻まれ、これが『浅間山噴火大和讃』などを通じて語り継がれています。つまり嬬恋村は、寛永寺の宮様にたすけられたわけで、明治になってからは、最後の寛永寺のトップであった北白川宮に浅間牧場の開発でお世話になっている。嬬恋村も北軽井沢も、寛永寺に足を向けて寝られないのです。
そのうえ天明噴火罹災170回忌にあたる昭和28年には、再び鎌原村の要請によって、時の寛永寺門主が訪れ、法要を営みました。そして昭和33年に、堤康次郎の尽力もあって、噴火罹災者の慰霊と自然災害犠牲者の供養を目的とした、浅間山観音堂が鬼押出し園にも寛永寺の別院として、創建されています。まさに寛永寺さまさまです。
(浅間山噴火大和讃・寛永寺門主の法要を語っている)
そもそも鬼押出し園は、天明の噴火以前には、「柳井」とか「仏の岩屋」と言われており、磨崖仏があった可能性もあります。地名から修験者の修行の地であった可能性も否定できず、その痕跡は溶岩で埋まってしまっていますが、何らかのパワースポットであったと思われます。そこに浅間山観音堂を祭って15年後に、日常的に火を噴いていた浅間山の噴火が収まったのも偶然ではないでしょう。
ところで、何年も前から
【 寛永寺僧侶と歩く鬼押出し園 】
と言う無料企画が、鬼押出し園で行われています。寛永寺の僧侶が鬼押出し園の見どころや、寛永寺との関わり等の解説を交えながら一緒に園内を散策しつつ、観音堂へ参拝するというツアーです。詳しくは、
寛永寺教化部 03-3821-4440
鬼押出し園 0279-86-4141
に問い合わせてみてください。
つづく。
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ちなみに寛永寺のトップは、天海でしたが、天海が没した後は、弟子の公海が引き継ぎ、その後を継いだのは、後水尾天皇第3皇子の守澄法親王です。法親王は日光山主を兼ね、その後に比叡山の天台座主を兼ねることになりました。以後、幕末の北白川宮能久親王に至るまで、皇子または天皇の子供が寛永寺の貫主を務めています。そしてトップ(貫主)は「輪王寺宮」と尊称され、水戸・尾張・紀州の徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威をもっていました。
これは余談になりますが、幕末最後の寛永寺トップは、北白川宮能久親王ですが、北白川宮能久親王は、北軽井沢開拓の祖であり、北軽井沢の大恩人です。彼は、明治15年に、現在の浅間牧場を含む広大な牧場開発に着手し、荒地を農場に変え、北軽井沢の発展の基礎を築きあげました。北軽井沢の牧宮神社はこの北白川親王を祭った神社です。

北白川宮は、陸軍軍人として多大な功績のあった方で、日清戦争の時に台湾に出兵し、現地で病気にかかり薨去されました。その武勲を讃え、現地台北には宮を祭った台湾神社(台湾神宮)、終焉の地には台南神社が創建されました。敗戦後、台湾にあったこれらの神社はすべて廃社となりました。当時の氏子総代と神官が協議の上、北軽井沢の地に御霊をお迎えし、北白川宮の遺徳を永く偲ぼうとしたものです。

話をもどします。
なぜ鬼押出し園に寛永寺の別院があるのか?
という疑問に答えたいと思います。
天明三年(1783年)の浅間山噴火によって総計1100名以上の犠牲者がでましたが、特に鎌原村の被害が大きかったわけですが、鎌原にあった延命寺の観音堂に集会で集まっていた92名の人たちだけが生き残っていました。(92名が慌てて避難したという説もあるが、鎌原村から浅間山は見えないので、観音堂で集会があったために偶然にも集会に集まった人が生き残ったという説が、最近では有力になりつつある)
観音堂で生き残った村人たちの代表が、延命寺の総本山たる上野寛永寺のトップである輪王寺宮公延法親王(つまり皇室&寛永寺トップ)に哀訴し、輪王寺の宮様より住居のお世話を頂きました。そして輪王寺宮公延法親王は、現地を視察され犠牲になられた方々への追悼法会を営まれ、被災者への救援・復興の手助けを行いました。
このような宮様(つまり皇室&寛永寺トップ)の行いは、当時としては異例中の異例であり、村人の心に刻まれ、これが『浅間山噴火大和讃』などを通じて語り継がれています。つまり嬬恋村は、寛永寺の宮様にたすけられたわけで、明治になってからは、最後の寛永寺のトップであった北白川宮に浅間牧場の開発でお世話になっている。嬬恋村も北軽井沢も、寛永寺に足を向けて寝られないのです。
そのうえ天明噴火罹災170回忌にあたる昭和28年には、再び鎌原村の要請によって、時の寛永寺門主が訪れ、法要を営みました。そして昭和33年に、堤康次郎の尽力もあって、噴火罹災者の慰霊と自然災害犠牲者の供養を目的とした、浅間山観音堂が鬼押出し園にも寛永寺の別院として、創建されています。まさに寛永寺さまさまです。
(浅間山噴火大和讃・寛永寺門主の法要を語っている)
そもそも鬼押出し園は、天明の噴火以前には、「柳井」とか「仏の岩屋」と言われており、磨崖仏があった可能性もあります。地名から修験者の修行の地であった可能性も否定できず、その痕跡は溶岩で埋まってしまっていますが、何らかのパワースポットであったと思われます。そこに浅間山観音堂を祭って15年後に、日常的に火を噴いていた浅間山の噴火が収まったのも偶然ではないでしょう。
ところで、何年も前から
【 寛永寺僧侶と歩く鬼押出し園 】
と言う無料企画が、鬼押出し園で行われています。寛永寺の僧侶が鬼押出し園の見どころや、寛永寺との関わり等の解説を交えながら一緒に園内を散策しつつ、観音堂へ参拝するというツアーです。詳しくは、
寛永寺教化部 03-3821-4440
鬼押出し園 0279-86-4141
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2021年07月03日
鬼押出し園開園70周年に行ってきました【3】
堤康次郎がどうして鬼押出し園を開発する気になったかと言うと、これにはこんなエピソードがあります。堤康次郎は、千ヶ滝の別荘地を開発した時に温泉が湧いてるのを発見しました。今でも千ヶ滝のあるせせらぎの道に、自噴している温泉があり、その温水が川に流れているわけですが、その川のほとりに温泉をみつけたわけです。

(千ヶ滝には温泉が自噴している。温泉に手を入れている息子)
堤康次郎は、これを利用して千ヶ滝温泉を作ったわけですが、源泉が37度と低かったためにボイラーで沸かして共同浴場にせざるをえなく、なんとか高温の温泉を手に入れたいと思っていたら、浅間山のむこうがわに草津街道の北に万座温泉という温泉があるらしいと聞いて、その万座の湯を千ヶ滝にパイプラインで引こうとしました。
そんなの無理だと止めますが、堤康次郎は言い出したら聞かない性分で、そくざに万座に向かって出発します。昔は、千ヶ滝から峰の茶屋まで真っ直ぐに草津街道が通っていて、峰の茶屋は山小屋でもありました。外国人宣教師たちは、ここから浅間山登山をしたわけですが、その登山者の数は、ピーク時に15万人もいたといいます。もちろんガイド・ポーター(荷物運び)も大勢いて、外国人宣教師たちを案内していましたから、千ヶ滝から峰の茶屋までの道路は、かなり整備されていました。
余談ですが、夏の軽井沢に外国人宣教師たちが集結したのには理由があります。原因は大日本憲法発布にあります。憲法発布によって信教の自由が保障されたのはよかったのですが、第1回衆議院選挙で自由民権運動を展開した人達が作った立憲自由党などの野党が大勝してしまったために、キリスト教へ攻撃的になってしまった。
明治政府は、近代的西洋文明を模倣した革新派だったのですが、野党勢力(自由民権派)は国粋的国家主義を主張していました。当時の一般民衆は、排他的であったわけです。明治政府は外国を気にしていたけれど、自由民権運動の野党は排他的だったし、国粋主義的だった。そのために、この時期に外国から派遣された宣教師達は窮地に陥った。
欧化政策の時に上流階級の令嬢たちが競って入学した東洋英和女学校は明治22年に225名の在校生がいたのに、その3年後には70名まで減ってしまっていました。地方にあったキリスト教の系統の英語学校も、次々と廃校となりました。こんな風潮の時代に夏になると軽井沢に来る外国人が増えてきた。宣教師マイラ・ビージーは、明治26年の夏に
「アメリカ人が堂々と通りを歩いてると、若い日本人から、蔑視される風潮が強くなってることを感じる」
と嘆いている。だから
「軽井沢はリトリートに不可欠のところです」
と言っていた。
リトリートという言葉は、『一時退却』を意味します。
次への飛躍のためにしばらく避難するという意味です。
彼らは野党勢力(自由民権派)の国粋的な主張を恐れて軽井沢に避難してきた。日本全国から宣教師たちが夏の軽井沢に避難してきて、集結して臨時総会を開き、1年間に起こった色々な問題を討議し各地の活動報告を聞き翌年の方針を決めていました。軽井沢は、宣教師たちにとっての単なる避暑地ではなく、日本布教の作戦会議の場となっていた。だから宣教師が軽井沢に集中したわけです。自由民権派の国粋的な思想が、今の軽井沢を作ったという一面もあったわけです。
その結果、軽井沢が国際的に有名になり、夏になると東アジア各国から宣教師が集まり、教派を超えて布教活動や現地情報などを交換する大きな会議が頻繁に開催されました。それを嫌がった宣教師の一部は、軽井沢を捨てて野反湖に移転したりします。その一人であるW.R.マクウィリアムズは 「糊のきいたシャツを着て、形式張ったお茶会や、1週間に7回もの会議に出席することから逃れるために、浅間山に登る必要がなくなる。野尻湖へ行こう。野尻湖では眉をしかめられることなしに一夏を水着で過ごすことができる」と述べています。
つまり宣教師たちは、軽井沢の教会雑事を避けるために夏の間に、浅間山登山にはしりました。宣教師による登山ブームが訪れたのです。彼らは峰の茶屋を経由して浅間山に登りました。
もちろん日本人ガイドと一緒にです。
ガイド料金は、明治40年頃で75銭ですから、かなりの高給です。
ぼったくっていました。
そのうえ宣教師たちに土地を売るときも、10倍もぼったくっています。
日本人には1坪5厘で売ったけれど、
宣教師たちには1坪5銭で売ってますから10倍もふっかけています。
もちろん堤康次郎にも千ヶ滝を1坪5銭で売ってますから
10倍も高く買わされているのは、堤康次郎も同じです。
堤康次郎もぼったくられている。
話がそれました。
話をもどします。
堤康次郎が、万座温泉からパイプラインを引こうとして、万座温泉に偵察にでかけようとして、峰の茶屋まで行った話の続きを述べます。千ヶ滝から峰の茶屋までは、道がしっかりしていました。しかし、峰の茶屋から先は、火星か?と思えるほどの荒涼たる地形で、明治の初め頃は、狼が群れをなして獣(鹿など)を襲わんとする荒野でした。

いまでこそ皆無ですが、昔は浅間山麓に鹿が大量に生息し、その鹿を狼が襲ったりして、多くの獣骨が散らばっていたと言います。万座温泉は、はるか彼方に見えます。あまりに遠いためにパイプラインは諦めた堤康次郎ですが、その途中にあった鬼押出しの風景に圧倒されます。
鬼押出しの土地を観光地として開発し、千ヶ滝別荘地・軽井沢の御客さんを鬼押出しに観光させれば儲かる。さらに時前の観光バスを走ららけばもっと儲かると考えた堤康次郎は、鬼押出しの80万坪の払い下げを前橋営林署に申し出ました。この時後藤新平の助力を得て天然記念物の保護という名目で許可を得たと言います。ちなみに堤康次郎は、万座の温泉も非常に気に入って鬼押しハイウェイが完成した後に万座までの有料道路の開発も行います。
話は変わりますが千ヶ滝の別荘開発を行うときに堤康次郎は、デパートというかパルコの元祖のようなものを考え出しています。彼はテナント料を無料にして業者を集め、食料品・文房具屋・本屋など、別荘客が不便に感じないような、いわゆるパルコのようなものを作りました。これが千ヶ滝にあった西武デパートの原型となっています。
これが大成功となり、この成功方法で箱根で膨大な利益をあげますが、その箱根の利益は軽井沢に投資されていきます。箱根の利益を軽井沢に投資続けたのが堤康次郎です。軽井沢と嬬恋村にしてみたら大恩人になるわけですが、軽井沢も嬬恋村も必ずしも堤康次郎に好意的だったとはいえません。自然開発による環境破壊の元凶のように言われた時期もあります。
ただし、結果として堤康次郎によって軽井沢の景観が守られるという逆説がおきています。西武による大規模開発により千ヶ滝や南軽井沢一帯の開発がいわゆる虫食い状態にならずにすみ、計画的なデザインによる管理によって、別荘地リゾート地としての価値を高める結果となっています。つまり大規模開発が現在の軽井沢の景観保護には役立っています。
これは雨宮敬次郎・野沢源治郎による大規模開発にもいえることです。虫食いの別荘地にならずにすみ、変な雑居ビルが建つことも無く、パチンコや風俗産業がはいることもなく、今の軽井沢の価値が高まったのは、堤康次郎の文化人村構想による整然とした開発計画によってもたらされたとも言えます。
つづく。
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(千ヶ滝には温泉が自噴している。温泉に手を入れている息子)
堤康次郎は、これを利用して千ヶ滝温泉を作ったわけですが、源泉が37度と低かったためにボイラーで沸かして共同浴場にせざるをえなく、なんとか高温の温泉を手に入れたいと思っていたら、浅間山のむこうがわに草津街道の北に万座温泉という温泉があるらしいと聞いて、その万座の湯を千ヶ滝にパイプラインで引こうとしました。
そんなの無理だと止めますが、堤康次郎は言い出したら聞かない性分で、そくざに万座に向かって出発します。昔は、千ヶ滝から峰の茶屋まで真っ直ぐに草津街道が通っていて、峰の茶屋は山小屋でもありました。外国人宣教師たちは、ここから浅間山登山をしたわけですが、その登山者の数は、ピーク時に15万人もいたといいます。もちろんガイド・ポーター(荷物運び)も大勢いて、外国人宣教師たちを案内していましたから、千ヶ滝から峰の茶屋までの道路は、かなり整備されていました。
余談ですが、夏の軽井沢に外国人宣教師たちが集結したのには理由があります。原因は大日本憲法発布にあります。憲法発布によって信教の自由が保障されたのはよかったのですが、第1回衆議院選挙で自由民権運動を展開した人達が作った立憲自由党などの野党が大勝してしまったために、キリスト教へ攻撃的になってしまった。
明治政府は、近代的西洋文明を模倣した革新派だったのですが、野党勢力(自由民権派)は国粋的国家主義を主張していました。当時の一般民衆は、排他的であったわけです。明治政府は外国を気にしていたけれど、自由民権運動の野党は排他的だったし、国粋主義的だった。そのために、この時期に外国から派遣された宣教師達は窮地に陥った。
欧化政策の時に上流階級の令嬢たちが競って入学した東洋英和女学校は明治22年に225名の在校生がいたのに、その3年後には70名まで減ってしまっていました。地方にあったキリスト教の系統の英語学校も、次々と廃校となりました。こんな風潮の時代に夏になると軽井沢に来る外国人が増えてきた。宣教師マイラ・ビージーは、明治26年の夏に
「アメリカ人が堂々と通りを歩いてると、若い日本人から、蔑視される風潮が強くなってることを感じる」
と嘆いている。だから
「軽井沢はリトリートに不可欠のところです」
と言っていた。
リトリートという言葉は、『一時退却』を意味します。
次への飛躍のためにしばらく避難するという意味です。
彼らは野党勢力(自由民権派)の国粋的な主張を恐れて軽井沢に避難してきた。日本全国から宣教師たちが夏の軽井沢に避難してきて、集結して臨時総会を開き、1年間に起こった色々な問題を討議し各地の活動報告を聞き翌年の方針を決めていました。軽井沢は、宣教師たちにとっての単なる避暑地ではなく、日本布教の作戦会議の場となっていた。だから宣教師が軽井沢に集中したわけです。自由民権派の国粋的な思想が、今の軽井沢を作ったという一面もあったわけです。
その結果、軽井沢が国際的に有名になり、夏になると東アジア各国から宣教師が集まり、教派を超えて布教活動や現地情報などを交換する大きな会議が頻繁に開催されました。それを嫌がった宣教師の一部は、軽井沢を捨てて野反湖に移転したりします。その一人であるW.R.マクウィリアムズは 「糊のきいたシャツを着て、形式張ったお茶会や、1週間に7回もの会議に出席することから逃れるために、浅間山に登る必要がなくなる。野尻湖へ行こう。野尻湖では眉をしかめられることなしに一夏を水着で過ごすことができる」と述べています。
つまり宣教師たちは、軽井沢の教会雑事を避けるために夏の間に、浅間山登山にはしりました。宣教師による登山ブームが訪れたのです。彼らは峰の茶屋を経由して浅間山に登りました。
もちろん日本人ガイドと一緒にです。
ガイド料金は、明治40年頃で75銭ですから、かなりの高給です。
ぼったくっていました。
そのうえ宣教師たちに土地を売るときも、10倍もぼったくっています。
日本人には1坪5厘で売ったけれど、
宣教師たちには1坪5銭で売ってますから10倍もふっかけています。
もちろん堤康次郎にも千ヶ滝を1坪5銭で売ってますから
10倍も高く買わされているのは、堤康次郎も同じです。
堤康次郎もぼったくられている。
話がそれました。
話をもどします。
堤康次郎が、万座温泉からパイプラインを引こうとして、万座温泉に偵察にでかけようとして、峰の茶屋まで行った話の続きを述べます。千ヶ滝から峰の茶屋までは、道がしっかりしていました。しかし、峰の茶屋から先は、火星か?と思えるほどの荒涼たる地形で、明治の初め頃は、狼が群れをなして獣(鹿など)を襲わんとする荒野でした。
いまでこそ皆無ですが、昔は浅間山麓に鹿が大量に生息し、その鹿を狼が襲ったりして、多くの獣骨が散らばっていたと言います。万座温泉は、はるか彼方に見えます。あまりに遠いためにパイプラインは諦めた堤康次郎ですが、その途中にあった鬼押出しの風景に圧倒されます。
鬼押出しの土地を観光地として開発し、千ヶ滝別荘地・軽井沢の御客さんを鬼押出しに観光させれば儲かる。さらに時前の観光バスを走ららけばもっと儲かると考えた堤康次郎は、鬼押出しの80万坪の払い下げを前橋営林署に申し出ました。この時後藤新平の助力を得て天然記念物の保護という名目で許可を得たと言います。ちなみに堤康次郎は、万座の温泉も非常に気に入って鬼押しハイウェイが完成した後に万座までの有料道路の開発も行います。
話は変わりますが千ヶ滝の別荘開発を行うときに堤康次郎は、デパートというかパルコの元祖のようなものを考え出しています。彼はテナント料を無料にして業者を集め、食料品・文房具屋・本屋など、別荘客が不便に感じないような、いわゆるパルコのようなものを作りました。これが千ヶ滝にあった西武デパートの原型となっています。
これが大成功となり、この成功方法で箱根で膨大な利益をあげますが、その箱根の利益は軽井沢に投資されていきます。箱根の利益を軽井沢に投資続けたのが堤康次郎です。軽井沢と嬬恋村にしてみたら大恩人になるわけですが、軽井沢も嬬恋村も必ずしも堤康次郎に好意的だったとはいえません。自然開発による環境破壊の元凶のように言われた時期もあります。
ただし、結果として堤康次郎によって軽井沢の景観が守られるという逆説がおきています。西武による大規模開発により千ヶ滝や南軽井沢一帯の開発がいわゆる虫食い状態にならずにすみ、計画的なデザインによる管理によって、別荘地リゾート地としての価値を高める結果となっています。つまり大規模開発が現在の軽井沢の景観保護には役立っています。
これは雨宮敬次郎・野沢源治郎による大規模開発にもいえることです。虫食いの別荘地にならずにすみ、変な雑居ビルが建つことも無く、パチンコや風俗産業がはいることもなく、今の軽井沢の価値が高まったのは、堤康次郎の文化人村構想による整然とした開発計画によってもたらされたとも言えます。
つづく。
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2021年07月02日
鬼押出し園開園70周年に行ってきました【2】
最初に軽井沢を開発したのは雨宮敬二郎です。彼の死後には、野沢源次郎が軽井沢を開発しました。 この二人の開発の後にやってきたのが 堤康次郎です。彼が目をつけたのは中軽井沢の千ヶ滝の辺りです。永井柳太郎の示唆を受けて軽井沢に足を運び星野温泉の背後にある広大な原野に目をつけました。当時28歳だった堤氏は、沓掛村の村長に千ヶ滝文化村計画を訴えて80万ヘクタールに渡る原野山林を一坪五銭で買い、千ヶ滝遊園株式会社を設立し、労働者を大量に採用して山林を倒して道路を敷設し新しい別荘地を造成しました。
切り倒された赤松カラマツの丸太は現地工場で製材し、山荘を40ほど建築。そして発電所を設置し、道路をつくり、本社と製材工場のそばに直営旅館を開業し、社員住宅・下請け工務店・日用雑貨店・肉屋などを招致しています。
土地付き500円別荘は宣伝の効果があって完売し、文学者・政治家・文化人が相次いで入居し、次々と新しい別荘が建てられました。そして児童遊園地・野球場・共同浴場も開設し、木造3階建てのホテルを建設し、別荘地域を巡回する高原バス(現在の西武バス)を運行しました。

しかも添乗員には女性の車掌を採用。しかも、パリのモデルが着るような制服に革のブーツをはかせて車掌をさせたからたまりません。これが大きな話題となってマスコミにとさりあげられ、軽井沢より千ヶ滝という人も現れました。
堤康次郎という人は、賛否両論のある人で、彼を批判する人は多いのですが、彼と懇意にしていた地元のマスコミ人で、彼の悪口を言う人が少ないことをみると、堤康次郎という男は、マスコミの威力を認識していて、よく世話をやいたたようです。彼がよく口にしていたことは、
「私は軽井沢のあがりを持って行ったことはない。全国各地であげた収益は、みんな軽井沢に投資してきた」
ということばです。これは、おそらく事実でしょう。というのも、千ヶ滝の開発が一段落つくと、嬬恋村の鬼押出し園と、鬼押しハイウエイの造成に乗り出したからです。
鬼押出し園は、当時は溶岩の不毛地帯でした。月面のクレーターのように累々たる溶岩に覆われた場所で、一滴の水にもない荒涼たる岩場でした。それを買い取ろうとしたわけですが、まわりの人間は、社長は気が狂ったのではないかと疑いました。群馬県前橋市の担当官もあんな不毛な土地を払い下げ何にご利用ご利用されるのですかと首をかしげました。堤康次郎は
「私は天然記念物として保護していくつもりでございます」
と返答し、役人たちは国有地払い下げの申請を認め、一坪あたり5銭で80万坪という広大な面積を払い下げました。

そして道路工事をはじめたわけですが、これが難渋します。なにしろ当時の鬼押出し園には、水が無い。飲み水が無いと工事もすすまない。当時の鬼押出し園には植物が全くなかったらしく、火星か何かの風景のようだったと言います。地球防衛軍とかいう。映画化されたSF小説でも火星人がやってきて、地球侵略の拠点としたのが鬼押出し園でした。鬼押出し園なら戦車どころか軍隊も行軍できない難所でした。おまけに当時は、浅間山が活発に噴火していたので、1日で一面の草木が枯れてしまうほどの状況でした。
そんななかで堤康次郎自ら現場の指揮をとって、掘削にかかれと号令を発し、鬼押出し溶岩に向かって延々たる道路工事を開始しました。ダンプもショベルカーもなかったので掘削作業は容易ではありませんでした。なんとか完成させても堤康次郎は納得しなかった。砂利道があまりに揺れるので、
「馬鹿もの、これは道路じゃないぞ。これは河原というものだ」
と道路をさらに改良し、やっとのことで有料道路が完成させ、鬼押出し園を世界三大奇勝地とうたい文句を入れて宣伝を開始。当時、あちこちにあった溶岩樹形に、丁寧な立て札を置いて前橋営林署と約束した通り天然記念物の保存を忘れませんでした。こうして鬼押出しという巨大な景観が新しい観光資源となったわけです。
堤康次郎は、その有料道路を万座にまで延長します。嬬恋村の人間は、彼に足を向けて寝れないはずなのですが、嬬恋村は必ずしも西武グループに対して温かかったとはいえなかったようです。
つづく。
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2021年07月01日
鬼押出し園開園70周年に行ってきました【1】
鬼押出し園開園70周年に行ってきました。
ちなみに入園料は無料です。

これは、上野の寛永寺の門です。鬼押出し園は、寛永寺の末寺であり、御朱印帳も上野の寛永寺全てを回っても1つ欠けます。最後の一つが、この鬼押出し園になります。ここに来ないと寛永寺全てを制覇できません。ちなみに70周年を記念して寛永寺の大僧正がきており大法要を行ってました。

ちなみにこの門には、彰義隊戦争の時の刀傷があります。
わかりますか?

鬼押出し園には、大量の石灯籠がありますが、全てに葵のご紋があります。


この葵のご紋は、何十という種類のデザインがあって、各将軍によってデザインが違っています。デザインによって、何代将軍の時に作られたかわかるわけです。





ちょうど大法要をやってました。声明が始まっていて、美しい音色が鬼押出し園に響いてました。声明というのは日本最古の音楽で、これがもとになって日本の伝統音楽が発展していきます。
仏教が伝来されるとき、インドから仏教声楽ももたらされました。仏典を基にした歌詞や、梵語の音韻を活かした朗々とした音声で歌われるのが声明です。江戸火消しの木遣りなんかは、あきらかに声明の影響を受けていますよね。
声明の動画(天台声明)
木遣りの動画
ジオパークガイドさんは、この声明・法要には興味が無かったようで、解説はなかったのですが、私が声明を楽しんでいると、鬼押出し園スタッフさんが、いろいろと解説してくださいました。今日は、70年ぶりに秘仏が公開される日で、下の写真が秘仏です。

偶然にも、すごいものに出会ったわけですが、観光客は皆無に近かった。
残念ですね。これだけのイベントだったのに。
もっと宣伝してよかったのにと・・・思いましたね。
嬬恋村民も、全く見かけなかったけれど、もっと鬼押出し園に興味をもってもよくはないですか?
というわけで、明日から鬼押出し園についての特集を、このブログにアップします。
つづく。
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ちなみに入園料は無料です。
これは、上野の寛永寺の門です。鬼押出し園は、寛永寺の末寺であり、御朱印帳も上野の寛永寺全てを回っても1つ欠けます。最後の一つが、この鬼押出し園になります。ここに来ないと寛永寺全てを制覇できません。ちなみに70周年を記念して寛永寺の大僧正がきており大法要を行ってました。
ちなみにこの門には、彰義隊戦争の時の刀傷があります。
わかりますか?
鬼押出し園には、大量の石灯籠がありますが、全てに葵のご紋があります。
この葵のご紋は、何十という種類のデザインがあって、各将軍によってデザインが違っています。デザインによって、何代将軍の時に作られたかわかるわけです。
ちょうど大法要をやってました。声明が始まっていて、美しい音色が鬼押出し園に響いてました。声明というのは日本最古の音楽で、これがもとになって日本の伝統音楽が発展していきます。
仏教が伝来されるとき、インドから仏教声楽ももたらされました。仏典を基にした歌詞や、梵語の音韻を活かした朗々とした音声で歌われるのが声明です。江戸火消しの木遣りなんかは、あきらかに声明の影響を受けていますよね。
声明の動画(天台声明)
木遣りの動画
ジオパークガイドさんは、この声明・法要には興味が無かったようで、解説はなかったのですが、私が声明を楽しんでいると、鬼押出し園スタッフさんが、いろいろと解説してくださいました。今日は、70年ぶりに秘仏が公開される日で、下の写真が秘仏です。
偶然にも、すごいものに出会ったわけですが、観光客は皆無に近かった。
残念ですね。これだけのイベントだったのに。
もっと宣伝してよかったのにと・・・思いましたね。
嬬恋村民も、全く見かけなかったけれど、もっと鬼押出し園に興味をもってもよくはないですか?
というわけで、明日から鬼押出し園についての特集を、このブログにアップします。
つづく。
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